軍師
ヴァルディア領へ流民が増え始めてから、街の空気は少しずつ変わっていた。
一度は放棄されかけていた畑には人の姿が戻り、街道沿いでは側溝を掘り直す音が朝から響いている。止まりかけていた市場にも、まだ数は少ないものの露店が並び始め、野菜や干し肉、布、簡単な日用品を売る声が聞こえるようになっていた。
もちろん、豊かになったわけではない。
食料はまだ足りず、金にも余裕はなく、壊れた家や荒れた土地も多い。
それでも以前とは違う。
死にかけていた領地に、ほんの僅かずつ熱が戻り始めていた。
城壁の上からその様子を眺めながら、レオは小さく息を吐いた。
冷たい風が頬を撫でる。
胸へ受けた傷はまだ完全には治っておらず、深く息を吸うと鈍い痛みが残っていたが、少し前に比べれば随分と動けるようになっていた。
「若様」
背後から声を掛けられ、レオは振り返る。
街道の見回りへ出ていたガイゼルが、いつもの険しい顔でこちらへ歩いてきていた。
「戻ったか。どうだった?」
「商人の数は少し増えております。エルク殿の税の整理が効き始めているのでしょう」
「そうか」
レオは僅かに口元を緩めた。
数字として成果が出るには時間が掛かるだろう。
それでも、商人が以前より来ているという事実は悪くない。
だがガイゼルは、そこで妙な間を置いた。
「それと……一人、変な男を拾いました」
レオは思わず眉をひそめる。
「またか?」
少し前には、帳簿を見せろと言って押しかけてきたエルクを雇ったばかりだった。
ガイゼルもそれを思い出したのか、苦い顔をする。
「最近、この領地には変人ばかり集まってきますな」
「俺に言うな。それで、その男は?」
「自分を軍師だと名乗っております」
レオは少し黙った。
軍師という肩書き自体は、この戦乱の時代では特別珍しいものではない。
領主の傍らで軍略を考え、兵を動かし、戦場で勝つための策を練る。
ただし、本当に役に立つ軍師は少ない。
大半は口だけの者か、仕えていた領主と一緒に敗れ、そのまま行き場を失った者だ。
「どこにいる?」
「城門前です」
「通してくれ」
ガイゼルはすぐに眉を寄せた。
「若様、まだ何者か分かりませんぞ」
「分かってる。でも軍師を名乗るなら話くらいは聞く」
最近では、自分でも少し判断が早くなっている気がする。
だが今のヴァルディアには、人を吟味し続ける余裕もなかった。
使えるなら使う。
危険なら切る。
まずは会ってみなければ何も始まらない。
しばらくして応接室へ向かうと、すでに男は椅子へ座っていた。
年齢は四十代半ばほど。
痩せた身体にくたびれた黒い外套を羽織り、伸びた無精髭の間から疲れた顔が覗いている。髪には白いものが混じり、片手には何故か酒瓶まで握られていた。
見た目だけなら、どう考えても有能な軍師には見えない。
むしろ街道脇で酔い潰れていても違和感がない。
しかし、その目だけは違った。
酒に濁っているように見えて、その奥には妙な鋭さがある。
レオが部屋へ入ると、男は一度こちらを見てから、開口一番こう言った。
「死にかけの領地にしては、空気が悪くないな」
ガイゼルの眉間へ深い皺が寄る。
「無礼な男だ」
「事実を言っただけだ」
男は気にした様子もなく肩を竦めた。
そしてレオを見る。
「橋を直したのはお前か?」
「ああ」
「流民を受け入れたのも?」
「そうだ」
「敗残兵まで拾ったらしいな」
そこまで言って、男は少しだけ笑った。
「変わった領主代理だ」
レオは向かいの椅子へ腰を下ろした。
「お前は?」
「バルド」
男は短く名乗った。
「一応、軍師をやっていた」
「一応?」
「今は放浪中だ」
ガイゼルが露骨に警戒する。
「以前はどこへ仕えていた」
バルドは酒瓶を傾けながら平然と答えた。
「三か所」
「今は?」
「全部滅んだ」
あまりにも淡々と言うので、レオは思わず目を細めた。
「……しぶといな」
「逃げるのは得意でな」
バルドはそう言って笑った。
しかし、その目だけは笑っていなかった。
三つの領地が滅びるところを見てきた。
その言葉の裏には、それだけの重さがある。
「何をしにヴァルディアへ来た?」
レオが尋ねる。
「見に来た」
「何を?」
バルドは酒瓶を机へ置いた。
「流れを変えようとしている馬鹿を」
部屋が静かになる。
ガイゼルが僅かに目を細めた。
レオは何も言わず続きを待つ。
「普通の領主は戦争が始まれば、どう勝つかを考える」
バルドは指を一本立てる。
「兵を増やす。領土を奪う。敵将を討つ。砦を落とす」
そこで一度言葉を切り、窓の外へ視線を向けた。
市場。
荷車。
流民たち。
少しずつ人が戻り始めた街。
「だがお前は違う」
レオは眉を寄せる。
「何が?」
「戦場より先に道を見た」
バルドは静かに答えた。
「橋を直し、荷車を流し、流民を拾って、税まで整理し始めた」
そして視線をレオへ戻す。
「お前は戦争に勝とうとしているんじゃない」
少しだけ間を置く。
「国を回そうとしている」
その言葉に、レオは僅かに驚いた。
エルクと会った時にも似た感覚があった。
この男も表面だけを見ていない。
道や人の動き、その先にあるものを見ている。
「面白い」
バルドが低く笑う。
ガイゼルは腕を組んだまま言った。
「それだけを言うために来たのではあるまい」
「もちろん」
バルドは即答した。
「一つ提案がある」
「言ってみろ」
バルドは机の上へ指を置いた。
「戦を減らすための戦をしろ」
一瞬、部屋が静まり返った。
ガイゼルが怪訝そうな顔をする。
「何だ、その禅問答のような話は」
「簡単なことだ」
バルドは酒瓶から手を離し、今度は真剣な顔になった。
「この時代の領主は、勝つことばかり考える」
「だから敵兵を殺す」
「敵も同じだけ兵を集める」
「そして戦が長引く」
バルドの声から、先ほどまでの軽さが消えていた。
「戦が長引けば畑から人が消え、土地が荒れ、商人も来なくなる。最後には勝った側まで痩せる」
レオは黙って聞いていた。
それは今のヴァルディアそのものだった。
兄たちは戦場で戦い、父も何度も敵を退けた。
それでも領地は弱り続けている。
勝つために人を使い、戦うたびに国が痩せていく。
「なら、どうする?」
レオが尋ねる。
バルドは迷わなかった。
「敵軍を殺すんじゃない」
「戦える状態を壊す」
ガイゼルの目が鋭くなる。
「兵站か」
「ああ」
バルドは頷いた。
「食料を届かせない。補給路を押さえる。馬を休ませる場所を奪う。敵が戦場へ着く前に疲れさせる」
「道を壊すのか?」
レオが尋ねると、バルドは首を振った。
「全部壊せとは言わん」
「自分が後で使う道まで潰す馬鹿があるか」
その言葉に、レオは少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ?」
「使わせなければいい」
バルドは机を指で叩く。
「橋を押さえる。峠を押さえる。渡河地点を押さえる。食料を運ぶ商人に近づけさせない」
「敵軍が一万いても、一万人分の飯が無ければただの群衆だ」
ガイゼルが低く唸った。
「正面から戦うより、遥かに被害は少ないか」
「そういうことだ」
バルドは頷く。
「戦争は剣だけでやるものじゃない」
その言葉に、レオの頭の中で何かが繋がった。
物流。
補給。
道路。
倉庫。
橋。
街道。
前世では、荷物を届けるためにそれらを使っていた。
だが逆に考えれば、それらを握ることで軍隊そのものの動きも変えられる。
「兵は飯がなければ動けない」
バルドが続ける。
「矢が届かなければ弓兵は戦えない。馬が潰れれば騎兵は遅くなる。荷車が止まれば軍全体が止まる」
レオは自然と笑っていた。
面白い。
この男は戦争を、人と武器のぶつかり合いではなく、一つの大きな流れとして見ている。
ダグラスは戦場そのものを知っている。
エルクは金と人の流れを見る。
そしてバルドは、敵味方を含めた戦争全体の流れを見ている。
「お前なら分かると思ったんだ」
バルドがレオを見る。
「橋を戦より先に直す奴ならな」
レオは少し考えてから尋ねた。
「……お前、本当に何者なんだ?」
バルドはすぐには答えなかった。
酒瓶へ手を伸ばしかけ、その手を途中で止める。
やがて低く笑った。
「負け続けた軍師だよ」
その声には妙な重みがあった。
「強い将軍は何人も見た」
「英雄も見た」
「敵兵を何千人も殺す奴もいた」
そこで窓の外へ目を向ける。
「でも、勝った後に国を残せる奴は少なかった」
レオは黙っている。
「俺が仕えた三つの領地もそうだ」
バルドは静かに続けた。
「戦には何度も勝った」
「それでも最後は人が消えて、食料が尽きて、金がなくなった」
「気付いた時には敵が来なくても滅びかけていた」
その言葉に、レオは胸の奥で何かを感じた。
この男も見てきたのだ。
勝つことだけを考えた結果、その先に何も残らなくなる姿を。
「だからお前を見に来た」
バルドが言った。
「お前は、勝った後を見ている」
部屋が静まり返る。
ガイゼルも今度は何も言わなかった。
レオは小さく息を吐く。
胸の傷が僅かに痛んだ。
だが頭の中では、それ以上に多くのものが動いている。
道。
補給。
兵糧。
商人。
市場。
戦場。
全部が繋がっている。
戦もまた、一つの流れなのだ。
「戦を減らすための戦、か」
レオが呟く。
「ああ」
バルドが頷く。
「俺は好きだな、その考え」
その言葉に、バルドが初めて楽しそうに笑った。
「だろう?」
レオも僅かに笑い、それからガイゼルを見る。
「ガイゼル」
老騎士が嫌な予感を察したような顔をする。
「……何でしょう」
「部屋を一つ用意してくれ」
ガイゼルはしばらく無言だった。
そして、深々とため息を吐く。
「また増えるのですな……」
「使える人間は拾う」
レオは平然と答えた。
バルドが面白そうにこちらを見る。
「会って一日も経ってないぞ?」
「ダグラスもエルクも似たようなものだった」
「本当にそれでいいのか?」
「今のヴァルディアに、人を捨てる余裕はない」
レオはそう答えた。
バルドは数秒ほど黙り込んだ。
そして小さく笑う。
「……本当に変な領主だ」
「よく言われる」
その日、三つの領地の滅亡を見届けた放浪軍師バルドは、ヴァルディア領へ加わった。
黒狼将ダグラスが戦場を支え、追放文官エルクが金と数字を整え、そして新たにバルドが戦そのものの流れを見る。
止まりかけていたヴァルディアには、少しずつ必要な人間が集まり始めていた。
後に“ヴァルディアの知狼”と呼ばれ、数え切れないほどの敵軍を剣ではなく兵站から崩していく男との出会いは、こうして始まった。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークやページ下部の☆を押して評価をお願い致します!
作者の励みになります!




