帳簿
ヴァルディア領が流民を受け入れてから、数日が経っていた。
城壁の近くには簡素な小屋が少しずつ増え、流民たちは朝になるとそれぞれ割り振られた仕事へ向かっていく。
崩れた街道を直す者。
雨で埋まった側溝を掘り直す者。
放置されていた畑の草を刈り、再び耕せる状態へ戻す者。
仕事はいくらでもあった。
むしろ、今のヴァルディア領には直さなければならない場所の方が多い。
人が増えたことで動き始めたものは確かにあった。
だが同時に、別の問題も急速に表へ出始めていた。
食料。
道具。
住居。
そして何より、金だった。
「若様」
城内の執務室で、ガイゼルが一枚の羊皮紙を手に険しい顔をしていた。
机の上にはすでに大量の書類が積み上がっている。
レオはその山を見ただけで嫌な予感がした。
「……今度は何だ」
「商人からの支払い催促です」
「どこの?」
「塩商人ですな。先月分がまだ支払われておりません」
レオは額へ手を当てた。
「鍛冶屋は?」
「武器修繕代が未払いです」
「兵糧は?」
「今の消費量を考えれば、冬まで持たせるにはかなり節約する必要があります」
聞けば聞くほど頭が痛くなる。
領主代理になって以来、まともな報告などほとんど聞いた覚えがない。
来るのは不足。
未払い。
破損。
損失。
問題ばかりだった。
「……思ってたより酷いな」
レオが呟く。
ガイゼルは苦い顔で頷いた。
「正直なところ、よく今まで持っていたものです」
戦争が長引きすぎた。
兵を増やせば金が掛かる。
武器を直せば金が掛かる。
村が荒れれば税収が減る。
街道が壊れれば商人も来なくなる。
そして商人が来なければ、さらに金が入らない。
負の流れだった。
レオは机の上に積まれた帳簿へ手を伸ばす。
革表紙は古く、角が擦り切れていた。
数ページめくる。
すぐに眉が寄った。
「……何だ、これ」
記録が雑だった。
月ごとの収入と支出が揃っていない。
同じ項目でも書き方が違う。
備蓄の数字も帳簿ごとに食い違っている。
何より、誰が何にいくら使ったのか、後から追えない部分が多すぎた。
前世でこんな管理をしていれば、経理どころか現場からも怒鳴られている。
「これ、誰が管理してたんだ?」
「以前いた文官です」
「今は?」
「逃げました」
レオは顔を上げた。
「……逃げた?」
「敗戦が続き始めた頃に」
「帳簿をこの状態で残して?」
「はい」
レオはしばらく何も言えなかった。
それから両手で顔を覆う。
「最悪だ……」
ガイゼルも否定しなかった。
金がないことも問題だ。
だが、今いくらあるのかすら正確に分からない方がもっと危険だった。
前世で言えば在庫も売上も経費も把握できないまま会社を回しているようなものだ。
これでは何を削り、何へ金を回すべきか判断できない。
その時だった。
執務室の扉が叩かれた。
「若様、面会を求めている者がおります」
外から兵士の声がする。
レオは顔を上げた。
「誰だ?」
「文官を名乗っております」
ガイゼルが眉をひそめる。
「文官?」
兵士は少し困ったように続けた。
「それが……帳簿を見せろと言って聞かず」
レオとガイゼルは顔を見合わせた。
今のヴァルディア領へ、自分からやってくる文官。
しかも最初に要求するのが帳簿。
普通ではない。
逃げるなら分かる。
わざわざ沈みかけた領地へ来る理由など、ほとんどないはずだ。
「怪しいですな」
ガイゼルが即座に言う。
「まあ、怪しいな」
レオも同意した。
だが同時に、別の考えも浮かんでいた。
今のヴァルディアに必要なのは、まさに数字を整理できる人間だ。
「応接室へ通してくれ」
「よろしいので?」
「話くらいは聞く」
兵士が一礼して出ていく。
ガイゼルはまだ納得していない顔だった。
「若様、あまり簡単に人を信用してはなりませぬ」
「信用はしてない」
レオは立ち上がる。
その瞬間、胸の傷が僅かに痛んだ。
思わず息が止まる。
まだ完全には治っていない。
ガイゼルがすぐに気付いた。
「やはりお休みになった方が」
「座って話すだけだ」
レオはそう言って執務室を出た。
応接室は城館の一角にある小さな部屋だった。
豪華な家具などない。
古い机。
数脚の椅子。
窓から入る薄い光。
小領らしい簡素な部屋だ。
中へ入ると、一人の男が椅子へ座っていた。
年齢は三十代半ばほど。
痩せた身体。
ぼさぼさの茶髪。
目の下には濃い隈があり、着ている服もかなりくたびれている。
第一印象だけなら、まともな職に就いているようには見えなかった。
だが目だけは鋭かった。
男はレオたちを見ると立ち上がり、軽く頭を下げた。
「初めまして。エルクと申します」
「文官だと聞いた」
「元、ですが」
「今は?」
「無職です」
あまりにも平然と答えるので、レオは一瞬返事に困った。
ガイゼルの警戒がさらに強くなる。
「どこから来た」
「東の領地です」
「何をしにヴァルディアへ?」
エルクは少しだけ口元を上げた。
「橋を直した領主代理に興味を持ちまして」
レオの眉が僅かに動く。
「橋?」
「ええ」
エルクは頷く。
「戦の最中に橋を直す領主など、普通はいません」
「普通は兵を集め、砦を固めるでしょう」
「街道など後回しです」
そこで一度言葉を切り、レオを見る。
「ですが、貴方は逆をやった」
ガイゼルが低い声で言う。
「それだけで、わざわざ来たと?」
「それだけではありません」
エルクは続けた。
「街道で立ち往生した商隊を整理したとも聞きました」
「流民も追い払わず受け入れている」
「敗残兵まで雇った」
ガイゼルの表情が険しくなる。
「随分と調べているな」
「商人はよく喋りますから」
エルクは気にした様子もなく答えた。
「ただ、面白かったのはそこではありません」
レオは目を細める。
「何だ?」
「この領地は、止まりかけているのに流れを戻そうとしている」
その言葉を聞いた瞬間、レオの中で何かが引っ掛かった。
『流れ』
この男もそこを見るのか。
エルクはさらに続ける。
「普通の領主は、足りなくなるほど抱え込みます。金も。食料も。人も」
「ですが貴方は逆です」
「流すことで戻そうとしている」
レオはしばらく男を見つめた。
「お前、数字は読めるか?」
エルクが僅かに笑う。
「それしか取り柄がありません」
「財政は?」
「得意ですよ」
「どの程度?」
「崩壊寸前の領地なら、三つほど立て直しました」
ガイゼルが眉を寄せる。
「それほどの者が何故無職なのだ」
エルクは一切表情を変えず答えた。
「正論を言い過ぎました」
レオは思わず口元を緩めた。
「追い出されたのか?」
「領主様に『このままでは破産します』と毎月言っていたら、最後には私の方が追い出されまして」
「で、その領地は?」
「半年後に破産しました」
レオは今度こそ小さく笑った。
ガイゼルだけが頭を抱えている。
前世でも、こういう人間はいた。
数字や現場を理解している。
だが上の顔色を読むことができない。
そのせいで嫌われる。
面倒な人間ではある。
しかし今のヴァルディアには、むしろそういう人間が必要だった。
「帳簿を持ってこい」
レオが兵士へ言った。
ガイゼルが驚いて振り向く。
「若様?」
「見せれば分かる」
エルクも少しだけ目を見開いた。
「随分と早い判断ですね」
「今は時間の方が惜しい」
やがて執務室から古い帳簿が何冊も運び込まれた。
エルクは机へ置かれた一冊を手に取る。
最初のページ。
次。
さらに次。
数ページめくったところで、手が止まった。
そして深々とため息を吐く。
「終わってますね」
ガイゼルが低い声で呟く。
「容赦がないな、お主」
「事実ですから」
エルクは即答し、帳簿の一か所を指差した。
「まず税収が急激に落ちています」
次の帳簿を開く。
「原因は村の消失と農地の荒廃」
さらに別の記録を見る。
「交易税もかなり減っています。街道が壊れて、商人が迂回していたのでしょう」
「そして兵の維持費だけが増えている」
レオは黙って聞いた。
エルクは次々と数字を拾っていく。
「備蓄管理も雑です」
「食料の実数と帳簿が合っていない」
「武器修繕費も一括管理されていません」
「同じ支払いが別項目に二重計上されている可能性もありますね」
ガイゼルの顔が徐々に険しくなっていく。
「つまり?」
「無駄が多すぎます」
エルクははっきり言った。
「今のヴァルディアは、穴の開いた桶へ水を入れているようなものです」
レオは腕を組む。
「直せるか」
エルクはすぐには答えなかった。
帳簿をもう一度めくり、しばらく数字を眺める。
そして、不意に口元を上げた。
「ですが、まだ死んではいません」
「何故そう思う?」
「数字が底で止まり始めているからです」
レオが僅かに身を乗り出す。
エルクは帳簿を指で叩いた。
「商人の出入りが少し戻っている」
「流民が増えたことで労働力も増えている」
「橋も街道も動き始めた」
「つまり、人と物が再び流れ始めています」
部屋が静かになった。
レオは確信した。
この男は分かっている。
ただ金を数える人間ではない。
数字の裏側で何が動いているかを見ている。
「立て直せるか?」
レオが尋ねる。
今度のエルクは迷わなかった。
「やれます」
「どれくらいで?」
「まず帳簿を全部作り直します」
エルクは古い帳簿を閉じた。
「何が入って、何が出ているか。それが分からなければ何も始まりません」
「次に税と備蓄」
「最後に、どこへ金を使えば一番戻ってくるかを決める」
レオは小さく笑った。
「お前、面白いな」
「貴方ほどではないと思いますが」
横でガイゼルが嫌な予感を察したような顔をした。
「若様……まさか」
「雇う」
「早いですぞ!」
ガイゼルの声が応接室へ響いた。
レオは平然と返す。
「逃がす方が損だ」
「素性もまだ十分に確認しておりませぬ!」
「それは調べればいい」
「若様!」
エルクは二人のやり取りを見て、一瞬呆気に取られていた。
やがて小さく笑う。
「……本当に変わった領地ですね」
その日。
正論を言いすぎたせいで前の領地を追われた文官エルクは、ヴァルディア家へ仕えることになった。
敗残兵。
流民。
そして今度は、居場所を失った文官。
レオの周りには少しずつ、他の場所で捨てられた人間たちが集まり始めていた。
そしてその一人が、後に“敗者の国”の金と数字を支えることになるとは、この時まだ誰も知らなかった。
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