第八話 崩れる壁
王都に戻ると、空気が違った。重く湿った権力の匂い。半年前は気にならなかったのに、今は肌で感じる。
宰相府に呼ばれた。ダリウスは相変わらず笑っていた。指輪を光らせて、わたしを値踏みするように見た。
「よく働いたようだな。水路も修繕したとか。感心なことだ」
褒め言葉に見えて、これは「終わった」という宣言だ。自分の管理下に戻ってきた、という意味の。わたしは微笑んで一礼した。
「お役に立てたなら幸いです」
部屋を出てすぐ、手帳に書いた。会話の日時、ダリウスの態度、部屋にいた他の人物の名前と表情。油断するな、と書いた。自分に向けて。
宰相府からの呼び出しが続いた。農村の生産状況、水路の修繕費用、騎士の配置について確認が入った。全て、記録通りに答えた。嘘をつく必要がない。本当の問題は記録に出ていないからだ。
ダリウスは毎回笑顔で聞いた。わたしも毎回笑顔で答えた。どちらも本当のことを話していない、という意味では対等だった。
◇
王都に戻って三日目、イゾルデから招待状が来た。公爵邸は古い建物だった。広い廊下に人が少ない。
イゾルデは応接室でわたしを待っていた。今日は扇を持っていない。その手が、少し細くなったように見えた。
「あなたに渡すものがある」
差し出されたのは、古い革綴じの書物だった。
「十五年前の鉱山の台帳。本物の方だ。ダリウスが偽造する前の記録」
わたしは受け取った。手が少し震えた。
「……なぜ、これを」
「夫が死ぬ前に隠した。夫もダリウスに消された。証拠がなかっただけで」
イゾルデの声は揺れなかった。ただ、目だけが少し細くなった。悲しみではなく、決意のように見えた。
〔豆知識〕中世から近世にかけて「二重帳簿」は商人が発展させた技術だ。一方は表向きに見せる帳面、もう一方は実際の取引記録。この技術が正式な会計学の基礎となる一方、不正にも利用された。証拠として有効なのは「古い方の記録」が残っている場合だ。
台帳を受け取ってその場で確認した。現在の書類と全く違う。数値の形が正確で、記録の仕方が誠実だ。これを書いた書記官は、正しいことをしようとしていた。そのために辞職させられた。
「イゾルデさまは、わたしに最初から協力するつもりでいたのですか」
「最初は違う。あなたが本物かどうか試していた。東辺境で何をするか見ていた」
イゾルデはゆっくり言葉を選んだ。
「あなたは本物だった。だから渡す。——でも、急ぎなさい」
その言葉の重さが、後から来た。
その夜、イゾルデは体調を崩したという報せが来た。翌朝、彼女は亡くなった。
急な発症、という説明だった。でもわたしには、あの言葉に静かな覚悟が混じっていた気がしてならない。「急ぎなさい」。
これが、イゾルデが夫の死から十五年かけて守ってきたものだ。わたしに渡して、彼女は全て終わらせた。
公爵邸からの帰り道、エリナが静かに言った。
「……あの方、長くありませんでしたね。あなたに渡したかったものがあった。だから急いで連絡してきたんですね」
「そうだと思います」
それ以上は話さなかった。でも、エリナが少し前を向いた気がした。
その夜、台帳の差分計算を始めた。ページを並べ、数値を比較する。十五年分の記録を一晩かけて照合すると、差分の合計が出た。その額は、わたしが想像していたより大きかった。
誰が後から検証しても同じ結論に至るように、計算の過程も全て手帳に書いた。証拠は再現できなければならない。
翌日、オルフェウスから短い書状が来た。「シオンと話した。準備できている。あとは証拠の照合を待つ」と。
シオンが動く。財務副長官が、三日間で何をするのか。わたしにはまだわからない。でも、オルフェウスが信頼する人間だということはわかる。
その夜、書類の最終整理をした。イゾルデの台帳、坑道の記録、荷車の記録、改竄書類の比較表。全部で七枚になった。
証拠は多ければいいわけではない。精度が高い方がいい。必要なものだけを、必要な場所に。
わたしは書物を胸に当てて、立ち上がった。オルフェウスに使いを出す。今すぐ会いに来てほしい、と。
——全ての証拠が、揃った。




