第五話 土は覚えている
五月になると、東辺境の土が少し色を変えた。乾いた赤茶から、わずかに濃い色へ。水が届き始めた証拠だ。
ガルドが「いい兆しだ」と言った。この人の最大限の賛辞だとわかってきた。
わたしはその言葉を手帳に書いた。観察記録と一緒に。「ガルドが「いい兆し」と言った日」と。
水路の修繕が完了した。上流の詰まりも、騎士たちが除去した。
バレントは抗議の書状を出したが、わたしは「老朽化した水路の緊急修繕は代官権限内」と返した。就任前日に法令集の該当箇所を手帳に写しておいたのは、このためだった。
水が届くようになると、農村の表情が変わった。大げさな変化ではない。ただ、人の歩き方が少し変わった気がした。前より、顔が上を向いている。
◇
農村を巡るようになって、ガルドとの会話が増えた。彼は口数が少ないが、土のことになると饒舌になる。
「この辺りの土は赤みが強い。鉄分が多い証拠だ。枯れてるように見えても、丁寧にやれば戻る。土は覚えているから」
「どういう意味ですか」
「昔よかった土は、また戻れる。一度死んだ土は見た目で分かる。ここの土はまだ死んでない」
〔豆知識〕農地の土壌回復には中世から「緑肥」が用いられてきた。クローバーや豆類などの植物を土にすき込むことで窒素分が補充され地力が戻る。これは化学肥料のない時代に農民が経験的に積み上げた知恵で、中世ヨーロッパの農業生産性を支えた重要な技術だ。
わたしがその話をすると、ガルドが目を丸くした。
「……それを知ってる代官は初めてだ」
知識より「知ろうとする姿勢」が大事なのだと父は言っていた。ガルドが信頼してくれているのも、たぶんそれだ。
この日、ガルドから小さな情報を得た。東の鉱山に、月に一度、王都の商人が荷車で来るという。荷を積んで出ていく。その荷は鉱山の記録に出てこない。「ここ五年の話だ」とガルドは言った。
わたしはすぐ手帳に書いた。次回の荷車の予定日を確認し、観察計画を立てた。
一週間後、遠くから荷車を観察した。騎士二名が同行した。荷の数、荷車の大きさ、出てきた人間の顔、積み込みにかかった時間。荷が鉄材であることが積み込みの音でわかった。全て記録した。
同日夜、エリナを通じて宰相への偽報告を送った。内容は「鉱山は閑散としており特記事項なし」。本当の記録は、別の手帳の中にある。
次の月の荷車観察も行った。今度は二カ所から、騎士二名と分かれて。同じ商人が来た。荷の量が先月より多かった。量が増えているということは、採掘が増えているということだ。
オルフェウスへの書状に商人の特徴を書いた。王都で確認できますか、と。三日後に返信が来た。「わかった。確認する」と一行だけ。それで十分だった。
◇
夕方、庁舎に戻ると見知らぬ馬が一頭つながれていた。王都の紋章入り。
中に入ると、銀髪を高く結い上げた貴婦人が椅子に座っていた。黒い扇を持ち、わたしを見る目に感情がない。背筋が真っ直ぐで、椅子に深くは座っていない。いつでも立てる姿勢だ。
「北方公爵家のイゾルデ。あなたがエリスね」
名前も確認せずに来る人物だ。準備してきた、ということ。
「はい。いかなるご用件で」
イゾルデは扇を閉じた。
「ダリウスはあなたを甘く見ている。わたしも最初はそうだった。でも、報告が来た。水路を直した。農村を回った。記録を積み上げている」
それだけ言って、立ち上がった。
「続きは、あなたが自分で確かめなさい。東の鉱山から、もう一本道がある。古い采掘坑だ」
扇を開き、そのまま出ていく。止める間もなかった。
わたしはしばらく動かなかった。
(この方は——敵ではない)
直感だけで判断するのは早い。でも情報は本物だ。確かめる価値がある。
農村で緑肥の作業が始まった。豆類を土にすき込む作業を、ガルドが直接指導している。村人がそれを見ている。まだ疑っている目がある。でも手を動かし始めた人もいる。
この変化も、手帳に書いた。小さな変化の積み重ねが、この土地の記録になる。
翌朝、わたしは地図を広げた。古い坑道があるとすれば、方角から見て森の中を抜けた先だ。
——もう一本の道が、宰相が隠し続けた「本当の量」を示しているかもしれない。




