第四話 笑顔の裏側
ゼファーの死から十日が経った。庁舎は静かになった。部下の騎士たちは仕事をしているが、笑い声が消えた。
わたしは農村への訪問を続けた。記録を積み上げた。水路の修繕が半分進み、ガルドの村で試験的に春まきの準備を始めた。
止まれば、ゼファーが死んだことが無駄になる。前に進むしかない。
騎士の新隊長は若い。ゼファーの部下だった男で、腕はあるが、口数が増えた分だけ頼りなく見える。でもこの人なりに、庁舎を守ろうとしているのはわかった。それで十分だ。
そして、気になっていたことを確かめる時が来た。エリナの行動だ。
三週間、少しずつ確認していた。手帳の置き場所を一センチずらしておく。書類の角を少し折っておく。引き出しの中の配置を変える。
翌日、元に戻っている。几帳面なエリナなら「整えた」と言えば通る。でも、奥に隠した複写の手帳だけは触れていない。表の手帳だけを確認している。
(やはり、そうか)
確信を持ったのは、ある夜のことだ。庭の排水溝のそばを通ったとき、丸めて捨てられた紙があった。泥で汚れていたが、文字が読めた。
バレントからエリナへ宛てた手紙の一部——「次の書類を取れ。遅れるな」という内容だった。わたしはその紙を乾かして手帳に挟んだ。
〔豆知識〕中世ヨーロッパの宮廷では「間諜」は広く用いられ、侍女や召使いが情報提供者として機能することも珍しくなかった。情報を提供する代価として身分保証や金銭が与えられ、「主への忠誠」より「生存」を選ぶ者は決して少なくなかった。
一晩、考えた。怒りはある。ゼファーが死んだ夜も、エリナは情報を流し続けていた可能性が高い。
でも怒りをぶつけても、何も変わらない。エリナを敵に回すより、使う方が得だ。感情より、利用価値を考える。これが今できる最善だ。
翌日の夜、エリナを呼んだ。ふたりで向かい合って座る。わたしはテーブルに、例の手紙を置いた。
エリナの顔から笑顔が剥がれた。一瞬で、静かに。その下にあったのは、驚きよりも疲れだった。
「……いつから」
「最初から怪しいとは思っていた。確信したのは十日前」
エリナは目を伏せた。手が、テーブルの上で小さく震えている。
「身の安全を保証してもらっていた。それだけです」
「ダリウス宰相から」
エリナは答えなかった。答えが、答えだった。
わたしは少しの間、黙っていた。エリナも黙っていた。部屋の外で、風が木の葉を揺らした。
「エリナ。あなたにできることがある」
エリナが顔を上げた。その目が、微かに揺れた。
「宰相へ送る書状をわたしが書く。あなたはそれを届けてもらえばいい。ただし内容はわたしが決める」
間諜を、逆に使う。ダリウスに「エリスは大人しくしている」と思わせながら、調査を続ける。
エリナを罰しても失う。逆用すれば使える。これが最善だ。
エリナは長い沈黙の後、ゆっくりとうなずいた。
「……わかりました」
その目には少しだけ安堵が混じっていた。捨て駒だと気づきながら使われ続けていた、その孤独が。
わたしはエリナを敵にはしなかった。しかし信頼も元には戻らない。これが対処できる最善の選択だ。
◇
翌朝、新しい騎士が王都から到着した。オルフェウスが送った人員だという。ゼファーの死の報告が届いたのだ。その中に、小さな封書が一通あった。
「——もう少し待て。動かすなら一度で全て。E・O」
オルフェウスだ。イニシャルだけの短い言葉。随行者に読まれないための配慮だろう。でも、わたしには十分だった。
あの方も、同じ方向を向いている。ひとりではない、ということが、この土地ではずっと怖かった。でも今は、少し違う。
エリナが王都への偽報告を送り始めると、宰相の返答は「了解した」の一言だった。
ダリウスはまだ動いている。こちらの様子を探っている。探りを入れているということは、完全には信じていないということだ。
数週間後、エリナが小さな情報を持ってきた。「宰相府から、バレントへの連絡が止まったようです」と。
バレントが孤立しつつある。ダリウスが捨てようとしている。証拠が上がってきたとき、最初に切るための準備だ。
わたしはそれを手帳に書いた。
——向こうも、同じものを見ている。




