第二話 荒れ地と古い嘘
バレントは太い指に安物の指輪をいくつも重ね、わたしに書類の束を押しつけた。
脂でてかった笑顔が、「さっさと帰れ」と言っていた。
「代官補佐どのにはご苦労なことで。王都の令嬢さまには慣れない土地でしょう。さっさとお戻りになるのが一番ですよ」
丁寧な言葉の皮をかぶった脅しだ。笑顔で包んでいるが、目が笑っていない。
押しつけられた書類は一見きれいに整っている。でもわたしはすでに昨夜、前代官の書類の複写を取っていた。
(昨夜と今日とで、数値が変わっている)
一晩かけて書き換えた。丁寧に、でも急いで。ページをめくる手が少し滑ったような跡がある。焦りが滲んでいる。
わたしはにっこり笑って受け取る。
「ありがとうございます。確認に数日いただきます」
バレントの笑顔がほんの一瞬、固まった。それからまた元に戻ったが、今度は薄くなっていた。
彼が去った後、ゼファーが低く言う。
「確認、できるのか」
「ええ。昨夜のうちに複写を取ってありますから」
ゼファーは何も言わなかった。でも腕を組んで立ったまま出ていかなかった。
それがこの人なりの「続けろ」という意味だと受け取った。ゼファーはまだわたしを信用していないが、少なくとも否定はしない。それで十分だ。
◇
翌日から農村を回った。ガルドが案内してくれた。無言で、でも着実に。
道中、村人が遠巻きに見ている。また誰か来た、という目だ。信頼は、言葉より時間で積む。
一番ひどかったのは、南の区画だ。本来なら耕せるはずの土地が荒れたまま放置されていた。草が腰の高さまで伸び、その下の土は踏んでも崩れない。
〔豆知識〕羊毛の品質は羊の飼育環境と刈り取り時期に大きく左右される。良質な羊毛は繊維が細く、刈り取り後の適切な洗浄が不可欠だ。かつて中世イングランドでは羊毛の輸出税が王室財政の主要な収入源だった。東辺境の羊は骨が浮き出ていた。飼料となる草が育たないのだ。
水路が詰まっている。しかも上流で誰かが土手を操作した痕跡がある。自然に詰まったのではない。意図的に、農地へ水が届かないように細工されていた。
ガルドが静かに言った。
「五年前から、少しずつ水が来なくなった。訴えても、前の代官は動かなかった。大雨の年だけ少し戻って、次の年また減る」
五年前。書類の数値が変わらなくなった時期と重なる。
水を止めて農業生産量を下げる。記録の数値は「もともと低い」と説明できる。巧妙だ。
わたしは手帳に書く。水路の状態、詰まりの位置、上流との距離。ガルドの証言の日付と内容。
「ガルドさん。東の山の鉱山のことを教えてもらえますか」
ガルドの目が細くなった。
「誰かに聞かれたのか」
「いいえ。書類に鉱山の収益が一度も出てこなかったから」
沈黙が続いた。鳥が鳴いた。風が草を揺らした。
「……東の山に、鉄の鉱脈がある。昔は村人も少し使えた。今は誰も入れない。近づいた者が翌日から見かけなくなった年があった」
誰が管理しているのか、は聞かなかった。今は聞かない方がいい。疑われれば口が閉まる。でも、書いておく。すべて書いておく。
翌日、水路の修繕を始めることをゼファーに伝えた。費用の出所を尋ねると、ゼファーが少し考えてから言った。
「俺の部下に、石工の経験がある者がいる。資材は東の砦に余剰がある。使っていい」
それが、この地での最初の「小さな勝利」だった。
修繕を始めてから、庁舎の空気が変わった。石工経験のある若い騎士が水路の図面を引き始め、ガルドが「ここは傾斜が足りない」と修正を入れた。
言葉より、手が動いている。こういう変化を、わたしは好む。声の大きい約束より、小さな行動の積み重ねの方が。
ある朝、村の子どもが庁舎の前に来た。何も言わず、野の花を一束置いて走り去った。
ガルドが後から来て言った。「あいつの家、去年一番水が来なかった場所だ」。
わたしは手帳に書いた。「野の花。村の子どもより。水路修繕着手から一週間」と。感情は書かない。でも、事実として残す価値があると思った。
バレントから新たな書状が届いたのは、その三日後だった。「水路の修繕には前代官の承認が必要だ」という内容だった。
わたしはすぐ法令集を開いた。緊急修繕は代官権限内、かつ前代官はすでに辞職している。承認者が存在しない。
「申し訳ありませんが、前代官はすでに辞職されています。手続き上、承認者が存在しません」と返した。
バレントはしばらく沈黙した。その時間を使って、水路の修繕をさらに進めた。
夜、ひとりで書類を見ていると、エリナが茶を持ってきた。
「……お嬢様は、疲れませんか」
「疲れても、続けることが大事なものがある。それだけです」
エリナは何も言わなかった。でも出ていく足音が、少し遅かった。
その夜、王都から一通の書状が届いた。差出人は宰相・ダリウス。他の書類に挟まれて届いた。目立たないように。
——「東辺境の調査を即時中断し、現状維持の報告を提出せよ」。
丁寧な文字で書かれた、圧力だった。
わたしは書状を三回読んで、手帳に全文を写した。それから蝋で封をし直して、保管した。
——この書状が、宰相がこの土地に干渉していた証明になる。




