第一話 地味令嬢は記録する
記録だけが、わたしの味方だ。
そう気づいたのは十四歳のとき。父が濡れ衣を着せられ、爵位を半分削られた夜のことだった。
父は怒鳴らなかった。母は泣いた。わたしは廊下の陰でそれを聞きながら、ただ立ち尽くしていた。
翌朝、父を救ったのは一枚の書類だった。誰かが十年前に記録した、当時の取引の記録。それが噂を覆した。
だからわたしは、見たものをすべて書くことにした。日付、事実、観察したこと。感情ではなく、事実を。
今日も王宮の一角で、羽根ペンを動かしている。
エリス。二十二歳。男爵家の次女。社交界では「背景に溶けるモブ令嬢」とひっそり呼ばれているらしい。
自分でもそう思う。目立たない紺の服、目立たない立ち位置。おかげで誰も、わたしが何を書いているか気にしない。
窓の外から笑い声が聞こえてくる。令嬢たちが庭を歩いている。華やかな声と衣擦れが遠い。
わたしにはあの輪に入る理由がない。入りたい気持ちもない。記録することの方が、ずっと大事だから。
今日書いているのは、先週の王宮内の動向だ。どの侍女が誰の部屋に何回出入りしたか。どの書類が回覧されて、どれが止まったか。
誰も気にしない情報の断片が、積み重なれば何かになる。それを信じている。
「エリス嬢」
声が来た方向を見ると、第三王子・オルフェウスが書類を片手に立っていた。
赤みがかった黒髪。笑わない目。この方が直接話しかけてくることは、今まで一度もなかった。
随行もなく、廊下の隅でわたしに声をかけてきた。周囲に人はいない。意図的にそうしたのだろう。
「東辺境に行ってもらいたい」
一瞬、手が止まる。
東辺境。王都から馬で十日。荒地と薄い農村しかないと言われる土地だ。赴任した代官が先月、不審な形で辞職したという話は耳に入っていた。
「代官が先月、不審な形で辞職した。後任が決まるまでの暫定処置だ。せいぜい半年」
「せいぜい」という言葉が引っかかる。
(この方はわたしを試している)
試されているのはわかる。でも理由がわからない。第三王子がなぜ男爵家の次女を、しかも直接呼びとめて告げるのか。
本来なら、こういった任命は官吏を通じて行われる。それをわざわざ直接来た。何か、理由がある。
断る理由が思いつかなかった。断れば父の爵位にまた影響が出るかもしれない。そして何より——荒れ地がどんな状態か、見てみたい気持ちがあった。
「承知しました」
一礼して踵を返したとき、オルフェウスが小さく付け足した。
「報告書は一月に一度、直接わたしに送れ。回覧には回すな」
それだけで、あとは何も教えてもらえなかった。
廊下に残されたわたしは、手帳に日付と「東辺境赴任命令。第三王子より直接。回覧回避の指示あり」と書いた。
◇
荷造りを手伝いながら、侍女のエリナが上目遣いで言った。
「大丈夫ですか、お嬢様。あんな辺境に……」
エリナはわたしより二つ年上で、物腰が柔らかく頭も回る。幼い頃から仕えてくれている人だ。
いつも笑顔で、先回りして動く。その愛嬌のある顔が、少し心配そうにわたしを見ている。
「大丈夫よ。記録することは変わらないから」
エリナは少し複雑な顔をして、それきり黙った。
笑顔のまま黙られると、かえって気になる。でも今は準備の方が先だ。
東辺境への道は、思ったより長かった。
馬車の窓から見える景色が、日を追うごとに寂しくなっていく。緑が薄れ、土が乾き、村の間隔が広くなる。
農具を担いだ子どもがひとり、道沿いをとぼとぼ歩いていた。あの子は今日、何を食べるのだろう。
道中、手帳に書き続けた。
天候と土の色、通り過ぎた村の規模と人の様子。轍の深さ、道沿いに捨てられた農具の錆び具合。水辺の状態と、水辺から離れた場所の乾き方の比較。
これが習慣だ。見たものをすべて書く。意味があるかどうかは、後でわかる。
〔豆知識〕中世ヨーロッパでは農業の生産性向上に「三圃制」が大きく貢献した。耕作地を三つに分け、春耕・秋耕・休耕を交互に繰り返す方法で、土地の回復と食糧増産を両立させた。荒れた土地でまず見るべきは、どの区画が何年休んでいるかだ——父からそう教わった知識だ。
到着した東辺境の庁舎は、古いが骨格はしっかりしていた。壁の漆喰が剥がれ、窓木が歪んでいる。でも梁は太い。直す価値がある建物だ、と最初に思った。
庭には雑草が伸び、花壇の跡だけが残っている。前の代官は、庭を見なかったのだろう。
出迎えたのは騎士隊長のゼファーだった。大柄で白髪の混じった短髪、声が低い。
わたしを見た目が、隠す気のない驚きをしていた。
「……代官補佐が女性とは聞いていなかった」
わたしは手帳を胸に当てたまま答える。
「ご不満でしたら王都にお伝えします。ですが、わたしはここへ仕事をしに来ました」
ゼファーは一瞬、目を細めた。それからほんのわずかうなずいた。拒絶でも歓迎でもない、保留の顔だ。
その夜、農村の長老・ガルドが庁舎を訪ねてきた。腰が少し曲がった老人だが、目だけが鋭い。大きな、土色の手をしていた。
名乗りもせず、挨拶もせず、椅子に座って言った。
「去年の収穫をどう思う」
試している、とすぐわかった。「知らない人間にはわからない質問」を投げて、反応を見ている。
わたしは手帳を開き、道中に書き留めた観察を読み上げた。土の色と乾き方、水路の詰まりを示す草の分布、捨てられた農具の種類。
それらが示す、この土地の水不足と地力の低下について。三圃制が機能していないこと、休耕地が三年以上放置されている区画があること。
ガルドはしばらく黙って聞いた。それから低く言う。
「……あんたは、見る人間だ」
信頼ではない。まだ保留だ。でも、一歩だった。
ガルドが出ていった後、庁舎に積まれた書類の束を開く。
きれいに整えられている。丁寧な字、揃った数値。でも、ページをめくるたびに小さな違和感が積み上がる。
同じ数値が繰り返される箇所がある。季節に関わらず変動しない生産量。五年間、同じ月に同じ額が記録されている税収。
(これは、おかしい)
複写を取り、元の書類を棚に戻した。複写は別の手帳に挟み、奥の引き出しの中へ。
翌朝早く、ゼファーが庁舎の戸を叩いた。顔が硬い。
「前代官・バレントが戻ってきた。引き継ぎ書類を受け取れ、と」
前代官が戻ってくるのは早すぎる。今さら「引き継ぎ書類」が必要な理由はひとつしか思い浮かばない。
昨夜わたしが複写した書類と、今日持ってくる書類が違うなら——一晩かけて書き換えて持ってくる、ということだ。
わたしは手帳を閉じ、椅子から立ち上がった。
——消したいものがあるから、来るのだ。
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