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大学生の私が、三十九歳の編集者を好きになった理由  作者: AYASHI


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16/17

第16話 食事前の距離

木曜は、思っていたより早く来た。

 約束というものは、決まった瞬間よりも、近づいてくる数日のほうが存在感を持つのかもしれない。火曜の講義のあとにも、水曜の帰りの電車の中でも、私は何度か無意識に曜日を数えていた。


明日。

 あるいは、もう明後日ではない。

 そういう確認を自分がしていることに、少しだけ驚く。


私はまず事実を観察する。

 木曜の夜、私は松岡太一さんと食事をする予定がある。

 書店でも、駅前でも、喫茶店でもない。

 食事だ。

 しかも、仕事や大学のついでではなく、そのために時間を取る種類の約束。


次に理解する。

 これはかなり私的な出来事だ。


そして最後に感情が来る。

 少し落ち着かない。

 でも、嫌ではない。



当日の朝、私はいつもより少し早く目が覚めた。まだカーテンの向こうの光は薄く、部屋の中には夜の温度が少し残っている。


時計を見る。

 まだ余裕はある。


なのに起きてしまったのは、楽しみだからなのか、緊張しているからなのか、自分でもよく分からなかった。

 ベッドから起き上がって、窓を少しだけ開ける。冷たい空気が頬に触れる。乾いていて、わずかに春の気配がある。


私はその空気を吸い込みながら考える。

 今日するのは、ただ食事をすることだ。

 それ以上ではない。

 告白でもなければ、何かを決める日でもない。


それなのに、私は少し緊張している。

 理由はたぶん、食事が生活の側の出来事だからだ。


会話は抽象の中でもできる。

 思想も、社会も、家族も、言葉の上では扱える。

 でも食事は違う。

 何を頼むか、どのくらい食べるか、どういう店を落ち着くと感じるか。そういうものは、その人の生活の輪郭を直接的に見せる。


私は今日、太一さんの生活の輪郭を少し見ることになる。

 同時に、私の輪郭も見られる。


その理解が先にある。

 そして感情が来る。


少し怖い。

 でも、やはり嫌ではなかった。



朝食の席で、母が私を見て少しだけ首をかしげた。


「今日、早いのね」


「自然に起きただけ」


「そう」


「何」


「別に。ただ、珍しいと思って」


母は味噌汁をよそいながら、私をもう一度見た。

 私はその視線の意味を考える。


変わっているのかもしれない。

 少なくとも、家族には分かる程度には。


「今日、何かある?」


と、今度は父が新聞から目を上げずに言った。

 私は一瞬だけ箸を止めた。


「何か、って?」


「少し落ち着かない顔をしてる」


私は父を見る。

 父は新聞を半分に折って、ようやくこちらに視線を向けた。その顔は真剣というより観察者のそれに近い。


少し可笑しい、と思う。

 娘の変化を父親が観察しているという状況が、というより、私自身が観察される側にいることが。


「別に」


私は言う。


「夜、友達とご飯」


「へえ」


母が少しだけ声を上げた。


「大学の?」


「まあ、そんな感じ」


嘘ではない。

 かなり不正確ではあるけれど。


私はその曖昧さを内心で確認する。

 まだ説明できる関係ではない。

 説明したい関係でもない。

 少なくとも今は。


父はそれ以上何も言わなかった。

 母も、少しだけ口元を緩めただけで追及しない。


助かった、と思う。

 同時に、少しだけ罪悪感もある。


けれどその罪悪感は、「食事をすること」に対してではない。

 まだ名前を与えていない関係を、家の中に持ち込めないことに対するものだ。


私は理解する。

 恋愛は二人だけの問題ではない。

 家族や社会に対して、どのタイミングで何を言えるかという現実がある。


そして感情が来る。

 それが、少し重かった。



午前の講義はほとんど頭に入らなかった。


ノートは取っている。

 教授の話も聞いている。

 周囲の学生が曖昧な相槌を打っているのも、いつも通り少しだけ苛立たしい。


なのに思考の一部だけが、夜に残っている。

 私は自分の集中の乱れを観察する。


通知を待っているわけではない。

 むしろ、必要な連絡はもう十分だ。

 昼までに来ると言っていたメッセージも、きちんと届いた。


――今日、大丈夫です。七時半に行きます。


それだけの文面。

 短い。

 余計な感情の説明はない。


でも、その簡潔さがかえってこの人らしかった。

 来る、と決めたことだけが書いてある。


私はそれを見たとき、少しだけ安堵した。


来られるかどうか不確定だった約束が、現実の予定になる。

 それだけで、一日の輪郭が少し硬くなる。


私は机に肘をつかず、背筋を伸ばしたまま考える。


これから会う。

 それは楽しみだ。

 同時に、年齢差のことも、いつもより少し強く意識している。


十九歳の大学生と、三十九歳の編集者。

 二十年。


数字にすると、急に現実味が増す。

 前から分かっていたことなのに、食事という場面になると輪郭が変わる。


書店の中では、私たちは客と店員という形式を少し借りられた。

 駅前では、短い会話が現実を薄めてくれた。

 でも、食事は違う。


形式がない。

 二人でいることそのものに意味が生まれる。


その理解が先に立つ。

 そして、少し遅れて感情が来る。


緊張している。

 かなり。



午後、図書館のトイレの鏡の前で、私は自分の顔を少し長く見ていた。


いつもと変わらない。

 少なくとも、大きくは。


けれど今日は、服をどうするかを朝から少し考えてしまっていた。露骨に意識した感じにはしたくない。かといって、普段通りすぎるのも少し違う気がする。


私はその迷いを自分で分析する。

 相手にどう見られたいか、という問題だ。


あまり着飾りたくはない。

 それは私らしくないし、太一さんもたぶんそういう変化に必要以上に反応する。

 でも、全く気を遣わないのも違う。

 今日の食事は、ただの流れではなく、少しだけ特別だからだ。


結局私は、濃い色のニットに、いつもより少しだけ柔らかいスカートを選んだ。自分でも、少しだけ「大学生らしい」服だと思う。


そのことに気づくと、妙に落ち着かなくなる。

 私は今、大学生として見られることを少し意識している。


太一さんは、それを見るだろうか。

 見るに決まっている。

 でも、それをどう受け取るのかは分からない。


私は理解する。

 年齢差というのは、抽象ではない。

 服にも、歩き方にも、声の高さにも出る。


そして感情が来る。

 少しだけ、逃げたくなる。


でも、逃げない。

 逃げないと決めている自分がいる。



同じ頃、太一さんは会社のデスクで赤字の入ったゲラを閉じていた。


今日は早く出る。

 そう決めていた。


決めていたから、逆に朝から仕事の段取りが妙に良かった。優先順位をつけ、必要な確認を先に回し、他の案件に余計な寄り道をしない。やればできるのだと、自分でも少し可笑しく思う。


彼は時計を見る。

 まだ少し余裕がある。


その余裕の中で、考えないようにしていたことが浮かぶ。


十九歳。

 大学生。

 自分は三十九歳。


食事をするだけだ、と言えばその通りだ。

 でも、それだけではないことも、もう分かっている。


太一さんはまず現実を見る。

 これは外から見れば、十分に意味を持つ組み合わせだ。

 しかも、自分は相手よりずっと年上で、社会の側にいる。

 責任を問われるとしたら、先に自分だ。


次に責任を考える。

 沙希の生活に、どこまで入っていいのか。

 食事は境界を少し越える。

 だからこそ、越えたあとも急がないことが必要だ。


最後に感情が来る。

 それでも、会いたいと思っている。

 しかも、かなり。


彼は小さく息を吐いて、机の上を片づけた。


久しぶりに、ネクタイの結び目が少し気になった。

 この年でそんなことを意識するのか、と苦笑する。

 恋愛は時々、人を年齢より若くする。

 あるいは、若いころの不器用さを思い出させる。



待ち合わせの場所は、駅前の大きな書店の前だった。書店ではない。そこが少しだけ可笑しかった。私たちは本屋で出会い、本屋で距離を測ってきたのに、今日は別の書店の前で会う。


私は七時二十五分に着いて、ガラスに映る自分を見ないようにした。

 見ても何も変わらない。

 でも、見たくなる。


周囲には会社帰りの人と学生が入り混じっている。駅へ急ぐ人、スマートフォンを見ながら歩く人、待ち合わせらしい二人組。誰もこちらを見ていない。だからこそ、自分の緊張だけが少し浮いているような気がした。


七時二十八分、私は遠くに見慣れた歩き方を見つけた。

 太一さんだった。


黒いコートに、紺のマフラー。手には仕事用の鞄。急いでいない。けれど遅れてもいない。その速度が、あの人らしかった。


私はまず観察する。

 来た。

 ちゃんと来た。

 仕事帰りのまま、でも少しだけ普段より整って見える。


次に理解する。

 この人も今日を意識していた。


最後に感情が来る。

 うれしい。

 迷いの少ない感情だった。


「こんばんは」


近づいてきた太一さんが言う。


「こんばんは」


「待たせましたか」


「まだ二分です」


「厳密ですね」


「事実なので」


太一さんは少しだけ笑った。

 その目が、いつもよりほんの少し柔らかい。


「今日は」


彼が言いかけて、少しだけ言葉を選ぶ。


「……雰囲気が違いますね」


「そうですか」


「ええ。でも、たぶんいい意味で」


「たぶん、が多いですね」


「断定すると緊張するので」


私はそこで少しだけ視線を落とした。

 見ていたのだ、と思う。

 当然だけれど、少しだけ落ち着かない。


「あなたも、少しだけ」


私が言う。


「いつもより整ってます」


「ばれますか」


「見れば」


「参りましたね」


彼はそう言って困ったように笑う。

 その困り方が、どこか安心を含んでいた。



店は駅から少し歩いた先にある、小さめの和食屋だった。暖簾の色も、照明の明るさも、静かでちょうどいい。私は店を選んだ自分の判断を内心で少しだけ肯定する。


「いい店ですね」


太一さんが言った。


「落ち着きます」


「そういうところを選びました」


「知ってます」


その返事に、私は少しだけ息を止める。


知ってます。


最近、この言葉を私は前より自然に使うようになった。理解している、という意味で。相手の気持ちを決めつけるのではなく、その傾向を受け取っているという意味で。

 でも、言われる側にとっては、時々少し重いのかもしれない。

 太一さんの表情が、そう示していた。


席に案内され、向かい合って座る。

 そこで初めて、私は距離の新しさを意識した。


書店のレジ越しでも、横並びの夜道でもない。

 向かい合って座る。

 膝の位置も、湯呑みを持つ指先も、料理を頼む声の低さも見える。


私はその状況を観察する。

 近い。

 でも触れてはいない。

 触れていないのに、前より近い。


次に理解する。

 食事という場面は、視線の居場所を増やす。

 顔だけではなく、手元や箸の持ち方や、飲み物を口に運ぶタイミングまで見えてしまう。


そして感情が来る。

 少しだけ困る。

 でも、嫌ではない。



「こういう店には、よく来るんですか」


私が訊いた。


「一人ではあまり」


太一さんが答える。


「蕎麦か、定食屋か、もっと簡単なところが多いです」


「やっぱり」


「予想通りでしたか」


「かなり」


「少し反省しています」


「少しなんですね」


「完全に反省すると、人格が変わってしまいそうなので」


私は小さく笑う。

 湯呑みから立つ湯気が、その笑いを少し柔らかく隠した。


「でも」


太一さんが続ける。


「今日みたいなのは、悪くないですね」


「今日みたいなの」


「静かで、話しやすくて、料理がちゃんとしていて」


「誰と来るかも含めて?」


言ってから、少しだけ踏み込んだと思った。

 でも引っ込めない。


太一さんはすぐには答えなかった。少しだけ箸を置いて、私を見る。


「もちろん」


と、彼は言う。


「そこを外したら、たぶん意味がずれるので」


私はその言葉を受け取って、視線を手元に落とした。


意味がずれる。

 そうだと思う。

 私たちは今、店の善し悪しだけを話しているわけではない。

 誰と、どの距離で、どういう時間を過ごすか。その意味ごと確かめている。


「あなたは」


太一さんが言う。


「思っていたより、緊張してないように見えます」


「してますよ」


「そうなんですか」


「かなり」


「見えないですね」


「見せてないので」


「そこはいつも通りですね」


私は少し考えてから言う。


「あなたも、してるでしょう」


「してます」


「かなり?」


「ええ。かなり」


その率直さが少し可笑しくて、私は思わず笑ってしまった。

 彼もつられて笑う。


それだけで、席のあいだの空気が少しだけやわらいだ。



料理が運ばれてきて、しばらくは普通の会話が続いた。大学のこと。仕事のこと。最近出た本のこと。書店の客層のこと。話題だけ見れば、これまでと大きく変わらない。


でも、変わっている部分もある。

 そのことに私は次第に気づく。


会話の間に沈黙が入っても、前ほど急いで埋めなくなった。

 箸を置くタイミングや、お茶を飲む間が、そのまま時間として成立している。


安心しているのだと思う。

 少なくとも、沈黙が失敗にならない程度には。

 それはかなり大きい。


「大学生の食事って」


太一さんが言った。


「もっと賑やかなものかと思っていました」


「偏見ですね」


「そうかもしれません」


「人によります」


「あなたは?」


「私は、うるさいのは苦手です」


「知ってます」


「最近それ多いですね」


「便利なので」


太一さんは少し笑ったあと、真顔に近い表情になる。


「でも、本当に」


彼が言う。


「こうして向かい合うと、改めて思います」


「何を」


「あなたは大学生なんですよね」


私は箸を持つ手を一度止めた。

 来ると思っていた。

 だから驚きはない。

 でも、実際に言葉になると少し違う。


私はまず観察する。

 太一さんは責めているわけではない。

 確認している。

 たぶん自分自身に対して。


次に理解する。

 この人は今、年齢差を忘れないようにしている。


そして感情が来る。

 少しだけ痛い。


「そうですね」


私は言う。


「戸籍上も、見た目も」


「そういう答え方をするのが、あなたらしい」


「事実なので」


「ええ。だから困るんです」


私は顔を上げる。


「困る、で止めないでください」


「厳しいですね」


「今日はそういう日です」


「どういう日ですか」


「食事をする日です」


彼は一瞬だけ言葉を失って、それから静かに笑った。


「参りました」


「まだ何もしてません」


「その返し方ですでに十分です」


私は理解する。

 この人は年齢差を意識している。

 でも、その意識は私を遠ざけるためだけのものではない。

 関係を雑にしないためのブレーキでもある。


それが分かるから、私は怒れない。

 むしろ、少し安心してしまう。



「正直に言うと」


太一さんが言った。


「こういう時間を持つのは、少し怖いです」


私は黙って彼を見る。


「理由は、分かりますよね」


「だいたいは」


「だいたい、で済ませるんですね」


「全部言わせるのも酷いので」


「助かります」


彼は湯呑みを持ち上げて、少しだけ視線を落とした。


「楽しいんです」


彼は言う。


「だから、余計に」


そこで言葉が切れる。


楽しい。


その一言は、変に飾られていないぶんだけ重かった。

 私はその言葉を自分の中で整理する。


この人は今、楽しさを認めた。

 同時に、その楽しさが進行を促してしまうことを恐れている。

 だから怖い、と言った。


現実。

 責任。

 感情。


順番が、そのまま話し方に出ている。


「私は」


と、私は言う。


「怖くない、とは言えません」


太一さんが顔を上げる。


「でも」


私は続ける。


「怖いからやめる、にはならないです」


言ってから、少しだけ胸が熱くなった。

 かなり踏み込んだ。

 でも、嘘ではない。


太一さんはしばらく黙っていた。

 その沈黙の中で、店の奥の食器の音が小さく響く。隣の席の会話も遠い。


「そう言われると」


彼がようやく言う。


「かなり救われます」


「救われるんですね」


「ええ。かなり」


「また、かなり」


「今日は多いですね」


「緊張してるからでは」


「たぶんそうです」


私は少しだけ笑った。


こういうとき、この人は少しだけ若くなる。

 若くなる、というより、不器用さが表に出る。

 それが前より見えるようになった。


前は「大人」として見ていた。

 今は違う。

 一人の男として見ている。


その理解が先にあり、そして感情が来る。

 少し危うい。

 でも、嫌ではない。



食事が終わるころには、店の中の客も少し減っていた。時間はまだ早いが、会社帰りの山は過ぎている。


会計は自然に太一さんが持とうとした。

 私はそれを予想していた。


「半分出します」


と、私は言う。


「ここは出させてください」


「それだと対等じゃない」


「全部を対等にすると、今度は私が落ち着きません」


「理屈がずるいですね」


「年上の防御です」


「防御を自覚してるんだ」


「かなり」


私は少し考えて、それから言う。


「じゃあ今日は甘えます」


「助かります」


「でも次は私が多めに出します」


「次、がもうあるんですね」


「嫌ですか」


「まさか」


その返答は、ほとんど間を置かなかった。

 私はそれを聞いて、胸のどこかがやわらかく熱を持つのを感じる。


次、がある。


まだ日付も決まっていない。

 でも、それを前提にした言葉が自然に交わされた。

 それはもう、かなり大きい。



店を出ると、夜の空気は店内より少し冷たかった。街灯の色が歩道に落ちて、車の音が一定の距離で流れていく。


二人で駅へ向かって歩きながら、私は自分の身体の感覚に少しだけ意識を向ける。


満腹というほどではない。

 でも、温かいものを食べたあとの穏やかさが残っている。

 その穏やかさと、さっきまで向かいに座っていた人の気配が、妙に近い場所にある。


私はまず認識する。

 食事は身体の出来事でもある。


誰かと同じものを食べ、温度を共有し、同じ時間に箸を置く。

 それは会話より少しだけ身体に近い。


次に理解する。

 だから食事は、思っていたより親密なのかもしれない。


そして感情が来る。

 少しだけ、落ち着かない。


私は、こういう夜がどんなふうに意味を帯びやすいかを知っている。

 食事のあとに駅まで並んで歩くことが、ただの帰り道ではなくなる瞬間があることも、理解している。


でも今は、その知識より現実のほうが強かった。

 私は送られる側で、夜の空気の中を、年上の男と並んで歩いている。


その状況を、自分が嫌がっていないことが、少しだけ怖い。


「寒いですか」


太一さんが言う。


「少しだけ」


「もう少し早く出ればよかったですね」


「別に平気です」


「そう言うと思いました」


そう言って、彼は自分の歩幅を少しだけ調整した。

 早くも遅くもない、私に合う速度に。


それだけのことなのに、妙に意識してしまう。


私は理解する。

 この人は触れない。

 でも、配慮はする。

 そういう距離の取り方をする。


そして感情が来る。

 安心する。

 少しだけ、困るくらいに。



改札前で足を止めると、いつもより少しだけ時間が遅く流れている気がした。


「今日は」


太一さんが言う。


「本当に、来てよかったです」


私は彼を見る。

 その言い方には、店の中で言った「楽しい」の続きがあった。軽くはない。けれど、重すぎるほどでもない。ちょうど、今の私たちに許される程度の本物さだった。


「私もです」


と、私は言う。


「思っていたより、ずっと」


太一さんはそこで少しだけ視線を逸らした。

 その反応が可笑しくて、私は少し笑う。


「そういうことを」


彼が言う。


「本当に普通の顔で言いますよね」


「本当なので」


「ええ。分かってます」


そのあと、少しだけ沈黙があった。


私はその沈黙の中で、今日一日の輪郭を確かめる。


朝の緊張。

 家での曖昧な嘘。

 大学での上の空。

 待ち合わせの数分。

 向かい合った席。

 年齢差の確認。

 楽しい、という言葉。

 次があるという前提。


どれも小さい。

 でも、全部が同じ方向を向いている。


私はまず認識する。

 今日、私たちは一段進んだ。


次に理解する。

 それは恋愛の急進ではない。

 生活の現実の中で、一段だけ関係の重さが増したということだ。


そして感情が来る。

 少し、怖い。

 でも、それ以上にうれしい。


「また」


私が言う。


「今度は、蕎麦との比較をもう少し厳密にしましょう」


太一さんは笑った。


「それは評価が厳しそうですね」


「公平に見ます」


「救いがないな」


「ありますよ」


「どこに」


「次があるところに」


言ってから、さすがに少しだけ言いすぎたと思った。

 でも、もう遅い。


太一さんは一瞬だけ黙って、それから静かに息を吐いた。


「それは」


彼が言う。


「かなり、効きます」


「そうですか」


「ええ。かなり」


私はそれ以上何も言わなかった。

 言葉を足すと、少し進みすぎる。

 今日はもう十分だと思った。


改札を抜けて、数歩進んだところで振り返る。

 彼はまだそこに立っていた。

 いつものように見送っている。

 でも、今日の見送りは前より少し違う。


待っているのだ。

 次の時間を。


私はそのことを理解して、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。


電車がホームに入ってくる。

 私は乗り込み、窓に映る自分を見る。


少しだけ頬がやわらかい。

 緊張も、疲れも、少しだけ残っている。

 でも、それだけではない。


私は今日、ただ食事をしただけだ。

 そう言おうと思えば言える。

 でも、本当は違う。


私は今日、誰かと生活の入口を共有した。

 そして、そのことを自分の身体で理解した。


食事は身体の出来事だ。

 だから、少し怖い。

 身体は現実に近い。

 現実は、ときどき人生を動かす。


そのことを、私は前より強く意識している。


まだ何も起きていない。

 触れられてもいない。

 なのに、身体の意味を少し考えてしまう。


女性の身体。

 生活の共有。

 年齢差。

 未来。


言葉にすると大げさだ。

 でも、思考としてはたしかにある。


私は吊り革につかまりながら、目を閉じる。


恋は、たぶんこの先、もっと現実に近づいてくる。

 近づけば、身体のことも、もっと避けられなくなる。

 それが少し怖い。


でも今日の私は、そこから目を逸らしたいとは思っていなかった。


怖さごと、受け止め始めている。

 たぶん、そういう段階に入ったのだと思う。


電車が揺れる。

 窓の外の灯りが流れていく。

 私はその流れを見ながら、静かに思う。


次に会うとき、私は今日よりもう少し、この人との距離を現実として意識する。


それはたぶん、後戻りではない。

 前に進むための、不安だ。

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