第16話 食事前の距離
木曜は、思っていたより早く来た。
約束というものは、決まった瞬間よりも、近づいてくる数日のほうが存在感を持つのかもしれない。火曜の講義のあとにも、水曜の帰りの電車の中でも、私は何度か無意識に曜日を数えていた。
明日。
あるいは、もう明後日ではない。
そういう確認を自分がしていることに、少しだけ驚く。
私はまず事実を観察する。
木曜の夜、私は松岡太一さんと食事をする予定がある。
書店でも、駅前でも、喫茶店でもない。
食事だ。
しかも、仕事や大学のついでではなく、そのために時間を取る種類の約束。
次に理解する。
これはかなり私的な出来事だ。
そして最後に感情が来る。
少し落ち着かない。
でも、嫌ではない。
*
当日の朝、私はいつもより少し早く目が覚めた。まだカーテンの向こうの光は薄く、部屋の中には夜の温度が少し残っている。
時計を見る。
まだ余裕はある。
なのに起きてしまったのは、楽しみだからなのか、緊張しているからなのか、自分でもよく分からなかった。
ベッドから起き上がって、窓を少しだけ開ける。冷たい空気が頬に触れる。乾いていて、わずかに春の気配がある。
私はその空気を吸い込みながら考える。
今日するのは、ただ食事をすることだ。
それ以上ではない。
告白でもなければ、何かを決める日でもない。
それなのに、私は少し緊張している。
理由はたぶん、食事が生活の側の出来事だからだ。
会話は抽象の中でもできる。
思想も、社会も、家族も、言葉の上では扱える。
でも食事は違う。
何を頼むか、どのくらい食べるか、どういう店を落ち着くと感じるか。そういうものは、その人の生活の輪郭を直接的に見せる。
私は今日、太一さんの生活の輪郭を少し見ることになる。
同時に、私の輪郭も見られる。
その理解が先にある。
そして感情が来る。
少し怖い。
でも、やはり嫌ではなかった。
*
朝食の席で、母が私を見て少しだけ首をかしげた。
「今日、早いのね」
「自然に起きただけ」
「そう」
「何」
「別に。ただ、珍しいと思って」
母は味噌汁をよそいながら、私をもう一度見た。
私はその視線の意味を考える。
変わっているのかもしれない。
少なくとも、家族には分かる程度には。
「今日、何かある?」
と、今度は父が新聞から目を上げずに言った。
私は一瞬だけ箸を止めた。
「何か、って?」
「少し落ち着かない顔をしてる」
私は父を見る。
父は新聞を半分に折って、ようやくこちらに視線を向けた。その顔は真剣というより観察者のそれに近い。
少し可笑しい、と思う。
娘の変化を父親が観察しているという状況が、というより、私自身が観察される側にいることが。
「別に」
私は言う。
「夜、友達とご飯」
「へえ」
母が少しだけ声を上げた。
「大学の?」
「まあ、そんな感じ」
嘘ではない。
かなり不正確ではあるけれど。
私はその曖昧さを内心で確認する。
まだ説明できる関係ではない。
説明したい関係でもない。
少なくとも今は。
父はそれ以上何も言わなかった。
母も、少しだけ口元を緩めただけで追及しない。
助かった、と思う。
同時に、少しだけ罪悪感もある。
けれどその罪悪感は、「食事をすること」に対してではない。
まだ名前を与えていない関係を、家の中に持ち込めないことに対するものだ。
私は理解する。
恋愛は二人だけの問題ではない。
家族や社会に対して、どのタイミングで何を言えるかという現実がある。
そして感情が来る。
それが、少し重かった。
*
午前の講義はほとんど頭に入らなかった。
ノートは取っている。
教授の話も聞いている。
周囲の学生が曖昧な相槌を打っているのも、いつも通り少しだけ苛立たしい。
なのに思考の一部だけが、夜に残っている。
私は自分の集中の乱れを観察する。
通知を待っているわけではない。
むしろ、必要な連絡はもう十分だ。
昼までに来ると言っていたメッセージも、きちんと届いた。
――今日、大丈夫です。七時半に行きます。
それだけの文面。
短い。
余計な感情の説明はない。
でも、その簡潔さがかえってこの人らしかった。
来る、と決めたことだけが書いてある。
私はそれを見たとき、少しだけ安堵した。
来られるかどうか不確定だった約束が、現実の予定になる。
それだけで、一日の輪郭が少し硬くなる。
私は机に肘をつかず、背筋を伸ばしたまま考える。
これから会う。
それは楽しみだ。
同時に、年齢差のことも、いつもより少し強く意識している。
十九歳の大学生と、三十九歳の編集者。
二十年。
数字にすると、急に現実味が増す。
前から分かっていたことなのに、食事という場面になると輪郭が変わる。
書店の中では、私たちは客と店員という形式を少し借りられた。
駅前では、短い会話が現実を薄めてくれた。
でも、食事は違う。
形式がない。
二人でいることそのものに意味が生まれる。
その理解が先に立つ。
そして、少し遅れて感情が来る。
緊張している。
かなり。
*
午後、図書館のトイレの鏡の前で、私は自分の顔を少し長く見ていた。
いつもと変わらない。
少なくとも、大きくは。
けれど今日は、服をどうするかを朝から少し考えてしまっていた。露骨に意識した感じにはしたくない。かといって、普段通りすぎるのも少し違う気がする。
私はその迷いを自分で分析する。
相手にどう見られたいか、という問題だ。
あまり着飾りたくはない。
それは私らしくないし、太一さんもたぶんそういう変化に必要以上に反応する。
でも、全く気を遣わないのも違う。
今日の食事は、ただの流れではなく、少しだけ特別だからだ。
結局私は、濃い色のニットに、いつもより少しだけ柔らかいスカートを選んだ。自分でも、少しだけ「大学生らしい」服だと思う。
そのことに気づくと、妙に落ち着かなくなる。
私は今、大学生として見られることを少し意識している。
太一さんは、それを見るだろうか。
見るに決まっている。
でも、それをどう受け取るのかは分からない。
私は理解する。
年齢差というのは、抽象ではない。
服にも、歩き方にも、声の高さにも出る。
そして感情が来る。
少しだけ、逃げたくなる。
でも、逃げない。
逃げないと決めている自分がいる。
*
同じ頃、太一さんは会社のデスクで赤字の入ったゲラを閉じていた。
今日は早く出る。
そう決めていた。
決めていたから、逆に朝から仕事の段取りが妙に良かった。優先順位をつけ、必要な確認を先に回し、他の案件に余計な寄り道をしない。やればできるのだと、自分でも少し可笑しく思う。
彼は時計を見る。
まだ少し余裕がある。
その余裕の中で、考えないようにしていたことが浮かぶ。
十九歳。
大学生。
自分は三十九歳。
食事をするだけだ、と言えばその通りだ。
でも、それだけではないことも、もう分かっている。
太一さんはまず現実を見る。
これは外から見れば、十分に意味を持つ組み合わせだ。
しかも、自分は相手よりずっと年上で、社会の側にいる。
責任を問われるとしたら、先に自分だ。
次に責任を考える。
沙希の生活に、どこまで入っていいのか。
食事は境界を少し越える。
だからこそ、越えたあとも急がないことが必要だ。
最後に感情が来る。
それでも、会いたいと思っている。
しかも、かなり。
彼は小さく息を吐いて、机の上を片づけた。
久しぶりに、ネクタイの結び目が少し気になった。
この年でそんなことを意識するのか、と苦笑する。
恋愛は時々、人を年齢より若くする。
あるいは、若いころの不器用さを思い出させる。
*
待ち合わせの場所は、駅前の大きな書店の前だった。書店ではない。そこが少しだけ可笑しかった。私たちは本屋で出会い、本屋で距離を測ってきたのに、今日は別の書店の前で会う。
私は七時二十五分に着いて、ガラスに映る自分を見ないようにした。
見ても何も変わらない。
でも、見たくなる。
周囲には会社帰りの人と学生が入り混じっている。駅へ急ぐ人、スマートフォンを見ながら歩く人、待ち合わせらしい二人組。誰もこちらを見ていない。だからこそ、自分の緊張だけが少し浮いているような気がした。
七時二十八分、私は遠くに見慣れた歩き方を見つけた。
太一さんだった。
黒いコートに、紺のマフラー。手には仕事用の鞄。急いでいない。けれど遅れてもいない。その速度が、あの人らしかった。
私はまず観察する。
来た。
ちゃんと来た。
仕事帰りのまま、でも少しだけ普段より整って見える。
次に理解する。
この人も今日を意識していた。
最後に感情が来る。
うれしい。
迷いの少ない感情だった。
「こんばんは」
近づいてきた太一さんが言う。
「こんばんは」
「待たせましたか」
「まだ二分です」
「厳密ですね」
「事実なので」
太一さんは少しだけ笑った。
その目が、いつもよりほんの少し柔らかい。
「今日は」
彼が言いかけて、少しだけ言葉を選ぶ。
「……雰囲気が違いますね」
「そうですか」
「ええ。でも、たぶんいい意味で」
「たぶん、が多いですね」
「断定すると緊張するので」
私はそこで少しだけ視線を落とした。
見ていたのだ、と思う。
当然だけれど、少しだけ落ち着かない。
「あなたも、少しだけ」
私が言う。
「いつもより整ってます」
「ばれますか」
「見れば」
「参りましたね」
彼はそう言って困ったように笑う。
その困り方が、どこか安心を含んでいた。
*
店は駅から少し歩いた先にある、小さめの和食屋だった。暖簾の色も、照明の明るさも、静かでちょうどいい。私は店を選んだ自分の判断を内心で少しだけ肯定する。
「いい店ですね」
太一さんが言った。
「落ち着きます」
「そういうところを選びました」
「知ってます」
その返事に、私は少しだけ息を止める。
知ってます。
最近、この言葉を私は前より自然に使うようになった。理解している、という意味で。相手の気持ちを決めつけるのではなく、その傾向を受け取っているという意味で。
でも、言われる側にとっては、時々少し重いのかもしれない。
太一さんの表情が、そう示していた。
席に案内され、向かい合って座る。
そこで初めて、私は距離の新しさを意識した。
書店のレジ越しでも、横並びの夜道でもない。
向かい合って座る。
膝の位置も、湯呑みを持つ指先も、料理を頼む声の低さも見える。
私はその状況を観察する。
近い。
でも触れてはいない。
触れていないのに、前より近い。
次に理解する。
食事という場面は、視線の居場所を増やす。
顔だけではなく、手元や箸の持ち方や、飲み物を口に運ぶタイミングまで見えてしまう。
そして感情が来る。
少しだけ困る。
でも、嫌ではない。
*
「こういう店には、よく来るんですか」
私が訊いた。
「一人ではあまり」
太一さんが答える。
「蕎麦か、定食屋か、もっと簡単なところが多いです」
「やっぱり」
「予想通りでしたか」
「かなり」
「少し反省しています」
「少しなんですね」
「完全に反省すると、人格が変わってしまいそうなので」
私は小さく笑う。
湯呑みから立つ湯気が、その笑いを少し柔らかく隠した。
「でも」
太一さんが続ける。
「今日みたいなのは、悪くないですね」
「今日みたいなの」
「静かで、話しやすくて、料理がちゃんとしていて」
「誰と来るかも含めて?」
言ってから、少しだけ踏み込んだと思った。
でも引っ込めない。
太一さんはすぐには答えなかった。少しだけ箸を置いて、私を見る。
「もちろん」
と、彼は言う。
「そこを外したら、たぶん意味がずれるので」
私はその言葉を受け取って、視線を手元に落とした。
意味がずれる。
そうだと思う。
私たちは今、店の善し悪しだけを話しているわけではない。
誰と、どの距離で、どういう時間を過ごすか。その意味ごと確かめている。
「あなたは」
太一さんが言う。
「思っていたより、緊張してないように見えます」
「してますよ」
「そうなんですか」
「かなり」
「見えないですね」
「見せてないので」
「そこはいつも通りですね」
私は少し考えてから言う。
「あなたも、してるでしょう」
「してます」
「かなり?」
「ええ。かなり」
その率直さが少し可笑しくて、私は思わず笑ってしまった。
彼もつられて笑う。
それだけで、席のあいだの空気が少しだけやわらいだ。
*
料理が運ばれてきて、しばらくは普通の会話が続いた。大学のこと。仕事のこと。最近出た本のこと。書店の客層のこと。話題だけ見れば、これまでと大きく変わらない。
でも、変わっている部分もある。
そのことに私は次第に気づく。
会話の間に沈黙が入っても、前ほど急いで埋めなくなった。
箸を置くタイミングや、お茶を飲む間が、そのまま時間として成立している。
安心しているのだと思う。
少なくとも、沈黙が失敗にならない程度には。
それはかなり大きい。
「大学生の食事って」
太一さんが言った。
「もっと賑やかなものかと思っていました」
「偏見ですね」
「そうかもしれません」
「人によります」
「あなたは?」
「私は、うるさいのは苦手です」
「知ってます」
「最近それ多いですね」
「便利なので」
太一さんは少し笑ったあと、真顔に近い表情になる。
「でも、本当に」
彼が言う。
「こうして向かい合うと、改めて思います」
「何を」
「あなたは大学生なんですよね」
私は箸を持つ手を一度止めた。
来ると思っていた。
だから驚きはない。
でも、実際に言葉になると少し違う。
私はまず観察する。
太一さんは責めているわけではない。
確認している。
たぶん自分自身に対して。
次に理解する。
この人は今、年齢差を忘れないようにしている。
そして感情が来る。
少しだけ痛い。
「そうですね」
私は言う。
「戸籍上も、見た目も」
「そういう答え方をするのが、あなたらしい」
「事実なので」
「ええ。だから困るんです」
私は顔を上げる。
「困る、で止めないでください」
「厳しいですね」
「今日はそういう日です」
「どういう日ですか」
「食事をする日です」
彼は一瞬だけ言葉を失って、それから静かに笑った。
「参りました」
「まだ何もしてません」
「その返し方ですでに十分です」
私は理解する。
この人は年齢差を意識している。
でも、その意識は私を遠ざけるためだけのものではない。
関係を雑にしないためのブレーキでもある。
それが分かるから、私は怒れない。
むしろ、少し安心してしまう。
*
「正直に言うと」
太一さんが言った。
「こういう時間を持つのは、少し怖いです」
私は黙って彼を見る。
「理由は、分かりますよね」
「だいたいは」
「だいたい、で済ませるんですね」
「全部言わせるのも酷いので」
「助かります」
彼は湯呑みを持ち上げて、少しだけ視線を落とした。
「楽しいんです」
彼は言う。
「だから、余計に」
そこで言葉が切れる。
楽しい。
その一言は、変に飾られていないぶんだけ重かった。
私はその言葉を自分の中で整理する。
この人は今、楽しさを認めた。
同時に、その楽しさが進行を促してしまうことを恐れている。
だから怖い、と言った。
現実。
責任。
感情。
順番が、そのまま話し方に出ている。
「私は」
と、私は言う。
「怖くない、とは言えません」
太一さんが顔を上げる。
「でも」
私は続ける。
「怖いからやめる、にはならないです」
言ってから、少しだけ胸が熱くなった。
かなり踏み込んだ。
でも、嘘ではない。
太一さんはしばらく黙っていた。
その沈黙の中で、店の奥の食器の音が小さく響く。隣の席の会話も遠い。
「そう言われると」
彼がようやく言う。
「かなり救われます」
「救われるんですね」
「ええ。かなり」
「また、かなり」
「今日は多いですね」
「緊張してるからでは」
「たぶんそうです」
私は少しだけ笑った。
こういうとき、この人は少しだけ若くなる。
若くなる、というより、不器用さが表に出る。
それが前より見えるようになった。
前は「大人」として見ていた。
今は違う。
一人の男として見ている。
その理解が先にあり、そして感情が来る。
少し危うい。
でも、嫌ではない。
*
食事が終わるころには、店の中の客も少し減っていた。時間はまだ早いが、会社帰りの山は過ぎている。
会計は自然に太一さんが持とうとした。
私はそれを予想していた。
「半分出します」
と、私は言う。
「ここは出させてください」
「それだと対等じゃない」
「全部を対等にすると、今度は私が落ち着きません」
「理屈がずるいですね」
「年上の防御です」
「防御を自覚してるんだ」
「かなり」
私は少し考えて、それから言う。
「じゃあ今日は甘えます」
「助かります」
「でも次は私が多めに出します」
「次、がもうあるんですね」
「嫌ですか」
「まさか」
その返答は、ほとんど間を置かなかった。
私はそれを聞いて、胸のどこかがやわらかく熱を持つのを感じる。
次、がある。
まだ日付も決まっていない。
でも、それを前提にした言葉が自然に交わされた。
それはもう、かなり大きい。
*
店を出ると、夜の空気は店内より少し冷たかった。街灯の色が歩道に落ちて、車の音が一定の距離で流れていく。
二人で駅へ向かって歩きながら、私は自分の身体の感覚に少しだけ意識を向ける。
満腹というほどではない。
でも、温かいものを食べたあとの穏やかさが残っている。
その穏やかさと、さっきまで向かいに座っていた人の気配が、妙に近い場所にある。
私はまず認識する。
食事は身体の出来事でもある。
誰かと同じものを食べ、温度を共有し、同じ時間に箸を置く。
それは会話より少しだけ身体に近い。
次に理解する。
だから食事は、思っていたより親密なのかもしれない。
そして感情が来る。
少しだけ、落ち着かない。
私は、こういう夜がどんなふうに意味を帯びやすいかを知っている。
食事のあとに駅まで並んで歩くことが、ただの帰り道ではなくなる瞬間があることも、理解している。
でも今は、その知識より現実のほうが強かった。
私は送られる側で、夜の空気の中を、年上の男と並んで歩いている。
その状況を、自分が嫌がっていないことが、少しだけ怖い。
「寒いですか」
太一さんが言う。
「少しだけ」
「もう少し早く出ればよかったですね」
「別に平気です」
「そう言うと思いました」
そう言って、彼は自分の歩幅を少しだけ調整した。
早くも遅くもない、私に合う速度に。
それだけのことなのに、妙に意識してしまう。
私は理解する。
この人は触れない。
でも、配慮はする。
そういう距離の取り方をする。
そして感情が来る。
安心する。
少しだけ、困るくらいに。
*
改札前で足を止めると、いつもより少しだけ時間が遅く流れている気がした。
「今日は」
太一さんが言う。
「本当に、来てよかったです」
私は彼を見る。
その言い方には、店の中で言った「楽しい」の続きがあった。軽くはない。けれど、重すぎるほどでもない。ちょうど、今の私たちに許される程度の本物さだった。
「私もです」
と、私は言う。
「思っていたより、ずっと」
太一さんはそこで少しだけ視線を逸らした。
その反応が可笑しくて、私は少し笑う。
「そういうことを」
彼が言う。
「本当に普通の顔で言いますよね」
「本当なので」
「ええ。分かってます」
そのあと、少しだけ沈黙があった。
私はその沈黙の中で、今日一日の輪郭を確かめる。
朝の緊張。
家での曖昧な嘘。
大学での上の空。
待ち合わせの数分。
向かい合った席。
年齢差の確認。
楽しい、という言葉。
次があるという前提。
どれも小さい。
でも、全部が同じ方向を向いている。
私はまず認識する。
今日、私たちは一段進んだ。
次に理解する。
それは恋愛の急進ではない。
生活の現実の中で、一段だけ関係の重さが増したということだ。
そして感情が来る。
少し、怖い。
でも、それ以上にうれしい。
「また」
私が言う。
「今度は、蕎麦との比較をもう少し厳密にしましょう」
太一さんは笑った。
「それは評価が厳しそうですね」
「公平に見ます」
「救いがないな」
「ありますよ」
「どこに」
「次があるところに」
言ってから、さすがに少しだけ言いすぎたと思った。
でも、もう遅い。
太一さんは一瞬だけ黙って、それから静かに息を吐いた。
「それは」
彼が言う。
「かなり、効きます」
「そうですか」
「ええ。かなり」
私はそれ以上何も言わなかった。
言葉を足すと、少し進みすぎる。
今日はもう十分だと思った。
改札を抜けて、数歩進んだところで振り返る。
彼はまだそこに立っていた。
いつものように見送っている。
でも、今日の見送りは前より少し違う。
待っているのだ。
次の時間を。
私はそのことを理解して、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
電車がホームに入ってくる。
私は乗り込み、窓に映る自分を見る。
少しだけ頬がやわらかい。
緊張も、疲れも、少しだけ残っている。
でも、それだけではない。
私は今日、ただ食事をしただけだ。
そう言おうと思えば言える。
でも、本当は違う。
私は今日、誰かと生活の入口を共有した。
そして、そのことを自分の身体で理解した。
食事は身体の出来事だ。
だから、少し怖い。
身体は現実に近い。
現実は、ときどき人生を動かす。
そのことを、私は前より強く意識している。
まだ何も起きていない。
触れられてもいない。
なのに、身体の意味を少し考えてしまう。
女性の身体。
生活の共有。
年齢差。
未来。
言葉にすると大げさだ。
でも、思考としてはたしかにある。
私は吊り革につかまりながら、目を閉じる。
恋は、たぶんこの先、もっと現実に近づいてくる。
近づけば、身体のことも、もっと避けられなくなる。
それが少し怖い。
でも今日の私は、そこから目を逸らしたいとは思っていなかった。
怖さごと、受け止め始めている。
たぶん、そういう段階に入ったのだと思う。
電車が揺れる。
窓の外の灯りが流れていく。
私はその流れを見ながら、静かに思う。
次に会うとき、私は今日よりもう少し、この人との距離を現実として意識する。
それはたぶん、後戻りではない。
前に進むための、不安だ。




