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大学生の私が、三十九歳の編集者を好きになった理由  作者: AYASHI


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第15話 静かな幸福

約束と呼ぶには、まだ少し曖昧だった。

 でも、曖昧だからこそ壊れにくいものもあるのだと思う。


翌日の昼休み、私は学食の隅の席で一人でうどんを食べながら、昨夜のメッセージを思い出していた。


――今度まともな店を教えます。

 ――コーヒー以外の延長で。


自分で送った文面なのに、思い返すと少しだけ落ち着かない。

 あれは冗談ではなかった。

 軽く見せた提案ではある。

 でも、意図はかなり明確だった。


私はまず事実を確認する。


私は松岡太一さんに、店を教えると言った。

 それはつまり、一緒に食事をする可能性を前提にしている。

 しかも書店でも駅前でもなく、食事という生活の場面で。


そこまで整理してから理解する。

 これは前より一段、私的だ。


そして最後に感情が来る。

 少し怖い。

 でも、嫌ではない。


私は紙コップの水を飲んで、小さく息を吐いた。

 恋は劇的な言葉で進むわけではない。

 こういう、どちらにも逃げられる曖昧な提案のほうが、むしろ現実的だ。

 約束です、と強く言ってしまえば重くなる。

 でも、冗談のふりをしたまま残せば、次に繋げられる。


たぶん、私たちは今、その曖昧さを必要としている。



講義が終わって図書館へ向かう途中、スマートフォンが震えた。


――昨日の提案、社交辞令ではないと受け取っても大丈夫ですか。


私は足を止めた。

 中庭の木々はまだ冬の色を残していて、ベンチには学生が数人、飲み物を片手に話している。笑い声が風に流れて、妙に遠く聞こえた。


私は画面を見る。

 やはりこの人は、都合のいい解釈をしない。

 勝手に踏み込まない。

 確認する。


そこがこの人らしいし、たぶん、私が安心して関係を続けられる理由でもある。

 私は少しだけ考えてから返した。


――大丈夫です。

 ――ただし、高い店は嫌です。


送信すると、数分もしないうちに返事が来る。


――そこは安心してください。

 ――むしろ高い店は、こちらが落ち着きません。


私は思わず少しだけ笑った。

 それは少し意外だった。

 いや、意外というほどではないかもしれない。

 この人は格式のある場に緊張しないタイプにも見えるけれど、実際には「場の正しさ」に合わせることを面倒に感じる種類の人だ。


私は返信する。


――では条件が合いましたね。

 ――蕎麦より少しまし、くらいで。


既読がつくまでが、今日は妙に長く感じた。

 数分後、返ってきたのは短い文だった。


――その言い方、かなり好きです。

 ――少しまし、くらいがちょうどいい。


私は画面を伏せて、歩き出す。

 好きです、という言葉は危うい。

 文脈が違っても、一瞬だけ心拍を乱す力がある。

 もちろん彼は分かって使っているわけではないだろう。

 いや、分かっていないとも言い切れないかもしれない。


私はそこまで考えて、やめる。

 行間を読みすぎるのは、たぶん今はよくない。

 でも、事実だけは残る。


私たちは今、食事の話をしている。

 現実に会う前提で、生活の高さで会話している。


その理解が先にある。

 そして、感情が来る。

 静かにうれしい。



夕方の書店は、珍しく穏やかだった。客足は途切れずあるが、忙殺されるほどではない。実用書の棚を整え、問い合わせに答え、時々レジに入る。その合間にも、意識の一部は今日のメッセージの余韻を持ったままだった。


約束はまだ成立していない。

 日時も決まっていない。

 でも、完全に浮いている話でもない。

 たぶん次に会ったとき、その延長がある。


私はその予感を、なるべく大きく育てないようにしていた。

 期待は輪郭を持ちすぎると、すぐに重さに変わる。

 今はまだ、軽いままでいたかった。


「早坂さん、今日ちょっと機嫌いい?」


品出しをしていた先輩が、不意にそんなことを言った。

 私は反射的に顔を上げる。


「別に」


「そう?」


「普通です」


「普通の人は、そんなにすぐ否定しないけどね」


先輩は笑って別の棚へ行った。

 私は小さく息を吐く。


見えているのかもしれない。

 いや、見えているのだろう。

 人は自分が思うほど、平静を完璧には保てない。


私はレジに戻りながら思う。

 恋が日常に入るというのは、こういうことかもしれない。

 感情そのものよりも、その余韻が表情の端や声の温度に出る。


それは少し厄介だ。

 でも、不快ではない。



七時を少し過ぎたころ、自動ドアが開いた。

 私はその音だけで顔を上げてしまった自分を、内心で少し呆れる。

 けれど、入ってきた輪郭を見た瞬間、その反応は正しかったと分かる。


松岡太一さんだった。

 グレーのコート、黒に近いマフラー、片手に書類封筒。前回と同じように疲れは少しあるが、顔色は悪くない。急いできたのではなく、仕事をきちんと終わらせて、その足で来たように見えた。


私はまず観察する。

 来た。

 しかも、たぶん、私との食事の話を曖昧なままにしないために。


次に理解する。

 この人は、曖昧さに甘えるだけではなく、必要なときは現実に戻してくる。


最後に感情が来る。

 うれしい。

 前より少しだけ、迷いの少ない感情だった。


「こんばんは」


彼がレジに近づいて言う。


「こんばんは」


「今日もちゃんと人間らしい時間に終わりました」


「それはよかったですね」


「おかげで、昨日の続きを考える余裕ができました」


「続きを考えるほどの話でしたか」


「少なくとも、私にはそうでした」


その言い方が、少しだけまっすぐだった。

 前ならもう少しぼかしたかもしれない。

 でも今日は違う。


私はバーコードを読み取りながら訊く。


「何か買うんですか」


「一応、買います」


「一応」


「完全に手ぶらだと、店員さんに悪いので」


「客としての倫理が限定的ですね」


「あなた相手だと、少し崩れます」


「それ、あまりいい意味に聞こえません」


「かなりいい意味です」


私は顔を上げて彼を見る。

 太一さんも、わずかに困ったように笑っていた。


困っている。

 でも、来ている。

 それが今の彼の誠実さなのだと思う。



閉店までの一時間、太一さんはカフェスペースで本をめくっていた。今日はほとんど読んでいないことが、遠目にも分かった。ページをめくる速度がいつもより遅い。たまに視線を止めて、何かを考えている。


私はレジからその様子を見ながら思う。

 私だけではないのだ。

 生活の話題に入ることを、少し意識しているのは。


その事実が、妙に落ち着きをもたらした。


恋は時々、人を一人で勝手に揺れさせる。

 でも、相手も同じ高さで少し揺れていると分かると、不思議と安心する。


安心の上に緊張がある。

 最近は、その順番になってきた。



閉店後、いつものように店の外へ出る。

 夜気は少し冷たかったが、もう真冬の硬さではない。駅までの道に、春の前触れのような湿り気がわずかに混じっていた。


「少しだけ、歩けますか」


太一さんが言う。


「今日は少しだけじゃないと困りますか」


「困りはしませんけど、警戒はされるかと思って」


「されてますよ」


「ですよね」


そう言って、彼は少し笑った。

 二人で並んで歩き出す。

 距離は相変わらず一定だ。

 触れないし、触れそうにもならない。

 でも、その距離の中に前より違う種類の親しさがあった。


「それで」


私が言う。


「昨日の続きですか」


「ええ」


「社交辞令ではないと確認した件」


「確認しておかないと、たぶん落ち着かないので」


「編集者なのに曖昧さに耐性が低い」


「仕事と私生活は別です」


「便利な言い訳ですね」


「本当にそうなんですよ。仕事なら曖昧さも管理できますけど、自分のことだと難しい」


私はその言葉を聞いて、少しだけ歩く速度を緩める。


自分のことだと難しい。

 それは、少しだけ意外な告白だった。

 構造や他人の感情を理解する人間ほど、自分のことになると途端に不器用になる。そういう種類の人間なのだろう、この人は。


「じゃあ、管理しなくていいです」


私は言う。


「少なくとも、その件は」


「食事の件を?」


「はい」


「……それは、かなり安心します」


彼の声は静かだった。

 静かだけれど、たぶん本当に安心していた。


私は理解する。

 この人にとって食事は、単なる食事ではない。

 関係が一段、生活側へ入ることの確認なのだ。


そして感情が来る。

 それがうれしい。



「何が食べたいですか」


駅前の信号待ちで、私が訊いた。

 太一さんは少しだけ考える顔をした。


「それ、意外と難しい質問ですね」


「どうしてですか」


「普段、空腹を満たすことしか考えてないので」


「やっぱり雑ですね」


「反省はしています」


「改善は?」


「今からする予定です」


「人任せですね」


「今回は、少し」


信号が青に変わる。

 二人で歩き出しながら、私は少し考えた。


「和食がいいです」


私は言う。


「落ち着くので」


「いいですね」


「うるさい店は嫌です」


「同感です」


「あと、変に暗い店も苦手です」


「それも分かります」


「……案外、合いますね」


「そこは、だいぶ前から分かっていた気がしますけど」


私は少しだけ黙る。

 それはそうだ。

 趣味や思想だけでなく、こういう細部まで合うことが、今さら少しずつ分かってきている。


生活の相性。

 まだそんな言い方をするには早い。

 でも、完全に間違いでもない気がした。


「来週なら」


太一さんが言う。


「水曜か木曜なら、たぶん時間が取れます」


「たぶん、なんですね」


「編集者なので」


「万能ですね、その言い訳」


「便利ではあります」


「では木曜」


「即決ですね」


「そのほうが決まるので」


「そういうところ、本当に助かります」


私は横を見る。

 彼は前を向いたまま、少しだけ表情をゆるめていた。


「七時半くらいでどうですか」


私が言う。


「バイトの後なので」


「大丈夫です。場所は任せます」


「任されすぎるのも困るんですけど」


「じゃあ、信頼してます」


「重い言葉を軽く使わないでください」


「軽くは使ってません」


私はその返事に、少しだけ息を止めた。

 軽くは使っていない。

 そう言われると、言葉の重さがちゃんと戻ってくる。


私は前を向いたまま歩き続ける。

 こういう瞬間に、この人の誠実さは少し怖い。

 曖昧な場面で、必要なだけ言葉を本物にする。

 逃げ場をなくすほどではないが、ごまかせない程度には。


でも、嫌ではない。



駅前の小さな広場の前で、二人の歩みが自然に止まった。


「何を食べるかより」


太一さんが言う。


「誰と食べるかで、だいぶ違うんですね」


「急にどうしたんですか」


「実感です」


「今まで気づかなかったんですか」


「昔はたぶん、分かっていたと思います」


「今は?」


「忘れていたのかもしれません」


私はその言葉を受け取って、少しだけ沈黙する。

 忘れていた。

 そこにはたぶん、この人の過去が少しだけ混じっている。

 まだ具体的には語られない。

 でも、人生のどこかで、食事が楽しいだけの時間ではなくなった時期があるのだろうと思う。


私は今は踏み込まない。

 踏み込まないほうがいいと分かる。

 その代わり、別の角度から返す。


「私は逆です」


私が言う。


「今まで、誰と食べるかをあまり重く考えてなかった」


「今は?」


「少し違うかもしれません」


そこで言葉を止める。

 止めたこと自体に、意味が生まれてしまう。


太一さんはすぐには返さなかった。

 沈黙が一度、私たちのあいだに落ちる。


重くはない。

 でも、薄くもない。


「それは」


彼がようやく言う。


「かなりうれしいです」


「そうですか」


「ええ。かなり」


私はそれ以上何も返さない。

 返さないほうがいいと思った。

 ここで言葉を重ねると、少し進みすぎる。

 今はまだ、この静けさのほうがちょうどいい。



改札の前まで来ると、いつものように人の流れが速くなる。スーツ姿の会社員、大学生、買い物帰りの人たち。みんなが自分の夜へ戻っていく。


私たちも、その一部だ。

 それが少しだけ良かった。

 特別な二人として切り離されるのではなく、現実の中にいる二人として並んでいることが。


「木曜」


太一さんが言う。


「来られそうなら、昼までに連絡します」


「来られない可能性を残すんですね」


「仕事が相手なので」


「分かってます」


「でも、来たいとは思ってます」


「知ってます」


言ったあとで、自分の声が少し柔らかかったことに気づく。


知ってます。

 それは確認ではない。

 理解だ。

 この人が来られないかもしれないことも、来たがっていることも、両方理解しているということだ。


太一さんは私を見て、少しだけ目を細めた。


「そういうところが、救いでもあり困りものでもあります」


「また困ってる」


「ええ」


「慣れてください」


「努力します」


私は小さく笑う。

 もう何度目だろう、このやり取りは。

 でも、反復は退屈ではなかった。

 むしろ安心になる。

 同じような言葉を少しずつ別の意味で交わしていくことが、関係の継続そのもののように思えた。


「じゃあ」


私が言う。


「木曜、蕎麦より少しましなものを」


「楽しみにしています」


「期待しすぎないでください」


「難しいですね」


「善処してください」


「善処します」


改札を通る前、私は少しだけ振り返る。

 太一さんはまだそこに立っていた。

 でも前より、見送りの姿というより、次の時間を抱えた姿に見えた。


私は理解する。

 食事の約束は、単なる予定ではない。

 次に続く現実の具体化だ。

 これまでの会話や視線や沈黙が、生活の中で一度形になるということだ。


そして感情が来る。

 静かに、満ちている。


ホームへ向かう階段を上りながら、私はその感情の名前を考える。

 幸福、なのかもしれない。


大げさなものではない。

 世界が変わるような明るさでもない。

 ただ、日常の輪郭が少しだけやわらかくなり、その中心に一人の人間がいると感じる種類の感情。


私は電車を待ちながら、ガラスに映る自分の顔を見た。

 相変わらず、大きくは変わっていない。

 でも、目元だけが少し違う。


私は今日、食事の約束をした。

 それだけだ。

 でも、その「それだけ」が、今は思ったより大きい。


思想の話でもない。

 社会の話でもない。

 何を食べるか、いつ会うか、というだけのこと。


けれど人は、そういう些細な具体の中で関係を生きるのだと思う。

 愛情があるから会うのではない。

 会うことを積み重ねるから、関係が現実になる。


私はその順序を、ようやく身体で理解し始めている。

 少し怖い。

 でも、前よりずっと自然だ。


電車がホームに滑り込んでくる。

 私は乗り込んで、吊り革につかまる。


次の木曜。

 その具体的な曜日が、もう私の一週間の中に入っている。


私はそれを確認して、少しだけ目を伏せた。

 恋は、こうやって生活に混ざる。

 静かに。

 でも、確実に。

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