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大学生の私が、三十九歳の編集者を好きになった理由  作者: AYASHI


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第14話 日常の中の居場所

再会の翌日、私は朝のコーヒーを飲みながら、昨夜の会話を反芻していた。

 窓の外は曇っていた。白く薄い空が、まだ朝の輪郭をはっきり決めきれずにいる。食卓では母が味噌汁をよそい、父はいつものように新聞を読んでいた。


何も変わっていない。

 そう見える。

 でも、実際には少し違う。


私は昨夜の言葉をまだ覚えている。

 「今日は、会えてよかったです」

 あれは社交辞令ではなかった。

 少なくとも、私にとっては。


人は、誰かを好きになると世界が変わると言う。

 正確ではないと思う。

 世界は変わらない。

 変わるのは、自分の中の配置だ。


同じ机。

 同じ朝。

 同じ家族。


その中に、昨日会った人の言葉が一つ増える。

 それだけで、日常の密度が少し変わる。


「沙希、今日静かね」


母が言った。


「朝だから」


「朝でももう少し愛想あるでしょ」


「家の中で愛想を配る必要ある?」


「その言い方、お父さんに似てきたわね」


新聞の向こうで父が小さく咳払いをした。聞こえているらしい。

 私は味噌汁を飲みながら思う。


こういうやり取りの最中にも、意識の端に別の誰かがいる。

 それが少し不思議だった。


依存ではない。

 そこまで単純なものではない。

 ただ、もう完全に無関係な他人ではない。


私の一日の内側に、松岡太一さんという存在が入り始めている。

 その理解が先に来る。

 そして感情が来る。


少しだけ、うれしい。



大学では午前中の講義を二つ受けた。ノートを取り、教授の話を聞き、周囲の学生の反応の鈍さに少しだけ苛立ち、でもそれを顔には出さない。


普段通りだ。

 普段通りのはずなのに、休み時間にスマートフォンを見る回数が増えていた。


通知は来ていない。

 分かっている。

 社会人が毎時間のように連絡してくるほうが不自然だ。

 しかも相手は編集者で、忙しい時期には人間らしさまで削れていく人だ。


なのに確認してしまう。

 私はその行動を自分で少し可笑しく思う。


恋愛は人を凡庸にするのかもしれない。

 少なくとも、確認行為の反復という意味では。


図書館に移動して席に座り、参考文献を開いたところで、ようやく通知が一つ入った。


――昨日の「コーヒー以外も」の件、まだ少し気にしています。


私は数秒、画面を見つめた。


昼の図書館は静かだ。ページをめくる音と、遠くで椅子が引かれる音だけがある。その均質な空気の中で、その一文だけが少し浮いて見えた。


気にしている。

 あの人はそういうことを、わざわざ書く。

 わざわざ書くということは、本当に気にしているのだろう。

 あるいは、気にしていると伝えること自体に意味があると判断している。


私は返信を打つ。


――編集者なのに、そういう行間の読み方が苦手なんですか。


送信して、少しだけ待つ。


――苦手というより、都合のいい解釈をしないようにしています。


その返事を見て、私は小さく息を吐いた。

 ああ、この人だ、と思う。


感情のある場面ほど、勝手に進めない。

 自分に都合よく飛躍しない。

 そういう慎重さが、この人の誠実さなのだろう。


私はもう一度画面に向き直る。


――半分は進展です。

 ――半分は、からかってます。


送信したあとで、少しだけ口元が緩んだ。

 これはかなり私的な文面だ。

 少なくとも、社会や制度の話をしているときの私ではない。


返事はすぐに来た。


――後半の比率が高そうですね。

 ――でも、前半だけで今日は十分です。


私はその一文を読んで、しばらく携帯を伏せた。


前半だけで十分。

 つまり、進展として受け取っている。

 そこまで明示してきた。


私は理解する。

 この人は今、かなり丁寧に喜んでいる。


そして感情が来る。

 胸の奥が少しだけ熱い。

 でも、激しくはない。

 静かで、持続しそうな熱だった。



夕方のバイト先では、思ったより忙しくなかった。客足は一定で、返品も少なく、新刊の動きも落ち着いている。

 こういう日に限って、余計なことを考える時間が増える。


私はレジに立ちながら、昨夜と昼のやり取りを頭の中で何度か並べ直していた。


会えたことがうれしい。

 次も意識している。

 少しからかう。

 少し困る。

 でも、引かない。


その往復が、もう一つの会話の層になっている。


言外の確認。

 言葉の速度合わせ。

 距離の微調整。


恋愛というのは、感情の強さだけで進むものではない。

 むしろこういう、小さな応答の積み重ねで継続可能になるのだと思う。


私は棚の整理をしながら、ふと児童書コーナーのほうを見る。若い母親が、小さな男の子に絵本を読んでいた。子どもは途中で飽きて別の本に手を伸ばし、母親は少し困ったように笑っている。


私はその光景を見て、少しだけ立ち止まる。


温かい、と思う。

 でも、その感情の輪郭はまだ曖昧だ。


子どもそのものへの感情というより、時間が続いていく感じへの反応に近い。

 誰かと誰かのあいだに、日常が積み重なっていくこと。

 その静かな継続。


私はなぜか、そこから太一さんを連想した。


不自然ではない。

 彼はもともと、存在が未来に残ることに強く価値を置く人間だし、記録や言葉を「残すもの」として捉える人でもある。


その連想がどこまで恋で、どこから別の感覚なのかは、まだ分からなかった。

 ただ、一つだけ分かることがある。


私はこの人を、短い会話だけの相手として扱えなくなっている。



閉店後、店の裏口を出たところで、また通知が来た。


――今日は帰り道ですか。


私は少しだけ驚く。

 時間を見ているのか。

 それとも、なんとなく予想したのか。


――今ちょうど出たところです。


返すと、すぐに続いた。


――こちらもです。

 ――珍しく、少し早めに解放されました。


私は歩きながら画面を見つめる。


同じ時間に帰っている。

 ただそれだけで、距離が少し縮まったように感じるのは単純だろうか。


たぶん単純だ。

 でも、事実でもある。


――人間らしい時間ですね。


送る。


――ええ。

 ――その代わり、夕飯をどうするかで少し困っています。


私は思わず立ち止まりかけた。

 夕飯。

 そこまで私的な話題が来るとは思わなかった。


仕事の話。

 社会の話。

 未来の話。


そこから一段だけ下りてきた感じがした。

 生活の高さまで。


私は少し考えてから返す。


――編集者は何を食べて生きてるんですか。

 ――紙とコーヒーではないですよね。


返事は少し遅れた。


――残念ながら紙は主食ではないです。

 ――だいたい蕎麦か、コンビニのサラダとおにぎりです。


私はその文面を見て、ほんの少し眉を寄せた。


想像はできる。

 いかにも、という感じでもある。

 でも、少し雑だと思った。


――雑ですね。


送る。


――反論できません。

 ――一人だと、食事の優先順位が下がるんです。


その一文を読んだとき、私は小さく息を止めた。


一人だと。


当然の事実だ。

 でも、その言い方には生活の静けさがあった。


私は想像する。

 仕事帰りの遅い時間。

 ひとりの部屋。

 簡単な夕食。

 整ったまま、少しだけ空いた生活。


それは寂しい、というほど感傷的ではない。

 でも、誰かと暮らしている時間の密度とは違う。


私はそれを想像してしまった自分に気づく。

 かなり私的だ。

 でも、不快ではなかった。


――なら、今度まともな店を教えます。

 ――コーヒー以外の延長で。


送信したあとで、少し心拍が上がる。

 これは小さな提案だ。

 誘いと言い切るほどではない。

 でも、かなり近い。


返事は、今度は少し長く間が空いた。


――それはかなりうれしいです。

 ――たぶん、今夜一番うれしい。


私はしばらく歩きながら、その文面を見ていた。


夜の駅前は明るい。コンビニの光、信号、通り過ぎる自転車。日常のざわめきの中で、その一文だけが妙に静かだった。


今夜一番うれしい。

 私は理解する。


この人は、もう私との関係を「会えたらうれしい」で済ませていない。

 日常の一部として、喜びの基準に入り始めている。


そして、それは多分、私も同じだ。



家に帰って、自室で机に向かってからも、私はしばらく本を開けなかった。


携帯は伏せてある。

 でも、会話の残響は消えない。


夕飯。

 一人だと食事の優先順位が下がる。

 まともな店を教える。

 今夜一番うれしい。


思い返してみると、内容そのものは些細だ。

 社会を変える議論でもなければ、存在論的な問いでもない。

 どこで何を食べるか、というだけの話だ。


なのに、それが妙に深い場所に残っていた。

 たぶん、生活の話だからだ。


思想や制度の話は、ある意味で誰とでもできる。

 深さに差はあっても、話題としては開かれている。


でも、生活は違う。

 何を食べるか。

 どの時間に帰るか。

 一人の夜をどう過ごすか。


そういうことは、その人の輪郭そのものだ。


私は今日、少しだけその輪郭に触れた。

 触れたというより、見せられた。

 いや、見せてもらった、のほうが正しいかもしれない。


太一さんは、人を支配しない。

 急がない。

 判断をこちらに委ねる。

 だから私は安心して関係に入れている。


そして今日は、その安心の上に、もう一つ別のものが乗った。

 生活の想像。

 私はベッドの端に腰掛ける。


この人は現実の人だ。

 当たり前のことなのに、時々忘れそうになる。

 仕事があり、疲れがあり、夕飯があり、一人の夜がある。


私はその現実に惹かれている。

 ただ理念としてではなく、その生活ごと。


そこまで理解したところで、ようやく感情が来る。

 少し怖い。

 でも、やはり嫌ではない。

 むしろ、前より自然だった。


恋は劇的な場面で進むとは限らない。

 駅前でも、書店でも、図書館でもなく、誰かの夕飯の話で一段深くなることもある。


それは少し可笑しい。

 でも、たぶん本当だ。


私は机に戻り、ノートを開く。

 明日の課題の見出しを書いてから、ふと余白に小さくメモをした。


――コーヒー以外。


自分で書いて、少しだけ笑う。

 これは約束ではない。

 でも、完全な冗談でもない。

 そういう中間の言葉が、今の私たちにはちょうどいい。


窓の外では、遅い時間の車の音が遠く流れていた。

 私はペンを置き、もう一度だけ携帯を見る。


新しい通知はない。

 それでも、前ほど物足りなくはなかった。

 今日、少しだけ分かったからだ。


会っていない時間にも、この関係は進む。

 しかも、静かに。


私はもう、太一さんを「特別な会話相手」とだけは呼べない。

 あの人は少しずつ、私の日常の中に居場所を持ち始めている。


そして、たぶん私も、あの人の中で同じことが起きている。

 その対称性を思うと、胸の奥がやわらかく熱を持った。


激しくはない。

 でも、確実だ。


私は灯りを落とす前に、最後に一つだけ考える。

 次に会ったら、蕎麦以外の話をしよう。


そう思った自分がいる。

 少し可笑しい。

 でも、嫌ではなかった。

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