第17話 失われた未来の話
食事を終えて店を出ると、夜の空気は思っていたより少し冷たかった。
四月も終わりに近いはずなのに、夜風にはまだ少し冷たさが残る。駅へ向かう道の街灯が、濡れてもいない歩道を白く照らしていた。金曜日の夜というほどの騒がしさはなく、通りを行き交う人の足取りもどこか急いでいる。
太一さんは、店を出てからしばらく何も言わなかった。
隣を歩く速度は、速すぎず遅すぎず、沙希に合わせているのがわかる。その自然さが、かえって意識に残る。
食事の時間は穏やかだった。
大学の話をした。仕事の話をした。最近読んだ本の話もした。笑う場面もあったし、沈黙も無理ではなかった。むしろ、沈黙が会話の延長として成立していた。
それなのに、店を出てからの太一さんは、少し違った。
言葉を選んでいる。
そう見えた。
私はそれを観察している。
歩幅。呼吸。視線の置き方。何かを言う前の沈黙。
彼は今、たぶん、軽い話をしようとしていない。
「寒い?」
ようやく太一さんが口を開いた。
「少し」
「ごめん。もう少し駅に近い店でもよかったな」
「別に。歩けないほどじゃないです」
そう言うと、太一さんは小さく笑った。
「そういう言い方、君らしいね」
「事実なので」
「うん」
そこでまた、会話が切れた。
気まずい沈黙ではない。けれど、ただ穏やかなだけでもない。何かが、少しずつ重さを持ち始めている沈黙だった。
駅前の信号が赤になり、二人で足を止める。向こう側にはファミリーレストランの明るい看板が見え、その窓際の席で小さな子供がスプーンを振り回していた。向かいに座っている母親が慌ててその手を押さえ、父親らしい男が笑っている。
ありふれた光景だった。
ありふれているからこそ、目に残る。
太一さんの視線も、一瞬、そちらに向いた。
その一瞬が妙に静かで、私は隣に立ったまま、その横顔を見た。
「……松岡さん」
「うん?」
「さっきから、何か考えてますよね」
太一さんは少しだけ目を細めた。
否定しない顔だった。
「わかる?」
「わかります。わかりやすくはないですけど」
信号待ちの電子音が、規則正しく鳴っている。太一さんはすぐには答えず、青に変わってから歩き出した。私もその隣に並ぶ。
「さっき、あの店で」
彼は前を見たまま言った。
「家で食べる夕飯の話をしてただろう」
「はい」
「そういう話を、君と普通にしてるのが、少し不思議だった」
「不思議」
「うん。嬉しい、に近いけど、それだけじゃない」
私は黙って聞く。
太一さんは、こういう時、こちらに解釈を急がせない。言葉を取り出すのに時間がかかる人間だと、自分でも知っているのだと思う。
「生活の話って、現実の話だから」
「現実じゃない話なんて、してましたっけ」
「してたよ。最初はずっと。社会とか、本とか、制度とか、そういう話は現実でもあるけど、自分自身の生活に直接触れないようにもできる」
それはたしかにそうだった。
思想は、自分を守るための距離にもなる。
構造の話をしている限り、個人の傷は隠せる。
「でも今日は、君がどんなものを食べるかとか、何時に家に帰るかとか、そういう話をした」
太一さんは少しだけ苦く笑った。
「そういうのは、逃げにくい」
「生活が見えるから」
「そう」
理解できた。
恋が現実になる、というのは、たぶんそういうことだ。大きな言葉ではない。将来とか運命とか、そういう劇的なものではない。もっと小さい。食事。帰宅時間。明日の予定。寝不足。そういう細部が、相手の人生の輪郭になる。
そして輪郭が見えるほど、人は責任を感じる。
「……重かったですか」
私がそう聞くと、太一さんは少し驚いたようにこちらを見た。
「その聞き方をするんだ」
「違うんですか」
「違わない」
彼は否定しなかった。
「重い、というより」
そこで言葉が止まる。
彼は、次に何を言うかをかなり慎重に決めている。
たぶんこれは、軽く言っていい話ではないのだ。
「君に話しておいた方がいいことがあると思ってた」
夜の駅前に近づくにつれて、人の流れが少し増える。改札へ吸い込まれる人たちの音が遠くで重なっている。けれど、私たちの周囲だけが、妙に静かに感じられた。
「前に、少しだけ言っただろう。結婚していたことがあるって」
「はい」
「離婚した理由を、ちゃんと話してない」
私は歩きながら、頷いた。
心拍は上がっていない。少なくとも、表面上は。
でも、意識ははっきりと集中していた。
これはたぶん、彼の人生の核に近い話だ。
「子供が、できなかったんだ」
太一さんはそう言った。
説明を飾らない言い方だった。
その短さが、むしろ長い時間を感じさせた。
私は何も言わない。
言葉を差し込むには早すぎる。
「最初は、そんなに急いでなかった。結婚して、普通に暮らして、そのうちできればいい、くらいに思ってた。でも、できない時間が長くなると、生活って変わるんだよ」
彼の声は低く、落ち着いていた。
感情を抑えている、というより、抑えた形でしか話せないのだと思う。
「病院に行った。検査もした。原因がはっきりしたわけじゃない。どちらか一方の問題だと断定もできなかった。だから余計に、逃げ場がなかった」
責任の所在が曖昧なとき、人はかえって責任から逃げられない。
それは構造として理解できる。
誰が悪いとも言えない。だから、どちらも自分を責める。あるいは相手を責めたことにして、さらに自分を責める。
「元妻は、子供を欲しがってた」
太一さんは前を向いたまま続けた。
「すごく強く、っていうより、自然に。たぶん多くの人がそう思うくらいの感じで。でも、その『自然に』が、だんだん苦しくなっていった」
私はその言葉を頭の中で反復する。
自然に。
社会はときどき、その言葉で人を追い詰める。
結婚したら、そのうち子供ができる。
家族を持ったら、家族が増える。
未来は続く。
そういう線路のようなものを、人は悪意なく前提にする。
そこから外れた瞬間、外れた側だけが現実を説明しなければならなくなる。
「彼女は悪くなかった」
太一さんが言った。
それはおそらく、何度も自分に言い聞かせてきた言葉なのだろう。
「俺も、たぶん、悪くはなかった。少なくとも、最初はそう思おうとした。でも、うまくいかない時間が長くなると、生活の中の全部が少しずつ歪む。会話の間とか、沈黙とか、何気ない予定の立て方とか。将来の話を避けるようになる」
家族の不全は、たいてい劇的には始まらない。
日常の微細な変質として始まる。
食卓の空気。言いよどみ。視線のずれ。将来という単語の回避。
私はその構造を理解している。
そして、理解してしまうからこそ、胸の奥に鈍い重さが残る。
「別れたあと、思ったんだ」
太一さんは言った。
「家族って、欲しいと思ったから手に入るものじゃないんだなって」
その言葉には、諦めと、まだ残っている痛みの両方があった。
信号を渡り、駅前のロータリーに出る。タクシーが一台、ゆっくりと滑り込んできた。誰かが走って改札へ向かう音がした。世界は普通に動いている。
でも、私たちの間だけ、時間の進み方が少し遅い。
「……だからですか」
私は言った。
「私に慎重なの」
太一さんは、すぐには答えなかった。
「それだけじゃないよ」
少し間を置いてから、そう言った。
「年齢差もある。君が学生だってことも大きい。でも、たぶん……家族とか、子供とか、そういう言葉を俺は軽く扱えなくなった」
私は彼の横顔を見た。
それは誠実さだった。
同時に、過去に失ったものに縛られている人の顔でもあった。
「君といると、楽しい」
彼は静かに言った。
「落ち着くし、話していて無理がない。でも、その先にあるものを想像すると、簡単に進んでいいと思えない」
その言葉に、私は傷つかなかった。
むしろ、安心した。
きれいな感情だけで押し切ろうとしない人だと、改めてわかったからだ。
私は今、この人の過去を聞いている。
離婚。
子供ができなかった結婚。
失われた未来。
そういうものを抱えた上で、それでも私と向き合おうとしている人の言葉を聞いている。
私は少しだけ息を吐いた。
「……それ、私に言うの、嫌でしたか」
「嫌というか」
太一さんは小さく笑った。
「知られたくない話ではあるよ。格好よくないし」
「格好よさの問題ですか」
「男はわりとそういうところがある」
それは、少しだけ自嘲を含んでいた。
男は、自分が何を失ったかを、案外うまく言えない。敗北や欠落を、説明可能な形にするのが苦手だ。とくに、それが家族や子供に関わることならなおさら。
私はその沈黙の質を、前から少し知っている気がした。
でも今の私は、その沈黙を外から眺めるだけの存在ではない。
私はこの人の隣にいる。
それが重要だった。
「私は」
自分の声が、思ったより静かだった。
「軽い話だとは思いません。でも、話してくれてよかったです」
太一さんは黙っている。
私は続けた。
「松岡さんが慎重なのは、臆病だからじゃないってわかったので」
「……臆病でもあるよ」
「それはあるかもしれません」
そう言うと、太一さんが少しだけ笑った。
「容赦ないな」
「事実なので」
「さっきも聞いた」
でも、その笑いで空気は少しだけ緩んだ。
緩んだ、けれど、薄くはならない。話の重さは消えないまま、その上に少しだけ温度が戻る。
駅の改札が見える場所まで来て、二人とも自然に足を止めた。
ここで別れるのが、今の私たちの関係の輪郭だった。
近すぎない。遠すぎない。けれどもう、ただの他人ではない。
「沙希」
「はい」
「君は、たぶん、俺が思ってるよりずっと多くのことを理解してしまう人なんだろうね」
私は少しだけ目を細めた。
「褒めてますか」
「半分は」
「残り半分は」
「怖い、かな」
その言い方が正直で、私は少しだけ笑った。
「安心してください。全部わかってるわけじゃないです」
「それなら少し安心する」
「でも」
私はそこで一度言葉を切った。
自分の中で、理解が感情に追いつくのを待つ。
彼が子供の話をした。
失われた未来の話をした。
家族が欲しいと思っても手に入らないことがある、と言った。
それを私は今、聞いた。
胸の奥が、わずかに揺れている。
これは同情ではない。
もっと静かで、重い何かだ。
「松岡さんが、その話を軽くしない人でよかったです」
私はそう言った。
「家族とか、子供とかって、たぶん、そう簡単に言っていいことじゃないから」
太一さんはしばらく何も言わなかった。
夜の駅の音が、その沈黙を埋める。
やがて彼は、静かに頷いた。
「ありがとう」
短い言葉だった。
でも、その中には、たぶん、いくつもの意味が入っていた。
話したことへの安堵。
受け止められたことへの救い。
それでもまだ踏み込みすぎてはいけないという自制。
私は改札の方を見る。
ここで帰る。
それが自然だ。
「じゃあ、今日は帰ります」
「うん。送れてよかった」
「駅前までですけど」
「十分だよ」
私は少しだけ迷ってから、彼を見る。
この人は、子供ができなかった結婚のあとで、まだ家族という言葉を完全には捨てていない。
捨てていたら、こんな顔にはならない。
私はそこまで理解した。
そして、その理解が、思っていたより深く自分の中に沈んでいくのを感じた。
「また、会いますよね」
確認のようでいて、確認ではない言い方になった。
太一さんは私を見た。
「会いたいよ」
それは、強い言い方ではなかった。
でも、曖昧でもなかった。
私は頷く。
それで十分だった。
改札へ向かって歩き出し、数歩進んでから振り返る。太一さんはまだそこに立っていた。こちらが見えなくなるまで見送るつもりなのだと、すぐにわかった。
私は軽く会釈して、そのまま改札を抜けた。
ホームへ向かう階段を上がりながら、さっきの話を反芻する。
子供ができなかったこと。
家族を欲しいと思っても、手に入るとは限らないこと。
未来が、自然には続かないこと。
その話は、他人の過去として聞くだけでは済まなかった。
家族。
子供。
継がれていくもの。
さっきまで彼の過去として聞いていた話が、少しだけ、自分自身の現実にも近づいてくる。
まだ恐怖ではない。
けれど、予感はあった。
未来は、観念ではなく、現実の側から来ることがある。
電車がホームに滑り込んでくる音がした。
私は静かに息を吐く。
松岡太一さんは、失われた未来を知っている。
その事実は、私の中で、思っていたより大きかった。
私は電車に乗り込み、ドアの横に立った。ガラスに映る自分の顔は、いつもと変わらない。落ち着いて見える。感情が表に出ていないのも、たぶんいつも通りだ。
でも内側では、何かが少しずつ位置を変えていた。
恋が、人生の問題に近づいている。
そう理解した。
そして私は、その理解から目を逸らせなかった。




