↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あなたを忘れるための魔法  作者: 南野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/11

第1部 七度目のはじめまして

第9章 師の忠告


 翌朝、リディエは誰よりも早く医務室の扉を叩いた。


 返事はなかった。そっと開けると、窓際の寝台の上で、エリアスが上体を起こして座っていた。白いシャツの左袖がまくり上げられ、真新しい包帯が肘から手首にかけて巻かれている。窓から差し込む朝の光が、黒い髪の縁を淡く光らせていた。


 彼は、扉のほうを見て、少しだけ目を見開いた。


「……リディエ様」


「起きてていいの」


「傷は浅いので。昼には持ち場に戻れます」


「戻らなくていい。今日は休みなさい」


「それは、できかねます」


「頑固ね」


「よく言われます」


 いつものやりとりだった。けれど、どちらの声も、いつもより少しだけ柔らかかった。


 リディエは、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。三歩の距離も、一歩の距離もなかった。膝と、寝台の縁のあいだに、手のひらひとつぶんの隙間。


 包帯の上から、昨夜自分が巻いた黒い布の切れ端が、畳まれて枕元に置かれているのが見えた。血が乾いて、硬くなっていた。


「それ、捨てていいのに」


「……いえ」


 エリアスは、布の切れ端に目をやった。


「洗って、お返しします」


「破いた袖なんて、返されても困るわ」


「では、預かっておきます」


 外套のときと、同じ言い方だった。


 リディエは、何か言い返そうとして、やめた。代わりに、膝の上で自分の右手を握った。昨夜、雨の中で繋いだ手。今朝、目が覚めたときにも、まだ熱が残っている気がした手。


 エリアスの視線が、その握った右手に落ちた。


 それから、ゆっくりと、自分の右手を見た。手のひらの火傷の痕を、親指でそっと隠すように握り込んだ。


 二人とも、何も言わなかった。


 窓の外で、鳥が一羽、鳴いた。


 ◇


 昼前、師の書斎に呼ばれた。


 ひとりで来るように、と伝言にはあった。


 マグダは、いつもの揺り椅子ではなく、窓辺の書き物机に向かっていた。机の上には、昨夜ユーゴが拾ってきた灰色の徽章が置かれている。閉じた目の紋章が、冬の光の中で鈍く光っていた。


「座りなさい、リディエ」


 師の声は、穏やかだった。昨夜の青ざめた顔は、もうどこにもなかった。


 リディエは、机の向かいに座った。


「黙灰卿のこと、教えて」


 先に口を開いたのは、リディエのほうだった。


 マグダは、しばらく徽章を見つめていた。それから、小さく息をついた。


「ヴェイル・アッシュグレイ。——かつて、この塔の筆頭魔導士だった男よ」


「男の燼術師?」


「ええ。ユーゴと同じ。とても優秀な子だった。わたしが育てた中で、あなたの次に」


 師の指が、徽章の縁をなぞった。


「十二年前、北境の砦が帝国軍に包囲されたことがあったの。あなたが塔に来る少し前。ヴェイルは、その守りに出た。——そのときにね、燃やしたのよ。奥さんの記憶を」


「奥さん」


「ええ。結婚して、まだ一年だった。とても仲のいい夫婦だったわ。彼女は、ヴェイルが北境から戻る前に、流行り病で亡くなった」


 リディエは、息を止めた。


 妻の記憶を燃やして戦い、帰ってきたら、その妻はもういなかった。


 顔も、声も、名前も思い出せない誰かの墓の前に、立たされたのだ。


「ヴェイルは、狂ったわ」


 マグダは、静かに言った。


「燃えた記憶は、どこかに残っているはずだと言い出した。忘れ川の底に。灰の中に。誰かの胸の中に。——それを取り戻す方法を探して、禁じられた術に手を出した。他の魔女が燃やした記憶を、奪おうとした。だから、塔から追放したの。十年前に、北の荒れ地で死んだと聞いていた」


「生きていたのね」


「そうみたいね」


 師は、徽章を裏返した。灰色の金属の裏側に、細い字で何かが刻まれていた。リディエには読めない、古い文字だった。


「……燃えた記憶は」


 リディエは、ゆっくりと訊いた。


「本当に、どこかに残っているの?」


 マグダの指が、止まった。


 ほんの一瞬。


「いいえ」


 師は、顔を上げずに答えた。


「燃えたものは、燃えたのよ。灰になって、川に流れて、それでおしまい。ヴェイルは、それを受け入れられなかっただけ」


 リディエは、師の横顔を見つめた。


 皺だらけの、穏やかな横顔。十二年間、自分を育ててくれた人の。


 その人が、今、嘘をついている。


 どうしてそう思うのか、自分でもわからなかった。けれど、エリアスの嘘がわかるようになったのと同じように、師の言葉の滑らかさの中に、何か硬いものが混じっているのが聞き取れた。


「昨日の男たち」


 リディエは言った。


「エリアスを狙っていた。『薪を渡せ』って」


 マグダは、答えなかった。


「薪って、何?」


「——さあ」


 師は、徽章を机の引き出しにしまった。かちり、と鍵をかける音がした。


「狂った男の手下が言うことよ。意味なんてないわ」


 ◇


「それより、リディエ」


 マグダは、ようやく弟子の顔をまっすぐに見た。


 湖の底のような青い瞳が、じっとリディエを覗き込んでいた。


「ひとつ、言っておかなければならないことがあるの」


「何」


「あの騎士を、好きになってはいけないわ」


 書斎の空気が、ぴんと張り詰めた。


 リディエは、膝の上で手を握った。昨夜、雨の中で繋いだ右手を。


「……どうして」


「春に、帝国の本隊が動くわ。三万よ。北境を守れるのは、あなたしかいない。あなたはまた、燃やすことになる。深く、赤く、大切なものを」


 マグダの声は、優しかった。十歳の夜に、子守唄のように語りかけてきたのと同じ声だった。


「誰かを好きになれば、それを燃やすのがつらくなるだけよ。燃やせなくなるかもしれない。——昨日みたいに」


 リディエは、目を見開いた。


「……知ってるの」


「火花ひとつしか出なかったって、ユーゴから聞いたわ。あなたほどの魔女が」


 師は、小さく首を振った。


「あなたは、昨日、何かを燃やすのを拒んだ。違う?」


 答えられなかった。


 マグダは、椅子から身を乗り出した。皺だらけの手が、リディエの握った拳の上に、そっと重ねられた。乾いていて、温かかった。


「あの騎士を、遠ざけなさい。護衛の交代を願い出てもいいわ。今度は、わたしが許可するから」


 今度は。


 その一語が、胸に刺さった。


 ——護衛の交代を願い出たけれど、師匠に却下されました。


 ユーゴへの手紙の一節。二年前の春の、四度目の自分が書いた言葉。


 リディエは、師の手の下から、自分の手をゆっくりと引き抜いた。


「師匠」


「なあに」


「前の護衛にも」


 声が震えないように、腹に力を込めた。


「六人目の護衛にも、同じことを言った?」


 マグダの顔から、表情が消えた。


 穏やかな微笑みも、心配そうな眉も、ふっと拭い去られたように消えて、あとには、何も読み取れない、つるりとした老女の顔だけが残った。


 長い沈黙があった。


 窓辺の青い花が、冬の光の中で、かすかに揺れていた。


「——日記を、見たのね」


 マグダが言った。


 責めるような声ではなかった。ただ、事実を確かめるような声だった。


「保管庫の櫃の鍵を持っているのは、私と師匠だけよ」


「ええ」


「切ったのは、師匠?」


「ええ」


 あっさりと、認めた。


 リディエは、それを予想していたはずだった。何日も前から、わかっていたはずだった。それなのに、師の口からその一語を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが音を立てて軋んだ。


「……どうして」


「あなたのためよ」


 マグダは、椅子の背にもたれた。急に、ひどく歳を取ったように見えた。


「燃やした恋の記録を読んだあなたが、どうなったか。あなたは覚えていないでしょうけれど、わたしは覚えているわ」


 師は、窓の外に目をやった。


「二度目のあなたは、読んで、一晩じゅう泣いた。三度目のあなたは、読んで、書かれている誰かを探して王都中を歩き回った。見つかるはずもないのに。四度目のあなたは——」


 マグダは、そこで言葉を切った。


「四度目のあなたは、読んで、三日なにも食べなかった。それから、燼術を使えなくなった。北境の結界が弱まって、村がひとつ焼かれたわ」


 リディエは、息ができなかった。


「だから、切ったの。読ませないために。あなたが壊れないように。この国が壊れないように」


「……」


「恨んでくれていいわ、リディエ。それでも、わたしは同じことをする」


 師の声は、静かだった。


 どこまでが本当で、どこからが嘘なのか、リディエにはわからなかった。四度目の自分のことは、本当かもしれない。日記の空白のあとの頁に、三日分の日付が抜けていたことを、リディエは思い出していた。


 けれど。


 だったら、なぜ、名前まで削るのか。護衛名簿の名前まで、白く消すのか。記録室の老婆の記憶に、靄をかけるのか。


 なぜ、今この瞬間も、「薪」の意味を教えてくれないのか。


「……わかった」


 リディエは、立ち上がった。


「師匠の忠告は、聞いておく」


「リディエ」


「聞いておく、だけよ」


 振り返らずに、書斎の扉へ向かった。


 背後で、マグダが小さく息をつくのが聞こえた。


「あなたは、いつもそう言うのよ」


 師の声が、ひどく遠くから聞こえた。


「六回とも」


 ◇


 書斎を出て、階段を上った。


 下りるつもりだったのに、足が勝手に上へ向かっていた。最上階のさらに上、細い螺旋階段を上りきった先に、塔の屋上へ出る小さな扉がある。


 扉を押し開けると、冷たい風が顔を叩いた。


 王都が、足元に広がっていた。二つの川が合わさるところ。王城の尖塔。灰色の屋根の連なり。遠く、南の外れに、灰市場のくすんだ一角が見えた。空は昨日の雨が嘘のように晴れ渡っていて、冬の薄い青が、どこまでも続いていた。


 屋上の端に、人影があった。


 胸壁に両腕をかけて、王都を見下ろしている。濃紺の制服の上着。左袖の下に、包帯のふくらみが見えた。


「……昼には戻るって、本当だったのね」


 リディエが言うと、エリアスは振り返った。


「リディエ様の姿が見えなかったので。探していました」


「屋上にいるって、どうしてわかったの」


「……」


「観察が得意なのね」


「騎士ですので」


 リディエは、胸壁まで歩いていった。エリアスの隣に立った。


 肩と肩のあいだに、指一本ぶんの隙間。


 風が、二人の髪を同じ方向に揺らした。


「師匠に、会ってきた」


「……はい」


「あなたを好きになってはいけないって、言われたわ」


 隣で、エリアスの肩が強張った。


 リディエは、王都を見下ろしたまま続けた。


「あなたは、師匠に何を言われてるの」


 長い沈黙があった。


 風が鳴っていた。遠くで、昼の鐘が鳴り始めた。ひとつ、ふたつ、みっつ。


「——あなたを、守れと」


 やがて、エリアスが言った。


「それだけ?」


「……それだけです」


「私を好きになるな、とは言われてないの?」


 鐘が、鳴り続けていた。むっつ、ななつ、やっつ。


 エリアスは、少しだけ笑った。


 雪が溶けるような笑い方だった。けれど今日は、その笑みの端に、ひどく寂しいものが滲んでいた。


「言われていません」


 ここのつ。とお。


「言われても——」


 彼は、そこで言葉を切った。


 じゅういち。


 リディエは、隣を見た。


 エリアスは、王都を見ていた。灰色の瞳が、冬の光の中で、わずかに揺れていた。何かを言いかけて、飲み込んで、その飲み込んだものが、喉の奥で熱を持っているのが、見ているだけでわかった。


 じゅうに。


 鐘が、鳴り終わった。


「……言われても、従えないと思います」


 静寂の中に、その言葉が落ちた。


 リディエの心臓が、大きく跳ねた。


 エリアスは、すぐに付け加えた。


「護衛ですので。あなたを守ることは、やめられません」


 それは、答えになっていなかった。


 なっていないことを、二人とも知っていた。


 リディエは、胸壁の上に置いた自分の手を見た。エリアスの手が、そのすぐ隣にあった。指一本ぶんの隙間を挟んで。


 昨夜は、繋いだ手。


 今は、繋がない手。


 でも、離れてもいない手。


「……そう」


 リディエは言った。


 それ以上は、言わなかった。言えなかった。言ったら、今度こそ、何かが溢れ出してしまう気がした。


 二人は、しばらくそのまま、並んで王都を見下ろしていた。


 ◇


 その夜、リディエは回廊を歩いた。


 東の端から西の端まで。一歩後ろに、エリアスを連れて。


 眠れなかった。師の言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。


 ——大事なものは、必ず二か所以上に隠しておく子だったわ。


 ——あなたは、いつもそう言うのよ。六回とも。


 日記は、切られた。一か所目は、師に見つかった。


 では、二か所目は。


 過去の自分なら、どこに隠すだろう。師の目の届かないところ。けれど、今の自分なら必ず辿り着けるところ。何度忘れても、身体が勝手に向かってしまう場所。


 眠れない夜、いつもこの回廊を歩いている。


 いつからそうしているのか、覚えていないのに。


 三往復目。


 西の端の窓辺で、リディエは足を止めた。


 いつもエリアスが立っている場所だった。窓枠に肩を預けて、外を眺めている場所。夜ごと、そこにいる場所。


 月明かりが、窓枠の下の壁を青白く照らしていた。


 古い灰色の石が、隙間なく積まれている。どの石も同じ大きさで、同じ色で、同じように冷たい。


 ——ひとつを除いて。


 窓枠のすぐ下、床から膝ほどの高さの石が、ほんのわずかに、周りの石より手前に出ていた。月明かりの角度によっては、影ができるほどに。指一本ぶんほど。


 リディエは、その石に手を伸ばした。


 背後で、エリアスが息を止める気配がした。


「……リディエ様」


 声が、掠れていた。


 リディエは振り返らなかった。


 指先で、石の縁に触れた。冷たかった。けれど、その冷たさの下で、石はかすかに——ほんのかすかに、ぐらりと動いた。


 まるで、何度も抜き差しされてきたかのように。


 リディエは、ゆっくりと振り返った。


 月明かりの中に、エリアスが立っていた。一歩の距離で。


 灰色の瞳が、見開かれていた。そこに浮かんでいたのは、驚きではなかった。恐れでもなかった。


 祈るような、目だった。


 ずっと、ずっと待っていたものが、ようやく来たときの人の目だった。


「あなた、知ってたの」


 リディエは、囁いた。


「ここに、何かがあること」


 エリアスは、答えなかった。


 ただ、ゆっくりと、一歩下がった。


 三歩の距離まで。


 それが、答えだった。


 ——ここから先は、あなたひとりで。


 リディエは、石に向き直った。


 両手の指を、石の縁にかけた。


 息を吸った。


ありがとうございました。随時更新していきますのでよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。