第1部 七度目のはじめまして
第9章 師の忠告
翌朝、リディエは誰よりも早く医務室の扉を叩いた。
返事はなかった。そっと開けると、窓際の寝台の上で、エリアスが上体を起こして座っていた。白いシャツの左袖がまくり上げられ、真新しい包帯が肘から手首にかけて巻かれている。窓から差し込む朝の光が、黒い髪の縁を淡く光らせていた。
彼は、扉のほうを見て、少しだけ目を見開いた。
「……リディエ様」
「起きてていいの」
「傷は浅いので。昼には持ち場に戻れます」
「戻らなくていい。今日は休みなさい」
「それは、できかねます」
「頑固ね」
「よく言われます」
いつものやりとりだった。けれど、どちらの声も、いつもより少しだけ柔らかかった。
リディエは、寝台の脇の椅子に腰を下ろした。三歩の距離も、一歩の距離もなかった。膝と、寝台の縁のあいだに、手のひらひとつぶんの隙間。
包帯の上から、昨夜自分が巻いた黒い布の切れ端が、畳まれて枕元に置かれているのが見えた。血が乾いて、硬くなっていた。
「それ、捨てていいのに」
「……いえ」
エリアスは、布の切れ端に目をやった。
「洗って、お返しします」
「破いた袖なんて、返されても困るわ」
「では、預かっておきます」
外套のときと、同じ言い方だった。
リディエは、何か言い返そうとして、やめた。代わりに、膝の上で自分の右手を握った。昨夜、雨の中で繋いだ手。今朝、目が覚めたときにも、まだ熱が残っている気がした手。
エリアスの視線が、その握った右手に落ちた。
それから、ゆっくりと、自分の右手を見た。手のひらの火傷の痕を、親指でそっと隠すように握り込んだ。
二人とも、何も言わなかった。
窓の外で、鳥が一羽、鳴いた。
◇
昼前、師の書斎に呼ばれた。
ひとりで来るように、と伝言にはあった。
マグダは、いつもの揺り椅子ではなく、窓辺の書き物机に向かっていた。机の上には、昨夜ユーゴが拾ってきた灰色の徽章が置かれている。閉じた目の紋章が、冬の光の中で鈍く光っていた。
「座りなさい、リディエ」
師の声は、穏やかだった。昨夜の青ざめた顔は、もうどこにもなかった。
リディエは、机の向かいに座った。
「黙灰卿のこと、教えて」
先に口を開いたのは、リディエのほうだった。
マグダは、しばらく徽章を見つめていた。それから、小さく息をついた。
「ヴェイル・アッシュグレイ。——かつて、この塔の筆頭魔導士だった男よ」
「男の燼術師?」
「ええ。ユーゴと同じ。とても優秀な子だった。わたしが育てた中で、あなたの次に」
師の指が、徽章の縁をなぞった。
「十二年前、北境の砦が帝国軍に包囲されたことがあったの。あなたが塔に来る少し前。ヴェイルは、その守りに出た。——そのときにね、燃やしたのよ。奥さんの記憶を」
「奥さん」
「ええ。結婚して、まだ一年だった。とても仲のいい夫婦だったわ。彼女は、ヴェイルが北境から戻る前に、流行り病で亡くなった」
リディエは、息を止めた。
妻の記憶を燃やして戦い、帰ってきたら、その妻はもういなかった。
顔も、声も、名前も思い出せない誰かの墓の前に、立たされたのだ。
「ヴェイルは、狂ったわ」
マグダは、静かに言った。
「燃えた記憶は、どこかに残っているはずだと言い出した。忘れ川の底に。灰の中に。誰かの胸の中に。——それを取り戻す方法を探して、禁じられた術に手を出した。他の魔女が燃やした記憶を、奪おうとした。だから、塔から追放したの。十年前に、北の荒れ地で死んだと聞いていた」
「生きていたのね」
「そうみたいね」
師は、徽章を裏返した。灰色の金属の裏側に、細い字で何かが刻まれていた。リディエには読めない、古い文字だった。
「……燃えた記憶は」
リディエは、ゆっくりと訊いた。
「本当に、どこかに残っているの?」
マグダの指が、止まった。
ほんの一瞬。
「いいえ」
師は、顔を上げずに答えた。
「燃えたものは、燃えたのよ。灰になって、川に流れて、それでおしまい。ヴェイルは、それを受け入れられなかっただけ」
リディエは、師の横顔を見つめた。
皺だらけの、穏やかな横顔。十二年間、自分を育ててくれた人の。
その人が、今、嘘をついている。
どうしてそう思うのか、自分でもわからなかった。けれど、エリアスの嘘がわかるようになったのと同じように、師の言葉の滑らかさの中に、何か硬いものが混じっているのが聞き取れた。
「昨日の男たち」
リディエは言った。
「エリアスを狙っていた。『薪を渡せ』って」
マグダは、答えなかった。
「薪って、何?」
「——さあ」
師は、徽章を机の引き出しにしまった。かちり、と鍵をかける音がした。
「狂った男の手下が言うことよ。意味なんてないわ」
◇
「それより、リディエ」
マグダは、ようやく弟子の顔をまっすぐに見た。
湖の底のような青い瞳が、じっとリディエを覗き込んでいた。
「ひとつ、言っておかなければならないことがあるの」
「何」
「あの騎士を、好きになってはいけないわ」
書斎の空気が、ぴんと張り詰めた。
リディエは、膝の上で手を握った。昨夜、雨の中で繋いだ右手を。
「……どうして」
「春に、帝国の本隊が動くわ。三万よ。北境を守れるのは、あなたしかいない。あなたはまた、燃やすことになる。深く、赤く、大切なものを」
マグダの声は、優しかった。十歳の夜に、子守唄のように語りかけてきたのと同じ声だった。
「誰かを好きになれば、それを燃やすのがつらくなるだけよ。燃やせなくなるかもしれない。——昨日みたいに」
リディエは、目を見開いた。
「……知ってるの」
「火花ひとつしか出なかったって、ユーゴから聞いたわ。あなたほどの魔女が」
師は、小さく首を振った。
「あなたは、昨日、何かを燃やすのを拒んだ。違う?」
答えられなかった。
マグダは、椅子から身を乗り出した。皺だらけの手が、リディエの握った拳の上に、そっと重ねられた。乾いていて、温かかった。
「あの騎士を、遠ざけなさい。護衛の交代を願い出てもいいわ。今度は、わたしが許可するから」
今度は。
その一語が、胸に刺さった。
——護衛の交代を願い出たけれど、師匠に却下されました。
ユーゴへの手紙の一節。二年前の春の、四度目の自分が書いた言葉。
リディエは、師の手の下から、自分の手をゆっくりと引き抜いた。
「師匠」
「なあに」
「前の護衛にも」
声が震えないように、腹に力を込めた。
「六人目の護衛にも、同じことを言った?」
マグダの顔から、表情が消えた。
穏やかな微笑みも、心配そうな眉も、ふっと拭い去られたように消えて、あとには、何も読み取れない、つるりとした老女の顔だけが残った。
長い沈黙があった。
窓辺の青い花が、冬の光の中で、かすかに揺れていた。
「——日記を、見たのね」
マグダが言った。
責めるような声ではなかった。ただ、事実を確かめるような声だった。
「保管庫の櫃の鍵を持っているのは、私と師匠だけよ」
「ええ」
「切ったのは、師匠?」
「ええ」
あっさりと、認めた。
リディエは、それを予想していたはずだった。何日も前から、わかっていたはずだった。それなのに、師の口からその一語を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが音を立てて軋んだ。
「……どうして」
「あなたのためよ」
マグダは、椅子の背にもたれた。急に、ひどく歳を取ったように見えた。
「燃やした恋の記録を読んだあなたが、どうなったか。あなたは覚えていないでしょうけれど、わたしは覚えているわ」
師は、窓の外に目をやった。
「二度目のあなたは、読んで、一晩じゅう泣いた。三度目のあなたは、読んで、書かれている誰かを探して王都中を歩き回った。見つかるはずもないのに。四度目のあなたは——」
マグダは、そこで言葉を切った。
「四度目のあなたは、読んで、三日なにも食べなかった。それから、燼術を使えなくなった。北境の結界が弱まって、村がひとつ焼かれたわ」
リディエは、息ができなかった。
「だから、切ったの。読ませないために。あなたが壊れないように。この国が壊れないように」
「……」
「恨んでくれていいわ、リディエ。それでも、わたしは同じことをする」
師の声は、静かだった。
どこまでが本当で、どこからが嘘なのか、リディエにはわからなかった。四度目の自分のことは、本当かもしれない。日記の空白のあとの頁に、三日分の日付が抜けていたことを、リディエは思い出していた。
けれど。
だったら、なぜ、名前まで削るのか。護衛名簿の名前まで、白く消すのか。記録室の老婆の記憶に、靄をかけるのか。
なぜ、今この瞬間も、「薪」の意味を教えてくれないのか。
「……わかった」
リディエは、立ち上がった。
「師匠の忠告は、聞いておく」
「リディエ」
「聞いておく、だけよ」
振り返らずに、書斎の扉へ向かった。
背後で、マグダが小さく息をつくのが聞こえた。
「あなたは、いつもそう言うのよ」
師の声が、ひどく遠くから聞こえた。
「六回とも」
◇
書斎を出て、階段を上った。
下りるつもりだったのに、足が勝手に上へ向かっていた。最上階のさらに上、細い螺旋階段を上りきった先に、塔の屋上へ出る小さな扉がある。
扉を押し開けると、冷たい風が顔を叩いた。
王都が、足元に広がっていた。二つの川が合わさるところ。王城の尖塔。灰色の屋根の連なり。遠く、南の外れに、灰市場のくすんだ一角が見えた。空は昨日の雨が嘘のように晴れ渡っていて、冬の薄い青が、どこまでも続いていた。
屋上の端に、人影があった。
胸壁に両腕をかけて、王都を見下ろしている。濃紺の制服の上着。左袖の下に、包帯のふくらみが見えた。
「……昼には戻るって、本当だったのね」
リディエが言うと、エリアスは振り返った。
「リディエ様の姿が見えなかったので。探していました」
「屋上にいるって、どうしてわかったの」
「……」
「観察が得意なのね」
「騎士ですので」
リディエは、胸壁まで歩いていった。エリアスの隣に立った。
肩と肩のあいだに、指一本ぶんの隙間。
風が、二人の髪を同じ方向に揺らした。
「師匠に、会ってきた」
「……はい」
「あなたを好きになってはいけないって、言われたわ」
隣で、エリアスの肩が強張った。
リディエは、王都を見下ろしたまま続けた。
「あなたは、師匠に何を言われてるの」
長い沈黙があった。
風が鳴っていた。遠くで、昼の鐘が鳴り始めた。ひとつ、ふたつ、みっつ。
「——あなたを、守れと」
やがて、エリアスが言った。
「それだけ?」
「……それだけです」
「私を好きになるな、とは言われてないの?」
鐘が、鳴り続けていた。むっつ、ななつ、やっつ。
エリアスは、少しだけ笑った。
雪が溶けるような笑い方だった。けれど今日は、その笑みの端に、ひどく寂しいものが滲んでいた。
「言われていません」
ここのつ。とお。
「言われても——」
彼は、そこで言葉を切った。
じゅういち。
リディエは、隣を見た。
エリアスは、王都を見ていた。灰色の瞳が、冬の光の中で、わずかに揺れていた。何かを言いかけて、飲み込んで、その飲み込んだものが、喉の奥で熱を持っているのが、見ているだけでわかった。
じゅうに。
鐘が、鳴り終わった。
「……言われても、従えないと思います」
静寂の中に、その言葉が落ちた。
リディエの心臓が、大きく跳ねた。
エリアスは、すぐに付け加えた。
「護衛ですので。あなたを守ることは、やめられません」
それは、答えになっていなかった。
なっていないことを、二人とも知っていた。
リディエは、胸壁の上に置いた自分の手を見た。エリアスの手が、そのすぐ隣にあった。指一本ぶんの隙間を挟んで。
昨夜は、繋いだ手。
今は、繋がない手。
でも、離れてもいない手。
「……そう」
リディエは言った。
それ以上は、言わなかった。言えなかった。言ったら、今度こそ、何かが溢れ出してしまう気がした。
二人は、しばらくそのまま、並んで王都を見下ろしていた。
◇
その夜、リディエは回廊を歩いた。
東の端から西の端まで。一歩後ろに、エリアスを連れて。
眠れなかった。師の言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。
——大事なものは、必ず二か所以上に隠しておく子だったわ。
——あなたは、いつもそう言うのよ。六回とも。
日記は、切られた。一か所目は、師に見つかった。
では、二か所目は。
過去の自分なら、どこに隠すだろう。師の目の届かないところ。けれど、今の自分なら必ず辿り着けるところ。何度忘れても、身体が勝手に向かってしまう場所。
眠れない夜、いつもこの回廊を歩いている。
いつからそうしているのか、覚えていないのに。
三往復目。
西の端の窓辺で、リディエは足を止めた。
いつもエリアスが立っている場所だった。窓枠に肩を預けて、外を眺めている場所。夜ごと、そこにいる場所。
月明かりが、窓枠の下の壁を青白く照らしていた。
古い灰色の石が、隙間なく積まれている。どの石も同じ大きさで、同じ色で、同じように冷たい。
——ひとつを除いて。
窓枠のすぐ下、床から膝ほどの高さの石が、ほんのわずかに、周りの石より手前に出ていた。月明かりの角度によっては、影ができるほどに。指一本ぶんほど。
リディエは、その石に手を伸ばした。
背後で、エリアスが息を止める気配がした。
「……リディエ様」
声が、掠れていた。
リディエは振り返らなかった。
指先で、石の縁に触れた。冷たかった。けれど、その冷たさの下で、石はかすかに——ほんのかすかに、ぐらりと動いた。
まるで、何度も抜き差しされてきたかのように。
リディエは、ゆっくりと振り返った。
月明かりの中に、エリアスが立っていた。一歩の距離で。
灰色の瞳が、見開かれていた。そこに浮かんでいたのは、驚きではなかった。恐れでもなかった。
祈るような、目だった。
ずっと、ずっと待っていたものが、ようやく来たときの人の目だった。
「あなた、知ってたの」
リディエは、囁いた。
「ここに、何かがあること」
エリアスは、答えなかった。
ただ、ゆっくりと、一歩下がった。
三歩の距離まで。
それが、答えだった。
——ここから先は、あなたひとりで。
リディエは、石に向き直った。
両手の指を、石の縁にかけた。
息を吸った。
ありがとうございました。随時更新していきますのでよろしくお願いします




