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あなたを忘れるための魔法  作者: 南野


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10/11

第1部 七度目のはじめまして

お読みいただきありがとうございます。これで一区切りです

第10章 七度目の私へ


 石は、思っていたよりも軽かった。


 両手の指を縁にかけて、ゆっくりと手前に引くと、ざり、と乾いた音を立てて、壁から抜けた。まるで、そうされることに慣れているかのように。何度も、何度も、同じように引き抜かれてきたかのように。


 石の奥に、暗い空洞があった。


 手のひらほどの幅で、肘ほどの深さ。月明かりが、入口のところまでしか届かない。


 リディエは、石を床に置いた。


 それから、空洞の中に手を差し入れた。


 指先が、何かに触れた。布だった。油を染み込ませた、厚手の布。湿気から中身を守るためのものだ。その布に包まれて、何か硬い、四角いものがあった。


 引き出した。


 布をほどくと、月明かりの中に、小さな缶が現れた。


 紅茶の缶だった。


 塔の食堂で使っている、ありふれた錫の茶缶。蓋の縁が少しへこんでいて、表面の絵柄はほとんど擦り切れていた。


 リディエは、しばらくそれを両手で持ったまま、動けなかった。


 背後で、エリアスが立ち尽くしている気配があった。三歩の距離で。息をすることさえ忘れたように、ひっそりと。


 蓋に、指をかけた。


 開けた。


 ◇


 ふわりと、甘い匂いがした。


 古い紅茶の葉の匂い。それから、乾いた草の匂い。


 缶の一番上に、押し花が一輪、薄紙に挟まれて入っていた。小さな、白い野の花だった。花びらは五枚で、茶色く色褪せかけている。どこにでも咲いていそうな、名前も知らない花。


 その下に、小さな銀の匙がひとつ。


 紅茶用の、蜂蜜を掬うための匙だった。柄の先に、ごく小さく、一文字が彫られていた。


 E。


 そして、その下に。


 折り畳まれた紙が、何枚も重なっていた。


 リディエは、震える指で、それを取り出した。


 全部で、五通あった。


 どれも、自分の字だった。けれど、どれも少しずつ違う字だった。几帳面なもの。走り書きのもの。涙で滲んだもの。弾むように踊っているもの。


 五人の、自分の字だった。


 どの手紙の表にも、同じ宛名が書かれていた。


 ——次の私へ。


 ◇


 一番下の、一番古い紙を開いた。


 インクが少し褪せていた。几帳面な、けれどところどころ震えている字だった。


 ——次の私へ。


 ——私は、二度目の私です。一度目の私の日記を読みました。師匠に切られる前に、偶然。一度目の私は、冬から春まで、ある騎士を好きになっていたみたいです。そして、山崩れを止めるために、それを燃やしたみたい。


 ——私は、今、同じ騎士を好きになりかけています。はじめて会ったはずなのに。


 ——怖いです。また燃やすことになったら、どうしよう。


 ——だから、ここに書いておきます。師匠に見つからない場所に。もしあなたがこれを読んでいるなら、たぶん私も燃やしたのでしょう。


 ——お願い。あの人を、見つけてあげて。


 二枚目。


 走り書きだった。インクが飛び散って、急いで書いたのがわかった。


 ——次の私へ。三度目です。缶を見つけた。二度目の私、ありがとう。


 ——あの人は、今度の私にも、紅茶を二匙で淹れてくれた。教えてもいないのに。


 ——あの人、いつも寂しそうな顔をしてる。放っておけない。


 ——たぶん、あの人は、何か知ってる。でも、言えないんだと思う。訊いても、ごまかすだけ。だから訊かないことにした。


 ——子守唄。知らない歌なのに、歌える。あの人の故郷の歌なんだって。


 三枚目。


 涙の染みが、あちこちに丸く残っていた。字が、滲んでいた。


 ——四度目の私です。


 ——日記を読みました。二度目と三度目の私の手紙も読みました。全部わかった上で、あの人から離れようとしました。護衛を替えてほしいって、師匠に頼みました。却下されました。


 ——離れようとすればするほど、好きになる。


 ——だめね、私。何回忘れても、あの人のことを好きになるようにできてるみたい。


 ——次の私へ。もう、逃げなくていいよ。どうせ好きになるから。


 四枚目。


 短かった。ほんの三行だけ。


 ——五度目。時間がない。明日、疫病の村へ行く。たぶん燃やす。


 ——好き。


 ——次の私も、きっと。


 リディエは、四枚目の紙を膝の上に置いた。


 視界が、ぼやけていた。


 いつのまにか、涙が頬を伝っていた。北境の医務室で流したのと同じ、理由のわからない涙。いや、今は理由がわかる。わかりすぎるほどに。


 五人の自分が、同じ人を好きになった。


 五人とも、はじめて会ったはずなのに。


 五人とも、燃やしてしまったのに。


 最後の一枚に、手を伸ばした。


 ◇


 五枚目は、他の四枚よりも厚かった。


 何枚かの紙を重ねて、丁寧に折り畳んである。字は、蜂蜜で貼りついていた日記の頁と同じ、少しだけ崩れて、少しだけ弾んだ字だった。


 六度目の自分の、字だった。


 ——七度目の私へ。


 宛名が、違った。


 「次の私へ」ではなかった。


 ——七度目の私へ。


 ——これを読んでいるということは、私はまた燃やしたのね。北境で、たぶん。ごめんなさい。


 ——あなたに、伝えなければならないことがあります。前の私たちが気づかなかったこと。私だけが、ようやく気づいたこと。


 ——あの人は、全部覚えています。


 リディエは、紙を持つ手に力を込めた。


 ——理由はわかりません。でも、確かです。あの人は、一度目の私のことも、二度目の私のことも、全部覚えている。一度目の私が山崩れの前に言った言葉を、あの人は知っていた。二度目の私に歌った子守唄を、三度目の私が歌えることに、あの人は気づいていた。四度目の私が泣いた窓辺に、あの人は毎晩立っている。


 ——忘れているのは、私だけ。


 ——あの人は、私に忘れられるたびに、はじめましてって言ってきた。六回も。


 ——それがどんな気持ちなのか、考えると、胸が潰れそうになります。


 紙の上に、ぽたりと涙が落ちた。


 六度目の自分の字が、じわりと滲んだ。


 ——あの人は、何も言えないんだと思う。何かの理由で。だから、私からも訊かないことにしました。訊けば、あの人を苦しめるだけだから。


 ——代わりに、たくさん話しました。たくさん笑いました。この前、王都の外れの丘に連れて行ってもらった。夕焼けがとてもきれいで、あの人が初めて、私のことを短く呼んでくれた。


 ——リディ、って。


 ——誰も、私をそんなふうには呼ばない。あの人だけ。


 ——七度目の私。あなたはきっと、この呼び方も忘れているのね。


 ——でも、たぶん、あの人は、今もそう呼びたいのを我慢してる。


 リディエは、息を止めた。


 屋上で、回廊で、言い直された呼び方。


 舌先が上の歯の裏に触れる、柔らかな「り」の音。そして、その次に続くはずだった、短い、たった一音の——。


 ——リディエ様。


 ——最後に、お願いがあります。


 ——一枚、絵を入れておきます。下手だけど、笑わないで。


 ——北境に行ったら、たぶん私はまた燃やす。そのとき一番怖いのは、あの人の顔を忘れること。だから、描いておきました。忘れても、あなたがこれを見て、ちゃんとあの人を見つけられるように。


 厚く重ねた紙の、一番下に、もう一枚、硬い紙が挟まっていた。


 リディエは、それをそっと引き出した。


 炭筆で描かれた、男の顔だった。


 線は拙かった。輪郭は少し歪んでいて、影のつけ方もぎこちない。絵の心得のある者が見たら、きっと笑うだろう。


 けれど、そこには確かに、誰かがいた。


 黒い髪。少し長めの前髪。まっすぐな眉。


 そして、灰色に塗り残された瞳が、紙の上から、静かにこちらを見ていた。何かを待っているような、何かを諦めきれないような、雪が溶けるような目で。


 絵の下に、一行だけ、書き添えてあった。


 ——この人よ。


 ◇


 ——七度目の私へ。


 ——あの人は、全部覚えている。


 ——だから、今度は、あなたから好きだと言ってあげて。


 ——あの人が、はじめましてって言う前に。


 ——追伸。殿下に、もう一通手紙を預けてあります。この缶を見つけたと伝えれば、渡してくれるはず。そこから先は、手紙が案内してくれます。


 ——六度目の私より。


 ◇


 リディエは、長いあいだ、床の上に座り込んでいた。


 膝の上に、五通の手紙と、一枚の絵。押し花と、銀の匙。


 月が、窓の外を少しずつ動いていった。


 涙は、いつのまにか止まっていた。流しきってしまったのかもしれない。胸の奥の空っぽの場所に、何かが満ちていた。熱くて、重くて、痛くて、けれど決して冷たくはない何かが。


 五人の自分が、そこにいた。


 声も、顔も、何ひとつ覚えていない。それでも、この字を書いた手の震えも、紙に落ちた涙も、「好き」という一語を書くためにどれだけ迷ったかも、全部わかる気がした。


 だって、全部、自分なのだから。


 リディエは、炭筆の絵を、もう一度見た。


 それから、ゆっくりと、顔を上げた。


 振り返った。


 ◇


 三歩の距離に、エリアスが立っていた。


 月明かりが、彼の顔を半分だけ照らしていた。


 泣いていた。


 声も立てず、表情も変えず、ただ、灰色の瞳から、静かに涙が流れ落ちていた。頬を伝い、顎の先で雫になって、石の床にぽたりと落ちた。拭おうともしなかった。拭い方を忘れてしまったかのように、ただ、そこに立っていた。


 絵の中と、同じ目だった。


 何かを待っているような。何かを諦めきれないような。


 リディエは、立ち上がった。


 膝の上から、手紙が滑り落ちた。拾わなかった。炭筆の絵だけを、胸に抱えていた。


 一歩、近づいた。


 エリアスは、動かなかった。


 二歩。


 彼の唇が、かすかに震えた。


 三歩。


 もう、距離はなかった。


 見上げると、すぐそこに、彼の顔があった。紙の上の拙い線ではなく、本物の。月明かりの中で、涙に濡れた。


 リディエは、手を伸ばした。


 指先で、彼の頬に触れた。涙の跡を、そっと拭った。


 エリアスが、目を閉じた。


 その睫毛が、震えていた。


「……六度目の私は」


 リディエは、囁いた。


「あなたに、ちゃんと好きって言えた?」


 エリアスの喉が、動いた。


 長い、長い沈黙のあとで、彼は、ほとんど声にならない声で答えた。


「——言って、くれました」


 目を閉じたまま。


「丘の上で。夕焼けの中で。……顔が、よく見えないって、笑いながら」


 リディエの胸の奥で、灰が爆ぜた。


 夏の丘。茜と群青の境目。逆光で見えなかった、隣の人の顔。


 ——せめて顔を。せめて一度だけ、顔を——


 それは、今、目の前にあった。


「じゃあ」


 リディエは言った。


「七度目の私は」


 そこで、言葉が止まった。


 言いたかった。今すぐに。六度目の自分が頼んだように。あの人が、はじめましてって言う前に。


 好き、と。


 けれど、唇を開いた瞬間、別の思いが胸を塞いだ。


 この人は、全部覚えている。一度目の自分の「好き」も。二度目も、三度目も、四度目も、五度目も、六度目も。そのどれもを、この人はひとりで抱えて、ひとりで見送ってきた。


 今ここで言ったら、それは七つ目になる。


 そしていつか、また燃やしてしまったら。


 この人は、七つ目の「好き」も、ひとりで抱えることになる。


「……七度目の私は」


 リディエは、彼の頬に手を添えたまま、言い直した。


「全部、知ってから言う」


 エリアスが、目を開けた。


「あなたが何を抱えているのか。どうして言えないのか。どうして私だけが忘れて、あなただけが覚えているのか。——全部、知ってから」


 灰色の瞳が、揺れていた。


「それで、もう二度と燃やさないって、ちゃんと決められたら」


 リディエは、ほんの少しだけ、笑った。


 泣き笑いのような顔になっているのが、自分でもわかった。


「そのときに、あなたの顔を見て、ちゃんと言うわ」


 エリアスは、何も言わなかった。


 言えなかったのだと思う。


 ただ、彼の右手が、ゆっくりと持ち上がった。火傷の痕のある手のひらが、リディエの手の甲の上に、そっと重ねられた。頬に添えた手を、上から包み込むように。


 大きな手だった。剣を握る者の、硬い手のひら。


 けれど、触れ方は驚くほど慎重で。


 まるで、壊れものを扱うようで。


 ——知っている。


 ——この手を、知っている。


 月明かりの中で、二人はそうして、長いこと立っていた。


 ◇


「エリアス」


「……はい」


「殿下に、手紙を預けてあるって」


 リディエは、胸に抱えた炭筆の絵を見下ろした。


「明日、取りに行く。そこから先は、手紙が案内してくれるって」


 エリアスは、ゆっくりと手を離した。


「……どこへでも、お供します」


「一歩後ろで?」


 彼は、少しだけ考えるような顔をした。


 それから、涙の跡の残る顔で、雪が溶けるように笑った。


「隣で、よろしければ」


 ◇


 その夜、リディエは日記を開いた。


 新しい頁に、ペンを走らせた。


 ——回廊の西の窓の下に、缶があった。五人の私からの手紙が入っていた。押し花と、銀の匙と、一枚の絵。


 ——あの人は、全部覚えている。


 ——六度目の私が、そう教えてくれた。


 ペンが、止まった。


 それから、リディエは、新しい行を書いた。


 宛名を。


 ——八度目の私へ。


 書いて、しばらくそれを見つめた。


 それから、その一行に、きっぱりと横線を引いた。


 代わりに、その下に、はっきりとした字で書いた。


 ——八度目は、来させない。


 日記を閉じた。


 錫の茶缶を、枕元に置いた。蓋の上に、炭筆の絵を載せた。


 灯りを消す前に、もう一度だけ、その絵を見た。


 黒い髪。まっすぐな眉。雪が溶けるような目。


 ——この人よ。


「……うん」


 リディエは、小さく答えた。


「知ってる」


 灯りを消した。


 窓の外で、忘れ川が月を映していた。


 七度目の冬が、ゆっくりと深まっていった。


---


**第1部 七度目のはじめまして 了**


ありがとうございました。随時更新していきますのでよろしくお願いします

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