第1部 七度目のはじめまして
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第10章 七度目の私へ
石は、思っていたよりも軽かった。
両手の指を縁にかけて、ゆっくりと手前に引くと、ざり、と乾いた音を立てて、壁から抜けた。まるで、そうされることに慣れているかのように。何度も、何度も、同じように引き抜かれてきたかのように。
石の奥に、暗い空洞があった。
手のひらほどの幅で、肘ほどの深さ。月明かりが、入口のところまでしか届かない。
リディエは、石を床に置いた。
それから、空洞の中に手を差し入れた。
指先が、何かに触れた。布だった。油を染み込ませた、厚手の布。湿気から中身を守るためのものだ。その布に包まれて、何か硬い、四角いものがあった。
引き出した。
布をほどくと、月明かりの中に、小さな缶が現れた。
紅茶の缶だった。
塔の食堂で使っている、ありふれた錫の茶缶。蓋の縁が少しへこんでいて、表面の絵柄はほとんど擦り切れていた。
リディエは、しばらくそれを両手で持ったまま、動けなかった。
背後で、エリアスが立ち尽くしている気配があった。三歩の距離で。息をすることさえ忘れたように、ひっそりと。
蓋に、指をかけた。
開けた。
◇
ふわりと、甘い匂いがした。
古い紅茶の葉の匂い。それから、乾いた草の匂い。
缶の一番上に、押し花が一輪、薄紙に挟まれて入っていた。小さな、白い野の花だった。花びらは五枚で、茶色く色褪せかけている。どこにでも咲いていそうな、名前も知らない花。
その下に、小さな銀の匙がひとつ。
紅茶用の、蜂蜜を掬うための匙だった。柄の先に、ごく小さく、一文字が彫られていた。
E。
そして、その下に。
折り畳まれた紙が、何枚も重なっていた。
リディエは、震える指で、それを取り出した。
全部で、五通あった。
どれも、自分の字だった。けれど、どれも少しずつ違う字だった。几帳面なもの。走り書きのもの。涙で滲んだもの。弾むように踊っているもの。
五人の、自分の字だった。
どの手紙の表にも、同じ宛名が書かれていた。
——次の私へ。
◇
一番下の、一番古い紙を開いた。
インクが少し褪せていた。几帳面な、けれどところどころ震えている字だった。
——次の私へ。
——私は、二度目の私です。一度目の私の日記を読みました。師匠に切られる前に、偶然。一度目の私は、冬から春まで、ある騎士を好きになっていたみたいです。そして、山崩れを止めるために、それを燃やしたみたい。
——私は、今、同じ騎士を好きになりかけています。はじめて会ったはずなのに。
——怖いです。また燃やすことになったら、どうしよう。
——だから、ここに書いておきます。師匠に見つからない場所に。もしあなたがこれを読んでいるなら、たぶん私も燃やしたのでしょう。
——お願い。あの人を、見つけてあげて。
二枚目。
走り書きだった。インクが飛び散って、急いで書いたのがわかった。
——次の私へ。三度目です。缶を見つけた。二度目の私、ありがとう。
——あの人は、今度の私にも、紅茶を二匙で淹れてくれた。教えてもいないのに。
——あの人、いつも寂しそうな顔をしてる。放っておけない。
——たぶん、あの人は、何か知ってる。でも、言えないんだと思う。訊いても、ごまかすだけ。だから訊かないことにした。
——子守唄。知らない歌なのに、歌える。あの人の故郷の歌なんだって。
三枚目。
涙の染みが、あちこちに丸く残っていた。字が、滲んでいた。
——四度目の私です。
——日記を読みました。二度目と三度目の私の手紙も読みました。全部わかった上で、あの人から離れようとしました。護衛を替えてほしいって、師匠に頼みました。却下されました。
——離れようとすればするほど、好きになる。
——だめね、私。何回忘れても、あの人のことを好きになるようにできてるみたい。
——次の私へ。もう、逃げなくていいよ。どうせ好きになるから。
四枚目。
短かった。ほんの三行だけ。
——五度目。時間がない。明日、疫病の村へ行く。たぶん燃やす。
——好き。
——次の私も、きっと。
リディエは、四枚目の紙を膝の上に置いた。
視界が、ぼやけていた。
いつのまにか、涙が頬を伝っていた。北境の医務室で流したのと同じ、理由のわからない涙。いや、今は理由がわかる。わかりすぎるほどに。
五人の自分が、同じ人を好きになった。
五人とも、はじめて会ったはずなのに。
五人とも、燃やしてしまったのに。
最後の一枚に、手を伸ばした。
◇
五枚目は、他の四枚よりも厚かった。
何枚かの紙を重ねて、丁寧に折り畳んである。字は、蜂蜜で貼りついていた日記の頁と同じ、少しだけ崩れて、少しだけ弾んだ字だった。
六度目の自分の、字だった。
——七度目の私へ。
宛名が、違った。
「次の私へ」ではなかった。
——七度目の私へ。
——これを読んでいるということは、私はまた燃やしたのね。北境で、たぶん。ごめんなさい。
——あなたに、伝えなければならないことがあります。前の私たちが気づかなかったこと。私だけが、ようやく気づいたこと。
——あの人は、全部覚えています。
リディエは、紙を持つ手に力を込めた。
——理由はわかりません。でも、確かです。あの人は、一度目の私のことも、二度目の私のことも、全部覚えている。一度目の私が山崩れの前に言った言葉を、あの人は知っていた。二度目の私に歌った子守唄を、三度目の私が歌えることに、あの人は気づいていた。四度目の私が泣いた窓辺に、あの人は毎晩立っている。
——忘れているのは、私だけ。
——あの人は、私に忘れられるたびに、はじめましてって言ってきた。六回も。
——それがどんな気持ちなのか、考えると、胸が潰れそうになります。
紙の上に、ぽたりと涙が落ちた。
六度目の自分の字が、じわりと滲んだ。
——あの人は、何も言えないんだと思う。何かの理由で。だから、私からも訊かないことにしました。訊けば、あの人を苦しめるだけだから。
——代わりに、たくさん話しました。たくさん笑いました。この前、王都の外れの丘に連れて行ってもらった。夕焼けがとてもきれいで、あの人が初めて、私のことを短く呼んでくれた。
——リディ、って。
——誰も、私をそんなふうには呼ばない。あの人だけ。
——七度目の私。あなたはきっと、この呼び方も忘れているのね。
——でも、たぶん、あの人は、今もそう呼びたいのを我慢してる。
リディエは、息を止めた。
屋上で、回廊で、言い直された呼び方。
舌先が上の歯の裏に触れる、柔らかな「り」の音。そして、その次に続くはずだった、短い、たった一音の——。
——リディエ様。
——最後に、お願いがあります。
——一枚、絵を入れておきます。下手だけど、笑わないで。
——北境に行ったら、たぶん私はまた燃やす。そのとき一番怖いのは、あの人の顔を忘れること。だから、描いておきました。忘れても、あなたがこれを見て、ちゃんとあの人を見つけられるように。
厚く重ねた紙の、一番下に、もう一枚、硬い紙が挟まっていた。
リディエは、それをそっと引き出した。
炭筆で描かれた、男の顔だった。
線は拙かった。輪郭は少し歪んでいて、影のつけ方もぎこちない。絵の心得のある者が見たら、きっと笑うだろう。
けれど、そこには確かに、誰かがいた。
黒い髪。少し長めの前髪。まっすぐな眉。
そして、灰色に塗り残された瞳が、紙の上から、静かにこちらを見ていた。何かを待っているような、何かを諦めきれないような、雪が溶けるような目で。
絵の下に、一行だけ、書き添えてあった。
——この人よ。
◇
——七度目の私へ。
——あの人は、全部覚えている。
——だから、今度は、あなたから好きだと言ってあげて。
——あの人が、はじめましてって言う前に。
——追伸。殿下に、もう一通手紙を預けてあります。この缶を見つけたと伝えれば、渡してくれるはず。そこから先は、手紙が案内してくれます。
——六度目の私より。
◇
リディエは、長いあいだ、床の上に座り込んでいた。
膝の上に、五通の手紙と、一枚の絵。押し花と、銀の匙。
月が、窓の外を少しずつ動いていった。
涙は、いつのまにか止まっていた。流しきってしまったのかもしれない。胸の奥の空っぽの場所に、何かが満ちていた。熱くて、重くて、痛くて、けれど決して冷たくはない何かが。
五人の自分が、そこにいた。
声も、顔も、何ひとつ覚えていない。それでも、この字を書いた手の震えも、紙に落ちた涙も、「好き」という一語を書くためにどれだけ迷ったかも、全部わかる気がした。
だって、全部、自分なのだから。
リディエは、炭筆の絵を、もう一度見た。
それから、ゆっくりと、顔を上げた。
振り返った。
◇
三歩の距離に、エリアスが立っていた。
月明かりが、彼の顔を半分だけ照らしていた。
泣いていた。
声も立てず、表情も変えず、ただ、灰色の瞳から、静かに涙が流れ落ちていた。頬を伝い、顎の先で雫になって、石の床にぽたりと落ちた。拭おうともしなかった。拭い方を忘れてしまったかのように、ただ、そこに立っていた。
絵の中と、同じ目だった。
何かを待っているような。何かを諦めきれないような。
リディエは、立ち上がった。
膝の上から、手紙が滑り落ちた。拾わなかった。炭筆の絵だけを、胸に抱えていた。
一歩、近づいた。
エリアスは、動かなかった。
二歩。
彼の唇が、かすかに震えた。
三歩。
もう、距離はなかった。
見上げると、すぐそこに、彼の顔があった。紙の上の拙い線ではなく、本物の。月明かりの中で、涙に濡れた。
リディエは、手を伸ばした。
指先で、彼の頬に触れた。涙の跡を、そっと拭った。
エリアスが、目を閉じた。
その睫毛が、震えていた。
「……六度目の私は」
リディエは、囁いた。
「あなたに、ちゃんと好きって言えた?」
エリアスの喉が、動いた。
長い、長い沈黙のあとで、彼は、ほとんど声にならない声で答えた。
「——言って、くれました」
目を閉じたまま。
「丘の上で。夕焼けの中で。……顔が、よく見えないって、笑いながら」
リディエの胸の奥で、灰が爆ぜた。
夏の丘。茜と群青の境目。逆光で見えなかった、隣の人の顔。
——せめて顔を。せめて一度だけ、顔を——
それは、今、目の前にあった。
「じゃあ」
リディエは言った。
「七度目の私は」
そこで、言葉が止まった。
言いたかった。今すぐに。六度目の自分が頼んだように。あの人が、はじめましてって言う前に。
好き、と。
けれど、唇を開いた瞬間、別の思いが胸を塞いだ。
この人は、全部覚えている。一度目の自分の「好き」も。二度目も、三度目も、四度目も、五度目も、六度目も。そのどれもを、この人はひとりで抱えて、ひとりで見送ってきた。
今ここで言ったら、それは七つ目になる。
そしていつか、また燃やしてしまったら。
この人は、七つ目の「好き」も、ひとりで抱えることになる。
「……七度目の私は」
リディエは、彼の頬に手を添えたまま、言い直した。
「全部、知ってから言う」
エリアスが、目を開けた。
「あなたが何を抱えているのか。どうして言えないのか。どうして私だけが忘れて、あなただけが覚えているのか。——全部、知ってから」
灰色の瞳が、揺れていた。
「それで、もう二度と燃やさないって、ちゃんと決められたら」
リディエは、ほんの少しだけ、笑った。
泣き笑いのような顔になっているのが、自分でもわかった。
「そのときに、あなたの顔を見て、ちゃんと言うわ」
エリアスは、何も言わなかった。
言えなかったのだと思う。
ただ、彼の右手が、ゆっくりと持ち上がった。火傷の痕のある手のひらが、リディエの手の甲の上に、そっと重ねられた。頬に添えた手を、上から包み込むように。
大きな手だった。剣を握る者の、硬い手のひら。
けれど、触れ方は驚くほど慎重で。
まるで、壊れものを扱うようで。
——知っている。
——この手を、知っている。
月明かりの中で、二人はそうして、長いこと立っていた。
◇
「エリアス」
「……はい」
「殿下に、手紙を預けてあるって」
リディエは、胸に抱えた炭筆の絵を見下ろした。
「明日、取りに行く。そこから先は、手紙が案内してくれるって」
エリアスは、ゆっくりと手を離した。
「……どこへでも、お供します」
「一歩後ろで?」
彼は、少しだけ考えるような顔をした。
それから、涙の跡の残る顔で、雪が溶けるように笑った。
「隣で、よろしければ」
◇
その夜、リディエは日記を開いた。
新しい頁に、ペンを走らせた。
——回廊の西の窓の下に、缶があった。五人の私からの手紙が入っていた。押し花と、銀の匙と、一枚の絵。
——あの人は、全部覚えている。
——六度目の私が、そう教えてくれた。
ペンが、止まった。
それから、リディエは、新しい行を書いた。
宛名を。
——八度目の私へ。
書いて、しばらくそれを見つめた。
それから、その一行に、きっぱりと横線を引いた。
代わりに、その下に、はっきりとした字で書いた。
——八度目は、来させない。
日記を閉じた。
錫の茶缶を、枕元に置いた。蓋の上に、炭筆の絵を載せた。
灯りを消す前に、もう一度だけ、その絵を見た。
黒い髪。まっすぐな眉。雪が溶けるような目。
——この人よ。
「……うん」
リディエは、小さく答えた。
「知ってる」
灯りを消した。
窓の外で、忘れ川が月を映していた。
七度目の冬が、ゆっくりと深まっていった。
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**第1部 七度目のはじめまして 了**
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