第2部 預かり手
第11章 一通目の手紙
王城の東の温室で、セラフィナは両手で口を覆った。
「——見つけたのね」
リディエが錫の茶缶を卓の上に置くと、王女は、それだけを言った。菫色の瞳が、みるみるうちに潤んでいった。
「見つけたわ」
「全部、読んだ?」
「読んだ」
「……そう」
セラフィナは、しばらく茶缶を見つめていた。それから、東屋の入口に立つエリアスに目をやった。騎士は、いつもの三歩の距離ではなく、リディエのすぐ斜め後ろに立っていた。
王女は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「待ってて」
セラフィナは席を立ち、温室の奥へ消えた。しばらくして戻ってきたとき、その手には、古びた封書が一通握られていた。
封蝋は、灰の塔の紋章だった。けれど、押し方が少し歪んでいた。急いで押したのか、手が震えていたのか。
「二年前の春よ」
王女は言った。
「あなたが、泣きながらこれを持ってきたの。護衛を替えてほしいって師匠に頼んで、断られた日の夜だった。『いつか私が自分で辿り着いたら渡して。それまでは絶対に渡さないで』って」
二年前の春。
四度目の自分だ。
リディエは、封書を受け取った。表には、見慣れた自分の字で、こう書かれていた。
——缶を見つけた私へ。
◇
——缶を見つけた私へ。
——これを読んでいるということは、あなたは缶を見つけて、あの人のことを知ったのね。よかった。
——私は四度目の私です。私は、逃げようとしました。あの人を好きになってはいけない気がして。でも、逃げながら、調べました。どうして私だけが忘れて、あの人だけが覚えているのか。
——全部はわかりませんでした。でも、わかったことを書いておきます。
——ひとつ。塔の禁書庫に、「薪」という言葉が出てくる古い文書がある。燼術に関わる、何かの契約のこと。でも、肝心の頁は抜き取られていた。
——ふたつ。一度目の私とあの人は、最初の春に、南の海辺の街ルジェへ行っている。灯台の結界を張り直す任務で。一度目の私の日記に、その記録だけが残っていた。切られる前に、私が写しておいたの。
——みっつ。一度目の私は、ルジェで、何かを誰かに預けている。「灯台守に預けた」とだけ書いてあった。何を預けたのかは、書いていなかった。
——私は、ルジェには行けませんでした。師匠が許してくれなかった。行こうとしたら、北境の結界が弱まっていると言われて、そちらへ回されました。
——次の私。あなたは、行って。
——一度目の私が、何を残したのか。見てきて。
——それから、もうひとつだけ。
——あの人に、訊いてはいけないことがあるみたい。訊くと、あの人はとても苦しそうな顔をする。だから、訊き方を工夫して。あの人が、嘘をつかなくて済むように。
——四度目の私より。
◇
「ルジェ」
帰りの馬車の中で、リディエは手紙をもう一度読み返しながら、呟いた。
向かいの座席ではなく、隣に、エリアスが座っていた。行きの馬車では手のひらひとつぶんあった二人の間の距離は、今は指一本ぶんになっていた。
「行ったこと、ある?」
訊いてから、四度目の自分の言葉を思い出した。
——訊き方を工夫して。あの人が、嘘をつかなくて済むように。
エリアスは、窓の外を見ていた。長い沈黙があった。
「……はい」
やがて、彼は答えた。
「春に、一度」
一度目の自分と、とは言わなかった。
けれど、嘘もつかなかった。
リディエは、手紙を畳んだ。
「塔に、休暇を申請するわ。南の海沿いの結界の視察ってことにして」
「オルセン様が、お許しになるでしょうか」
「四度目の私は、許されなかった」
リディエは、窓の外を流れていく王都の街並みを見た。
「でも、今度は殿下が味方よ。王家の視察命令を出してもらう。師匠でも、それには逆らえないわ」
◇
意外なことに、マグダは何も言わなかった。
王家の百合の紋章が押された視察命令書を差し出すと、師はしばらくそれを眺め、それから、あっさりと頷いた。
「いいわ。行っていらっしゃい」
「……反対しないの」
「王女殿下のご命令でしょう。わたしが反対してどうするの」
マグダは、揺り椅子の上で編み物を続けながら言った。
「ルジェの灯台の結界は、確かにそろそろ張り直しの時期よ。ちょうどいいわ。春までには戻ってきなさいね。北境が待っているから」
あまりにも、あっさりしていた。
書斎を出ながら、リディエは、胸の奥に小さな棘が刺さったような気がした。
四度目の自分には許さなかったことを、なぜ今度は許すのか。
——春までに、あの子にはもっと深く、もっと赤く、誰かを愛してもらわないといけないの。
その言葉を、リディエは知らない。
知らないまま、なぜか、背中が冷たかった。
◇
「僕も行きます」
出立の前夜、ユーゴが部屋に押しかけてきた。
「だめ」
「どうしてですか! 変な連中に襲われたばっかりなのに、あいつと二人きりなんて」
「だからこそよ。塔の守りが手薄になる。あなたはここに残って、師匠を手伝って」
「師匠——」
「お願い、ユーゴ」
リディエが言うと、弟子はぐっと言葉に詰まった。
しばらく唇を噛んでいたが、やがて、大きく息を吐いた。
「……ずるいですよ。お願いって言われたら、断れないの知ってるくせに」
「知ってるわ」
「……」
ユーゴは、窓辺に立つエリアスを睨んだ。
「おい、騎士」
「はい」
「師匠に何かあったら、許さないからな」
「——承知しています」
エリアスは、まっすぐにユーゴを見返した。
「何があっても、お守りします」
ユーゴは、しばらく何か言いたそうに口を開けていたが、結局何も言わずに、ばたんと扉を閉めて出ていった。
◇
夜明け前に、王都を発った。
馬は二頭。荷物は最小限。南の街道は、北に比べれば雪も少なく、踏み固められた道が、白い野原の中を、まっすぐに伸びていた。
エリアスは、一歩後ろではなく、リディエの馬の横に、自分の馬を並べた。
隣で、よろしければ。
あの夜の言葉どおりに。
二人はしばらく、黙って馬を進めた。朝日が昇り、雪原を薔薇色に染め、やがて白く輝かせた。吐く息が白かった。馬の蹄の音が、規則正しく、冬の空気の中に響いていた。
ときどき、リディエは隣を盗み見た。
外套の頭巾の下の、エリアスの横顔。まっすぐな眉。少し長めの前髪。
炭筆の絵と、同じだった。
六度目の自分は、この横顔を、何度こうして盗み見たのだろう。
「……何か」
エリアスが、前を向いたまま言った。
「何でもない」
「三度目です」
「何が」
「こちらをご覧になった回数です。宿場を出てから」
リディエは、顔が熱くなるのを感じた。
「……観察が得意なのね」
「騎士ですので」
彼の唇の端が、ほんの少しだけ上がっていた。
リディエは、ぷいと前を向いた。
耳が、冷たい風の中で、ひどく熱かった。
◇
一日目の夜は、街道沿いの小さな宿場町に泊まった。
宿は一軒しかなかった。宿の主人は、二人の旅装を見るなり、困ったように頭を掻いた。
「あいにく、今夜は商隊が泊まってましてねえ。空いてるのは、奥の一部屋だけで」
リディエとエリアスは、顔を見合わせた。
「私は厩で寝ます」
エリアスが即座に言った。
「雪が降ってるのよ。凍えるわ」
「慣れていますので」
「だめ」
リディエは、宿の主人に硬貨を渡した。
「その部屋でいいわ」
部屋は、狭かった。寝台がひとつ。小さな暖炉。窓がひとつ。
エリアスは、扉の脇の床に外套を敷いて、そこに腰を下ろした。剣を抱えて、壁に背中を預けて。
「……そこで寝るの?」
「はい」
「寝台、使っていいのよ。私は床でも」
「それは、できかねます」
「頑固ね」
「よく言われます」
リディエは、寝台の端に腰かけた。暖炉の火が、ぱちぱちと爆ぜていた。部屋の中は、ようやく暖まり始めていた。
寝台と、扉の脇の床。その距離、四歩。
灯りを消す気には、なれなかった。
「エリアス」
「はい」
「ひとつ、決め事をしたいの」
エリアスが、顔を上げた。
「四度目の私の手紙に、書いてあった。あなたに、訊いてはいけないことがあるって。訊くと、あなたはとても苦しそうな顔をするって」
「……」
「だから、決め事」
リディエは、膝の上で指を組んだ。
「私が何か訊いて、あなたが答えられないときは、黙っていて。嘘をつかなくていい。ごまかさなくていい。ただ、黙って」
「……黙ったら」
「黙ったら、それは『はい』ってことにする」
暖炉の火が、ひときわ大きく爆ぜた。
エリアスは、長いこと、リディエを見つめていた。灰色の瞳の中で、橙色の火が揺れていた。
「——それは」
彼は、ゆっくりと言った。
「ずるい決め事ですね」
「そうよ。私、ずるいの」
「……」
「いや?」
エリアスは、目を伏せた。
それから、小さく、息を吐くように笑った。
「いいえ」
◇
「じゃあ、ひとつ目」
リディエは言った。
「ルジェに、一度目の私と行った?」
エリアスは、黙っていた。
リディエの胸の奥で、何かがとくんと鳴った。
「ふたつ目。一度目の私は、あなたのことを、好きだった?」
沈黙。
暖炉の火だけが、ぱちぱちと鳴っていた。
リディエは、組んだ指に力を込めた。
「みっつ目」
声が、少しだけ震えた。
「あなたは——一度目の私のことを、好きだった?」
エリアスは、顔を上げた。
灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
「それは」
彼は言った。
「答えられます」
リディエは、息を止めた。
「——はい」
低く、少し掠れた声だった。言葉の終わりを、柔らかく落とす。
「好きでした」
それだけだった。
たったそれだけの言葉が、狭い部屋の中に落ちて、暖炉の火よりも熱く、リディエの胸を焼いた。
答えられる、と彼は言った。
黙っていてもよかったのに。黙れば、「はい」になるのに。
この人は、わざわざ、自分の声で答えた。
リディエは、唇を開いた。
訊きたいことが、喉までせり上がってきていた。
——じゃあ、二度目の私は? 三度目は?
——今の私は?
訊いてしまったら、どうなるのだろう。
黙られたら。
それとも、声で、答えられたら。
「……よっつ目」
リディエは、囁いた。
「今も?」
エリアスは、黙っていた。
目を逸らさなかった。
ただ、まっすぐにリディエを見つめたまま、何も言わなかった。
暖炉の火が爆ぜた。窓の外で、雪が静かに降り積もっていた。
沈黙は、長く続いた。
長く、長く。
答えを、はっきりと告げるほどに。
リディエは、両手で顔を覆った。
頬が、燃えるように熱かった。
「……もう、寝る」
「はい」
「灯り、消して」
「はい」
エリアスが立ち上がり、蝋燭の火を吹き消した。部屋は暖炉の橙色の光だけになった。彼が床に戻る衣擦れの音がした。
リディエは、寝台に潜り込んで、毛布を頭まで被った。
心臓が、うるさかった。
——黙ったら、それは『はい』ってことにする。
自分で決めたことなのに。
ずるいのは、どちらのほうだろう。
「……おやすみ、エリアス」
毛布の中から、くぐもった声で言った。
四歩向こうの暗がりから、静かな声が返ってきた。
「おやすみなさい、リディエ様」
その声が、少しだけ、笑っているように聞こえた。
◇
宿の外、街道の向こうの林の中に、ひとつの人影が立っていた。
灰色の外套。深く被った頭巾。
降りしきる雪の中で、その人影は、宿の二階の、ひとつだけ暖炉の灯りが揺れている窓を、じっと見上げていた。
外套の襟元で、小さな灰色の徽章が、雪明かりを受けて鈍く光った。
閉じた、ひとつの目。
人影は、白く濁った指先で、徽章をそっと撫でた。
「——七度目の薪、か」
くぐもった声が、雪の中に溶けていった。
「よく燃えそうだ」
足跡を雪に残して、人影は林の奥へと消えていった。
降り続く雪が、その足跡を、ゆっくりと埋めていった。
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