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あなたを忘れるための魔法  作者: 南野


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8/11

第1部 七度目のはじめまして

第8章 雨の中の手


 忘れ川の下流、王都の南の外れに、灰市場と呼ばれる一角がある。


 正式な名前ではない。石畳は割れ、軒先は低く、昼間でも薄暗い路地が蜘蛛の巣のように入り組んでいる。売られているのは、古着、欠けた食器、持ち主のわからない指輪や櫛。そして、「灰」だ。


 燼術で燃やされた記憶の灰が、忘れ川に流れ着く。それを川底から掬い上げて乾かしたものだと称して、小瓶に詰めた灰色の粉が売られている。恋を忘れたい者は、それを枕の下に入れて眠るのだという。逆に、忘れた恋を思い出したい者は、それを舐めるのだという。


 もちろん、ただの川砂だ。


 少なくとも、灰の塔ではそう教えている。


「最近、灰市場で妙な噂があるそうです」


 ユーゴが帰ってきた翌々日の朝、塔の記録室の老婆がそう言った。


「灰を買い集めている男がいる、って。本物の灰だけを。偽物は見ただけでわかるとかで、市場の連中は気味悪がってる。灰の塔の者なら、一度見ておいたほうがいいんじゃないかねえ」


 本物の灰。


 リディエは、その言葉が妙に引っかかった。燃やした記憶が本当にどこかへ流れ着くのだとしたら。自分が六度燃やしたものが、どこかに残っているのだとしたら。


 午後、リディエは灰市場へ向かった。


 一歩後ろに、エリアスを連れて。


 ◇


 空は朝から重く曇っていた。


 灰市場の路地は、噂に聞くよりもさらに狭く、湿っていた。軒と軒のあいだから、細く切り取られた灰色の空が見える。行き交う人々は皆、フードを目深に被り、互いの顔を見ようとしない。


 リディエも、黒い外套の頭巾を被っていた。灰色の髪は、この王都では目立ちすぎる。


「こちらです」


 エリアスが、路地の角で足を止めた。


 古びた木の看板に、かすれた字で「灰」とだけ書かれた店。軒先に、大小の硝子の小瓶がずらりと吊るされていた。中身はどれも灰色の粉で、雨の前の湿った風に、かすかに揺れていた。


 店の奥から、腰の曲がった老女が顔を出した。


「いらっしゃい。どんな灰をお探しで」


「灰を買い集めている男がいると聞いたわ」


 リディエが言うと、老女の皺だらけの顔が、すっと強張った。


「……知らないね」


「本物の灰だけを買っていく、と」


「知らないって言ってるだろう」


 老女は、店の奥に引っ込もうとした。


 その瞬間、軒先の小瓶のひとつが、ぱりん、と音を立てて割れた。


 誰も触れていなかった。風でもなかった。灰色の粉が、割れた瓶から零れ落ちて、ゆっくりと宙に舞った。


 エリアスが、リディエの前に出た。


「下がってください」


 低い声だった。いつもの柔らかさが、消えていた。


 路地の両端に、人影が立っていた。


 四人。いや、六人。全員が灰色の外套を着て、顔を布で覆っている。そして、その両手が——手袋もしていない素手が、まるで灰を塗り込めたように、白く濁っていた。


「灰の魔女」


 先頭の男が、布越しにくぐもった声で言った。


「お前に用はない」


 男の濁った指が、まっすぐにエリアスを指した。


「——薪を、渡してもらおう」


 ◇


 薪。


 その言葉の意味が、リディエにはわからなかった。


 わからないまま、背筋を冷たいものが走った。


 エリアスの肩が、ほんのわずかに強張ったのが見えた。彼は、わかっているのだ。この男たちが何を言っているのか。何を——誰を、求めているのか。


「何のことかわかりません」


 エリアスは、剣の柄に手をかけた。


「お引き取りを」


「とぼけるな。お前の中で、何が燃えているか、我らの主にはわかっている」


 男たちが、じりじりと距離を詰めてきた。


 空から、最初の一滴が落ちてきた。


 リディエは、目を閉じた。


 ◇


 古い図書館。天井まで届く書架。果てしなく続く通路。


 燃やせるものを探した。


 灰色の背表紙。退屈な日々。燃やしても、火花ひとつ散らない。青い背表紙。悲しみ。冷たい光しか生まない。黄色。ささやかな喜び。蝋燭の火ほどの熱にしかならない。


 赤が、要る。


 六人の男を退けるだけの、赤が。


 通路の奥へ走った。書架の多くは歯抜けで、灰が積もっていた。燃やしてきたものの跡。家族。友人。師への敬愛の一部。そして、一番奥の暗がりの、新しい隙間。北境で燃やした、夏の丘の夕暮れ。


 その隣に。


 一冊の本が、立っていた。


 まだ薄い本だった。頁の数も少ない。けれど、背表紙は、はっきりと赤かった。日ごとに、少しずつ赤みを増していったような、深い、深い色。


 リディエは、その本に手を伸ばしかけて——止めた。


 開かなくても、中身はわかっていた。


 城壁の上の外套。二匙の紅茶。夜の回廊。子守唄。指一本ぶんの隙間。杏の焼き菓子。「リディエ様」と言い直した唇の形。


 この一ヶ月の、全部。


 燃やせば、六人どころか、この路地ごと吹き飛ばせるだろう。


 燃やせば、あの人のことを、また忘れる。


 七度目も。


「……いや」


 声に出していた。


 図書館の中で、リディエは本から手を引いた。胸に抱えるようにして、後ずさった。


 いやだ。


 これだけは、いやだ。


 代わりに、手近な棚から、薄い黄色の本を一冊抜き取った。塔の食堂で、若い魔女たちと焼き栗を分け合った冬の夜の記憶。ささやかで、温かくて、どうでもいい記憶。


 火をつけた。


 ◇


 目を開けると、手のひらの上で、小さな火花がひとつ、ぱちりと爆ぜた。


 それだけだった。


 雨粒が、その火花を消した。


「リディエ様!」


 エリアスの声がした。


 男たちが、一斉に動いていた。


 エリアスが剣を抜いた。灰色の刃が、雨の中で鈍く光った。最初の男の短剣を弾き、二人目の足を払い、三人目の腕を柄で打った。速かった。中庭でユーゴを相手にしたときとは、まるで違う動きだった。


 けれど、相手は六人だった。


 四人目の刃が、エリアスの左腕を掠めた。白いシャツの袖が裂け、赤いものが雨に混じって散った。


「エリアス!」


 彼は、振り返らなかった。


 ただ、右手で剣を振るいながら、左手を後ろに伸ばした。


 血に濡れた、大きな手が。


 リディエは、その手を掴んだ。


 ◇


 走った。


 雨の路地を、手を繋いだまま。


 エリアスが前を、リディエが後ろを。一歩の距離もなかった。繋いだ手が、二人のあいだの距離のすべてだった。


 背後で、男たちの足音が追ってくる。角を曲がる。また曲がる。階段を駆け下りる。洗濯物の下をくぐる。雨はどんどん強くなって、石畳を叩く音が、足音も息遣いも、すべてを掻き消していった。


 エリアスの手は、熱かった。


 硬い手のひら。剣を握る者の手。雨と血で濡れて滑りそうになるたびに、彼は指を組み替えて、しっかりと握り直した。


 指と指のあいだに、指が絡んだ。


 こんなふうに手を繋いだことは、ない。


 ないはずなのに、指が、どこに収まればいいのかを知っていた。彼の人差し指と中指のあいだに、自分の中指。薬指の付け根に、ちょうど親指の腹が当たる位置。まるで、何度もそうしてきたかのように。


 ——誰かの手が、そっと自分の手に重なる。


 ——大きな手だった。剣を握る者の、硬い手のひら。


 燃やしたはずの夏の丘の記憶が、灰の底から、ぱちりと爆ぜた。


 リディエは、繋いだ手に力を込めた。


 エリアスが、ほんの一瞬だけ、振り返った。


 雨に濡れた前髪の下で、灰色の瞳が、驚いたように揺れていた。


 ◇


 路地を抜けると、忘れ川の岸辺に出た。


 古い石橋のアーチの下へ、エリアスはリディエを引き込んだ。橋の裏側、川面すれすれの狭い足場。頭上を雨が滝のように流れ落ちて、外の世界との間に、灰色の帳を下ろしていた。


 追手の足音は、聞こえなくなっていた。


 二人は、石の壁に背中を預けて、しばらく荒い息をついていた。


 手は、まだ繋いだままだった。


 どちらも、離さなかった。


 離すきっかけを、どちらも見つけられなかった。


「……撒いた、みたいね」


「はい」


「腕」


「かすり傷です」


「嘘。血が止まってない」


 リディエは、繋いでいないほうの手で、自分の外套の袖を掴んだ。力任せに引き裂く。黒い布が、びりりと音を立てて裂けた。


「リディエ様、それは」


「黙って」


 彼の左腕を取った。シャツの裂け目から、傷が見えた。浅くはないが、深くもない。骨までは届いていない。リディエは、細く裂いた布を、傷の上からきつく巻いた。


 彼の腕に、自分の指が触れていた。


 雨に冷えた肌の下で、脈が打っていた。速かった。走ったせいだけではない気がした。


 布の端を結び終えて、リディエは顔を上げた。


 近かった。


 狭いアーチの下で、二人の間には、指一本ぶんの隙間すらなかった。雨の匂い。濡れた石の匂い。そして、杉と、雪と、蜂蜜の匂い。


 エリアスは、リディエを見下ろしていた。


 灰色の瞳が、あまりにも近くにあって、自分の顔がその中に映っているのが見えた。


「……燃やせなかった」


 リディエは言った。


 声が、雨の音にまぎれそうなほど小さくなった。


「燃やそうとしたの。あの男たちを追い払うために。でも、燃やせなかった」


「……」


「燃やしたく、なかった」


 繋いだ手が、震えていた。自分の手なのか、彼の手なのか、わからなかった。


「今の私の中で、一番赤いものは——」


 そこで、言葉が止まった。


 それ以上言ったら、戻れなくなる。


 けれど、言わなくても、わかってしまった気がした。彼にも。自分にも。


 エリアスは、長いこと黙っていた。


 雨が、帳の向こうで降り続けていた。忘れ川の水が、足元のすぐ下を、音もなく流れていた。


 やがて、彼が言った。


「燃やさなくていい」


 低く、少し掠れた声。


「あなたが燃やさなくていいように——僕が、いるから」


 僕。


 いつもは、私、と言う人が。


 リディエは、その一語を、胸の中で繰り返した。僕。僕が、いるから。


 その響きを、知っている気がした。


 ——リディ、大丈夫だ。


 ——僕が。


 灰の底で、また何かが爆ぜた。


 エリアスは、自分の言葉に気づいたように、はっと口を閉ざした。灰色の瞳が揺れて、何かを取り繕おうとするように、視線が逸れかけた。


 リディエは、繋いだ手を、ぎゅっと握った。


 逸らさないで、と言う代わりに。


 エリアスは、動きを止めた。


 それから、ゆっくりと、握り返してきた。


 指と指が、しっかりと絡み合ったまま。


 二人は、何も言わなかった。言葉を探すのをやめて、ただ、雨の音を聞いていた。繋いだ手のひらの中で、二つの脈が、少しずつ同じ速さになっていくのを感じていた。


 ◇


 リディエは、ふと、繋いだ手の感触に違和感を覚えた。


 彼の手のひら。その真ん中あたりに、何か硬い、ざらりとしたものがある。


 指をほどかずに、少しだけ手を傾けて、覗き込んだ。


 火傷の痕だった。


 手のひらの中央に、小さな、けれどくっきりとした痕。古いものらしく、肌の色に馴染みかけている。形は、丸くない。何かの文字か、紋章のような——。


「これ」


 リディエが指でなぞると、エリアスの手が、びくりと跳ねた。


「……昔、火傷を」


「何で」


「覚えていません。子どもの頃のことなので」


 嘘だ、とリディエは思った。


 この人の嘘は、もうわかるようになっていた。言葉が滑らかすぎるのだ。まるで、ずっと前から用意していたように。


 けれど、訊かなかった。


 訊かないと、約束したから。


 代わりに、その痕を、親指の腹でそっと撫でた。一度だけ。


 エリアスが、小さく息を呑んだ。


 ◇


「師匠——っ!」


 雨の帳の向こうから、声がした。


 ばしゃばしゃと水を跳ね上げる足音。何人も。松明の火が、雨の向こうで揺れていた。


 リディエとエリアスは、同時に手を離した。


 手のひらから、熱が逃げていった。


 アーチの下に、ユーゴが飛び込んできた。全身ずぶ濡れで、巻き毛が額に張りついていた。その後ろに、塔の衛兵が四人。


「師匠! 無事ですか!」


「ユーゴ。どうしてここに」


「あ、後をつけてたんです。こいつが何か企んでるんじゃないかと思って……そしたら、変な連中が」


 ユーゴは、そこで言葉を切った。


 丸い目が、リディエの手と、エリアスの手を見た。


 二人の手は、もう離れていた。けれど、リディエの指先には、エリアスの血が赤く残っていた。エリアスの左腕には、リディエの外套の黒い布が巻かれていた。


 ユーゴの顔が、くしゃりと歪んだ。


 ほんの一瞬だけ。


「……連中は、逃げました。衛兵が追ってます」


 弟子は、目を逸らして言った。


「これが、路地に落ちてました」


 差し出された手のひらの上に、小さな円い徽章が載っていた。


 灰色の金属でできていた。表面に、紋章が刻まれている。


 閉じた、ひとつの目。


 ◇


 塔に戻ると、マグダが正門で待っていた。


 師は、ずぶ濡れの弟子と、腕に布を巻いた騎士を見て、何も言わずに頷いた。それから、ユーゴが差し出した徽章を受け取った。


 湖の底のような青い瞳が、閉じた目の紋章の上で止まった。


 師の顔から、血の気が引いていくのを、リディエは見た。


 十二年間、一度も見たことのない顔だった。


「……師匠?」


「——黙灰卿」


 マグダは、囁くように言った。


「生きていたのね」


「黙灰卿って」


「昔の話よ。あなたは知らなくていいわ」


 師は、徽章を握りしめた。皺だらけの指の関節が、白くなっていた。


「今夜は、もう休みなさい。ノクト卿は、医務室へ。ユーゴ、あなたも着替えなさい。風邪をひくわよ」


 それだけ言うと、マグダは踵を返して、塔の奥へ消えていった。


 あの人は、とリディエは思った。


 あの人は、知っている。あの男たちが誰なのか。「薪」という言葉が、何を意味するのか。


 そして、たぶん。


 なぜ彼らが、エリアスを狙ったのかも。


 ◇


 その夜、紅茶は届かなかった。


 エリアスは、医務室で傷の手当てを受けているはずだった。リディエは、自分で湯を沸かし、自分で茶葉を量り、自分で蜂蜜を掬った。


 一匙。二匙。


 ひとくち、飲んだ。


 少しだけ、違った。茶葉の蒸らし方か、湯の温度か、蜂蜜の掬い方か。どこがどう違うのか、わからない。けれど、あの人が淹れるものとは、少しだけ違った。


 リディエは、カップを置いた。


 右手を、灯りにかざした。


 指先に、もう血はついていなかった。洗い流したのだ。それでも、手のひらには、まだ熱が残っている気がした。指と指のあいだに、あの人の指が収まっていた場所。親指の腹に、あのざらりとした火傷の痕を撫でた感触。


 日記を開いた。


 ペンを取った。


 書くべきことは、たくさんあった。灰市場のこと。灰色の手の男たち。閉じた目の紋章。黙灰卿。師の青ざめた顔。


 薪。


 けれど、ペン先が最初に綴ったのは、別の一行だった。


 ——手を繋いだ。


 リディエは、その一行を、長いこと見つめていた。


 それから、灯りを消した。


 寝台の中で、右手を胸に抱えるようにして、目を閉じた。


 雨はまだ、窓の外で降り続けていた。


ありがとうございました。随時更新していきますのでよろしくお願いします。なお生成AIを使用しています

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