第1部 七度目のはじめまして
第8章 雨の中の手
忘れ川の下流、王都の南の外れに、灰市場と呼ばれる一角がある。
正式な名前ではない。石畳は割れ、軒先は低く、昼間でも薄暗い路地が蜘蛛の巣のように入り組んでいる。売られているのは、古着、欠けた食器、持ち主のわからない指輪や櫛。そして、「灰」だ。
燼術で燃やされた記憶の灰が、忘れ川に流れ着く。それを川底から掬い上げて乾かしたものだと称して、小瓶に詰めた灰色の粉が売られている。恋を忘れたい者は、それを枕の下に入れて眠るのだという。逆に、忘れた恋を思い出したい者は、それを舐めるのだという。
もちろん、ただの川砂だ。
少なくとも、灰の塔ではそう教えている。
「最近、灰市場で妙な噂があるそうです」
ユーゴが帰ってきた翌々日の朝、塔の記録室の老婆がそう言った。
「灰を買い集めている男がいる、って。本物の灰だけを。偽物は見ただけでわかるとかで、市場の連中は気味悪がってる。灰の塔の者なら、一度見ておいたほうがいいんじゃないかねえ」
本物の灰。
リディエは、その言葉が妙に引っかかった。燃やした記憶が本当にどこかへ流れ着くのだとしたら。自分が六度燃やしたものが、どこかに残っているのだとしたら。
午後、リディエは灰市場へ向かった。
一歩後ろに、エリアスを連れて。
◇
空は朝から重く曇っていた。
灰市場の路地は、噂に聞くよりもさらに狭く、湿っていた。軒と軒のあいだから、細く切り取られた灰色の空が見える。行き交う人々は皆、フードを目深に被り、互いの顔を見ようとしない。
リディエも、黒い外套の頭巾を被っていた。灰色の髪は、この王都では目立ちすぎる。
「こちらです」
エリアスが、路地の角で足を止めた。
古びた木の看板に、かすれた字で「灰」とだけ書かれた店。軒先に、大小の硝子の小瓶がずらりと吊るされていた。中身はどれも灰色の粉で、雨の前の湿った風に、かすかに揺れていた。
店の奥から、腰の曲がった老女が顔を出した。
「いらっしゃい。どんな灰をお探しで」
「灰を買い集めている男がいると聞いたわ」
リディエが言うと、老女の皺だらけの顔が、すっと強張った。
「……知らないね」
「本物の灰だけを買っていく、と」
「知らないって言ってるだろう」
老女は、店の奥に引っ込もうとした。
その瞬間、軒先の小瓶のひとつが、ぱりん、と音を立てて割れた。
誰も触れていなかった。風でもなかった。灰色の粉が、割れた瓶から零れ落ちて、ゆっくりと宙に舞った。
エリアスが、リディエの前に出た。
「下がってください」
低い声だった。いつもの柔らかさが、消えていた。
路地の両端に、人影が立っていた。
四人。いや、六人。全員が灰色の外套を着て、顔を布で覆っている。そして、その両手が——手袋もしていない素手が、まるで灰を塗り込めたように、白く濁っていた。
「灰の魔女」
先頭の男が、布越しにくぐもった声で言った。
「お前に用はない」
男の濁った指が、まっすぐにエリアスを指した。
「——薪を、渡してもらおう」
◇
薪。
その言葉の意味が、リディエにはわからなかった。
わからないまま、背筋を冷たいものが走った。
エリアスの肩が、ほんのわずかに強張ったのが見えた。彼は、わかっているのだ。この男たちが何を言っているのか。何を——誰を、求めているのか。
「何のことかわかりません」
エリアスは、剣の柄に手をかけた。
「お引き取りを」
「とぼけるな。お前の中で、何が燃えているか、我らの主にはわかっている」
男たちが、じりじりと距離を詰めてきた。
空から、最初の一滴が落ちてきた。
リディエは、目を閉じた。
◇
古い図書館。天井まで届く書架。果てしなく続く通路。
燃やせるものを探した。
灰色の背表紙。退屈な日々。燃やしても、火花ひとつ散らない。青い背表紙。悲しみ。冷たい光しか生まない。黄色。ささやかな喜び。蝋燭の火ほどの熱にしかならない。
赤が、要る。
六人の男を退けるだけの、赤が。
通路の奥へ走った。書架の多くは歯抜けで、灰が積もっていた。燃やしてきたものの跡。家族。友人。師への敬愛の一部。そして、一番奥の暗がりの、新しい隙間。北境で燃やした、夏の丘の夕暮れ。
その隣に。
一冊の本が、立っていた。
まだ薄い本だった。頁の数も少ない。けれど、背表紙は、はっきりと赤かった。日ごとに、少しずつ赤みを増していったような、深い、深い色。
リディエは、その本に手を伸ばしかけて——止めた。
開かなくても、中身はわかっていた。
城壁の上の外套。二匙の紅茶。夜の回廊。子守唄。指一本ぶんの隙間。杏の焼き菓子。「リディエ様」と言い直した唇の形。
この一ヶ月の、全部。
燃やせば、六人どころか、この路地ごと吹き飛ばせるだろう。
燃やせば、あの人のことを、また忘れる。
七度目も。
「……いや」
声に出していた。
図書館の中で、リディエは本から手を引いた。胸に抱えるようにして、後ずさった。
いやだ。
これだけは、いやだ。
代わりに、手近な棚から、薄い黄色の本を一冊抜き取った。塔の食堂で、若い魔女たちと焼き栗を分け合った冬の夜の記憶。ささやかで、温かくて、どうでもいい記憶。
火をつけた。
◇
目を開けると、手のひらの上で、小さな火花がひとつ、ぱちりと爆ぜた。
それだけだった。
雨粒が、その火花を消した。
「リディエ様!」
エリアスの声がした。
男たちが、一斉に動いていた。
エリアスが剣を抜いた。灰色の刃が、雨の中で鈍く光った。最初の男の短剣を弾き、二人目の足を払い、三人目の腕を柄で打った。速かった。中庭でユーゴを相手にしたときとは、まるで違う動きだった。
けれど、相手は六人だった。
四人目の刃が、エリアスの左腕を掠めた。白いシャツの袖が裂け、赤いものが雨に混じって散った。
「エリアス!」
彼は、振り返らなかった。
ただ、右手で剣を振るいながら、左手を後ろに伸ばした。
血に濡れた、大きな手が。
リディエは、その手を掴んだ。
◇
走った。
雨の路地を、手を繋いだまま。
エリアスが前を、リディエが後ろを。一歩の距離もなかった。繋いだ手が、二人のあいだの距離のすべてだった。
背後で、男たちの足音が追ってくる。角を曲がる。また曲がる。階段を駆け下りる。洗濯物の下をくぐる。雨はどんどん強くなって、石畳を叩く音が、足音も息遣いも、すべてを掻き消していった。
エリアスの手は、熱かった。
硬い手のひら。剣を握る者の手。雨と血で濡れて滑りそうになるたびに、彼は指を組み替えて、しっかりと握り直した。
指と指のあいだに、指が絡んだ。
こんなふうに手を繋いだことは、ない。
ないはずなのに、指が、どこに収まればいいのかを知っていた。彼の人差し指と中指のあいだに、自分の中指。薬指の付け根に、ちょうど親指の腹が当たる位置。まるで、何度もそうしてきたかのように。
——誰かの手が、そっと自分の手に重なる。
——大きな手だった。剣を握る者の、硬い手のひら。
燃やしたはずの夏の丘の記憶が、灰の底から、ぱちりと爆ぜた。
リディエは、繋いだ手に力を込めた。
エリアスが、ほんの一瞬だけ、振り返った。
雨に濡れた前髪の下で、灰色の瞳が、驚いたように揺れていた。
◇
路地を抜けると、忘れ川の岸辺に出た。
古い石橋のアーチの下へ、エリアスはリディエを引き込んだ。橋の裏側、川面すれすれの狭い足場。頭上を雨が滝のように流れ落ちて、外の世界との間に、灰色の帳を下ろしていた。
追手の足音は、聞こえなくなっていた。
二人は、石の壁に背中を預けて、しばらく荒い息をついていた。
手は、まだ繋いだままだった。
どちらも、離さなかった。
離すきっかけを、どちらも見つけられなかった。
「……撒いた、みたいね」
「はい」
「腕」
「かすり傷です」
「嘘。血が止まってない」
リディエは、繋いでいないほうの手で、自分の外套の袖を掴んだ。力任せに引き裂く。黒い布が、びりりと音を立てて裂けた。
「リディエ様、それは」
「黙って」
彼の左腕を取った。シャツの裂け目から、傷が見えた。浅くはないが、深くもない。骨までは届いていない。リディエは、細く裂いた布を、傷の上からきつく巻いた。
彼の腕に、自分の指が触れていた。
雨に冷えた肌の下で、脈が打っていた。速かった。走ったせいだけではない気がした。
布の端を結び終えて、リディエは顔を上げた。
近かった。
狭いアーチの下で、二人の間には、指一本ぶんの隙間すらなかった。雨の匂い。濡れた石の匂い。そして、杉と、雪と、蜂蜜の匂い。
エリアスは、リディエを見下ろしていた。
灰色の瞳が、あまりにも近くにあって、自分の顔がその中に映っているのが見えた。
「……燃やせなかった」
リディエは言った。
声が、雨の音にまぎれそうなほど小さくなった。
「燃やそうとしたの。あの男たちを追い払うために。でも、燃やせなかった」
「……」
「燃やしたく、なかった」
繋いだ手が、震えていた。自分の手なのか、彼の手なのか、わからなかった。
「今の私の中で、一番赤いものは——」
そこで、言葉が止まった。
それ以上言ったら、戻れなくなる。
けれど、言わなくても、わかってしまった気がした。彼にも。自分にも。
エリアスは、長いこと黙っていた。
雨が、帳の向こうで降り続けていた。忘れ川の水が、足元のすぐ下を、音もなく流れていた。
やがて、彼が言った。
「燃やさなくていい」
低く、少し掠れた声。
「あなたが燃やさなくていいように——僕が、いるから」
僕。
いつもは、私、と言う人が。
リディエは、その一語を、胸の中で繰り返した。僕。僕が、いるから。
その響きを、知っている気がした。
——リディ、大丈夫だ。
——僕が。
灰の底で、また何かが爆ぜた。
エリアスは、自分の言葉に気づいたように、はっと口を閉ざした。灰色の瞳が揺れて、何かを取り繕おうとするように、視線が逸れかけた。
リディエは、繋いだ手を、ぎゅっと握った。
逸らさないで、と言う代わりに。
エリアスは、動きを止めた。
それから、ゆっくりと、握り返してきた。
指と指が、しっかりと絡み合ったまま。
二人は、何も言わなかった。言葉を探すのをやめて、ただ、雨の音を聞いていた。繋いだ手のひらの中で、二つの脈が、少しずつ同じ速さになっていくのを感じていた。
◇
リディエは、ふと、繋いだ手の感触に違和感を覚えた。
彼の手のひら。その真ん中あたりに、何か硬い、ざらりとしたものがある。
指をほどかずに、少しだけ手を傾けて、覗き込んだ。
火傷の痕だった。
手のひらの中央に、小さな、けれどくっきりとした痕。古いものらしく、肌の色に馴染みかけている。形は、丸くない。何かの文字か、紋章のような——。
「これ」
リディエが指でなぞると、エリアスの手が、びくりと跳ねた。
「……昔、火傷を」
「何で」
「覚えていません。子どもの頃のことなので」
嘘だ、とリディエは思った。
この人の嘘は、もうわかるようになっていた。言葉が滑らかすぎるのだ。まるで、ずっと前から用意していたように。
けれど、訊かなかった。
訊かないと、約束したから。
代わりに、その痕を、親指の腹でそっと撫でた。一度だけ。
エリアスが、小さく息を呑んだ。
◇
「師匠——っ!」
雨の帳の向こうから、声がした。
ばしゃばしゃと水を跳ね上げる足音。何人も。松明の火が、雨の向こうで揺れていた。
リディエとエリアスは、同時に手を離した。
手のひらから、熱が逃げていった。
アーチの下に、ユーゴが飛び込んできた。全身ずぶ濡れで、巻き毛が額に張りついていた。その後ろに、塔の衛兵が四人。
「師匠! 無事ですか!」
「ユーゴ。どうしてここに」
「あ、後をつけてたんです。こいつが何か企んでるんじゃないかと思って……そしたら、変な連中が」
ユーゴは、そこで言葉を切った。
丸い目が、リディエの手と、エリアスの手を見た。
二人の手は、もう離れていた。けれど、リディエの指先には、エリアスの血が赤く残っていた。エリアスの左腕には、リディエの外套の黒い布が巻かれていた。
ユーゴの顔が、くしゃりと歪んだ。
ほんの一瞬だけ。
「……連中は、逃げました。衛兵が追ってます」
弟子は、目を逸らして言った。
「これが、路地に落ちてました」
差し出された手のひらの上に、小さな円い徽章が載っていた。
灰色の金属でできていた。表面に、紋章が刻まれている。
閉じた、ひとつの目。
◇
塔に戻ると、マグダが正門で待っていた。
師は、ずぶ濡れの弟子と、腕に布を巻いた騎士を見て、何も言わずに頷いた。それから、ユーゴが差し出した徽章を受け取った。
湖の底のような青い瞳が、閉じた目の紋章の上で止まった。
師の顔から、血の気が引いていくのを、リディエは見た。
十二年間、一度も見たことのない顔だった。
「……師匠?」
「——黙灰卿」
マグダは、囁くように言った。
「生きていたのね」
「黙灰卿って」
「昔の話よ。あなたは知らなくていいわ」
師は、徽章を握りしめた。皺だらけの指の関節が、白くなっていた。
「今夜は、もう休みなさい。ノクト卿は、医務室へ。ユーゴ、あなたも着替えなさい。風邪をひくわよ」
それだけ言うと、マグダは踵を返して、塔の奥へ消えていった。
あの人は、とリディエは思った。
あの人は、知っている。あの男たちが誰なのか。「薪」という言葉が、何を意味するのか。
そして、たぶん。
なぜ彼らが、エリアスを狙ったのかも。
◇
その夜、紅茶は届かなかった。
エリアスは、医務室で傷の手当てを受けているはずだった。リディエは、自分で湯を沸かし、自分で茶葉を量り、自分で蜂蜜を掬った。
一匙。二匙。
ひとくち、飲んだ。
少しだけ、違った。茶葉の蒸らし方か、湯の温度か、蜂蜜の掬い方か。どこがどう違うのか、わからない。けれど、あの人が淹れるものとは、少しだけ違った。
リディエは、カップを置いた。
右手を、灯りにかざした。
指先に、もう血はついていなかった。洗い流したのだ。それでも、手のひらには、まだ熱が残っている気がした。指と指のあいだに、あの人の指が収まっていた場所。親指の腹に、あのざらりとした火傷の痕を撫でた感触。
日記を開いた。
ペンを取った。
書くべきことは、たくさんあった。灰市場のこと。灰色の手の男たち。閉じた目の紋章。黙灰卿。師の青ざめた顔。
薪。
けれど、ペン先が最初に綴ったのは、別の一行だった。
——手を繋いだ。
リディエは、その一行を、長いこと見つめていた。
それから、灯りを消した。
寝台の中で、右手を胸に抱えるようにして、目を閉じた。
雨はまだ、窓の外で降り続けていた。
ありがとうございました。随時更新していきますのでよろしくお願いします。なお生成AIを使用しています




