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あなたを忘れるための魔法  作者: 南野


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7/11

第1部 七度目のはじめまして

第7章 弟子の嫉妬


 七度目です、という声が、耳から離れなかった。


 茶会から戻って七日のあいだ、リディエはエリアスに何も訊かなかった。訊かないと約束したのは自分だ。約束を破るのは、灰の魔女の流儀ではない。


 その代わり、探した。


 大事なものは、必ず二か所以上に隠しておく子だったわ——セラフィナの言葉を頼りに、自室を隅から隅まで調べた。寝台の下。衣装箱の底。書棚の裏。暖炉の煉瓦の緩んだところ。窓枠の隙間。


 何も出てこなかった。


 出てこないたびに、少しだけ安堵している自分がいた。見つけてしまったら、もう後戻りできない気がしたから。


 夜の紅茶は、変わらず届いた。回廊も、変わらず歩いた。一歩の距離で。けれど、並んで窓辺に立つことは、あの夜以来一度もなかった。


 立ってしまったら、訊いてしまう気がした。


 七度目って、何。


 あなたは、私を、何度見送ったの。


 ◇


 八日目の朝、塔の正門が騒がしくなった。


「師匠——っ!」


 階段を駆け上がってくる足音と、よく通る声。書庫で帳簿をつけていたリディエは、羽根ペンを置いて顔を上げた。


 入口に立っていたエリアスが、わずかに身構えるのがわかった。


 次の瞬間、扉が勢いよく開いた。


「師匠! ただいま戻りました!」


 栗色の巻き毛の青年が、旅装のまま飛び込んできた。日に焼けた頬。人懐っこい丸い目。背は伸びたけれど、笑うと片頬にだけえくぼができるところは、四年前と少しも変わっていなかった。


「ユーゴ」


 リディエは立ち上がった。


「南の駐屯地は? 任期はまだ半年残っていたでしょう」


「繰り上げてもらいました。師匠が北境で紅の壁を張ったって聞いて、いてもたってもいられなくて」


 ユーゴ・ランベールは、大股で書庫を横切ってくると、何の遠慮もなくリディエを抱きしめた。


 日向と、潮風と、柑橘の匂いがした。


「ちょっと」


「無事でよかった。本当に、よかった」


「苦しい」


「あ、すみません」


 ユーゴはぱっと腕を離した。けれど両手はリディエの肩に置いたままで、嬉しそうに顔を覗き込んでくる。


 灰の塔には、男の燼術師はほとんどいない。ユーゴはその数少ないひとりで、十四歳から二年間、リディエの弟子だった。リディエがまだ十六歳で、弟子を取るには若すぎると誰もが反対した頃のことだ。


 二人で、よく塔の屋上で星を見た。ユーゴは覚えが悪くて、よく泣いて、よく笑った。二年の修行を終えて南の駐屯地へ赴任していった日、彼は正門の前で振り返って、大きく手を振った。


 ——師匠、手紙書きます! 毎月!


 約束通り、手紙は毎月届いた。リディエも、毎月返事を書いた。


「お土産があるんです」


 ユーゴは背負い袋を下ろし、中から小さな陶器の壺を取り出した。


「南の果樹園の、橙の花の蜂蜜です。すごくいい香りなんですよ。師匠、甘いもの好きでしょう」


 壺の蓋を開けると、書庫いっぱいに、白い花の香りが広がった。


 そのとき、ユーゴの視線が、リディエの肩越しに入口のほうへ流れた。


 丸い目が、すっと細くなった。


「……師匠。あれ、誰です」


 ◇


「新しい護衛よ。エリアス・ノクト卿」


 リディエが言うと、エリアスは入口から一歩進み出て、騎士の礼を取った。


「はじめまして、ランベール殿」


「……どうも」


 ユーゴは礼を返さなかった。リディエの肩に置いた手に、わずかに力がこもった。


「新しい、ですか」


「ええ。先月から」


「ふうん」


 弟子は、騎士を頭のてっぺんから爪先までじろじろと眺め回した。エリアスは、表情ひとつ変えずにそれを受け止めていた。


「師匠、前の護衛は?」


「……交代したの」


「また?」


 リディエは、弟子の顔を見た。


「また、って」


「だって、師匠の護衛、しょっちゅう替わるじゃないですか」


 ユーゴは、何でもないことのように肩をすくめた。


「手紙に書いてあったでしょう。『新しい護衛が来た』って。半年に一回くらい」


 書庫の空気が、すっと冷えた気がした。


 入口のほうで、エリアスが動かなくなった。


「……私、そんなこと書いてた?」


「書いてましたよ。覚えてないんですか?」


「……」


「あ、そっか」


 ユーゴは、はっとしたように口元を押さえた。燼術師である彼は、師が燃やしたものを覚えていないことがあると、よく知っている。


「すみません。……でも、手紙は全部取ってありますよ。師匠からの手紙は一通も捨ててません。四年分、全部」


「全部」


「ええ。宝物ですから」


 ユーゴは屈託なく笑った。


 それから、ふと、何かを思い出したように首を傾げた。


「そういえば、変なんですよね。師匠の手紙、新しい護衛のこと、いつも同じように書いてくるんです」


「同じように?」


「『今度の護衛は無口で、三歩離れて歩く。でも紅茶を淹れるのがとてもうまい』って」


 ユーゴは、指を折った。


「六回くらい、読んだ気がするなあ。毎回、はじめて会った人のことみたいに書いてて。師匠、紅茶のうまい騎士がよっぽど好きなんだなって、南の宿舎で笑ってたんですよ」


 リディエは、何も言えなかった。


 背中に、エリアスの視線を感じた。振り返らなかった。振り返れなかった。


 六回。


 六回、自分は弟子に手紙を書いた。無口で、三歩離れて歩いて、紅茶を淹れるのがとてもうまい、新しい護衛のことを。


 六回とも、はじめて会った人のこととして。


「師匠?」


 ユーゴが、不思議そうに顔を覗き込んでいた。


「顔色、悪いですよ」


「……なんでもない」


 リディエは、橙の蜂蜜の壺に蓋をした。白い花の香りが、ふっと途切れた。


「長旅で疲れたでしょう。部屋を用意させるから、休みなさい」


「えー。師匠と話したいことが山ほどあるのに」


「夜に聞くわ」


「本当ですか? 約束ですよ」


 ユーゴは、ようやくリディエの肩から手を離した。書庫を出ていくとき、入口に立つエリアスの横をすり抜けながら、ちらりと横目で睨んだ。


 エリアスは、まっすぐ前を見ていた。


 その横顔が、ひどく白かった。


 ◇


 昼過ぎ、ユーゴが紅茶を淹れると言い出した。


「南で覚えたんです。いい淹れ方。師匠に飲んでほしくて」


 書庫の窓辺の小卓で、弟子は得意げに茶葉を量り、湯を注ぎ、砂時計をひっくり返した。手つきは悪くなかった。四年間、きっと本当に練習したのだろう。


 最後に、橙の花の蜂蜜を、匙でたっぷりと掬った。


 一匙。二匙。


 三匙。


「はい、師匠。甘党仕様です」


 差し出されたカップを、リディエは受け取った。


 ひとくち、含んだ。


 甘かった。橙の花の香りが、鼻に抜けた。いい蜂蜜だった。いい茶葉で、いい淹れ方だった。


 甘すぎた。


 舌の上で、甘さが重たく居座った。茶葉の渋みが、どこにも見つからなかった。三口目まで、カップを置けなかった。


 ——二匙半のときは、三口目までカップを置かない。甘すぎて、渋みを探しているから。


 回廊の月明かりの中で聞いた声が、耳の奥で蘇った。


「……おいしい、ですか?」


 ユーゴが、期待に満ちた目で見ていた。


「ええ」


 リディエは、微笑んだ。


「おいしいわ。ありがとう、ユーゴ」


 カップを、片手で持ったまま。


 入口のほうで、エリアスが目を伏せるのが、視界の端に見えた。


 ◇


 夕方、中庭で木剣の打ち合う音がした。


 書庫の窓から見下ろすと、雪の残る中庭の真ん中で、ユーゴとエリアスが向かい合っていた。二人とも上着を脱ぎ、木剣を構えている。周りには、塔の若い魔女たちが、面白がって輪を作っていた。


 リディエは、階段を駆け下りた。


「何をしてるの」


 中庭に飛び出すと、ユーゴが振り返って、にっと笑った。


「手合わせです。師匠の護衛がどのくらい強いのか、確かめておかないと」


「やめなさい」


「大丈夫ですって。木剣だし、魔法は使いませんから」


 ユーゴは、エリアスに向き直った。


「いいですよね、ノクト卿。僕が勝ったら、護衛を降りてもらえます?」


「ユーゴ!」


「冗談ですよ。半分は」


 エリアスは、リディエを見た。


 それから、静かに木剣を構え直した。


「一本だけ、お相手します」


 ユーゴが、雪を蹴って踏み込んだ。


 速かった。南の駐屯地で、剣の稽古も積んできたのだろう。燼術師らしからぬ鋭い打ち込みが、上段から、横から、立て続けにエリアスを襲った。


 エリアスは、動かなかった。


 正確には、最小限にしか動かなかった。半歩ずらし、木剣の角度をほんの少し変え、打ち込みを受け流す。一合、二合、三合。乾いた音が、夕暮れの中庭に響いた。見物の魔女たちが、息を呑んで見守っていた。


 ユーゴの顔が、赤くなっていった。


「なんで、打ち返さないんですか!」


「打ち返す必要がないので」


「馬鹿にしてるんですか!」


 ユーゴが、大きく振りかぶった。


 その瞬間、エリアスが一歩踏み込んだ。


 何が起きたのか、リディエにはよく見えなかった。ただ、乾いた音がひとつして、ユーゴの木剣が宙を舞い、雪の上に落ちた。


 エリアスの木剣の切っ先が、ユーゴの喉元で、ぴたりと止まっていた。


 触れてはいなかった。指一本ぶんの隙間を残して。


「……一本です」


 エリアスは、木剣を下ろした。


 ユーゴは、しばらく呆然と立ち尽くしていた。それから、拳を握りしめて、エリアスを睨みつけた。


「——あんた、何なんだよ」


 声が、震えていた。


「半年ごとに替わる護衛。毎回同じ、無口で紅茶のうまい騎士。師匠は毎回、はじめて会ったみたいに書いてくる。——あんた、何か隠してるだろ」


 エリアスは、答えなかった。


 夕陽が、彼の横顔を赤く染めていた。


「ユーゴ」


 リディエが呼ぶと、弟子はびくりと肩を震わせた。


「もういいでしょう。部屋に戻りなさい」


「師匠——」


「戻りなさい」


 ユーゴは、唇を噛んだ。雪の上の木剣を拾いもせずに、踵を返して、塔の中へ駆け込んでいった。


 見物の魔女たちが、気まずそうに散っていった。


 中庭には、リディエとエリアスだけが残った。


 エリアスは、ユーゴの木剣を拾い上げ、雪を払った。


「……申し訳ありません」


「どうして謝るの」


「弟子の方に、恥をかかせました」


「負けたのはあの子よ。あなたのせいじゃない」


 リディエは、彼の手を見た。木剣を握る、大きな手。


 指一本ぶんの隙間を残して、止めた切っ先。


「エリアス」


「はい」


「……なんでもない」


 訊かないと、約束したのだ。


 リディエは、彼の手から木剣を受け取り、塔の中へ戻った。


 ◇


 夜。


 約束通り、リディエはユーゴの部屋を訪ねた。


 弟子は、窓辺の椅子で膝を抱えていた。子どもの頃、稽古で叱られたあとと、同じ格好だった。


「……師匠」


「落ち着いた?」


「落ち着きません」


 ユーゴは、膝に顔を埋めたまま言った。


「僕、師匠のことが好きです」


 リディエは、扉の前で足を止めた。


「弟子としてじゃなくて。ずっと前から。十四のときから、ずっと」


 くぐもった声だった。泣いているのかもしれなかった。


「南にいる四年間、師匠の手紙だけが楽しみでした。いつか一人前になって、師匠の隣に立てるようになったら、言おうと思ってた。師匠が燼術を使うとき、代わりに僕が燃やせるようになったら」


 ユーゴは、顔を上げた。


 丸い目が、赤く潤んでいた。


「僕なら、師匠に燃やさせません。僕の記憶を燃やして、戦います。師匠が何も失わなくていいように」


 まっすぐな言葉だった。


 十四歳のあの子と、少しも変わらない、まっすぐな。


 リディエは、弟子の前に膝をついた。栗色の巻き毛に、そっと手を置いた。昔、よくそうしてあげたように。


「ありがとう、ユーゴ」


 弟子の目から、涙が一粒こぼれた。


「……ごめんなさい」


 リディエは言った。


 ユーゴは、しばらく黙っていた。


 それから、小さく訊いた。


「あいつの、せいですか」


 リディエは、答えなかった。


 答えられなかった。自分でも、まだよくわからなかったから。わかってしまうのが、少し怖かったから。


 ユーゴは、ぐいと袖で目を拭った。


「……いいです。わかってます。師匠、あいつのこと見るとき、耳が赤くなるから」


「……」


「でも」


 弟子の声に、硬いものが混じった。


「あいつ、絶対に何か隠してます。僕、暴いてやりますから。師匠が傷つくようなことだったら、絶対に許さない」


「ユーゴ」


「止めても無駄ですよ。僕、師匠の弟子ですから。諦めが悪いんです」


 ユーゴは、泣き腫らした目で、無理に笑ってみせた。片頬にだけ、えくぼができた。


 リディエは、少しだけ迷ってから、言った。


「ひとつ、お願いがあるの」


「何ですか」


「私があなたに書いた手紙。四年分、全部取ってあるって言ったわね」


「はい」


「見せてもらえる?」


 ◇


 ユーゴの背負い袋の底から、革紐で束ねた手紙の山が出てきた。


 四年分。五十通近く。どれも見覚えのある封筒で、見覚えのある自分の字だった。


 リディエは、自室に持ち帰ったそれを、机の上に日付順に並べていった。


 灯りの下で、一通ずつ開いた。


 塔の日常。季節の移り変わり。弟子への小言と、励まし。そして、ユーゴの言った通り、およそ半年に一度。


 ——新しい護衛が来ました。


 四年前の冬の手紙。


 ——無口な人で、三歩離れて歩きます。でも、紅茶を淹れるのがとても上手なの。蜂蜜の量が、最初からぴったりで驚きました。


 三年前の夏の手紙。


 ——新しい護衛が来ました。無口で、いつも三歩後ろにいます。紅茶を淹れるのが上手です。


 三年前の冬。


 ——今度の護衛は、なんだか寂しそうな顔をする人です。放っておけない気がします。紅茶がおいしいです。


 二年前の春。


 ——護衛の交代を願い出たけれど、師匠に却下されました。どうしてか、あの人のそばにいてはいけない気がするのです。でも、あの人の淹れる紅茶は、やっぱりおいしい。


 一年と少し前の秋。


 ——新しい護衛が来ました。はじめて会ったはずなのに、はじめてじゃない気がします。変なことを書いてごめんなさい。


 そして、今年の春。


 ——ユーゴ、聞いて。好きな人ができたの。


 リディエは、その一行で、手を止めた。


 ——護衛の騎士よ。無口で、三歩離れて歩いて、紅茶を淹れるのがとても上手な人。


 ——この前、王都の外れの丘に連れて行ってくれたの。夕焼けがとてもきれいだった。


 ——名前は、まだ内緒。あなた、からかうでしょう。


 ——でも、頭文字だけ教えてあげる。


 ——Eよ。


 手紙を持つ指が、震えた。


 六通の手紙が、机の上に並んでいた。四年分の、六人の自分が、六回、同じ人に出会っていた。無口で、三歩離れて歩いて、紅茶を淹れるのがとても上手な人に。


 六回とも、はじめて会った人として。


 六回とも、同じように、少しずつ惹かれていって。


 リディエは、椅子の背にもたれた。天井を見上げた。


 目の奥が、熱かった。


 扉を叩く音がした。


「リディエ様。紅茶を、お持ちしました」


 低く、少し掠れた声。言葉の終わりを柔らかく落とす癖。


 リディエは、目を閉じた。


 一度目の自分も、二度目の自分も、三度目も四度目も五度目も六度目も、きっとこの声を聞いたのだ。扉の向こうから。毎晩。


「……どうぞ」


 扉が開いた。


 エリアスは、敷居の手前で立ち止まった。机の上に並んだ手紙の束に、灰色の瞳が止まった。


 盆を持つ手が、ほんのわずかに揺れた。カップの中の紅茶に、小さな波紋が立った。


 リディエは、何も言わなかった。


 エリアスも、何も言わなかった。


 彼は三歩の外から腕を伸ばし、盆を机の端に置いた。一番新しい手紙の、すぐ隣に。


 ——Eよ。


「おやすみなさいませ」


 扉が閉まった。


 リディエは、カップを手に取った。


 両手で。


 二匙の甘さが、ゆっくりと胸に落ちていった。



ありがとうございました。随時更新していきますのでよろしくお願いします。なお生成AIを使用しています

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