第1部 七度目のはじめまして
第7章 弟子の嫉妬
七度目です、という声が、耳から離れなかった。
茶会から戻って七日のあいだ、リディエはエリアスに何も訊かなかった。訊かないと約束したのは自分だ。約束を破るのは、灰の魔女の流儀ではない。
その代わり、探した。
大事なものは、必ず二か所以上に隠しておく子だったわ——セラフィナの言葉を頼りに、自室を隅から隅まで調べた。寝台の下。衣装箱の底。書棚の裏。暖炉の煉瓦の緩んだところ。窓枠の隙間。
何も出てこなかった。
出てこないたびに、少しだけ安堵している自分がいた。見つけてしまったら、もう後戻りできない気がしたから。
夜の紅茶は、変わらず届いた。回廊も、変わらず歩いた。一歩の距離で。けれど、並んで窓辺に立つことは、あの夜以来一度もなかった。
立ってしまったら、訊いてしまう気がした。
七度目って、何。
あなたは、私を、何度見送ったの。
◇
八日目の朝、塔の正門が騒がしくなった。
「師匠——っ!」
階段を駆け上がってくる足音と、よく通る声。書庫で帳簿をつけていたリディエは、羽根ペンを置いて顔を上げた。
入口に立っていたエリアスが、わずかに身構えるのがわかった。
次の瞬間、扉が勢いよく開いた。
「師匠! ただいま戻りました!」
栗色の巻き毛の青年が、旅装のまま飛び込んできた。日に焼けた頬。人懐っこい丸い目。背は伸びたけれど、笑うと片頬にだけえくぼができるところは、四年前と少しも変わっていなかった。
「ユーゴ」
リディエは立ち上がった。
「南の駐屯地は? 任期はまだ半年残っていたでしょう」
「繰り上げてもらいました。師匠が北境で紅の壁を張ったって聞いて、いてもたってもいられなくて」
ユーゴ・ランベールは、大股で書庫を横切ってくると、何の遠慮もなくリディエを抱きしめた。
日向と、潮風と、柑橘の匂いがした。
「ちょっと」
「無事でよかった。本当に、よかった」
「苦しい」
「あ、すみません」
ユーゴはぱっと腕を離した。けれど両手はリディエの肩に置いたままで、嬉しそうに顔を覗き込んでくる。
灰の塔には、男の燼術師はほとんどいない。ユーゴはその数少ないひとりで、十四歳から二年間、リディエの弟子だった。リディエがまだ十六歳で、弟子を取るには若すぎると誰もが反対した頃のことだ。
二人で、よく塔の屋上で星を見た。ユーゴは覚えが悪くて、よく泣いて、よく笑った。二年の修行を終えて南の駐屯地へ赴任していった日、彼は正門の前で振り返って、大きく手を振った。
——師匠、手紙書きます! 毎月!
約束通り、手紙は毎月届いた。リディエも、毎月返事を書いた。
「お土産があるんです」
ユーゴは背負い袋を下ろし、中から小さな陶器の壺を取り出した。
「南の果樹園の、橙の花の蜂蜜です。すごくいい香りなんですよ。師匠、甘いもの好きでしょう」
壺の蓋を開けると、書庫いっぱいに、白い花の香りが広がった。
そのとき、ユーゴの視線が、リディエの肩越しに入口のほうへ流れた。
丸い目が、すっと細くなった。
「……師匠。あれ、誰です」
◇
「新しい護衛よ。エリアス・ノクト卿」
リディエが言うと、エリアスは入口から一歩進み出て、騎士の礼を取った。
「はじめまして、ランベール殿」
「……どうも」
ユーゴは礼を返さなかった。リディエの肩に置いた手に、わずかに力がこもった。
「新しい、ですか」
「ええ。先月から」
「ふうん」
弟子は、騎士を頭のてっぺんから爪先までじろじろと眺め回した。エリアスは、表情ひとつ変えずにそれを受け止めていた。
「師匠、前の護衛は?」
「……交代したの」
「また?」
リディエは、弟子の顔を見た。
「また、って」
「だって、師匠の護衛、しょっちゅう替わるじゃないですか」
ユーゴは、何でもないことのように肩をすくめた。
「手紙に書いてあったでしょう。『新しい護衛が来た』って。半年に一回くらい」
書庫の空気が、すっと冷えた気がした。
入口のほうで、エリアスが動かなくなった。
「……私、そんなこと書いてた?」
「書いてましたよ。覚えてないんですか?」
「……」
「あ、そっか」
ユーゴは、はっとしたように口元を押さえた。燼術師である彼は、師が燃やしたものを覚えていないことがあると、よく知っている。
「すみません。……でも、手紙は全部取ってありますよ。師匠からの手紙は一通も捨ててません。四年分、全部」
「全部」
「ええ。宝物ですから」
ユーゴは屈託なく笑った。
それから、ふと、何かを思い出したように首を傾げた。
「そういえば、変なんですよね。師匠の手紙、新しい護衛のこと、いつも同じように書いてくるんです」
「同じように?」
「『今度の護衛は無口で、三歩離れて歩く。でも紅茶を淹れるのがとてもうまい』って」
ユーゴは、指を折った。
「六回くらい、読んだ気がするなあ。毎回、はじめて会った人のことみたいに書いてて。師匠、紅茶のうまい騎士がよっぽど好きなんだなって、南の宿舎で笑ってたんですよ」
リディエは、何も言えなかった。
背中に、エリアスの視線を感じた。振り返らなかった。振り返れなかった。
六回。
六回、自分は弟子に手紙を書いた。無口で、三歩離れて歩いて、紅茶を淹れるのがとてもうまい、新しい護衛のことを。
六回とも、はじめて会った人のこととして。
「師匠?」
ユーゴが、不思議そうに顔を覗き込んでいた。
「顔色、悪いですよ」
「……なんでもない」
リディエは、橙の蜂蜜の壺に蓋をした。白い花の香りが、ふっと途切れた。
「長旅で疲れたでしょう。部屋を用意させるから、休みなさい」
「えー。師匠と話したいことが山ほどあるのに」
「夜に聞くわ」
「本当ですか? 約束ですよ」
ユーゴは、ようやくリディエの肩から手を離した。書庫を出ていくとき、入口に立つエリアスの横をすり抜けながら、ちらりと横目で睨んだ。
エリアスは、まっすぐ前を見ていた。
その横顔が、ひどく白かった。
◇
昼過ぎ、ユーゴが紅茶を淹れると言い出した。
「南で覚えたんです。いい淹れ方。師匠に飲んでほしくて」
書庫の窓辺の小卓で、弟子は得意げに茶葉を量り、湯を注ぎ、砂時計をひっくり返した。手つきは悪くなかった。四年間、きっと本当に練習したのだろう。
最後に、橙の花の蜂蜜を、匙でたっぷりと掬った。
一匙。二匙。
三匙。
「はい、師匠。甘党仕様です」
差し出されたカップを、リディエは受け取った。
ひとくち、含んだ。
甘かった。橙の花の香りが、鼻に抜けた。いい蜂蜜だった。いい茶葉で、いい淹れ方だった。
甘すぎた。
舌の上で、甘さが重たく居座った。茶葉の渋みが、どこにも見つからなかった。三口目まで、カップを置けなかった。
——二匙半のときは、三口目までカップを置かない。甘すぎて、渋みを探しているから。
回廊の月明かりの中で聞いた声が、耳の奥で蘇った。
「……おいしい、ですか?」
ユーゴが、期待に満ちた目で見ていた。
「ええ」
リディエは、微笑んだ。
「おいしいわ。ありがとう、ユーゴ」
カップを、片手で持ったまま。
入口のほうで、エリアスが目を伏せるのが、視界の端に見えた。
◇
夕方、中庭で木剣の打ち合う音がした。
書庫の窓から見下ろすと、雪の残る中庭の真ん中で、ユーゴとエリアスが向かい合っていた。二人とも上着を脱ぎ、木剣を構えている。周りには、塔の若い魔女たちが、面白がって輪を作っていた。
リディエは、階段を駆け下りた。
「何をしてるの」
中庭に飛び出すと、ユーゴが振り返って、にっと笑った。
「手合わせです。師匠の護衛がどのくらい強いのか、確かめておかないと」
「やめなさい」
「大丈夫ですって。木剣だし、魔法は使いませんから」
ユーゴは、エリアスに向き直った。
「いいですよね、ノクト卿。僕が勝ったら、護衛を降りてもらえます?」
「ユーゴ!」
「冗談ですよ。半分は」
エリアスは、リディエを見た。
それから、静かに木剣を構え直した。
「一本だけ、お相手します」
ユーゴが、雪を蹴って踏み込んだ。
速かった。南の駐屯地で、剣の稽古も積んできたのだろう。燼術師らしからぬ鋭い打ち込みが、上段から、横から、立て続けにエリアスを襲った。
エリアスは、動かなかった。
正確には、最小限にしか動かなかった。半歩ずらし、木剣の角度をほんの少し変え、打ち込みを受け流す。一合、二合、三合。乾いた音が、夕暮れの中庭に響いた。見物の魔女たちが、息を呑んで見守っていた。
ユーゴの顔が、赤くなっていった。
「なんで、打ち返さないんですか!」
「打ち返す必要がないので」
「馬鹿にしてるんですか!」
ユーゴが、大きく振りかぶった。
その瞬間、エリアスが一歩踏み込んだ。
何が起きたのか、リディエにはよく見えなかった。ただ、乾いた音がひとつして、ユーゴの木剣が宙を舞い、雪の上に落ちた。
エリアスの木剣の切っ先が、ユーゴの喉元で、ぴたりと止まっていた。
触れてはいなかった。指一本ぶんの隙間を残して。
「……一本です」
エリアスは、木剣を下ろした。
ユーゴは、しばらく呆然と立ち尽くしていた。それから、拳を握りしめて、エリアスを睨みつけた。
「——あんた、何なんだよ」
声が、震えていた。
「半年ごとに替わる護衛。毎回同じ、無口で紅茶のうまい騎士。師匠は毎回、はじめて会ったみたいに書いてくる。——あんた、何か隠してるだろ」
エリアスは、答えなかった。
夕陽が、彼の横顔を赤く染めていた。
「ユーゴ」
リディエが呼ぶと、弟子はびくりと肩を震わせた。
「もういいでしょう。部屋に戻りなさい」
「師匠——」
「戻りなさい」
ユーゴは、唇を噛んだ。雪の上の木剣を拾いもせずに、踵を返して、塔の中へ駆け込んでいった。
見物の魔女たちが、気まずそうに散っていった。
中庭には、リディエとエリアスだけが残った。
エリアスは、ユーゴの木剣を拾い上げ、雪を払った。
「……申し訳ありません」
「どうして謝るの」
「弟子の方に、恥をかかせました」
「負けたのはあの子よ。あなたのせいじゃない」
リディエは、彼の手を見た。木剣を握る、大きな手。
指一本ぶんの隙間を残して、止めた切っ先。
「エリアス」
「はい」
「……なんでもない」
訊かないと、約束したのだ。
リディエは、彼の手から木剣を受け取り、塔の中へ戻った。
◇
夜。
約束通り、リディエはユーゴの部屋を訪ねた。
弟子は、窓辺の椅子で膝を抱えていた。子どもの頃、稽古で叱られたあとと、同じ格好だった。
「……師匠」
「落ち着いた?」
「落ち着きません」
ユーゴは、膝に顔を埋めたまま言った。
「僕、師匠のことが好きです」
リディエは、扉の前で足を止めた。
「弟子としてじゃなくて。ずっと前から。十四のときから、ずっと」
くぐもった声だった。泣いているのかもしれなかった。
「南にいる四年間、師匠の手紙だけが楽しみでした。いつか一人前になって、師匠の隣に立てるようになったら、言おうと思ってた。師匠が燼術を使うとき、代わりに僕が燃やせるようになったら」
ユーゴは、顔を上げた。
丸い目が、赤く潤んでいた。
「僕なら、師匠に燃やさせません。僕の記憶を燃やして、戦います。師匠が何も失わなくていいように」
まっすぐな言葉だった。
十四歳のあの子と、少しも変わらない、まっすぐな。
リディエは、弟子の前に膝をついた。栗色の巻き毛に、そっと手を置いた。昔、よくそうしてあげたように。
「ありがとう、ユーゴ」
弟子の目から、涙が一粒こぼれた。
「……ごめんなさい」
リディエは言った。
ユーゴは、しばらく黙っていた。
それから、小さく訊いた。
「あいつの、せいですか」
リディエは、答えなかった。
答えられなかった。自分でも、まだよくわからなかったから。わかってしまうのが、少し怖かったから。
ユーゴは、ぐいと袖で目を拭った。
「……いいです。わかってます。師匠、あいつのこと見るとき、耳が赤くなるから」
「……」
「でも」
弟子の声に、硬いものが混じった。
「あいつ、絶対に何か隠してます。僕、暴いてやりますから。師匠が傷つくようなことだったら、絶対に許さない」
「ユーゴ」
「止めても無駄ですよ。僕、師匠の弟子ですから。諦めが悪いんです」
ユーゴは、泣き腫らした目で、無理に笑ってみせた。片頬にだけ、えくぼができた。
リディエは、少しだけ迷ってから、言った。
「ひとつ、お願いがあるの」
「何ですか」
「私があなたに書いた手紙。四年分、全部取ってあるって言ったわね」
「はい」
「見せてもらえる?」
◇
ユーゴの背負い袋の底から、革紐で束ねた手紙の山が出てきた。
四年分。五十通近く。どれも見覚えのある封筒で、見覚えのある自分の字だった。
リディエは、自室に持ち帰ったそれを、机の上に日付順に並べていった。
灯りの下で、一通ずつ開いた。
塔の日常。季節の移り変わり。弟子への小言と、励まし。そして、ユーゴの言った通り、およそ半年に一度。
——新しい護衛が来ました。
四年前の冬の手紙。
——無口な人で、三歩離れて歩きます。でも、紅茶を淹れるのがとても上手なの。蜂蜜の量が、最初からぴったりで驚きました。
三年前の夏の手紙。
——新しい護衛が来ました。無口で、いつも三歩後ろにいます。紅茶を淹れるのが上手です。
三年前の冬。
——今度の護衛は、なんだか寂しそうな顔をする人です。放っておけない気がします。紅茶がおいしいです。
二年前の春。
——護衛の交代を願い出たけれど、師匠に却下されました。どうしてか、あの人のそばにいてはいけない気がするのです。でも、あの人の淹れる紅茶は、やっぱりおいしい。
一年と少し前の秋。
——新しい護衛が来ました。はじめて会ったはずなのに、はじめてじゃない気がします。変なことを書いてごめんなさい。
そして、今年の春。
——ユーゴ、聞いて。好きな人ができたの。
リディエは、その一行で、手を止めた。
——護衛の騎士よ。無口で、三歩離れて歩いて、紅茶を淹れるのがとても上手な人。
——この前、王都の外れの丘に連れて行ってくれたの。夕焼けがとてもきれいだった。
——名前は、まだ内緒。あなた、からかうでしょう。
——でも、頭文字だけ教えてあげる。
——Eよ。
手紙を持つ指が、震えた。
六通の手紙が、机の上に並んでいた。四年分の、六人の自分が、六回、同じ人に出会っていた。無口で、三歩離れて歩いて、紅茶を淹れるのがとても上手な人に。
六回とも、はじめて会った人として。
六回とも、同じように、少しずつ惹かれていって。
リディエは、椅子の背にもたれた。天井を見上げた。
目の奥が、熱かった。
扉を叩く音がした。
「リディエ様。紅茶を、お持ちしました」
低く、少し掠れた声。言葉の終わりを柔らかく落とす癖。
リディエは、目を閉じた。
一度目の自分も、二度目の自分も、三度目も四度目も五度目も六度目も、きっとこの声を聞いたのだ。扉の向こうから。毎晩。
「……どうぞ」
扉が開いた。
エリアスは、敷居の手前で立ち止まった。机の上に並んだ手紙の束に、灰色の瞳が止まった。
盆を持つ手が、ほんのわずかに揺れた。カップの中の紅茶に、小さな波紋が立った。
リディエは、何も言わなかった。
エリアスも、何も言わなかった。
彼は三歩の外から腕を伸ばし、盆を机の端に置いた。一番新しい手紙の、すぐ隣に。
——Eよ。
「おやすみなさいませ」
扉が閉まった。
リディエは、カップを手に取った。
両手で。
二匙の甘さが、ゆっくりと胸に落ちていった。
ありがとうございました。随時更新していきますのでよろしくお願いします。なお生成AIを使用しています




