第1部 七度目のはじめまして
第6章 王女の茶会
王城の東の庭には、冬でも薔薇が咲く温室がある。
硝子と鉄骨でできた、鳥籠のような建物だ。中には南方から運ばせた土が敷きつめられ、床下を温泉の湯が巡っていて、真冬でも春のように暖かい。先代の王が、病弱だった王妃のために造らせたのだという。王妃が亡くなってからは、その娘である王女セラフィナの、ささやかな隠れ家になっていた。
招待状が届いたのは、回廊を並んで歩いた夜から三日後のことだった。
——灰の魔女リディエ・ヴァルン殿、ならびに護衛騎士エリアス・ノクト殿。明日の午後、東の温室にてお茶をご一緒に。
護衛の名前まで招待状に記されているのは、珍しいことだった。
「殿下は、あなたのことをご存知なの?」
城へ向かう馬車の中で、リディエは訊いた。向かいの座席に座ったエリアスは、窓の外を見たまま答えた。
「以前、城の警備に就いていたことがあります。そのときに、何度か」
「何度か」
「はい」
リディエは、それ以上は訊かなかった。訊かないと約束したのだ。けれど、膝の上で組んだ指に、少しだけ力が入った。
馬車の小さな窓から、冬の陽が差し込んでいた。二人の膝のあいだには、指一本ぶんどころか、手のひらひとつぶんの距離があった。
その距離を、ひどく遠く感じた。
◇
温室の扉を開けると、甘く湿った空気が頬を撫でた。
薔薇の香り。濡れた土の匂い。硝子越しの冬の光が、無数の花びらの上で柔らかく砕けている。赤、白、淡い杏色。雪の庭から一歩入っただけで、別の季節に迷い込んだようだった。
「リディエ!」
薔薇の茂みの向こうから、明るい声が弾けた。
金色の髪を無造作にひとつに編んだ少女が、裾を持ち上げて駆けてくる。王族らしい優雅さなど欠片もない走り方だった。そのまま勢いよく抱きつかれて、リディエは一歩よろめいた。
「殿下。走らないで。転ぶわよ」
「転ばないわ。北境から戻ったって聞いたのに、ちっとも会いに来てくれないんだもの。ひどいわ」
「塔の仕事が溜まっていたのよ」
「言い訳。——ああ、でも、無事でよかった」
王女セラフィナは、リディエの両腕を掴んで顔を覗き込んだ。十九歳。菫色の瞳が、嬉しそうに潤んでいた。王国の未来の女王は、灰の塔に入ったばかりの十歳のリディエが、初めて友人と呼んだ相手だった。
セラフィナは、リディエの肩越しに視線を移した。
「それで、そちらが新しい——」
言葉が、途切れた。
菫色の瞳が、エリアスの顔の上で止まった。ほんの一瞬、何かが大きく揺れた。驚き。痛み。それから、泣き笑いのような、奇妙な表情。
セラフィナの手に、力がこもった。リディエの腕に、爪が食い込むほどに。
「……殿下?」
リディエが呼ぶと、王女ははっとしたように手を離した。
「ごめんなさい。——ノクト卿、ね」
エリアスは、騎士の礼を取った。
「お目にかかれて光栄です、殿下」
「……ええ。こちらこそ」
セラフィナは微笑んだ。完璧な、王族の微笑みだった。
けれどリディエは、その唇の端が、ほんの少しだけ震えているのを見逃さなかった。
◇
茶会の卓は、温室の奥、白い薔薇に囲まれた小さな東屋に用意されていた。
銀の茶器。焼き菓子を盛った三段の皿。砂糖漬けの菫の花。セラフィナは自ら茶を淹れると言い張り、侍女たちを下がらせた。
「リディエは、蜂蜜よね」
王女は、蜂蜜の壺に匙を差し入れながら言った。
「二匙」
「……覚えていてくれたの」
「当たり前でしょう。十二年も一緒にいるのよ。あなた、昔は三匙だったのに、いつのまにか二匙になったのよね」
リディエは、カップを受け取る手を止めた。
「昔は、三匙だった?」
「そうよ。十代の頃は甘党で。それが、何年前だったかしら、急に二匙にしてって言い出して。理由を訊いても、こっちのほうがおいしいから、としか言わないの」
セラフィナは、自分のカップに砂糖を落としながら、何気ない調子で続けた。
「四年くらい前だったかしらね」
四年前。
日記の最初の空白が始まった頃だった。
リディエは、ゆっくりとカップを口に運んだ。二匙。いつもの甘さ。自分の舌が、ずっと昔からこれを好んでいたのだと思っていた。
違ったのだ。
四年前の冬、誰かが二匙の紅茶を淹れて、自分はそれを「おいしい」と思った。そしてそれ以来、ずっと二匙を選び続けてきた。その誰かのことを、何度忘れても。
向かいの席で、エリアスは自分のカップに目を落としていた。何も入れていない、黒い紅茶だった。
「ノクト卿は、何も入れないの?」
セラフィナが訊いた。
「はい。甘いものは、あまり」
「あら。じゃあ、そのお菓子も召し上がらない? 城の菓子職人が張り切ったのに」
「いただきます」
「無理しなくていいのよ」
「無理ではありません。——リディエ様が、お好きなので」
セラフィナが、目を丸くした。
リディエは、紅茶にむせた。
「な、何を」
「その、杏の焼き菓子です」
エリアスは、三段の皿の中段を目で示した。表面に杏の砂糖煮をのせた、小さな丸い焼き菓子。
「先ほどから、三度ほどご覧になっていたので」
リディエは、顔から火が出るかと思った。
確かに見ていた。見ていたけれど、それは、ただ何となく目に入っただけで、別に食べたいとか、そういうことでは——。
セラフィナが、吹き出した。
王族らしからぬ、盛大な笑い声だった。薔薇の葉が揺れるほどだった。王女は腹を抱え、目尻に涙を浮かべて、息も絶え絶えに笑い続けた。
「殿下」
「ご、ごめんなさい。だって、あなた——ああ、おかしい」
セラフィナは涙を拭い、それからふと、笑いを収めた。
菫色の瞳が、リディエとエリアスを交互に見た。
「……変わらないのね」
小さな呟きだった。独り言のような。
リディエは、聞こえなかったふりをした。
エリアスは、何も言わずに、杏の焼き菓子をひとつ取って、リディエの皿に置いた。
◇
茶が二杯目になった頃、セラフィナが言った。
「ノクト卿。お願いがあるのだけれど」
「何なりと」
「城の書庫に、北境の古い地図があるの。帝国との国境線が今とは違っていた頃のものよ。リディエに見せたいのだけれど、取ってきていただけるかしら。司書に言えばわかるわ」
あからさまな人払いだった。エリアスは一瞬だけリディエを見て、それから立ち上がった。
「すぐに戻ります」
足音が、薔薇の茂みの向こうに遠ざかっていった。
温室の扉が閉まる音がして、東屋には、二人だけが残った。
セラフィナは、しばらく黙ってカップの縁を指でなぞっていた。硝子の天井の向こうで、冬の雲がゆっくりと流れていく。
「リディエ」
「なに」
「あの人のこと、好き?」
リディエは、カップを取り落としそうになった。
「——な」
「答えなくていいわ。顔に書いてあるもの」
「書いてない」
「書いてあるわよ。あなた、誰かを好きになるとき、いつも同じ顔をするの」
セラフィナは、頬杖をついて、リディエを見た。からかう目ではなかった。ひどく優しくて、ひどく悲しい目だった。
「目が合うと、先に逸らすの。逸らしたあとで、もう一回だけ、こっそり見るの。それから、耳が赤くなる。自分では気づいていないでしょうけれど」
「……いつも、って」
リディエの声が、掠れた。
「いつも、って、何? 私、誰かを好きになったことなんて——」
ない、と言いかけて、言葉が止まった。
ない、はずだった。少なくとも、覚えている限りは。けれど日記には、六つの空白がある。蜂蜜で貼りついた頁には、自分の字で、「次の私は、きっとまた、あの人を好きになる」と書いてある。
セラフィナは、リディエの顔を、じっと見つめていた。
「私は、魔女じゃないから」
王女は、ゆっくりと言った。
「忘れないの。何も」
温室の中は暖かいはずなのに、リディエの指先は冷たくなっていた。
「殿下は、見てきたの?」
「……」
「私が、誰かを好きになるのを。何度も」
セラフィナは答えなかった。
代わりに、目を伏せた。長い金色の睫毛が、白い頬に影を落とした。
「ごめんなさい、リディエ」
声が、少しだけ震えていた。
「私からは、言えないの。約束したから」
「誰と」
「言えない」
「あの人と?」
セラフィナは、唇を噛んだ。
それが、答えだった。
◇
長い沈黙のあとで、王女は顔を上げた。
「代わりに、ひとつだけ教えてあげる」
セラフィナは、卓の上に身を乗り出した。菫色の瞳が、真剣な光を帯びていた。
「あなた、私に預けていったものがあるのよ」
「預けて……?」
「手紙。一通だけ。何年か前に、あなたが私に渡したの。『いつか、私が自分でここに辿り着いたら渡して。それまでは、何を訊かれても、絶対に渡さないで』って」
リディエは、息を呑んだ。
「ここ、って」
「それは、わからないわ。あなたは、それしか言わなかった。でも、あなたのことだから、きっと自分で見つけられる場所に、何か残しているはずよ」
王女は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「あなたって、昔から用心深いんだもの。大事なものは、必ず二か所以上に隠しておく子だったわ」
大事なものは、二か所以上に。
リディエの頭の中で、何かが小さく音を立てた。
日記の櫃。蜂蜜で貼りついた頁。灰色の外套の内側の、小さな隠し。自分はいつも、大事なものを一か所には置かない。そういう癖が、確かにある。
では、過去の自分は。
日記を切り取られることを予期していた過去の自分は、何を、どこに、隠したのだろう。
「……殿下」
「なあに」
「ありがとう」
セラフィナは首を振った。
「お礼なんて言わないで。私は、何もしてあげられないんだもの」
王女は、自分の紅茶に目を落とした。ずっと砂糖を入れたまま、かき混ぜもせずに放っておいたカップだった。
「私もね、リディエ」
呟くような声だった。
「覚えていてはいけない恋を、しているの」
リディエは、友人の顔を見つめた。
十二年のつきあいの中で、セラフィナがそんなことを口にしたのは、初めてだった。
「誰と、とは訊かないで。いつか話すわ。この戦争が終わったら」
「……戦争は、終わるの?」
「終わらせるのよ」
王女は顔を上げた。菫色の瞳の奥に、硬い、燃えるような光があった。
「春に、帝国の本隊が動くわ。三万。父上の軍議では、北境をまた灰の魔女に守らせるって話になってる。あなたに、また何かを燃やさせるって」
リディエは、黙っていた。
灰の魔女にとって、それは当たり前のことだった。燃やして、守る。守って、忘れる。十二年間、ずっとそうしてきた。
なのに今、胸の奥で、何かが小さく抵抗していた。
燃やしたくない、と。
今、胸の中にあるものを。回廊の月明かり。子守唄。指一本ぶんの隙間。杏の焼き菓子を皿に置いてくれた、大きな手。
「私は、それが嫌なの」
セラフィナが言った。
「あなたが、また泣くのを見るのが。理由もわからずに泣くあなたを見るのが。——だから、終わらせる方法を探してる。まだ、誰にも言えないけれど」
◇
温室の扉が開く音がした。
セラフィナは、ぱっと表情を変えた。いつもの、明るい王女の顔に。
「リディエ、お花を摘みに行ってきたら? 奥の白薔薇、今が一番きれいなの。ひと枝持って帰っていいわよ」
またしても、あからさまな人払いだった。
リディエは、友人の顔を見た。セラフィナは、にっこりと笑っていた。笑っているのに、目が、「お願い」と言っていた。
「……わかった」
リディエは席を立った。
白薔薇の茂みは、温室の一番奥、硝子の壁際にあった。背の高い蔓が格子に絡みつき、小さな白い花を無数に咲かせている。甘い香りが、むせかえるほどに濃い。
リディエは、枝を選ぶふりをしながら、耳を澄ませた。
盗み聞きなどするつもりはなかった。
けれど、温室は静かで、薔薇の蔓は音を遮らず、東屋はさほど遠くなかった。
「地図を、お持ちしました」
エリアスの声がした。
「ありがとう。そこに置いて」
紙を広げる音。それから、しばらくの沈黙。
「……座って、ノクト卿」
「いえ、私は」
「座って。命令よ」
椅子を引く音。
セラフィナの声が、ひどく小さくなった。薔薇の蔓の隙間から、かろうじて聞き取れるほどに。
「——何度目?」
リディエは、枝に伸ばした手を止めた。
長い、長い沈黙があった。
硝子の天井の上を、冬の風が渡っていく音がした。どこかで、水滴がひとつ落ちた。
それから、エリアスの声が聞こえた。
低く、少し掠れていて、言葉の終わりを柔らかく落とす声。
「……七度目です」
リディエの指に、薔薇の棘が刺さった。
痛みは、感じなかった。
白い花びらの上に、小さな赤い点がひとつ、ぽつりと落ちた。
「まだ、言わないの」
「言えません」
「あの子、気づき始めてるわよ」
「……わかっています」
「七度目も、同じように終わらせるつもり?」
答えは、なかった。
リディエは、薔薇の茂みの陰で、指先の血を見つめていた。赤い雫が、ゆっくりと膨らんで、白い花びらを伝って落ちていく。
七度目。
自分は、六度、忘れた。
セラフィナは、それを全部見てきた。
そしてあの人は——エリアスは、それを全部。
何度目、と訊かれて、七度目です、と答えられるほどに。一度も数え間違えることなく。
「……リディエ?」
東屋から、セラフィナの声がした。いつもの明るい声だった。
「いいの、見つかった?」
リディエは、目を閉じた。
ひとつ、息を吸った。
それから、目の前の枝を一本、手折った。棘が刺さったままの指で。
「ええ」
声は、驚くほど平坦に出た。灰の魔女の声だった。
「一番きれいなのを、見つけたわ」
白薔薇の枝を胸に抱えて、リディエは東屋へ戻った。
エリアスが、席から立ち上がった。灰色の瞳が、一瞬だけ、彼女の指先の赤に止まった。
何も言わなかった。
リディエも、何も言わなかった。
ただ、帰りの馬車の中で、向かい合った二人の膝のあいだの距離は、来たときよりも、ほんの少しだけ——指一本ぶんだけ、近かった。
ありがとうございました。随時更新していきますのでよろしくお願いします




