第1部 七度目のはじめまして
第5章 はじめまして、と彼は言った
エリアス・ノクトは、数えることで正気を保っている。
夜明け前、塔の東翼にある騎士の詰所で目を覚ますと、彼はまず天井を見上げて、指を折る。
一度目。二度目。三度目。四度目。五度目。六度目。
それから、七本目の指を、ゆっくりと折りかける。
——折りきらずに、止める。
七度目は、まだ終わっていない。
終わらせない、と決めている。
◇
燼術で燃やされた記憶がどこへ行くのかを、この国のほとんどの人は知らない。
灰になって忘れ川に流れる、と言い伝えは語る。魔女たちもそう信じている。燃やした記憶は消える。消えたものは戻らない。だから魔女は泣かない。泣く理由を、燃やしてしまうのだから。
半分は、本当だ。
ほとんどの魔女の記憶は、確かに燃えて、消える。
けれど、灰の塔の長が選んだ、たったひとりの魔女だけは違う。その魔女には「薪」と呼ばれる契約者がいて、彼女が燃やした記憶は、消えずに薪の中へ流れ込む。
四年前の冬、エリアスはその契約を結んだ。
二十二歳だった。騎士団に入って一年目の、北の海辺の村から出てきたばかりの、世間知らずの若造だった。
◇
契約のことを、今でも時々思い出す。
塔の最上階の書斎。暖炉の前の揺り椅子。窓辺の、名前も知らない青い花。マグダ・オルセンは、編み物の手を止めずに言った。
「あの子を守りたい?」
エリアスは、その少し前に、リディエ・ヴァルンの護衛に任じられたばかりだった。十八歳の、灰色の髪の魔女。初対面の日、彼女はエリアスを一瞥して、「はじめまして。三歩以上離れて」とだけ言った。
愛想のない人だと思った。
その三日後、南の村の水害を鎮めるために、彼女が燼術を使うのを見た。
濁流が堤を越えかけていた。村人たちが泣き叫んでいた。リディエは川岸に立ち、目を閉じ、しばらく動かなかった。長い、長い時間だった。そして目を開けたとき、彼女の両手から青白い光が溢れて、濁流が嘘のように静まった。
村人たちが歓声を上げる中で、リディエだけが、ぼんやりと空を見ていた。
何を燃やしたのか、とエリアスは訊いた。
彼女は首を傾げて、答えた。
「わからない。たぶん、友達だった人のこと」
その横顔を見て、エリアスは、自分の中で何かが決まってしまったのを感じた。
だから、マグダに訊かれたとき、迷わなかった。
「守りたいです」
「あの子が燃やした記憶を、あなたが預かることになる。それはつまり、あの子があなたを愛した記憶を、あなただけが抱えて生きるということ。あの子のほうは、何度でもあなたを忘れる」
「……僕を、愛するとは限りません」
「愛するわ」
マグダは、編み針を置いた。湖の底のような青い目で、エリアスを見上げた。
「薪に選ばれるのは、そういう人よ。あの子が、必ず好きになる人。そうでなければ、燃やすものが足りないもの」
そのときは、意味がよくわからなかった。
わからないまま、エリアスは差し出された羊皮紙に署名した。インクが乾く前に、手のひらが、火傷をしたように熱くなった。
契約には、ひとつだけ条件があった。
「薪は、自分が薪であることを、魔女に告げてはならない」
マグダは言った。
「告げた瞬間、預けた記憶はすべて魔女のもとへ逆流する。燃やして得た力も一緒にね。そうなったら、あの子がそれまでに張った結界も、鎮めた川も、全部元に戻ってしまう。北境の守りは崩れて、帝国軍がなだれ込んでくる」
だから、告げてはならない。
たとえ、何度忘れられても。
◇
一度目は、冬だった。
夜の書庫で、リディエが紅茶をこぼした。慌てて日記を拭く彼女に、エリアスは新しいカップを淹れて差し出した。適当に、蜂蜜を二匙入れて。
ひとくち飲んで、彼女は目を丸くした。
「……おいしい」
両手で、カップを抱えていた。
「両手で持つんですね」と言ったら、彼女は真っ赤になって「そんなことしてない」と怒った。
それが、始まりだった。
春の終わりまで、四ヶ月。
彼女は、少しずつ笑うようになった。書庫で、中庭で、回廊で。三歩の距離は二歩になり、一歩になり、ある夜、ゼロになった。「エリアス」と呼ぶ声が、日に日に柔らかくなっていった。
五月、西の国境で山崩れが起きた。村がひとつ、飲み込まれかけていた。
リディエは、崖の上で目を閉じた。
長い時間だった。水害のときよりも、ずっと長い時間。彼女は一度だけ振り返って、エリアスを見た。泣きそうな顔で、けれど笑っていた。
それから、燃やした。
崩れかけた山が、止まった。
そしてエリアスの胸に、火が流れ込んできた。
◇
預かった記憶は、魔女の側から見た記憶だ。
それを、最初の夜に知った。
宿舎の寝台の上で、エリアスは身体を丸めて震えていた。胸の中で、四ヶ月分の記憶が、燠火のように燃えていた。目を閉じると、書庫が見えた。夜の書庫。こぼれた紅茶。差し出されたカップ。
カップを差し出しているのは、自分だった。
自分の顔を、自分は下から見上げていた。
ひどく驚いた顔の、黒髪の青年。ぶっきらぼうで、でも手つきは驚くほど丁寧で。紅茶は、ちょうどいい甘さで。胸の奥が、とくん、と鳴った。
——この人、なんで私の好み、知ってるんだろう。
それは、リディエの声だった。
リディエの心の声だった。
エリアスは、自分がどんなふうに愛されていたのかを、全部知ってしまった。書庫で目が合ったとき、彼女の心臓がどう跳ねたか。中庭で名前を呼ばれたとき、彼女がどれほど嬉しかったか。初めて手が触れた夜、彼女がどんな気持ちで、その手を握り返したか。
——好き。
——この人が、好き。
——燃やしたくない。
最後の記憶は、崖の上だった。振り返って、エリアスを見た瞬間。
——ごめんね。
——忘れても、また好きになるから。
翌朝、塔に戻ったリディエは、エリアスの顔を見て、首を傾げた。
「……どなた?」
エリアスは、笑った。
笑うしか、なかった。
「本日から護衛に就きます。エリアス・ノクトです」
それから、言った。
「はじめまして」
◇
二度目は、夏から秋にかけて。
前と同じように紅茶を淹れた。前と同じように、彼女は目を丸くした。両手で持つ癖のことを教えたら、今度の彼女は、怒らずに笑った。
秋の嵐の夜、眠れないと言う彼女に、故郷の子守唄を歌った。流氷の音に負けないように、少し低い声で。彼女は隣で膝を抱えて、目を閉じて聴いていた。
——もう一回、歌って。
——覚えたいの。忘れても、これだけは覚えていられるように。
十月、北境の小競り合いで、彼女はそれを燃やした。
けれど、子守唄だけは残った。
記憶は燃えても、身体が覚えてしまったものは、灰の底に残るのだと、エリアスはそのとき知った。眠れない夜に、回廊を歩きながら、彼女は知らない歌を口ずさむようになった。
三つ上がって、二つ下がって、最後にふっと、息を抜くように落ちる。
それを聞くたびに、エリアスは、柱の陰で拳を握った。
◇
三度目は、教えなかった。
両手の癖も、子守唄も。教えたら、また燃やさせてしまう気がした。好きになられなければ、燃やされずに済む。燃やされなければ、忘れられずに済む。
だから、距離を取った。三歩を守り、必要のないことは話さなかった。
なのに、彼女のほうから近づいてきた。
——あなた、どうしていつも寂しそうな顔をしてるの。
——放っておけないじゃない。
三ヶ月で、燃やされた。
四度目は、彼女のほうが逃げた。
日記の切り取られた跡に気づいた四度目の彼女は、何かを察したのかもしれない。「あなたを好きになってはいけない気がする」と言って、エリアスを遠ざけた。護衛の交代を願い出た。
願いは、師によって却下された。
遠ざけられて、遠ざけられて、それでも同じ回廊を歩いた。ある雪の夜、窓辺で並んだとき、彼女が小さく言った。
——だめね。やっぱり、好きみたい。
その声が、泣いていた。
五度目は、短かった。二ヶ月。疫病の村を救うために。
六度目は——。
◇
エリアスは、詰所の窓を開けた。
夜明け前の冷たい風が、部屋の中に流れ込んできた。遠く、忘れ川の水音が聞こえる。
六度目は、夏だった。
彼女は、今までで一番よく笑った。書庫の片隅で、中庭の木陰で、王都の外れの丘の上で。
あの丘の夕暮れを、エリアスは一日に何度も思い出す。思い出さないようにしても、思い出してしまう。茜と群青の境目の空。草の匂い。肩と肩のあいだの、指一本ぶんの隙間。
その日、彼は初めて、彼女を短く呼んだ。
——リディ。
彼女は驚いて、それから、子どものように声を上げて笑った。
——誰も、そんなふうに呼ばないわ。
——嫌?
——……嫌じゃない。あなただけよ。そう呼んでいいのは。
手を重ねた。彼女の指が、そっと握り返してきた。
その夜、彼女は日記に、何かを長く書いていた。何を書いていたのか、エリアスは知らない。ただ、書き終えたあと、彼女は窓辺で紅茶をこぼして、慌てて頁を拭いていた。蜂蜜の甘い匂いが、部屋じゅうに広がっていた。
そして晩秋、北境へ向かう命令が下った。
◇
ヴォルグ砦の城壁の上で、エリアスは退避の命令を聞かなかった。
聞こえていた。聞こえていて、動けなかった。
目を閉じた彼女の横顔を、ずっと見ていた。彼女の中の書架の、一番奥の暗がりで、何が起きているのかがわかっていたから。
やがて、火が流れ込んできた。
丘の上の夕暮れが、胸の中で燃え上がった。今度も、彼女の側から見た記憶だった。
隣に座っている男の横顔。夕陽の逆光で、顔がよく見えない。見たい、と思う。見たい。この人の顔を、ちゃんと見ておきたい。
——リディ、大丈夫だ。
——僕が。
僕が、覚えているから。
あのとき、そう言おうとしていた。言い終える前に、彼女は目を閉じて、燃やした。
——待って。
——せめて顔を。せめて一度だけ、顔を——
城壁の上で、エリアスは声を殺して泣いた。
彼女が最後に見たかったのは、自分の顔だった。
それが、わかってしまった。
膝から崩れ落ちる彼女を、抱きとめた。見上げてくる瞳に、自分は映っていた。今度は、はっきりと。
——あなた、誰?
七度目が、始まった。
◇
夜が明けかけていた。
東の空の端が、薄く白み始めている。エリアスは詰所を出て、塔の中庭を横切り、忘れ川の岸辺へ下りた。
鉛色の水が、音もなく流れていた。
言い伝えでは、魔女たちの燃やした記憶は、この川に流れ着くという。
違う、とエリアスは思う。
リディエの記憶は、ここにある。
自分の胸に手を当てる。六度分の彼女が、ここで燃えている。四ヶ月の冬。夏から秋。三ヶ月。雪の夜。二ヶ月。丘の上の夕暮れ。六人のリディエが、それぞれのやり方で、エリアス・ノクトを愛した記憶。
全部、覚えている。
全部、返したい。
返せない。
「……昨夜は、危なかった」
川に向かって、呟いた。
名前で呼んで、と彼女が言った。月明かりの中で、すぐそこから見上げてきた。指一本ぶんの隙間を挟んで。
リディ、と呼びかけてしまうところだった。
呼べば、きっと彼女は気づく。丘の上の夕暮れの、あの声だと。それが、薪であることを告げることになるのかどうか、エリアスにはわからない。わからないから、踏みとどまった。
リディエ様。
あの呼び方をしたとき、彼女が少しだけ寂しそうな顔をしたのを、エリアスは見ていた。
その顔を、胸の奥の六人のリディエと並べて、しまっておいた。
◇
背後で、砂利を踏む音がした。
振り返ると、朝霧の中に、小柄な人影が立っていた。灰色の外套。深く被った頭巾。手に、編み物の籠を提げている。
「早いのね、ノクト卿」
マグダ・オルセンだった。
「……おはようございます、オルセン様」
「あの子に、日記を見られたそうね」
エリアスは答えなかった。
マグダは、川岸まで歩いてきて、エリアスの隣に立った。二人で、流れていく鉛色の水を眺めた。
「蜂蜜で、頁がくっついていたんですって。わたしとしたことが、見落としたわ」
穏やかな声だった。天気の話でもするような。
「……頁を切ったのは、あなたですか」
「ええ」
マグダは、あっさりと認めた。
「あの子が、過去の自分の恋を読んで、また同じ人を好きになったら困るもの。好きになるなら、まっさらな気持ちで好きになってもらわないと。そうでないと、よく燃えないのよ」
エリアスは、拳を握った。
爪が手のひらに食い込んだ。
「オルセン様」
「なあに」
「彼女は、今度は燃やさずに済みますか」
マグダは、しばらく黙っていた。
それから、籠の中から一通の封書を取り出して、エリアスに手渡した。封蝋には、王家の百合の紋章。
「帝国が、春に動くわ」
師は言った。
「本隊よ。今度は八千じゃない。三万。北境だけでは食い止められない。春までに、あの子にはもっと深く、もっと赤く、誰かを愛してもらわないといけないの」
エリアスは、封書を見下ろした。
「王女殿下が、お茶会を開くそうよ。あの子とあなたを招いて。……殿下は、あなたのことを覚えているわね」
「……はい」
「余計なことを言わないように、よく気をつけてね」
マグダは、エリアスの腕を軽く叩いた。孫をあやすような、優しい手つきだった。
それから、朝霧の中へ去っていった。
◇
エリアスは、ひとり川岸に残った。
東の空が、茜色に染まり始めていた。
茜と群青の境目。夕暮れと同じ色だ、と思った。朝焼けと夕焼けは、よく似ている。始まりと終わりの色が、同じだなんて。
春まで。
指を折る。冬。早春。——あと、四ヶ月ほど。
一度目と、同じ長さだ。
エリアスは、七本目の指を見下ろした。折りかけたまま、止まっている指。
今度こそ、と思った。
今度こそ、この指を折らせない。
どうすればいいのかは、わからない。薪であることを告げずに、彼女に燃やさせずに、北境を守る方法など、あるのかどうかもわからない。
それでも。
丘の上で言いかけた言葉を、エリアスは、朝焼けに向かって小さく呟いた。
「大丈夫だ、リディ」
今度は、最後まで。
「僕が、覚えているから」
鉛色の川面に、朝の光が細く砕けていた。
塔の窓のひとつに、灯りがともった。リディエの部屋の窓だった。
エリアスは、踵を返した。
今日もまた、三歩——いや、一歩の距離で、彼女のそばに立つために。
ありがとうございました。随時更新していきますのでよろしくお願いします




