第1部 七度目のはじめまして
初めまして
お手にとっていただきありがとうございます
第4章 夜の回廊
「——ええ」
長い沈黙のあとで、扉の向こうから声がした。
「Eで始まります。エリアス。ありふれた名前です」
声は落ち着いていた。いつもと同じ、低く、柔らかく終わる声。けれどリディエの耳は、その平坦さの下に、張り詰めた糸のようなものを聞き取っていた。
「王国には、Eで始まる名前の男が何千人もいます。エドガー、エミール、エルンスト。騎士団だけでも、両手の指では足りません」
「そうね」
リディエは立ち上がった。
毛布が肩から滑り落ちた。拾わなかった。手の中の頁を握ったまま、扉まで七歩を歩いた。一歩ごとに、心臓が肋骨の内側を叩いた。
「開けるわよ」
「私室には入らない約束です」
「ここは書斎。それに、入るのはあなたじゃない。開けるのは私」
返事を待たずに、取っ手を引いた。
エリアスは、扉のすぐ前に立っていた。三歩どころか、一歩もない距離だった。まるで、扉に額を押しつけるようにしてそこにいたかのように。
彼は一瞬だけ目を見開き、それからすぐに半歩下がった。灰色の瞳が、燭台の揺れる光の中で、リディエの顔と、その手の中の紙とを、交互に見た。
リディエは、頁を彼の目の前に掲げた。
「読んで」
「魔女殿の日記を、私が読むわけには」
「私が読めと言ってるの」
エリアスは、頁に目を落とした。
ほんの数行の文字を読むのに、彼はずいぶん長い時間をかけた。燭台の芯が、ちり、と小さく鳴った。雨が窓を叩き続けていた。
その間、リディエは彼の顔から目を離さなかった。
だから、見た。
——Eも一緒に来てくれるから。
その一行のところで、彼の睫毛がかすかに震えたのを。
——次の私は、きっとまた、あの人を好きになる。
その一行のところで、彼の喉が、何かを飲み下すように小さく動いたのを。
そして最後に、途切れた「だって、」の文字を見つめたまま、彼の唇が、ほんの一瞬だけ、何かの形を作りかけたのを。
声にはならなかった。
エリアスは、顔を上げた。
もうそこには、何もなかった。いつもの、静かで、穏やかで、何も読み取らせない騎士の顔だった。
「魔女殿の過去の恋について」
彼は言った。
「私から申し上げられることは、何もありません」
「知らない、じゃなくて?」
「申し上げられることは、ありません」
リディエは、唇を噛んだ。
言葉を選んでいる。嘘をつかないように。けれど本当のことも言わないように。この男は、ぎりぎりの細い道の上を、器用に歩いている。
「あなたなの?」
とうとう、訊いてしまった。
「このEは、あなたなの?」
エリアスは、答えなかった。
代わりに、ひどくゆっくりと、問い返した。
「もし私だったら」
灰色の瞳が、まっすぐにリディエを見た。
「どうなさいますか」
リディエは、口を開いた。
何も、出てこなかった。
もしそうだったら。この人が、過去の自分が愛した誰かだったら。自分は六度も、この人を忘れてきたのだとしたら。
——どうするのだろう。
怒るのだろうか。なぜ黙っていたのかと責めるのだろうか。それとも、泣くのだろうか。あるいは、ここで、この人の胸に——。
わからなかった。
自分がどうしたいのか、まるでわからなかった。わからないまま、胸の奥の空っぽの場所だけが、焼けるように熱かった。
エリアスは、ほんの少しだけ目を細めた。責めるようでも、からかうようでもなかった。ただ、何かを諦めたような、あるいは何かを待つことに慣れきった人のような、静かな顔だった。
「紅茶が冷めます」
彼は言った。
「おやすみなさいませ、魔女殿」
一礼して、背を向けた。
雨音の中を遠ざかっていく足音を、リディエは扉の前に立ったまま聞いていた。
呼び止めることは、できなかった。
◇
それから三日、リディエはエリアスを避けた。
避けた、といっても、護衛である以上、彼は常にそこにいる。書庫の入口に、回廊の柱の陰に、中庭の木立の向こうに。だからリディエにできたのは、目を合わせないことと、声をかけないことだけだった。
夜の紅茶は、変わらず届いた。
扉を叩く音。盆を置く音。「おやすみなさいませ」。
リディエは返事をしなかった。けれど、紅茶は毎晩残さず飲んだ。両手で、カップを持って。
蜂蜜で貼りついていた頁は、灰色の外套の内側にある小さな隠しの中に入れた。日記の櫃に戻す気には、どうしてもなれなかった。あの櫃の鍵を、もうひとり持っている人がいることを思うと。
外套は、毎晩寝台の脇の椅子にかけて眠った。
眠れはしなかったけれど。
◇
四日目の夜、リディエは回廊に出た。
眠れない夜はいつもそうするように。東の端から西の端まで、ゆっくりと三往復。月は細く、燭台の火は半分ほど落とされていて、石の床は青白い光と深い影の縞模様になっていた。
西の端の窓辺に、エリアスがいた。
あの夜と同じように、窓枠に肩を預けて、外を眺めていた。制服の上着は脱いで、白いシャツ一枚だった。月明かりが、その横顔の輪郭を淡く縁取っていた。
リディエは足を止めた。
彼は振り返らなかった。けれど、こちらの気配に気づいていることはわかった。窓枠にかけた指が、ほんのわずかに動いたから。
引き返そうか、と思った。
思っただけで、足は動かなかった。
「……毎晩、いるの?」
三日ぶりに、自分から声をかけた。
エリアスは、ゆっくりと振り返った。
「はい」
「どうして」
「魔女殿が、歩かれるので」
「私が歩かない夜もあるでしょう」
「ええ」
「そういう夜も、ここにいるの?」
エリアスは、少しだけ考えるような顔をした。
「……はい」
「どうして」
「歩かれるかもしれないので」
リディエは、呆れて息を吐いた。白い息が、月明かりの中で揺らいで消えた。
「眠らないの?」
「眠ります。魔女殿が眠られたあとで」
「私が眠ったかどうか、どうやってわかるの」
「回廊を三往復されたあとは、たいてい」
言いかけて、エリアスは口を閉じた。
リディエは、その言葉の続きを、自分で補った。
回廊を三往復したあとは、たいてい眠れる。
それは、リディエ自身がそう決めて続けてきた習慣だった。いつからそうしているのか覚えていない、けれど確かに自分だけのものだったはずの習慣。
それを、この人は知っている。
着任して、まだ十日あまりの人が。
「……観察が得意なのね」
「騎士ですので」
前と同じやりとりだった。けれど今夜は、言葉の響きが違って聞こえた。リディエの声には、もう刺がなかった。エリアスの声は、ほんの少しだけ、ほどけていた。
リディエは、窓のほうへ歩き出した。
五歩の距離で、止まった。
◇
その夜、二人は回廊を歩いた。
リディエが前を。エリアスが三歩後ろを。東の端まで行って、折り返し、西の端まで戻ってくる。石の床に、二人分の足音が、少しずつずれて響いた。
最初の一往復は、どちらも口をきかなかった。
二往復目の途中で、リディエが言った。
「故郷は、北の村だと言っていたわね」
「はい」
「どんなところ」
後ろで、エリアスが少し驚いたように息を吸うのがわかった。必要のないことは話しかけない、という約束だった。けれど、話しかけたのはリディエのほうだ。
「……海のそばです」
やがて、彼は答えた。
「北の、冷たい海です。冬は流氷が岸まで来て、夜になると、氷同士がぶつかる音が一晩中聞こえます。低い、唸るような音で。子どもの頃は、海の底に大きな獣が住んでいるのだと思っていました」
「怖かった?」
「少し。でも、母が歌ってくれたので」
「歌?」
「子守唄です。流氷の音に負けないように、少し低い声で」
リディエは、足を止めずに言った。
「歌って」
「——は」
「その子守唄。歌って」
「魔女殿、それは」
「命令よ」
後ろの足音が、一瞬乱れた。
それから、しばらくの沈黙があって。
低い声が、ほとんど囁くような小ささで、旋律を紡ぎ始めた。
言葉はなかった。ただ、ハミングだけだった。北の海の波のように、ゆっくりと寄せては返す、短い節の繰り返し。三つ上がって、二つ下がって、最後にふっと、息を抜くように落ちる。
リディエは、立ち止まった。
知っている。
この旋律を、知っている。
眠れない夜、ひとりで回廊を歩いているとき、気づけば口ずさんでいた歌。どこで覚えたのか、誰に教わったのか、まるで思い出せなかった歌。塔の古い魔女たちに訊いても、誰も知らなかった。王都の吟遊詩人も、首を傾げた。だからリディエは、きっと子どもの頃に母が歌ってくれたのだろうと思っていた。燃やしてしまった、母の記憶の、最後の欠片なのだろうと。
違った。
三つ上がって、二つ下がって、最後にふっと、息を抜くように落ちる。
後ろのハミングに合わせて、リディエの唇が、勝手に動いていた。声にはならない小さな息で、同じ旋律をなぞっていた。
ハミングが、止まった。
リディエは振り返った。
エリアスが、三歩後ろで立ち尽くしていた。月明かりの中で、その顔が、見たこともないほど無防備に崩れかけていた。灰色の瞳が揺れて、唇がかすかに開いて、まるで、ずっと遠くに置いてきた何かに、不意に呼ばれたような顔で。
ほんの一瞬だけ。
瞬きひとつのあいだに、彼はまた、いつもの静かな顔に戻っていた。
「……ご存知でしたか」
「知らない」
リディエは答えた。
「知らないわ。でも、歌える」
声が震えた。
「どこで覚えたのかわからない。誰に教わったのかもわからない。でも、歌えるの。眠れない夜は、いつも」
エリアスは、何も言わなかった。
何も言えないのだ、とリディエは思った。この人は、言えることと言えないことの境目の上に立っていて、今の自分の言葉は、その境目のずっと向こう側に落ちたのだ。
だから、それ以上は訊かなかった。
◇
三往復目。
東の端で折り返すとき、リディエは言った。
「三歩」
「はい」
「二歩にしてもいいわ」
後ろの足音が、止まった。
リディエは振り返らずに歩き続けた。耳まで熱かった。月明かりでは見えないはずだった。見えないでいてほしかった。
数拍遅れて、足音がついてきた。
さっきより、少しだけ近くから。
◇
次の夜も、その次の夜も、二人は回廊を歩いた。
昼間のエリアスは、相変わらず三歩——いや、今は二歩の距離を守り、必要のないことは話しかけてこなかった。けれど夜の回廊では、リディエが話しかければ答えるようになった。
北の海のこと。流氷のこと。父に弓を教わった森のこと。騎士団の宿舎の、壊れかけた暖炉のこと。
リディエも、少しずつ話した。
塔に来る前のことは、もうほとんど覚えていないこと。覚えていないことが、悲しいのかどうかさえ、もうわからないこと。十二年間で何を燃やしてきたのか、日記の上でしか知らないこと。
エリアスは、黙って聞いていた。
ときどき、相槌の代わりに、小さく息を吐いた。それが、とても優しい音に聞こえた。
六日目の夜、リディエは東の端で振り返って言った。
「一歩」
今度は、エリアスはすぐについてきた。
一歩の距離は、近かった。
手を伸ばせば、触れられる距離だった。振り返れば、肩が触れそうな距離だった。夜の冷たい空気の中で、すぐ後ろにいる人の体温が、薄い布越しに伝わってくるような気がした。杉と、雪と、蜂蜜の匂いがした。
リディエは、前だけを見て歩いた。
そうしないと、何かが崩れてしまいそうだった。
◇
七日目の夜、西の端の窓辺で、二人は並んで立っていた。
いつのまにか、そうなっていた。三往復を終えたあと、すぐに部屋へ戻る気になれなくて、リディエが窓辺で足を止めた。エリアスも止まった。一歩後ろではなく、隣に。
窓の外では、忘れ川が月を映していた。
二人とも、何も言わなかった。
リディエは、自分の右肩と、エリアスの左肩のあいだを見た。
隙間があった。
ちょうど、指一本ぶんの。
その瞬間、胸の奥で、何かが燃えた。
熱い、と思った。燃やしたはずのものが、灰の底から、まだ燻っている。夏の丘の上の風。草の匂い。茜と群青の境目の空。そして、肩と肩のあいだの、指一本ぶんの隙間。
その隙間が、世界で一番熱い場所のように感じられた。
今も。
あのときも。
「……前にも」
声が、勝手にこぼれた。
「前にも、こうしていた気がする」
隣で、エリアスが息を止めた。
リディエは、窓の外を見たまま続けた。
「誰かと、こうやって並んで。肩と肩のあいだに、少しだけ隙間があって。その隙間が、すごく熱くて」
言葉にしてから、自分が何を言っているのかに気づいて、頬が燃えた。けれど、止められなかった。
「おかしいわよね。覚えていないのに。何も、覚えていないのに」
長い沈黙があった。
忘れ川の水音が、遠く、低く聞こえていた。
「——気のせいです」
エリアスが言った。
その声が、震えていた。
ほんのわずかに。注意していなければ気づかないほどに。けれど、確かに震えていた。
リディエは、彼のほうを見なかった。見てしまったら、今度こそ何かが崩れる。自分の中の何かか、彼の中の何かか、それとも二人のあいだにある、細くて脆い何かが。
だから、窓の外を見たまま言った。
「エリアス」
初めて、名前で呼んだ。
隣で、彼がびくりと身じろぎするのがわかった。
「もう、訊かない」
リディエは言った。
「あなたが誰なのか。Eが誰なのか。あなたが言いたくなるまで、もう訊かない」
「……魔女殿」
「その代わり」
リディエは、ようやく、隣を見た。
月明かりの中で、灰色の瞳がこちらを見下ろしていた。近かった。指一本ぶんの隙間を挟んで、彼の顔が、すぐそこにあった。
「その呼び方、やめて」
エリアスの瞳が、揺れた。
「魔女殿、じゃなくて。名前で呼んで」
彼は、唇を開いた。
何かを言いかけた。
その唇の形を、リディエは見ていた。最初の音。舌先が上の歯の裏に触れる、柔らかな「り」の音。そして、その次に続くはずだった、短い、たった一音の——
彼は、口を閉じた。
ひとつ、息を吸った。
そして、言い直した。
「……リディエ様」
丁寧で、正しくて、何の落ち度もない呼び方だった。
なのに、なぜだろう。
リディエには、彼が本当は別の呼び方をしようとしていたように思えてならなかった。もっと短くて、もっと柔らかくて、最後の音をそっと落とすような呼び方を。
この世界で、誰も自分をそんなふうには呼ばない。
呼ばない、はずなのに。
「……様は、要らない」
「それは、できかねます」
「頑固ね」
「よく言われます」
エリアスは、ほんの少しだけ笑った。雪が溶けるような笑い方だった。
リディエも、少しだけ笑った。
指一本ぶんの隙間は、そのまま埋まらなかった。けれど、どちらも、そこから離れようとはしなかった。
◇
部屋に戻ってから、リディエは日記を開いた。
新しい頁に、ペンを走らせる。
——眠れなくて、回廊を歩いた。エリアスがいた。
——彼の故郷の子守唄を聴いた。私はそれを知っていた。どこで覚えたのかわからないのに、歌えた。
——並んで窓の外を見た。肩と肩のあいだに、指一本ぶんの隙間があった。前にもこうしていた気がすると言ったら、彼は「気のせいです」と言った。声が震えていた。
——名前で呼んでと言ったら、「リディエ様」と言われた。
——でも、本当は、違う呼び方をしようとしていた気がする。
ペンが止まった。
リディエは、しばらくその頁を見つめていた。
それから、もう一行だけ書き足した。
——Eかもしれない人と、回廊を歩いた。
日記を閉じ、灯りを消した。寝台に潜り込み、椅子にかけた灰色の外套を、手を伸ばして引き寄せた。
内側の隠しの中で、蜂蜜の染みた頁が、かさりと小さく鳴った。
目を閉じる。
三つ上がって、二つ下がって、最後にふっと、息を抜くように落ちる。
知らない子守唄を、声にならない息でなぞりながら、リディエは眠りに落ちていった。
ありがとうございました。随時更新していきますのでよろしくお願いします




