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あなたを忘れるための魔法  作者: 南野


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第1部 七度目のはじめまして

初めまして

お手にとっていただきありがとうございます


第3章 破れた日記


 それから七日のあいだ、エリアス・ノクトは三つの約束を一度も破らなかった。


 私室には入らない。三歩以上離れている。必要のないことは話しかけない。


 朝、リディエが部屋を出ると、彼は廊下の角に立っている。書庫へ行けば入口に、中庭へ出れば回廊の柱の陰に。影のように付き従い、影のように黙っている。塔の若い魔女たちは最初こそ新しい護衛を珍しがって遠巻きに眺めていたが、三日もすると、彼がそこにいることを誰も気にしなくなった。


 リディエだけが、気にしていた。


 気にしていないふりをするのが、日に日に難しくなっていった。


 理由のひとつは、夜の紅茶だった。


 あの晩以来、毎夜、日記を書き終える頃になると、扉が控えめに叩かれる。盆の上には湯気の立つカップがひとつ。エリアスは敷居の手前で立ち止まり、三歩の外から腕を伸ばして盆を置き、「おやすみなさいませ」とだけ言って去っていく。


 紅茶は、いつも二匙だった。


 断ることもできた。頼んでいない、と突き返すこともできた。けれど、リディエはそうしなかった。そうしない自分を、少しだけ持て余していた。


 四日目の夜、彼女は気づいた。自分がカップを両手で持っていることに。


 慌てて片手を離した。


 誰も見ていないのに、顔が熱くなった。


 ◇


 八日目の朝、リディエは塔の地下へ下りた。


 灰の塔の最下層には、魔女たちの日記を納める保管庫がある。自室に置いておけるのは今書いている一冊だけで、書き終えた日記は、鍵のかかった個人の櫃に収めることになっている。櫃の鍵は本人と、塔の長であるマグダしか持っていない。


 燼術を使ったあと、魔女は必ず自分の日記を読み返す。燃やした記憶の輪郭を確かめるために。何を失ったのかを、せめて文字の上で知っておくために。


 それが塔の決まりで、リディエもこれまでずっとそうしてきた。北境から戻ってすぐに読み返さなかったのは、疲れていたからだ。そう自分に言い聞かせていた。本当は、少し怖かったのかもしれない。


 保管庫は、ひんやりと乾いた空気に満ちていた。壁際に並ぶ樫の櫃には、それぞれ持ち主の名前が彫り込まれている。すでに亡くなった魔女たちの櫃も多い。その名前を、今では誰も覚えていない。


 リディエ・ヴァルン、と彫られた櫃の前で、彼女は膝をついた。


 背後の階段の上に、エリアスが立っている気配がした。保管庫には魔女しか入れない決まりだから、彼はそこで待つしかない。


 鍵を回す。重い蓋を持ち上げる。


 中には、十二年分の日記が、背表紙を上にしてきっちりと並んでいた。


 十歳の冬から始まる、全部で二十三冊。


 リディエは一番新しい一冊を手に取った。北境へ発つ直前まで書いていたものだ。表紙の革は手の脂で柔らかく馴染み、角が少し擦り切れている。


 頁を開いた。


 春の記録から始まっていた。塔の若い魔女たちへの講義のこと。王女セラフィナとの茶会のこと。南の村で起きた小さな水害と、それを鎮めるために燃やした、友人との思い出のこと。


 几帳面な自分の字が、淡々と日々を綴っている。


 頁をめくる。


 初夏。


 めくる。


 ——めくろうとした指が、止まった。


 次の頁が、なかった。


 正確には、頁の残骸だけがあった。綴じ糸のすぐ脇、指の幅ほどの細い紙の帯が、ぎざぎざに残っている。刃物で切り取られた跡だった。一枚ではない。何十枚もの頁が、まとめて、根元からきれいに切り落とされている。


 リディエは、息を止めてその断面を見つめた。


 次に残っている頁は、秋の終わりだった。北境への出立を命じられた日の記録。その間の、初夏から晩秋までの半年近くが、丸ごとなくなっていた。


 夏。


 丘の上の、夕暮れ。


 背中を冷たいものが這い上がった。


 リディエは日記を膝に置き、櫃の中の二十二冊を、次々と取り出して開いていった。


 ◇


 ひとつ前の日記にも、同じ跡があった。


 その前にも。


 さらにその前にも。


 保管庫の石の床に、リディエは日記を並べていった。切り取られた頁のある冊子を、左から古い順に。震える指で、切り取られた期間の前後の日付を確かめていく。


 四年前の冬から、春の終わりまで。


 三年前の夏から、秋まで。


 三年前の冬。


 二年前の春から夏。


 一年と少し前の秋から冬。


 そして、今年の初夏から晩秋。


 六つ。


 六つの空白が、あった。


 四年前より古い日記には、切り取りの跡はひとつもなかった。どの頁も欠けることなく、十歳の少女の拙い字から、十八歳の見習い魔女の背伸びした字まで、途切れることなく続いていた。


 四年前から、始まっている。


 そして空白は、ほぼ半年から八ヶ月おきに訪れている。まるで、季節がひとつ巡るたびに、何かが根こそぎ刈り取られてきたかのように。


 リディエは、空白の直後の頁を一冊ずつ読んでいった。


 どの空白のあとも、書き出しは似ていた。


 ——大きな燼術を使った。何を燃やしたのかは覚えていない。胸が空っぽで、理由のない涙が出た。


 ——新しい護衛が着任した。


 手が、冷たくなっていった。


 六回。


 六回、自分は大きな記憶を燃やし、そのたびに理由のない涙を流し、そのたびに新しい護衛を迎えている。


 では、その護衛たちは誰だったのか。


 空白の直後の頁には、新しい護衛の名前が一度も書かれていなかった。「新しい護衛」とだけ。まるで、名前を書くことを、誰かに禁じられていたかのように。あるいは、書いたあとで、その名前だけが丁寧に削り取られたかのように。


 よく見ると、何か所か、紙の表面がわずかに毛羽立っていた。小刀の先で、インクを薄く削り落とした跡だった。


 リディエは、その毛羽立ちを指先でなぞった。


 文字は読めない。読めないが、削られた幅からして、短い名前だったことだけはわかる。


 たとえば、六文字ほどの。


 ◇


「魔女殿」


 階段の上から、声が降ってきた。


「一刻ほど経ちます。お身体が冷えます」


 リディエは顔を上げなかった。


「ノクト卿」


「はい」


「あなた、騎士団に入ってどのくらい?」


 短い間があった。


「五年になります」


「その前は?」


「北方の、小さな村の出です。父が猟師でしたので、弓と剣の心得は多少」


「騎士団では、どこに配属されていたの」


「……いくつか」


「いくつか、って」


「北方警備隊に二年。そのあとは、いくつかの要人の護衛を」


 リディエは、ゆっくりと顔を上げた。


 階段の上、暗がりの中に、エリアスが立っていた。燭台の光が届かず、表情は見えない。ただ、灰色の瞳だけが、かすかに光っていた。


「いくつかの要人、ね」


「はい」


「その中に、私はいた?」


 沈黙が落ちた。


 長い、長い沈黙だった。保管庫の空気が、ひときわ冷たくなった気がした。


「——いいえ」


 やがて、エリアスが答えた。


「魔女殿の護衛を拝命したのは、今回が初めてです」


 声は静かで、揺らぎがなかった。完璧に、揺らぎがなかった。


 それが、かえって嘘らしく聞こえた。


 リディエは何も言わなかった。日記を一冊ずつ櫃に戻していった。一番新しいものだけを、胸に抱えたまま残した。


 蓋を閉め、鍵をかける。


 立ち上がると、膝が冷え切っていて、少しよろめいた。


 階段の上の影が、ほんの一瞬、こちらへ動きかけて——止まった。


 三歩の約束を、守ったのだ。


 ◇


 その日の午後、リディエは塔の記録室を訪ねた。


 灰の塔には、魔女たちに付けられた護衛の名簿がある。騎士団から派遣された騎士の名前、着任日、離任日、離任の理由。魔女ひとりひとりについて、細かく記録されているはずだった。


 記録室の主は、八十を過ぎた元魔女の老婆だった。目はほとんど見えないが、どの書類がどの棚のどの段にあるかを、指先だけで正確に探り当てる。


「ヴァルンの嬢ちゃんの護衛名簿かい。ちょいとお待ち」


 老婆は迷いなく書架の間に消え、薄い綴りを一冊抱えて戻ってきた。


 リディエは綴りを開いた。


 最初の数頁には、十代の頃に付けられた護衛たちの名前が並んでいた。いずれも見覚えのある名前だった。顔も思い出せる。口うるさかった老騎士、やたらと冗談を言う若い騎士、半年で結婚して辞めていった女騎士。


 四年前の頁で、記録が途切れていた。


 正確には、欄はあった。着任日も、離任日も書かれていた。離任の理由の欄には、どれも同じ言葉が記されていた。


 ——本人の申し出による。


 けれど、名前の欄だけが、空白だった。


 インクで塗りつぶされているのでも、削り取られているのでもない。最初から何も書かれていなかったかのように、ただ白かった。


 六つの行。六つの空白。


 着任日と離任日は、日記の切り取られた期間と、ぴたりと重なっていた。


 そして、七行目。


 今月の日付で、新しい行が書き加えられていた。インクがまだ新しい。


 ——エリアス・ノクト。王国騎士団より。


「ねえ」


 リディエは、老婆に綴りを差し出した。


「この空白の欄。ここに誰がいたか、覚えている?」


 老婆は、見えない目を綴りの上にさまよわせた。皺だらけの指が、空白の欄をそっと撫でた。


「さてねえ」


 老婆は首を傾げた。


「嬢ちゃんの護衛のことは、ようく覚えてるつもりだったんだがね。ここ何年かのは、どうにも靄がかかったようで」


「靄?」


「ああ。いたのは確かなんだよ。背の高い、静かな子だった気がする。黒い髪の。でも、顔を思い出そうとすると、するりと逃げちまう。歳だねえ」


 老婆は笑った。


 リディエは笑えなかった。


 背の高い、静かな子。黒い髪の。


 記録室を出ると、廊下の突き当たりに、エリアスが立っていた。窓から差し込む午後の光の中で、彼の黒い髪が艶やかに光っていた。


 三歩どころか、十歩以上離れていた。


 それなのに、目が合った。


 リディエは、先に目を逸らした。


 ◇


 夕方から雨になった。


 リディエは自室の隣の書斎にこもり、持ち出した日記を、最初の頁から読み直していた。何度も、何度も。切り取られた空白の前後に、何か手がかりが残っていないか。削られた名前の痕跡がどこかにないか。


 窓を叩く雨音が、次第に強くなっていった。


 手がかりは、どこにもなかった。空白の前の頁は、何事もないような日常で終わっていた。空白の後の頁は、何事もなかったような日常から始まっていた。切り取った誰かは、とても丁寧な仕事をしていた。


 誰が、と考えるたびに、胸の奥が重くなった。


 保管庫の櫃の鍵を持っているのは、自分と、師だけだ。


 考えたくなかった。


 リディエは日記を閉じ、机に額をつけた。石のように冷たい革の表紙が、火照った額に心地よかった。少しだけ、目を閉じるつもりだった。


 ◇


 目を覚ますと、肩が温かかった。


 毛布がかけられていた。塔の備品の、粗い羊毛の毛布だ。机の端には、湯気の立つカップがひとつ。蝋燭は新しいものに替えられていて、窓の外はもう真っ暗だった。雨はまだ降っている。


 リディエは顔を上げ、扉のほうを見た。


 扉は閉まっていた。


「……ノクト卿」


 呼ぶと、すぐに扉の向こうから返事があった。


「はい」


「入ったわね」


「入っていません」


「じゃあ、この毛布は何」


「三歩の外から、腕を伸ばしました」


 リディエは、扉から机までの距離を目で測った。どう見ても、七歩はある。


「そんなに長い腕、してないでしょう」


「……鍛えていますので」


 扉の向こうで、彼が少しだけ笑った気配がした。


 リディエは、何か言い返そうとして、やめた。毛布の端を握りしめ、肩に引き寄せた。羊毛のざらつきが、首筋にくすぐったかった。


「紅茶は」


「冷めないうちに、どうぞ」


「頼んでない」


「ええ」


 扉の向こうの気配は、それきり黙った。けれど、立ち去る足音は聞こえなかった。


 リディエはカップを手に取った。両手で。今夜は、それを咎める人は誰もいない。


 ひとくち飲む。


 二匙。


 温かさが喉を落ちていき、胸の奥の空っぽの場所に、ゆっくりと広がっていった。


 ◇


 カップを机に戻そうとしたとき、肘が日記に当たった。


 日記は机の端から滑り落ち、床の上で背表紙を下にして開いた。リディエは慌てて拾い上げようとして——手を止めた。


 開いた頁が、おかしかった。


 晩秋の、北境への出立の日の記録。その頁の裏に、もう一枚、紙が貼りついていた。


 いや、貼りついているのではない。二枚の頁が、何かでくっついているのだ。紙の端が、かすかに茶色く染みている。触れると、ほんの少しべたついた。


 顔を近づける。


 甘い匂いがした。


 蜂蜜だった。


 いつか、紅茶をこぼしたのだろう。蜂蜜入りの紅茶を。その染みが乾いて、二枚の頁を糊のように貼り合わせていた。


 切り取った誰かは、何十枚もの頁を根元から丁寧に落としていった。けれど、一番最後の一枚——出立の日の頁の、すぐ前の一枚——は、蜂蜜で裏側にくっついていたせいで、出立の日の頁の一部だと思われて、見逃されたのだ。


 リディエは、息を詰めた。


 ペーパーナイフを取り、二枚の頁の間に、そっと刃を差し込んだ。紙を破らないように、少しずつ、少しずつ。蜂蜜の膜が、ぱりぱりと小さな音を立てて剥がれていく。


 やがて、頁が離れた。


 晩秋の、出立の前日の日付だった。


 自分の字だった。けれど、見慣れた几帳面な字ではなかった。少しだけ崩れていて、少しだけ弾んでいて、ところどころ、ペン先が紙の上で踊ったような跡がある。


 こんな字を、自分は書いたことがあっただろうか。


 リディエは、読んだ。


 ——明日、北境へ発つ。


 ——長い旅になる。帰ってこられるかどうかもわからない。塔の皆は心配しているけれど、私はあまり怖くない。


 ——Eも一緒に来てくれるから。


 ——Eは今日も、紅茶を淹れてくれた。二匙。何度言っても、「見ていればわかる」としか言わない。ずるい人。


 ——もし北境で燃やすことになったら、たぶん、これを燃やすことになる。わかっている。わかっていて、それでも毎日、少しずつ好きになるのをやめられない。


 ——次の私は、きっとまた、あの人を好きになる。


 ——だって、


 そこで、頁は終わっていた。


 続きは、切り取られた頁の中だった。


 リディエは、頁を持ったまま動けなかった。


 雨音が、急に遠くなった。心臓の音だけが、耳の奥でうるさく鳴っていた。


 E。


 外套の内側に縫い取られていた、擦り切れかけた一文字。


 六文字ほどの、削られた名前。


 背の高い、静かな、黒い髪の。


 紅茶を二匙淹れて、「見ていればわかる」と言う人。


 リディエは、ゆっくりと振り返った。


 閉ざされた扉の向こうに、まだ誰かの気配があった。雨の音にまぎれて、息をひそめるように、じっとそこに立っている気配が。


「……ノクト卿」


 声が掠れた。


「はい」


 すぐに、返事があった。いつもと同じ、低くて、少し掠れた声。言葉の終わりを柔らかく落とす癖。


 リディエは、手の中の頁を見下ろした。


 自分の字で書かれた、見知らぬ恋の最後の一行を。


 ——次の私は、きっとまた、あの人を好きになる。


「あなたの名前」


 彼女は言った。


「エリアス、よね」


「はい」


「Eで、始まるのね」


 扉の向こうの気配が、止まった。


 雨の音だけが、長いこと、二人のあいだを流れていった。

第3章 破れた日記


 それから七日のあいだ、エリアス・ノクトは三つの約束を一度も破らなかった。


 私室には入らない。三歩以上離れている。必要のないことは話しかけない。


 朝、リディエが部屋を出ると、彼は廊下の角に立っている。書庫へ行けば入口に、中庭へ出れば回廊の柱の陰に。影のように付き従い、影のように黙っている。塔の若い魔女たちは最初こそ新しい護衛を珍しがって遠巻きに眺めていたが、三日もすると、彼がそこにいることを誰も気にしなくなった。


 リディエだけが、気にしていた。


 気にしていないふりをするのが、日に日に難しくなっていった。


 理由のひとつは、夜の紅茶だった。


 あの晩以来、毎夜、日記を書き終える頃になると、扉が控えめに叩かれる。盆の上には湯気の立つカップがひとつ。エリアスは敷居の手前で立ち止まり、三歩の外から腕を伸ばして盆を置き、「おやすみなさいませ」とだけ言って去っていく。


 紅茶は、いつも二匙だった。


 断ることもできた。頼んでいない、と突き返すこともできた。けれど、リディエはそうしなかった。そうしない自分を、少しだけ持て余していた。


 四日目の夜、彼女は気づいた。自分がカップを両手で持っていることに。


 慌てて片手を離した。


 誰も見ていないのに、顔が熱くなった。


 ◇


 八日目の朝、リディエは塔の地下へ下りた。


 灰の塔の最下層には、魔女たちの日記を納める保管庫がある。自室に置いておけるのは今書いている一冊だけで、書き終えた日記は、鍵のかかった個人の櫃に収めることになっている。櫃の鍵は本人と、塔の長であるマグダしか持っていない。


 燼術を使ったあと、魔女は必ず自分の日記を読み返す。燃やした記憶の輪郭を確かめるために。何を失ったのかを、せめて文字の上で知っておくために。


 それが塔の決まりで、リディエもこれまでずっとそうしてきた。北境から戻ってすぐに読み返さなかったのは、疲れていたからだ。そう自分に言い聞かせていた。本当は、少し怖かったのかもしれない。


 保管庫は、ひんやりと乾いた空気に満ちていた。壁際に並ぶ樫の櫃には、それぞれ持ち主の名前が彫り込まれている。すでに亡くなった魔女たちの櫃も多い。その名前を、今では誰も覚えていない。


 リディエ・ヴァルン、と彫られた櫃の前で、彼女は膝をついた。


 背後の階段の上に、エリアスが立っている気配がした。保管庫には魔女しか入れない決まりだから、彼はそこで待つしかない。


 鍵を回す。重い蓋を持ち上げる。


 中には、十二年分の日記が、背表紙を上にしてきっちりと並んでいた。


 十歳の冬から始まる、全部で二十三冊。


 リディエは一番新しい一冊を手に取った。北境へ発つ直前まで書いていたものだ。表紙の革は手の脂で柔らかく馴染み、角が少し擦り切れている。


 頁を開いた。


 春の記録から始まっていた。塔の若い魔女たちへの講義のこと。王女セラフィナとの茶会のこと。南の村で起きた小さな水害と、それを鎮めるために燃やした、友人との思い出のこと。


 几帳面な自分の字が、淡々と日々を綴っている。


 頁をめくる。


 初夏。


 めくる。


 ——めくろうとした指が、止まった。


 次の頁が、なかった。


 正確には、頁の残骸だけがあった。綴じ糸のすぐ脇、指の幅ほどの細い紙の帯が、ぎざぎざに残っている。刃物で切り取られた跡だった。一枚ではない。何十枚もの頁が、まとめて、根元からきれいに切り落とされている。


 リディエは、息を止めてその断面を見つめた。


 次に残っている頁は、秋の終わりだった。北境への出立を命じられた日の記録。その間の、初夏から晩秋までの半年近くが、丸ごとなくなっていた。


 夏。


 丘の上の、夕暮れ。


 背中を冷たいものが這い上がった。


 リディエは日記を膝に置き、櫃の中の二十二冊を、次々と取り出して開いていった。


 ◇


 ひとつ前の日記にも、同じ跡があった。


 その前にも。


 さらにその前にも。


 保管庫の石の床に、リディエは日記を並べていった。切り取られた頁のある冊子を、左から古い順に。震える指で、切り取られた期間の前後の日付を確かめていく。


 四年前の冬から、春の終わりまで。


 三年前の夏から、秋まで。


 三年前の冬。


 二年前の春から夏。


 一年と少し前の秋から冬。


 そして、今年の初夏から晩秋。


 六つ。


 六つの空白が、あった。


 四年前より古い日記には、切り取りの跡はひとつもなかった。どの頁も欠けることなく、十歳の少女の拙い字から、十八歳の見習い魔女の背伸びした字まで、途切れることなく続いていた。


 四年前から、始まっている。


 そして空白は、ほぼ半年から八ヶ月おきに訪れている。まるで、季節がひとつ巡るたびに、何かが根こそぎ刈り取られてきたかのように。


 リディエは、空白の直後の頁を一冊ずつ読んでいった。


 どの空白のあとも、書き出しは似ていた。


 ——大きな燼術を使った。何を燃やしたのかは覚えていない。胸が空っぽで、理由のない涙が出た。


 ——新しい護衛が着任した。


 手が、冷たくなっていった。


 六回。


 六回、自分は大きな記憶を燃やし、そのたびに理由のない涙を流し、そのたびに新しい護衛を迎えている。


 では、その護衛たちは誰だったのか。


 空白の直後の頁には、新しい護衛の名前が一度も書かれていなかった。「新しい護衛」とだけ。まるで、名前を書くことを、誰かに禁じられていたかのように。あるいは、書いたあとで、その名前だけが丁寧に削り取られたかのように。


 よく見ると、何か所か、紙の表面がわずかに毛羽立っていた。小刀の先で、インクを薄く削り落とした跡だった。


 リディエは、その毛羽立ちを指先でなぞった。


 文字は読めない。読めないが、削られた幅からして、短い名前だったことだけはわかる。


 たとえば、六文字ほどの。


 ◇


「魔女殿」


 階段の上から、声が降ってきた。


「一刻ほど経ちます。お身体が冷えます」


 リディエは顔を上げなかった。


「ノクト卿」


「はい」


「あなた、騎士団に入ってどのくらい?」


 短い間があった。


「五年になります」


「その前は?」


「北方の、小さな村の出です。父が猟師でしたので、弓と剣の心得は多少」


「騎士団では、どこに配属されていたの」


「……いくつか」


「いくつか、って」


「北方警備隊に二年。そのあとは、いくつかの要人の護衛を」


 リディエは、ゆっくりと顔を上げた。


 階段の上、暗がりの中に、エリアスが立っていた。燭台の光が届かず、表情は見えない。ただ、灰色の瞳だけが、かすかに光っていた。


「いくつかの要人、ね」


「はい」


「その中に、私はいた?」


 沈黙が落ちた。


 長い、長い沈黙だった。保管庫の空気が、ひときわ冷たくなった気がした。


「——いいえ」


 やがて、エリアスが答えた。


「魔女殿の護衛を拝命したのは、今回が初めてです」


 声は静かで、揺らぎがなかった。完璧に、揺らぎがなかった。


 それが、かえって嘘らしく聞こえた。


 リディエは何も言わなかった。日記を一冊ずつ櫃に戻していった。一番新しいものだけを、胸に抱えたまま残した。


 蓋を閉め、鍵をかける。


 立ち上がると、膝が冷え切っていて、少しよろめいた。


 階段の上の影が、ほんの一瞬、こちらへ動きかけて——止まった。


 三歩の約束を、守ったのだ。


 ◇


 その日の午後、リディエは塔の記録室を訪ねた。


 灰の塔には、魔女たちに付けられた護衛の名簿がある。騎士団から派遣された騎士の名前、着任日、離任日、離任の理由。魔女ひとりひとりについて、細かく記録されているはずだった。


 記録室の主は、八十を過ぎた元魔女の老婆だった。目はほとんど見えないが、どの書類がどの棚のどの段にあるかを、指先だけで正確に探り当てる。


「ヴァルンの嬢ちゃんの護衛名簿かい。ちょいとお待ち」


 老婆は迷いなく書架の間に消え、薄い綴りを一冊抱えて戻ってきた。


 リディエは綴りを開いた。


 最初の数頁には、十代の頃に付けられた護衛たちの名前が並んでいた。いずれも見覚えのある名前だった。顔も思い出せる。口うるさかった老騎士、やたらと冗談を言う若い騎士、半年で結婚して辞めていった女騎士。


 四年前の頁で、記録が途切れていた。


 正確には、欄はあった。着任日も、離任日も書かれていた。離任の理由の欄には、どれも同じ言葉が記されていた。


 ——本人の申し出による。


 けれど、名前の欄だけが、空白だった。


 インクで塗りつぶされているのでも、削り取られているのでもない。最初から何も書かれていなかったかのように、ただ白かった。


 六つの行。六つの空白。


 着任日と離任日は、日記の切り取られた期間と、ぴたりと重なっていた。


 そして、七行目。


 今月の日付で、新しい行が書き加えられていた。インクがまだ新しい。


 ——エリアス・ノクト。王国騎士団より。


「ねえ」


 リディエは、老婆に綴りを差し出した。


「この空白の欄。ここに誰がいたか、覚えている?」


 老婆は、見えない目を綴りの上にさまよわせた。皺だらけの指が、空白の欄をそっと撫でた。


「さてねえ」


 老婆は首を傾げた。


「嬢ちゃんの護衛のことは、ようく覚えてるつもりだったんだがね。ここ何年かのは、どうにも靄がかかったようで」


「靄?」


「ああ。いたのは確かなんだよ。背の高い、静かな子だった気がする。黒い髪の。でも、顔を思い出そうとすると、するりと逃げちまう。歳だねえ」


 老婆は笑った。


 リディエは笑えなかった。


 背の高い、静かな子。黒い髪の。


 記録室を出ると、廊下の突き当たりに、エリアスが立っていた。窓から差し込む午後の光の中で、彼の黒い髪が艶やかに光っていた。


 三歩どころか、十歩以上離れていた。


 それなのに、目が合った。


 リディエは、先に目を逸らした。


 ◇


 夕方から雨になった。


 リディエは自室の隣の書斎にこもり、持ち出した日記を、最初の頁から読み直していた。何度も、何度も。切り取られた空白の前後に、何か手がかりが残っていないか。削られた名前の痕跡がどこかにないか。


 窓を叩く雨音が、次第に強くなっていった。


 手がかりは、どこにもなかった。空白の前の頁は、何事もないような日常で終わっていた。空白の後の頁は、何事もなかったような日常から始まっていた。切り取った誰かは、とても丁寧な仕事をしていた。


 誰が、と考えるたびに、胸の奥が重くなった。


 保管庫の櫃の鍵を持っているのは、自分と、師だけだ。


 考えたくなかった。


 リディエは日記を閉じ、机に額をつけた。石のように冷たい革の表紙が、火照った額に心地よかった。少しだけ、目を閉じるつもりだった。


 ◇


 目を覚ますと、肩が温かかった。


 毛布がかけられていた。塔の備品の、粗い羊毛の毛布だ。机の端には、湯気の立つカップがひとつ。蝋燭は新しいものに替えられていて、窓の外はもう真っ暗だった。雨はまだ降っている。


 リディエは顔を上げ、扉のほうを見た。


 扉は閉まっていた。


「……ノクト卿」


 呼ぶと、すぐに扉の向こうから返事があった。


「はい」


「入ったわね」


「入っていません」


「じゃあ、この毛布は何」


「三歩の外から、腕を伸ばしました」


 リディエは、扉から机までの距離を目で測った。どう見ても、七歩はある。


「そんなに長い腕、してないでしょう」


「……鍛えていますので」


 扉の向こうで、彼が少しだけ笑った気配がした。


 リディエは、何か言い返そうとして、やめた。毛布の端を握りしめ、肩に引き寄せた。羊毛のざらつきが、首筋にくすぐったかった。


「紅茶は」


「冷めないうちに、どうぞ」


「頼んでない」


「ええ」


 扉の向こうの気配は、それきり黙った。けれど、立ち去る足音は聞こえなかった。


 リディエはカップを手に取った。両手で。今夜は、それを咎める人は誰もいない。


 ひとくち飲む。


 二匙。


 温かさが喉を落ちていき、胸の奥の空っぽの場所に、ゆっくりと広がっていった。


 ◇


 カップを机に戻そうとしたとき、肘が日記に当たった。


 日記は机の端から滑り落ち、床の上で背表紙を下にして開いた。リディエは慌てて拾い上げようとして——手を止めた。


 開いた頁が、おかしかった。


 晩秋の、北境への出立の日の記録。その頁の裏に、もう一枚、紙が貼りついていた。


 いや、貼りついているのではない。二枚の頁が、何かでくっついているのだ。紙の端が、かすかに茶色く染みている。触れると、ほんの少しべたついた。


 顔を近づける。


 甘い匂いがした。


 蜂蜜だった。


 いつか、紅茶をこぼしたのだろう。蜂蜜入りの紅茶を。その染みが乾いて、二枚の頁を糊のように貼り合わせていた。


 切り取った誰かは、何十枚もの頁を根元から丁寧に落としていった。けれど、一番最後の一枚——出立の日の頁の、すぐ前の一枚——は、蜂蜜で裏側にくっついていたせいで、出立の日の頁の一部だと思われて、見逃されたのだ。


 リディエは、息を詰めた。


 ペーパーナイフを取り、二枚の頁の間に、そっと刃を差し込んだ。紙を破らないように、少しずつ、少しずつ。蜂蜜の膜が、ぱりぱりと小さな音を立てて剥がれていく。


 やがて、頁が離れた。


 晩秋の、出立の前日の日付だった。


 自分の字だった。けれど、見慣れた几帳面な字ではなかった。少しだけ崩れていて、少しだけ弾んでいて、ところどころ、ペン先が紙の上で踊ったような跡がある。


 こんな字を、自分は書いたことがあっただろうか。


 リディエは、読んだ。


 ——明日、北境へ発つ。


 ——長い旅になる。帰ってこられるかどうかもわからない。塔の皆は心配しているけれど、私はあまり怖くない。


 ——Eも一緒に来てくれるから。


 ——Eは今日も、紅茶を淹れてくれた。二匙。何度言っても、「見ていればわかる」としか言わない。ずるい人。


 ——もし北境で燃やすことになったら、たぶん、これを燃やすことになる。わかっている。わかっていて、それでも毎日、少しずつ好きになるのをやめられない。


 ——次の私は、きっとまた、あの人を好きになる。


 ——だって、


 そこで、頁は終わっていた。


 続きは、切り取られた頁の中だった。


 リディエは、頁を持ったまま動けなかった。


 雨音が、急に遠くなった。心臓の音だけが、耳の奥でうるさく鳴っていた。


 E。


 外套の内側に縫い取られていた、擦り切れかけた一文字。


 六文字ほどの、削られた名前。


 背の高い、静かな、黒い髪の。


 紅茶を二匙淹れて、「見ていればわかる」と言う人。


 リディエは、ゆっくりと振り返った。


 閉ざされた扉の向こうに、まだ誰かの気配があった。雨の音にまぎれて、息をひそめるように、じっとそこに立っている気配が。


「……ノクト卿」


 声が掠れた。


「はい」


 すぐに、返事があった。いつもと同じ、低くて、少し掠れた声。言葉の終わりを柔らかく落とす癖。


 リディエは、手の中の頁を見下ろした。


 自分の字で書かれた、見知らぬ恋の最後の一行を。


 ——次の私は、きっとまた、あの人を好きになる。


「あなたの名前」


 彼女は言った。


「エリアス、よね」


「はい」


「Eで、始まるのね」


 扉の向こうの気配が、止まった。


 雨の音だけが、長いこと、二人のあいだを流れていった。


ありがとうございました。随時更新していきますのでよろしくお願いします

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