第1部 七度目のはじめまして
初めまして
お手にとっていただきありがとうございます
第2章 蜂蜜は二匙
王都エルセリアへの帰路は、十日かかった。
オーデン老が付けてくれた四騎の護衛は、皆礼儀正しく、口数が少なく、そして誰ひとりとしてリディエの好みを知らなかった。宿場の朝食に出た紅茶は毎朝違う甘さで、彼女は毎朝黙ってカップを置いた。
灰色の外套は、鞍袋の一番上に入れて持ち帰った。
捨てればいい、と何度か思った。見知らぬ男の、見知らぬ外套だ。持ち主は名乗りもせずに消えた。返す当てもない。けれど、宿の寝台に入る前、気づけば毎晩それを取り出して、膝の上で畳み直していた。畳み直す必要などないのに。
杉と、雪と、蜂蜜の匂いは、日ごとに薄れていった。
それが、少しだけ惜しかった。
◇
十日目の夕刻、王都の城門が見えた。
エルセリアは、二つの川が合わさる場所に築かれた都だ。北から流れてくるのが銀の川、東から流れてくるのが忘れ川。二つの流れがひとつになるところに王城が建ち、その対岸、忘れ川の中洲に、灰の塔がそびえている。
塔は、その名の通り灰色の石で造られていた。窓は少なく、装飾はない。夕陽を浴びても色を変えず、ただ静かにそこに立っている。王都の人々は、あの塔を見上げるとき、少しだけ声を落とす。
中洲へ渡る石橋の上で、リディエは馬を止めた。
欄干の下を、忘れ川が流れていた。水面は鈍い鉛色で、ところどころに白い泡のようなものが浮いている。
古い言い伝えがある。
魔女たちが燃やした記憶の灰は、風に乗り、雨に溶け、最後にはこの川に流れ着くのだという。だから忘れ川の水は、どれだけ澄んだ日でも少しだけ濁っている。灰の塔が中洲に建てられたのは、魔女たちが自分の失くしたものの近くにいられるように、という誰かの優しさだったのだと。
ただの言い伝えだ。
リディエは水面を見下ろした。
あの夏の記憶も、今頃どこかを流れているのだろうか。
——リディ。
耳の奥で、誰かの声がした気がした。
彼女は顔を上げた。橋の上には、自分と四騎の護衛しかいなかった。夕風が、髪を揺らしただけだった。
「魔女殿?」
「……行きましょう」
リディエは手綱を引いた。
◇
塔の最上階、師の書斎は、十二年前と少しも変わっていなかった。
壁一面の書棚。机の上に積み上げられた羊皮紙。窓辺の鉢植えは、名前も知らない青い花をいつも咲かせている。暖炉の前の揺り椅子で、マグダ・オルセンは編み物をしていた。
「おかえり、リディエ」
師は編み針を置き、両腕を広げた。リディエは少しだけ躊躇ってから、その腕の中に収まった。乾いた薬草と、古い紙の匂い。十歳の夜から変わらない匂いだった。
「よくやったわね。北境の話は、もう王都中に広まっているわ。紅の壁で八千を退けた、灰の魔女の再来だって」
「再来も何も、本人よ」
「ふふ。そうね」
マグダはリディエの両頬を手で包み、じっと顔を覗き込んだ。老いた瞳は、湖の底のように深い青をしていた。
「……何を燃やしたの?」
いつもの問いだった。燼術を使って帰ってくるたびに、師は必ずそう訊ねる。燃やした記憶の中身を、弟子が覚えていないことを承知の上で。
「わからない」
リディエは答えた。
「夏だった気がする。丘の上で、夕暮れで。……それだけ」
ほんの一瞬。
本当にほんの一瞬だけ、マグダの目の奥で、何かが揺れた。
見間違いだったかもしれない。瞬きをしたときには、師はもういつもの柔和な笑顔に戻っていた。
「そう。きっと、とても良い記憶だったのね」
「……たぶん」
「それなら、あなたはとても良いことをしたわ。その記憶で、六百の命を救ったんだもの」
マグダはリディエの髪を撫で、それから揺り椅子に戻った。編み物を膝に載せ直しながら、何でもないことのように言った。
「そうそう。新しい護衛の騎士が、もう着任しているわ。明日の朝、ここで引き合わせるから」
「命令書で見た。エリアス・ノクト、だったかしら」
「ええ」
「前の護衛は? どうして交代になったの」
編み針が、かちり、と小さな音を立てて止まった。
「前任者はね」
マグダは手元から目を上げずに言った。
「少し、疲れてしまったのよ。あなたの護衛は、大変な仕事だから」
「どんな人だった?」
「どんな人だったかしらねえ」
師は曖昧に笑った。
「歳を取ると、物覚えが悪くなって困るわ。さあ、今夜はもう休みなさい。部屋は整えてあるから」
それ以上は訊けない空気だった。
リディエは一礼して書斎を出た。階段を下りながら、ふと思った。
マグダは、この塔の誰よりも記憶が確かな人だ。三十年前の魔女たちの名前を、生年月日まで諳んじてみせる人だ。
その師が、ほんの数ヶ月前まで自分の弟子を守っていた騎士のことを、覚えていないなどということがあるだろうか。
◇
翌朝、リディエは約束の刻限より少し早く書斎の扉を開けた。
先客がいた。
窓辺に、ひとりの男が立っていた。背が高く、肩幅が広い。王国騎士団の濃紺の制服を着て、腰に長剣を佩いている。朝の光を背にしているせいで、顔はよく見えなかった。
男が振り返った。
黒い髪。灰色の瞳。
リディエは、扉の取っ手を握ったまま立ち尽くした。
城壁の上の騎士だった。
雪の中で自分を抱きとめ、外套をかけ、名乗りもせずに消えた男。間違いない。あの悲しげな目を、見間違えるはずがなかった。
男は、まっすぐにリディエの前まで歩いてきた。三歩の距離で立ち止まり、右手を胸に当て、騎士の礼を取った。
「はじめまして、灰の魔女殿」
低く、少し掠れた声。言葉の終わりを柔らかく落とす癖。
「本日より護衛の任に就きます、エリアス・ノクトと申します。以後、お見知りおきを」
はじめまして。
その言葉が、なぜか胸の奥の、どこか柔らかいところに小さな棘のように刺さった。
「……はじめまして、ですって?」
リディエは扉を閉め、腕を組んだ。
「北境の城壁にいたでしょう。退避命令を無視して、最後まで」
「おりました」
エリアスはあっさりと認めた。
「王都からの伝令として、ヴォルグ砦に派遣されていましたので。退避命令は——聞こえていましたが、魔女殿が倒れたときに誰もいないのは困ると思いまして」
「通りすがりの騎士、と名乗ったわね」
「通りすがりでしたから」
「名前を訊いたら答えなかった」
「あのときは、まだ正式な辞令を受けていませんでしたので。名乗るのは、きちんと任命されてからにしようと」
理屈は通っている。通っているが、どこか腑に落ちない。この男の返答は、まるで事前に用意されていたかのように滑らかだった。
リディエは、脇に抱えていた包みを突き出した。
「これ、あなたのでしょう」
灰色の外套だった。昨夜、何度も畳み直したせいで、折り目がくっきりとついていた。
エリアスは外套を見て、それからリディエを見た。灰色の瞳に、何か読み取れないものがよぎった。
「……持っていてくださったんですね」
「捨てる場所がなかっただけよ」
「北境から王都まで、十日もあったのに?」
リディエは言葉に詰まった。
エリアスは、ほんの少しだけ口の端を上げた。からかっているのではなかった。何かを噛みしめるような、静かな笑い方だった。
彼は外套を受け取らなかった。
「よろしければ、そのまま使ってください。塔の廊下は冷えますから」
「要らない」
「では、預かっておいていただけますか。いつか取りに伺います」
「護衛なら毎日顔を合わせるでしょう。今取りなさい」
「今は、両手が塞がっていますので」
エリアスは空っぽの両手を広げてみせた。
リディエは、呆れて口を開けた。この男は、真面目な顔をして、とんでもなく図々しい。
「あら、もう仲良くなったの」
背後で扉が開き、マグダが入ってきた。両手に書類の束を抱えている。師は弟子と騎士の顔を見比べ、楽しそうに目を細めた。
「仲良くなんてなってない」
「そう? でもリディエ、あなたが初対面の人とこんなに長く話すのは珍しいわ。いつもは三言で追い返すのに」
「師匠」
「はいはい」
マグダは机に書類を置き、エリアスに向き直った。その目が、弟子に向けるものとは違う、どこか値踏みするような色を帯びた。
「ノクト卿。改めて、よろしくお願いするわね。この子は少し気難しいけれど、根は優しい子だから」
「存じております」
エリアスは静かに答えた。
マグダの眉が、わずかに動いた。
「……ええ。騎士団からの推薦状にも、そう書いてあったわね」
「はい」
二人のあいだに、ほんの短い沈黙が落ちた。何かが交わされた気がしたが、それが何なのか、リディエにはわからなかった。
◇
護衛にあたって、リディエは三つの条件を出した。
ひとつ。私室には入らないこと。
ふたつ。常に三歩以上離れていること。
みっつ。必要のないことは話しかけないこと。
「承知しました」
エリアスは、一瞬の迷いもなく頷いた。
「ほかには」
「……ほかには、って」
「条件です。三つでよろしいのですか」
リディエは眉をひそめた。普通の護衛なら、ここで多少なりとも不満そうな顔をする。三歩離れていては守れない、とか、話しかけずにどうやって危険を知らせるのか、とか。前にも何人か、そういう騎士がいた。
いた、はずだ。顔も名前も思い出せないけれど。
「三つでいいわ」
「承知しました」
そしてエリアスは、本当にその三つを守った。
午前中、リディエは塔の書庫で、北境の戦闘記録をまとめていた。エリアスは書庫の入口に立ち、きっかり三歩——いや、正確には五歩ほど離れた場所から、一度も話しかけてこなかった。気配を消すのがうまい男だった。ときどき、そこにいることを忘れそうになるほどに。
それなのに、ふと顔を上げると、必ず目が合った。
灰色の瞳は、いつもこちらを見ていた。見張るような目ではない。何かを確かめるような、あるいは、何かを記憶に焼きつけようとしているような目だった。
目が合うと、彼は静かに視線を外した。
そのたびに、リディエは何を書いていたのか忘れて、羽根ペンの先からインクを滴らせた。
◇
昼過ぎ、侍女が紅茶を運んできた。
リディエは書類から目を離さずにカップを取り、ひとくち飲んで、手を止めた。
甘さが足りない。
一匙半だ。いつもの、一匙半。
侍女に悪気がないことはわかっている。塔の侍女たちは皆よく働くし、リディエの好みを覚えようとしてくれてもいる。ただ、なぜか誰も、二匙という加減をぴたりと掴めないのだ。一匙半か、二匙半か、三匙。毎回少しずつずれる。
リディエは黙ってカップを置いた。置いた音が、自分で思ったより少し大きかった。
入口のほうで、エリアスがわずかに身じろぎした気がした。
顔を上げると、彼はまっすぐ前を向いて、何事もなかったように立っていた。
◇
その夜のことだった。
リディエは自室の隣の小さな書斎で、日記を書いていた。
灰の塔の魔女は、全員が日記をつけることを義務づけられている。燃やした記憶の輪郭を、せめて文字で残しておくために。何を失ったのかすらわからなくなった魔女は、やがて自分が誰なのかもわからなくなるから、というのがマグダの教えだった。
北境のこと。紅の壁のこと。理由のわからない涙のこと。
城壁の上の騎士のこと。
そこまで書いて、ペンが止まった。
あの男のことを、日記に書くべきだろうか。書くとしたら、何と書けばいいのだろう。新しい護衛が着任した。名前はエリアス・ノクト。無口で、図々しくて、目が——。
扉を叩く音がした。
リディエは日記を閉じた。
「誰」
「ノクトです」
私室には入らない、という約束だった。書斎は私室ではない、という解釈だろうか。リディエは少し考えてから、「どうぞ」と言った。
扉が開いた。エリアスは敷居の手前で立ち止まり、中には入ってこなかった。両手で、銀の盆を持っていた。
盆の上には、湯気の立つ紅茶のカップがひとつ。
「遅くまでお疲れさまです。よろしければ」
「……頼んでないけど」
「ええ。勝手に淹れました。不要でしたら下げます」
リディエは、カップを見た。
それから、エリアスの顔を見た。
彼は相変わらず静かな顔をしていた。けれどその目の奥に、ほんのかすかな緊張のようなものが見えた気がした。試験の結果を待つ子どものような。あるいは、祈るような。
「……置いていって」
エリアスは三歩の距離を保ったまま、腕だけを伸ばして、盆を机の端に置いた。器用な男だった。
リディエはカップを手に取った。
ひとくち、含んだ。
舌の上に、とろりとした甘さが広がった。多すぎず、少なすぎず。茶葉の渋みを殺さずに、角だけを丸くする甘さ。
二匙だった。
ぴったり、二匙。
カップを持つ指先から、力が抜けそうになった。リディエは慌ててもう片方の手を添えた。胸の奥で、北境の医務室で感じたのと同じ何かが、また目を覚ましかけていた。理由のない熱。理由のない痛み。
この味を、知っている。
北境の医務室で、目を覚ましたとき枕元にあった紅茶。あれと同じ味だった。
「……誰に聞いたの」
声が震えないように、努めて平坦に言った。
「私の好み。誰に聞いたの」
「侍女の方に」
エリアスは即答した。
「塔に着任したとき、魔女殿のお世話について一通り伺いましたので」
「そう」
リディエはカップを置いた。今度は、音を立てないように。
「ありがとう。下がっていいわ」
「はい。おやすみなさいませ」
扉が閉まった。
足音が遠ざかっていくのを、リディエは息を詰めて聞いていた。それが完全に聞こえなくなってから、彼女は立ち上がり、呼び鈴を鳴らした。
しばらくして、昼に紅茶を運んできた侍女が眠そうな顔で現れた。
「お呼びでしょうか、魔女様」
「ねえ、ひとつ訊きたいんだけど」
リディエは机の上のカップを指さした。
「私の紅茶の好み。今日着任した護衛の騎士に、何か教えた?」
侍女はきょとんとした顔になった。
「いいえ? 騎士様とは、まだろくにお話もしておりませんけれど……」
「本当に? 蜂蜜の量とか」
「蜂蜜の量、ですか」
侍女は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「それが、わたくしどもにもよくわからないのです。魔女様はいつも、少しだけ不満そうなお顔をなさるので……多すぎるのか少なすぎるのか、皆で首をひねっておりまして」
リディエは、侍女を下がらせた。
ひとりになった書斎で、冷めかけた紅茶を見つめた。
嘘をつかれた。
あの男は、嘘をついた。侍女は何も教えていない。教えられるはずがない。二匙という加減は、リディエが誰にも言葉で説明したことのない、自分の舌だけが知っている好みなのだから。
それなのに、あの男は知っていた。
北境の医務室でも。今夜も。
◇
真夜中を過ぎても、眠れなかった。
リディエは寝台を抜け出し、肩に何かを羽織って廊下に出た。羽織ってから、それが灰色の外套だったことに気づいた。返しそびれたまま、部屋の椅子にかけておいたのだ。脱ぎに戻るのも癪で、そのまま歩き出した。
灰の塔の夜の回廊は、ひどく静かだ。壁の燭台は半分ほどしか灯されておらず、窓から差し込む月明かりが、石の床に青白い格子模様を描いている。眠れない夜、リディエはいつもこの回廊を歩く。東の端から西の端まで、ゆっくりと三往復。そうすると、不思議と頭が静かになる。
いつからそうしているのか、覚えていない。
二往復目の途中、西の端の窓辺に、人影があった。
月明かりの中に、黒い髪が見えた。窓枠に肩を預けて、外を眺めている。制服の上着を脱いでいて、白いシャツ一枚だった。
リディエは足を止めた。
人影が振り返った。
エリアスは、少しも驚いた顔をしなかった。まるで、彼女がここを通ることを知っていたかのように。
「……眠れませんか」
「三歩」
リディエは言った。
「三歩以上離れて。それから、必要のないことは話しかけないで」
「失礼しました」
エリアスは窓辺から一歩下がった。二人のあいだには、もう五歩ほどの距離があった。
リディエは、その距離を詰めなかった。けれど、立ち去りもしなかった。
「嘘をついたわね」
月明かりの中で、エリアスの表情がわずかに動いた。
「侍女は何も教えていない。聞いてきたわ。だから、もう一度訊く」
彼女は、外套の襟をきつく握った。
「どうして、私の好みを知っているの」
長い沈黙があった。
窓の外で、忘れ川が月の光を砕いていた。遠くで、夜警の鐘がひとつ鳴った。
やがて、エリアスが口を開いた。
「見ていれば、わかります」
「今日一日で?」
「今日一日で」
彼は、窓の外に目をやった。
「魔女殿は、一匙半のとき、二口目で少しだけ眉を寄せる。二匙半のときは、三口目までカップを置かない。甘すぎて、渋みを探しているから。三匙のときは、カップを置く音が少しだけ強くなる。今日の昼がそうでした」
リディエは、息を呑んだ。
そうだっただろうか。自分では気づいたこともなかった。
「二匙のときだけ」
エリアスは、言葉の終わりを柔らかく落とした。
「両手でカップを持つんです。温かいものを、大事に抱えるみたいに」
リディエは、自分の手を見た。
外套の襟を握りしめている、両手を。
顔が熱くなった。月明かりでは、きっと見えないはずだった。見えないでいてほしかった。
「……観察が得意なのね」
「騎士ですので」
「気味が悪いわ」
「よく言われます」
エリアスは、ほんの少しだけ笑った。雪が溶けるような、静かな笑い方だった。北境の城壁の上で見たのと、同じ笑い方だった。
リディエは、踵を返した。
「おやすみなさい、ノクト卿」
「おやすみなさいませ、魔女殿」
三往復目は、歩かなかった。
自室に戻り、寝台に潜り込んでから、まだ外套を羽織ったままだったことに気づいた。脱ごうとして、やめた。
杉と、雪と、蜂蜜の匂い。十日かけて薄れたはずのそれが、なぜか少しだけ濃くなっている気がした。さっき、あの男のすぐ近くを——五歩の距離を——歩いたからだろうか。
嘘つき、とリディエは口の中で呟いた。
一日で、わかるはずがない。
両手でカップを持つ癖なんて、自分でさえ知らなかったのに。
目を閉じる。胸の奥の、一冊ぶんの隙間のあたりが、じんわりと温かかった。
その夜、リディエは北境から戻って初めて、夢も見ずに深く眠った。
◇
西の回廊の窓辺で、エリアスはまだ外を眺めていた。
月は傾き、忘れ川は黒く沈んでいた。
「……少し、喋りすぎたな」
誰に言うでもなく、彼は呟いた。
両手でカップを持つ癖を、彼が初めて見つけたのは、四年前の冬だった。一度目の彼女に、そう教えた。彼女は真っ赤になって、そんなことしてない、と怒った。
二度目の彼女にも教えた。彼女は笑った。
三度目の彼女には、教えなかった。教えたら、また忘れさせてしまう気がしたから。
そして今夜、七度目の彼女に、教えてしまった。
エリアスは、自分の手のひらを見下ろした。硬い、剣を握る者の手。この手の中に、六度分の彼女がいる。丘の上の夕暮れも、指一本ぶんの隙間も、初めて「リディ」と呼んだ日のことも。彼女が燃やしたすべてが、今はここにある。
返したい、と思う。
今すぐに、全部。
けれど、それはできない。
エリアスは拳を握り、窓枠から身を離した。
明日も、三歩の距離で。
必要のないことは、話しかけずに。
彼は静かに、回廊の闇の中へ歩み去った。
ありがとうございました。随時更新していきますのでよろしくお願いします




