第1部 七度目のはじめまして
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第1章 灰の魔女
愛したことを覚えている魔女は、弱い。
灰の塔に入った最初の夜、十歳のリディエ・ヴァルンは、師からそう教えられた。石の床は冷たく、燭台の火は細く、窓の外では王都の鐘が九つ鳴っていた。師のマグダは皺だらけの手で少女の頬を包み、まるで子守唄でも聞かせるように続けた。
「だから、たくさん愛しなさい。そして、ちゃんと忘れなさい。それができる子だけが、この国を守れるのよ」
十二年が経った。
リディエは今、北境ヴォルグ砦の城壁の上に立っている。
雪が降っていた。北の空は鉛を溶かしたように重く垂れ込め、風は刃物の薄さで頬を削っていく。城壁の下、白い平原の向こうに、黒い線が見えた。最初は森の縁かと思ったそれは、近づくにつれて輪郭を得た。槍の穂先。攻城塔の骨組み。軍旗に描かれた双頭の狼。帝国軍、およそ八千。
対するヴォルグ砦の守備兵は、負傷者を含めて六百に満たない。
「灰の魔女殿」
背後から、砦の守将であるオーデン老が声をかけてきた。白髭に霜をつけた老騎士は、二十年この砦を守ってきた男だ。その彼が、自分の半分にも満たない歳の娘に向かって、兜を脱いで頭を垂れた。
「……お願いできますか」
リディエは振り返らなかった。黒い外套の裾が風に煽られ、灰色の髪が一筋、頬に張りついた。二十二歳にしてこの髪の色なのは、魔法を使いすぎたせいだと噂されている。本当かどうかは、彼女自身も知らない。物心ついたときから、髪はこの色だった気もするし、そうでなかった気もする。
そういうことが、彼女にはよくあった。
「そのために来たのよ、オーデン卿」
声は自分でも驚くほど平坦だった。
「兵を城壁から下げて。巻き込まれても責任は取れない」
「承知しました」
老騎士が合図を送ると、城壁の上にいた弓兵たちが次々と階段を下りていった。すれ違いざま、彼らがこちらを盗み見るのがわかる。畏怖と、好奇と、それから少しの憐れみが混じった目だ。
灰の魔女がこれから何を燃やすのか、兵たちは知っている。王国の誰もが知っている。
魔女は、愛した記憶を燃やして魔法を使う。
深く愛した記憶ほど、よく燃える。
城壁の上に、リディエはひとりになった。
いや、ひとりではなかった。
階段の降り口に、ひとりの騎士が残っていた。退避の命令が聞こえなかったのか、あるいは聞こえていて従わなかったのか。灰色の外套を着て、腰に長剣を佩いている。顔は兜の陰になって見えない。ただ、じっとこちらを見ていることだけはわかった。
「あなたも下がって」
騎士は答えなかった。一礼だけして、けれど動かなかった。
リディエは小さく息をついた。構っている暇はない。帝国軍の先陣は、すでに平原の半ばを越えつつあった。
彼女は目を閉じた。
◇
魔法を使うとき、リディエはいつも、古い図書館の中に立っている自分を思い描く。
天井まで届く書架。果てしなく続く通路。棚に並んでいるのは本ではなく、彼女自身の記憶だ。背表紙の色は、その記憶に込められた感情の色をしている。灰色の背表紙は退屈な日々。青い背表紙は悲しみ。黄色いのは、ささやかな喜び。
そして、赤い背表紙がある。
誰かを愛した記憶は、赤い。
燼術の火力は、燃やす記憶の赤さで決まる。八千の軍勢を退けるほどの炎なら、薄紅程度では足りない。胸の奥が焼け落ちるような、深い深い真紅が要る。
リディエは通路を歩いた。
書架の多くは、奇妙に歯抜けになっている。ところどころ、本と本のあいだに、ちょうど一冊ぶんの隙間が空いていた。これまでに燃やした記憶の跡だ。隙間の底には、うっすらと灰が積もっている。
彼女は赤を探した。
家族の記憶は、ほとんど残っていない。十歳で塔に入る前のことは、とうに燃やしてしまった。母の顔も父の声も、今のリディエは思い出せない。ただ、灰の積もった隙間がそこにあることだけがわかる。
友人の記憶は、淡い桃色。これでは足りない。
師への敬愛は、橙色。これも足りない。
通路の奥へ、奥へ。
そして、見つけた。
書架の一番奥、光の届かない暗がりに、一冊だけ、燃えるように赤い本が立っていた。
リディエは足を止めた。
おかしい、と思った。
こんな記憶があっただろうか。これほどまでに赤い何かを、自分は持っていただろうか。背表紙に手を伸ばすと、指先が火傷しそうなほどに熱い。まだ開いてもいないのに、胸がきしむように痛んだ。
彼女は本を抜き取り、頁を開いた。
夏の夕暮れだった。
どこかの丘の上。風が草の匂いを運んでくる。空は茜と群青の境目で、一番星が滲むように光り始めている。自分は誰かの隣に座っている。肩と肩のあいだに、指一本ぶんの隙間がある。その隙間が、世界で一番熱い場所のように感じられる。
隣の誰かが何かを言った。自分は笑った。声を上げて、子どものように笑った。こんなふうに笑えることを、リディエはそれまで知らなかった。
誰かの手が、そっと自分の手に重なる。
大きな手だった。剣を握る者の、硬い手のひら。けれど触れ方は驚くほど慎重で、まるで壊れものを扱うようで。
——リディ。
誰かが自分をそう呼んだ。
誰も、自分をそんなふうには呼ばない。師でさえ、リディエと呼ぶ。
顔を上げる。隣の人を見ようとする。
夕陽が逆光になっていて、顔が見えない。
見えない。
リディエは頁の上で手を止めた。本を閉じたい、と思った。これは燃やしてはいけないものだと、心のどこかが叫んでいた。理由はわからない。わからないけれど、この本を失ったら、自分はもう二度と今のようには立っていられない気がした。
遠くで、角笛が鳴った。
帝国軍の突撃の合図だった。
目を閉じたままでも、足元の城壁が震えるのがわかる。何千という軍靴が雪を踏む音。攻城塔の車輪が軋む音。その下に、六百人の兵がいる。オーデン老がいる。まだ十五にもならない見習い兵がいる。
リディエは、息を吸った。
——ちゃんと忘れなさい。それができる子だけが、この国を守れるのよ。
「……ごめんなさい」
誰に謝ったのか、自分でもわからなかった。
彼女は頁に火をつけた。
◇
燃えるのは一瞬だ。
けれどその一瞬のあいだに、燃えていく記憶のすべてを、術者はもう一度生き直す。
丘の上の風。草の匂い。指一本ぶんの隙間。重なった手のひらの硬さと、驚くほどの慎重さ。
——リディ。
その声だけが、炎の中で何度も繰り返された。低くて、少し掠れていて、名前の最後を柔らかく落とす癖のある声。
——リディ、大丈夫だ。
——僕が。
声が途切れる。頁が黒く縮れていく。夕陽の中の輪郭が、端から灰になって崩れていく。
待って、と言いかけた。
せめて顔を。せめて一度だけ、顔を——
記憶が燃え尽きた。
そして、炎が生まれた。
リディエが目を開いたとき、両手の中に、紅い太陽があった。
それは城壁から溢れ出し、雪原を舐めるように広がった。音はなかった。あまりにも熱い炎は、音を立てる暇すらなく空気を焼き切っていく。紅蓮の壁が平原を横一文字に裂き、帝国軍の先陣と後陣を真っ二つに分断した。攻城塔が、根元から飴細工のように溶け落ちた。軍旗が、双頭の狼ごと灰になって舞い上がった。
人は焼かなかった。焼かないように、炎の縁を操った。それがリディエの矜持だった。燃やすのは道と兵器と戦意だけ。紅い壁の向こうで、兵たちが悲鳴を上げて逃げ惑うのが見えた。
壁は、そのまま一刻のあいだ燃え続けた。
角笛が、撤退の調べを吹いた。
黒い線が、ゆっくりと北へ退いていく。
城壁の下から、歓声が湧き上がった。最初はまばらに、やがて地鳴りのように。六百人の兵が、剣を掲げ、兜を投げ、泣きながら笑っていた。
リディエはそれを、ひどく遠い場所から聞いていた。
両手を下ろす。炎が消える。雪が戻ってくる。降りしきる白の中で、平原に刻まれた焦げ跡だけが、黒々と湯気を立てていた。
勝った。
守った。
なのに、胸の中が空っぽだった。
正確には、空っぽになった場所があることだけがわかった。書架に、一冊ぶんの新しい隙間ができている。そこに何があったのか、もう思い出せない。夏だった気がする。誰かがいた気がする。でも、それが誰だったのか、何があったのか、なぜあれほど赤かったのか——。
膝から力が抜けた。
石の床に崩れ落ちる寸前、誰かの腕が、彼女の身体を受け止めた。
大きな手だった。硬い手のひら。けれど、支え方は驚くほど慎重で。
「——お疲れさまでした」
頭上から、低い声が降ってきた。少し掠れていて、言葉の終わりを柔らかく落とす声。
リディエは目を上げた。
さっきの騎士だった。いつのまに兜を脱いだのか、雪の中に素顔を晒している。黒い髪に、雪が積もっていた。灰色の瞳が、じっと自分を見下ろしている。
その目が、ひどく悲しそうだった。
なぜだろう、とリディエは思った。勝ったのに。誰も死ななかったのに。どうしてこの人は、こんなにも何かを失ったような顔をしているのだろう。
「……あなた」
声が掠れた。
「誰?」
騎士は、ほんの一瞬、息を止めたように見えた。
それから、微かに笑った。雪が溶けるような、静かな笑い方だった。
「通りすがりの騎士です」
「嘘。砦の人じゃないでしょう」
「ええ、まあ」
「名前は」
騎士は答えなかった。代わりに、外套を脱いで彼女の肩にかけた。重い布地から、ほのかに体温が伝わってくる。知らない匂いがした。杉と、雪と、ほんの少しの蜂蜜のような甘さ。
知らない匂いのはずなのに、なぜか目の奥が熱くなった。
「少し、休んでください」
騎士が言った。
「目が覚めたら、温かいものを用意しておきます」
リディエは何か言い返そうとした。命令されるのは嫌いだ、とか、見知らぬ男に抱えられる趣味はない、とか。けれど言葉は形になる前にほどけて、意識が雪のように白く遠のいていった。
最後に感じたのは、髪に触れる指先だった。
まるで、何度もそうしてきたかのような、迷いのない触れ方だった。
◇
目を覚ますと、砦の医務室の寝台の上だった。
窓の外はもう夜で、雪は止んでいた。暖炉の火がぱちぱちと爆ぜ、壁に橙色の影を揺らしている。薬草の匂いと、煤の匂い。身体は鉛のように重く、指一本動かすのも億劫だった。
燼術を使ったあとは、いつもこうだ。燃やした記憶が大きければ大きいほど、身体の芯から熱が抜けていく。まるで、自分という人間の一部が本当に燃えて、灰になってしまったかのように。
いや、実際にそうなのだろう。
リディエは天井を見上げたまま、自分の中の書架を確かめた。一番奥の暗がりに、新しい隙間がひとつ。底には、まだ温かい灰が薄く積もっている。
何を燃やしたのか、思い出そうとした。
夏。丘。夕暮れ。——それ以上は、何も出てこない。言葉だけが残っていて、その中身が抜け落ちている。空の宝石箱みたいに。
いつものことだ、と自分に言い聞かせた。
燃やした記憶は戻らない。戻らないものを嘆いても仕方がない。灰の魔女は、そうやって十二年、この国を守ってきた。これからもそうする。それだけのことだ。
それだけのことのはずなのに。
頬を、何かが伝った。
指で触れると、濡れていた。
リディエは、自分が泣いていることに気づいた。
驚いて身体を起こす。涙は止まらなかった。次から次へと溢れて、顎を伝い、毛布の上にぽたぽたと落ちていく。胸が痛いわけではない。悲しいわけでもない。何が悲しいのか、そもそもわからない。ただ、身体の奥のどこか、自分では手の届かない場所が、勝手に泣いている。
「……なに、これ」
呟いた声まで震えていた。
燼術のあとに泣いたことなど、これまで一度もなかった。灰の魔女は泣かない。泣く理由を、燃やしてしまうのだから。
寝台の脇の小卓に、陶器の茶器が置かれているのが目に入った。
湯気が細く立ちのぼっている。淹れたばかりらしい。誰が置いたのだろう。医務室付きの看護兵だろうか。
リディエは涙を手の甲で拭い、カップを手に取った。
紅茶だった。濃く淹れた、北方風の紅茶。ひとくち含むと、舌の上にとろりとした甘さが広がった。
蜂蜜が入っている。
しかも、ちょうどいい量だった。多すぎず、少なすぎず。茶葉の渋みを殺さずに、角だけを丸くする甘さ。
リディエは、紅茶に蜂蜜を入れるのが好きだ。二匙。それより多くても少なくてもいけない。塔の侍女たちに何度教えても、なかなかこの加減が伝わらない。一匙半だったり、三匙だったりして、そのたびに自分で淹れ直す羽目になる。
この紅茶は、ぴったり二匙だった。
カップを持つ手が、小さく震えた。
また涙が落ちて、紅茶の水面に小さな輪を描いた。
なぜ泣いているのかわからない。なぜこの甘さが、こんなにも胸を締めつけるのかわからない。ただ、身体が覚えている何かが、どこか遠くで名前を呼んでいる気がした。
声は聞こえない。
名前も、わからない。
◇
扉を叩く音がして、オーデン老が入ってきた。
老騎士はリディエの顔を見て一瞬たじろいだが、何も見なかったような顔で寝台の脇に立った。武人らしい気遣いだった。リディエはカップを置き、背筋を伸ばした。涙の跡は、もう乾き始めていた。
「お加減はいかがですかな、魔女殿」
「最悪。でも、明日には動けるわ。被害は?」
「死者なし。負傷者は十数名、いずれも軽傷です。帝国軍は国境の向こうまで退きました。しばらくは動けんでしょう」
「そう」
「兵たちが、魔女殿に礼を言いたがっております。明日、少しだけでも顔を出していただければ」
「……考えておくわ」
オーデン老は頷き、それから懐から一通の封書を取り出した。封蝋には、王家の百合の紋章が押されている。
「それと、王都から伝令が。魔女殿宛てです」
リディエは封を切った。
中身は短い命令書だった。北境での任務を終え次第、王都へ帰還すること。帰還後、灰の塔にて静養し、次の任務に備えること。
そして最後に、一行。
——護衛騎士の交代について。前任者は任を解かれた。新たな護衛として、王国騎士団より以下の者を任ずる。
エリアス・ノクト。
リディエは、その名前を見つめた。
知らない名前だった。
知らない、はずだった。
指先が、紙の端をきつく握りしめていた。自分でも気づかないうちに。紙がくしゃりと音を立てて、ようやく我に返った。
「魔女殿?」
「……なんでもない」
リディエは命令書を畳んだ。
「前の護衛って、誰だったかしら」
口にしてから、奇妙な質問だと自分でも思った。自分の護衛のことを、自分が覚えていないなんて。
オーデン老は困ったように眉を寄せた。
「さて……わしは存じ上げませんな。魔女殿は、この砦にはお一人で来られたと聞いておりますが」
「一人で?」
「ええ。少なくとも、わしはそう聞いております」
そうだっただろうか。
王都からヴォルグ砦まで、馬で十日の道のりだ。その道中のことを思い出そうとした。宿場町の名前、泊まった宿の天井の染み、道端に咲いていた花の色。断片的には思い出せる。けれど、どの場面にも、自分以外の誰かがいたかどうかが、曖昧だった。
いた気がする。
いなかった気もする。
記憶の輪郭が、ところどころ、焼け焦げた紙のように欠けている。
「オーデン卿」
「はい」
「城壁の上に、騎士がひとり残っていたでしょう。灰色の外套を着た、黒髪の。あれは誰?」
老騎士はますます困惑した顔になった。
「城壁には、魔女殿おひとりだったはずですが。全員の退避を、わしが確認しましたので」
リディエは、自分の肩にかかっているものに目をやった。
灰色の外套だった。
医務室に運ばれたときから、ずっと肩にかけられていたらしい。重い布地。杉と雪と、ほんの少しの蜂蜜の匂い。
それは確かにここにある。夢ではない。
「……そう」
リディエはそれだけ言った。
オーデン老が出ていったあと、彼女は外套を膝の上に広げ、しばらく黙って見つめていた。胸元の内側に、小さな縫い取りがあるのに気づいた。糸は擦り切れかけていて、ほとんど読めない。
指でなぞる。
かろうじて、一文字だけが判別できた。
E。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
リディエは外套を畳もうとして、やめた。代わりに、それを胸に抱きしめるように引き寄せて、顔を埋めた。
なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。
ただ、そうしていると、胸の中の空っぽの場所に、ほんのわずかだけ、温かいものが戻ってくる気がした。
窓の外で、雪がまた降り始めていた。
◇
同じ頃、砦の外れの厩舎で、ひとりの騎士が馬の鞍を整えていた。
黒い髪に、灰色の瞳。外套は着ていない。夜の冷気が容赦なく肌を刺すのに、彼は寒さを感じていないような顔で、黙々と手を動かしていた。
馬が鼻を鳴らし、主人の肩に顔をこすりつけた。
「……わかってる」
騎士は、馬の首を撫でながら小さく呟いた。
「わかってるよ。六度目だ」
その声は低く、少し掠れていて、言葉の終わりを柔らかく落とす癖があった。
彼は空を見上げた。雪雲の切れ目から、星がひとつだけ覗いていた。夏の夕暮れに見た一番星とは、まるで違う冷たい光だった。
「今度も、ちゃんと覚えてるよ。リディ」
答える者はいなかった。
騎士は馬に跨がり、王都への道を、誰よりも先に駆け出していった。
新しい護衛として、彼女を迎えるために。
七度目の、はじめましてを言うために。
ありがとうございました。随時更新していきますのでよろしくお願いします




