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帰る空~桜舞う記憶~  作者: 雨宮ぐみ


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5/20

 「試験の日」


――あの日、私は知らない青年に「帰ってきて」と願った。

十七歳の夏。

家族旅行で訪れた鹿児島・知覧。

そこで私は、一枚の写真に出会った。

写真の中にいたのは、まだ少年の面影を残した十八歳の青年だった。

知らない人のはずなのに、なぜか懐かしい。

初めて見る写真なのに、ずっと昔から知っているような気がする。

そして、その青年が家族に残した一通の手紙を読んだとき、理由も分からないまま涙があふれた。

――帰ってきて。

心の中で、そう願っていた。

その夜、私は不思議な夢を見る。

戦争の時代。

一つの家族。

そして、幼い少女を抱きしめる青年。

少女の名前は、桜子。

青年は、誠司。

けれど私は知らなかった。

その少女が、かつての私自身だったことを。

そして――

この家族が、もう一度私を必要としていることを。

時代を越えて与えられた、小さな命。

見えるのは、人の心。

そして、まだ決まっていない未来。

けれど、未来を変えるということは、誰か一人を救えば終わることではなかった。

父の葛藤。

母の祈り。

兄の恐怖と覚悟。

そして、幼い妹の「生きてほしい」という願い。

戦争によって引き裂かれようとする家族を前に、桜子は何度も未来を見る。

何度も迷い、何度も涙を流す。

それでも――

「みんな一緒に生きてほしい」

その願いだけは、決して手放さなかった。

これは、過去に生きた一つの家族と、未来から戻ってきた一人の少女の物語。

そして、

「もし、あの時代にもう一度戻ることができたなら――」

そんな問いから始まる、家族と平和の物語です。

過去を変えることはできない。

けれど、過去から受け取った想いを、未来へつなぐことはできる。

この物語を読んでくださるあなたの心に、桜子たちの願いが届きますように。

そして、二度と同じ悲しみを繰り返さない未来を、私たち一人ひとりが願い続けられますように。


昭和二十年五月。


まだ夜が明けきらない頃。


桐生家の庭には白い朝霧が立ち込めていた。


「コケコッコー。」


鶏の鳴き声で目を覚ました桜子は、布団から飛び起きた。


(今日だ。)


(運命の日。)


隣では母・千代美がまだ眠っている。


桜子はそっと布団を抜け出し、誠司の部屋へ向かった。


障子の隙間から覗くと、兄はもう起きていた。


制服を整え、飛行学校の受験票を丁寧に懐へしまう。


机の上には、あの木製の飛行機が置かれていた。


翼には、小さく鉛筆で書かれた文字があった。


「帰る。」


桜子の目に涙が浮かぶ。


(覚えていてくれた。)


朝の約束


囲炉裏を囲んで朝食が始まる。


誰も口数が少ない。


勝が静かに言った。


「誠司。」


「今日の試験は全力を尽くせ。」


「はい。」


千代美は味噌汁をよそいながら微笑む。


「帰ってきたら、おはぎを作るから。」


誠司は少し照れた。


「そんな大げさな。」


その時、桜子が立ち上がった。


「わたしも。」


皆が振り向く。


「いく。」


勝は困ったように笑う。


「試験会場だぞ。」


「子どもが行く場所じゃない。」


しかし桜子は首を横に振った。


「いっしょ。」


その瞳は真剣だった。


昨夜の言葉が頭をよぎる。


「試験の日は、一人で行かせるな。」


勝は誠司を見る。


誠司はしゃがみ込み、桜子の頭を撫でた。


「一緒に途中まで行こう。」


その一言で桜子はほっと息をついた。


道の途中で


村を抜ける一本道。


田植え前の田んぼが朝日に光っている。


誠司は桜子を肩車した。


「重くなったな。」


「もう三歳だもんな。」


桜子は笑った。


「お兄ちゃん。」


「ん?」


「帰る。」


誠司は空を見上げた。


「帰る。」


今度は迷わず答えた。


その言葉を聞いた父は、少しだけ微笑んだ。


橋の異変


試験会場まであと半分。


小さな木橋へ差しかかった時だった。


桜子の足が止まる。


胸が締めつけられる。


(ここ。)


突然、記憶がよみがえった。


雨で緩んだ橋脚。


荷馬車。


崩落。


「だめ!」


桜子は叫んだ。


「わたらない!」


勝が驚く。


「どうした?」


「橋さん、いたい!」


誠司も橋を見つめる。


一見、何の異常もない。


しかし勝は娘の言葉を思い出した。


柱。


井戸。


柿の木。


「待て。」


勝は橋脚を確かめに降りた。


木を叩く。


ボソッ。


中が腐っていた。


その瞬間。


向こう岸から荷馬車が近づいてきた。


勝が叫ぶ。


「止まれ!」


御者が手綱を引く。


次の瞬間だった。


バキバキッ!


橋の一部が崩れ落ちた。


皆が息を呑む。


もしそのまま渡っていたら。


誠司も。


桜子も。


巻き込まれていた。


御者は青ざめながら頭を下げた。


「助かった……。」


勝は娘を抱きしめた。


「桜子。」


「また、お前か。」


その声は震えていた。


試験会場


迂回したため、会場へ着いた頃には開始まで残りわずかだった。


飛行学校の敷地。


若者たちが整列している。


皆、同じくらいの年頃。


誠司と同じように、空を夢見ている青年たちだった。


桜子は胸が痛くなる。


(この中にも。)


(知覧で写真になった人がいる。)


その時だった。


あの教官が近づいてきた。


「橋が崩れたそうだな。」


勝が頷く。


「娘のおかげで助かりました。」


教官は桜子を見る。


「君は本当に……。」


言葉を飲み込んだ。


試験開始


誠司は整列する。


桜子は門の外から見つめた。


(お願い。)


(帰って。)


試験は体力検査から始まった。


走る。


跳ぶ。


視力。


聴力。


そして面接。


誠司は落ち着いて答えていた。


しかし最後。


適性検査の途中で、空が暗くなった。


山の向こうから黒い雲。


教官が空を見上げる。


「急な天候悪化だ。」


強風が吹く。


飛行適性の実技は中止になった。


延期。


受験生たちはざわめく。


誠司も驚いていた。


桜子は空を見つめた。


(変わった。)


この日の実技で教官に見初められる未来だった。


でも延期になった。


未来が一つずれた。


教官の決断


帰り際。


教官が勝を呼び止めた。


「桐生さん。」


「少し話があります。」


誠司は離れた場所で待つ。


教官は静かに言った。


「橋の件。」


「娘さんが異変に気づかなければ、多くの者が巻き込まれていました。」


勝は黙って頷く。


「私は軍人です。」


「迷信は信じません。」


少し間を置いて続けた。


「ですが。」


「今日は娘さんの言葉に救われました。」


そして教官は意外な提案をした。


「実技試験は来月まで延期します。」


「焦らせる必要はありません。」


桜子はその言葉を聞き、胸が高鳴った。


(一か月。)


(時間が増えた。)


運命が与えてくれた猶予。


いや。


家族がつかみ取った猶予だった。


新しい未来の入り口


帰宅すると、千代美がおはぎを並べて待っていた。


「おかえり。」


誠司は笑う。


「ただいま。」


その「ただいま」が、桜子には何より嬉しかった。


食卓には久しぶりに笑い声が戻る。


しかし、その夜。


桜子は秘密の日記へ新しい丸を書き足した。


橋。


そして、その下へ初めて文字らしい文字を書いた。


「時間をもらえた。」


炭の文字は歪んでいた。


けれど、その言葉だけははっきり読めた。


窓の外では風が止み、雲の切れ間から星が覗いていた。


桜子は小さく呟く。


「ありがとう。」


誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


けれど、どこか遠い空で誰かが微笑んだ気がした。


第五話 終。



この物語を書き終えて、最後に残ったのは、一つの問いでした。

「命を守るとは、どういうことなのだろう。」

戦争の時代には、多くの人が自分の大切な人を残して、戦地へ向かいました。

そこには、それぞれの覚悟があり、家族への愛があり、そして言葉にできない恐怖もあったのだと思います。

私たちが今、当たり前のように過ごしている日常。

家族と食卓を囲むこと。

「いってらっしゃい」と送り出し、「おかえり」と迎えること。

好きな人と笑うこと。

明日の予定を考えること。

将来の夢を語ること。

それらは決して当たり前のものではありません。

この物語の中で、桜子は過去へ転生し、未来を変えようとします。

けれど、本当に変えたかったのは、一人の人間の運命だけではありません。

「誰かが犠牲にならなければならない」という未来そのものでした。

兄を救うために父が犠牲になる。

父を救うために兄が犠牲になる。

そんな未来ではなく、

父も、母も、兄も、妹も――

家族全員が生きて、笑って、未来を迎える。

桜子が最後まで願ったのは、そんな未来でした。

そして、物語の中で桜子が持つ「人の心が見える力」と「未来を見る力」は、特別な力でありながら、実は私たちにもあるものなのかもしれません。

誰かの悲しみに気づくこと。

誰かの苦しみに寄り添うこと。

大切な人を失いたくないと思うこと。

そして、

「明日は今日より平和であってほしい」

と願うこと。

それもまた、未来を変える小さな力なのだと思います。

知覧で残された写真や手紙は、過去から未来へ届けられた言葉です。

その言葉を受け取った私たちが、何を感じ、何を未来へ残していくのか。

それは、この物語を読んでくださった皆さん一人ひとりに託されているのだと思います。

最後に。

桜子が願った、

「みんな一緒に生きてほしい」

という言葉が、どうか物語の中だけの願いになりませんように。

戦争を知らない世代から、また次の世代へ。

家族を想う気持ちを。

平和を願う心を。

そして、かけがえのない命の大切さを。

この物語が、ほんの少しでも未来へつなぐ橋になれば幸いです。

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