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第4巻 第4章 エララの激怒(4)

薄い朝の光が花壇を撫でる。深紅の薔薇に指先を添え、エララは花弁の縁をそっとなぞった。ひとひら持ち上げれば、露がひかり、香りが立ちのぼる。乾いた石路の肌と、花の柔らかさの落差が掌に残る。その手は迷いがない。迷いを許さない主の庭だ。


ここはアレスが編み上げた結界の設計空間。風の通り道も、光の角度も、彼の美意識が行き届く。気配は静謐で、遠くの水路が細くさざめく。白い柱が朝日を受け、影は鋭く伸び、彫像の輪郭に淡い輪郭が差す。花の色は鮮やかだが騒がしくない。整った並びが視線を誘い、水面に走る波紋がそれに呼応する。エララは目を細めた。冷たい土の匂いに、微かな異臭が混じる気がする。外からではない。内側の、どこか。


「……ねえ、あなたは正直者?」薔薇に顔を寄せてささやく。「この庭は息を合わせているはず。なのに、喉の奥に棘のかすり傷みたいな違和感が残るの。わたしだけかしら」


露がまた一滴落ちた。指の腹に丸い冷たさが残る。エララは静かに息を吐く。


「彼は景色を、世界を整える人。人の顔色なんて興味がない。だから、余計な影は私が摘む」


彼女はスカートの裾を払った。布が空気を割る音が小さく響く。踵を返し、庭を離れる。花の香りが背に流れ、地下へ続く通路の空気が冷たくまとわりつく。石の壁が近い。苔の湿り気が匂い立つ。階段を降りるほど、肌の温度が奪われていく。


扉を押すと、地下の貯蔵庫は光を飲み込んでいた。窓はない。青白い魔石ランプが一点、椅子と机の輪郭を浮かび上がらせる。埃が舞う。咽せるほどではないが、舌に鉄の粉が張り付く感覚がある。


「入って」


鈴が鳴るみたいに短く。重い扉が軋み、中年の男が顔をのぞかせる。物資管理を任された者。額に汗が浮き、視線は床を彷徨う。靴底が石に擦れて、足取りの迷いが音に出る。


「エララ様……ど、どのようなご用件で」


「座って」エララは手をしならせて椅子を示した。「世間話をしましょう。朝は人の舌が軽いから」


男はこくこくと頷き、ぎこちない動きで腰を下ろす。木のきしみが狭い空間に留まり、余韻が長い。


「ねえ」エララは彼の周囲を一歩ずつ歩く。ヒールが床を叩く音が、彼の喉の上下にリズムを刻む。「最近、この庭で気になること、揺らぎ、妙な質問、不審な手。思い当たる?」


「揺らぎ、ですか……いえ、その……」男は顎に力を込め、視線を上げかけてやめた。「アレス様の結界があるので、平和で、ええと……」


「本当?」エララは背後で足を止める。冷たい指が男の首筋に触れる。鳥肌が立つのが見えた。


「ひっ……!」


「嘘の温度は高いの」小さな囁き。「皮膚が教える。今、熱い」


「ち、違う……私は、私は……!」声が裏返る。


「彼の庭に、外からの混ざり物が入れば、景色はにごる。あなたは景色を整える役目のひとつ。目は働いてる?」


男は喉を鳴らした。顔色がさらに落ちる。目尻に汗が光る。


「し、知らないことは……」


「どうして肩がこんなに跳ねるの」エララは首を傾げ、軽く肩に触れた。「怖い相手を想像しているからでしょう。なら、名前か形ぐらいは浮かんでいる」


沈黙が落ちる。男は唇を何度もなめた。乾いている。やがて小さく崩れるように言葉が零れた。


「数日前……見慣れない行商人が何人か……」


「ふうん」


「入ってきました。許可証は持っていました。ですが、境界の地形や、出入りの道を詳しく……やけに詳しく聞いて回って……」


「境界ね」


エララは彼から一歩、二歩と離れた。背中にまとわりついていた重さが抜け、男は椅子に沈み込む。肩が上下に荒く動く。濡れたシャツが肌に貼りつく音が、耳に届く。


「ありがとう。口は堅いほうが、あなたの舌に優しい」


男は足をもつれさせながら立ち上がり、扉へと逃げるように向かった。扉が閉まる音が遠くから戻ってくるように響く。


次は足音が真っすぐで速い。若い兵士が姿を見せた。顎を引き、胸を張り、剣の柄に右手を置く。左手の指が微かに震えている。


「お呼びとのこと、参りました」


「警備の報告を聞きたいの。境界、見回りの経路、最近の小さな異変。『小さな』が大事」


「特筆すべきことは……ありません」兵士は声量を保ちつつ言葉を選んだ。「魔物は侵入できませんし、結界の強度も……」


「魔物の話じゃない」エララは近づき、兵士の肩章に指先を触れさせる。磨かれた金具がランプの青白い光を跳ね返す。「人間。許可証と笑顔を持った者たち」


兵士の目がわずかに泳ぐ。すぐに直す。その意地が痛々しいほど真っ直ぐだ。


「入ってくる者は、身元が確認されています」


「その確認は、どこまでが『確認』なの」


「紹介状、出身地、同行者……」兵士は早口になりかけ、歯を噛み合わせた。「手順通りです」


「手順は紙。境界は風」エララは衣の裾を指先でつまみ、わずかに揺らす。「紙で風を捕まえられる?」


兵士は唇を引き結んだ。悔しさが頬に紅をさす。エララは視線を少しだけ柔らかくする。


「些細でいい。あなたの靴が覚えている足取りの違いでも」


一拍の後、兵士が目を伏せた。


「東側で……微かな魔力の揺らぎがあったと報告がありました。すぐ消えました。巡回の者は、魔獣の残り香と判断して……」


「東側」


重ねるように言う。彼女の目に薄い光が宿る。


「いい耳ね。感謝するわ」


兵士の肩に、今度は軽く手を置く。力はない。ただ、それでも彼の膝から緊張が抜け、金具が音を立てて触れ合う。


「この件は、口の中にしまっておきなさい。もしこぼれたら……あなたの舌はもう役に立たなくなる」


言葉を失う音がした。「了解しました」


兵士は一礼し、汗の匂いを残して去る。扉が閉まった後、室内の空気は少し乾いた。


間髪を入れずに次の足音。宿屋の女将が裾を持ち上げ、頭を下げる。


「お忙しいところ、失礼いたします」


「あなたの宿に、最近の客の癖は?」


「癖、でございますか?」


「扉の閉め方、歩幅、靴の泥の色」


女将は目を丸くし、すぐに顎に指を当てた。


「……東の泥を踏んだ靴が何足か。色が赤茶けております。あの道はぬかるみが多いので」


「東へ行く用がある者は珍しい?」


「このところ増えました。見慣れぬ顔。言葉遣いは丁寧でしたけれど、火の扱いが荒い方が……ろうそくの芯を長いままにして、火が跳ねて、焦げ臭くなりまして。夜更けに何度か出入りしていたのは、その方たちです」


「顔は覚えている?」


「フードを深くかぶっておられました。声は低い。若いとも老いたとも判断がつかない」


「十分」


エララは女将の前髪の一筋をそっと払う。女将の肩の緊張がほどけ、ため息がこぼれる。


「ありがとう。あなたは器用ね。舌も器用。だから、余計なことは噛み切ってしまいましょう」


女将は蒼白になってうなずき、逃げるように下がった。


酒場の店主は腕を組んでいたが、入室した瞬間その腕をほどいた。大柄の体が狭い部屋に合わない。口元に人懐っこい笑みを貼り付けるが、手の甲の血管が浮いている。


「客の話に耳を貸すのがあなたの仕事」エララは椅子に浅く腰を掛ける。「最近の『語りたがらない話』を聞かせて」


「語りたがらない……たしかに、妙なことがありまして」店主は視線を机の節に落とした。「地図を逆さに見る客がいました」


「逆さに?」


「ええ。わざとです。普通の旅人は道を確かめる。彼らは境界と森の影の位置を、太陽の動きじゃなく、灯台の灯りみたいに確かめていました。夜に動く者の目だ」


「彼らの杯は何で濡れていたの」


「……口をつける前に、杯の縁を布で拭いていた。潔癖というより、匂いを消したい者の動き」


「あなた、よく見ている」


エララが立ち上がると、店主は無意識に一歩下がった。


「他には?」


「会計が早い。チップが均一。常識に合わせてくる者の遣い方でした」


「均一ね。整えた癖は隠せない」


街の顔役が呼ばれた時、彼は両手を合わせて深く礼をした。歳を重ねた目が、計算と恐れの間で揺れる。


「誰もが口を噤むことほど、街の血管に負担がかかる」エララは言う。「境界の東で、あなたの耳が拾ったものを」


「……行商の連中が、東の小道のぬかるみの固さを確かめていました。棒でつついては、地面を見て、風を嗅ぐ仕草を。普通の旅はそんな必要ないでしょう」


「普通じゃない客に、普通のもてなしをするのがあなたの生き方。それはわかる」


「ええ。ただ……」彼は一度口を閉ざし、視線を床に落とした。「夜に、鐘が一つ鳴ったと報告がありました。誰も鳴らしていない鐘が」


「風では鳴らない鐘を鳴らすものがいる」


顔役は目をそらしたまま頷く。エララは指を鳴らし、ランプの火がわずかに揺れた。


「十分。あなたも舌を大切に」


呼び出しは続いた。刃物屋は、東入りの客が刃を買わずに砥石だけを求めたと話した。果樹園の親父は、夜明け前に果実の皮に黒い粉が降りた、と震えて訴えた。エララは一人ずつ、目の動き、手の癖、唇の乾き方から「まだある」を引き抜いていく。言葉は短く、間は長い。その沈黙が語る。


最後に、東の畑の農夫。扉に手をかけたまま、肩で息をしている。目の白が目立つ。膝が笑い、手が扉から離れては戻る。


「入って」


エララの声に、彼は弾かれたように一歩進み、頭を下げた。そのまま膝が崩れ、床に片手をつく。


「夜の東で、何を見たの」


「……っ……森の縁で……黒い外套の男たちが……」言葉の合間に空気を噛む音が混じる。「結界の……あの、基点の……石のところで、何かを……」


「何を」


一歩、距離が詰まる。彼は頭を抱えるようにして、顔を上げられない。


「黒い液体を……撒いてました……。草が、その、音もなく……目で見えるほど早く、しゅん、と……枯れて……! 怖くて……すぐに逃げました。申し訳ありません……止めることも……誰かを呼ぶことも……」


「黒い液体。草木が即座に萎む」


エララは視線を上げる。青い火が静かに揺れ、影が壁に伸びる。指が冷える。彼女は短く頷いた。


「帰って。畑に水を撒いておくといい」


農夫は何度も頭を下げ、這うように退室する。扉が閉まる。石壁が息を吸う。


静かな笑い声が零れた。喉の奥で転がる笑い。肩は揺れない。目だけが笑っている。


「ふふ」


一拍置いて、笑いは速さを増す。音の高さが上下し、壁に返った音が絡む。


「あはは」


すぐに止む。空気に亀裂が生まれる。彼女の背で、冷たい透明な何かが立ち上がる気配が走る。床に微細な氷の紋が滲み、消える。ランプの炎が細くなる。


「侵入者。庭に手を伸ばす者。夜と匂いで身を包み、基点を汚しに来た者」


独り言は短く区切られていく。やわらかな発音に、刃の薄さがのる。


「魔王軍。四天王のひとり、毒のゲルド。やっと、名前が舌に乗った」


エララは指先で机の角をなぞる。そこにある木目の凹凸を、一本ずつ数えるみたいに。爪が鳴らした音が、鐘のような短い余韻を残す。


「彼は直接は来ない。使いを潜らせる。東側で揺らぎ。黒い液体。境界の基点。点と点」


言葉が連なり、ひとつの形に収束する。エララは目を閉じた。瞼の裏に黒髪が揺れる。風に濡れたような光が、細い糸を引く。冷たい瞳。静かな息の音。歩くたび、布と布が擦れる低い音。アレスの居る空間の匂いは、青い水と白い石の混ざった香りだ。


「あなたは、こういう油は嫌うでしょうね」


彼女は微笑む。頬に、他の誰にも向けたことのない柔らかさが、薄く差す。


「アレス様、庭の手入れは任せて。花に触れる前に、手を洗っておく」


声に反応する者はいない。ただ、ランプの炎が小さく揺れたように見えた。


ふいに、彼女の周囲の温度が下がる。壁の石に髪の毛ほどのひびが走る。音は小さいのに、骨の奥に響く。机の上の埃が震え、軌跡を描く。エララは両手を胸の前で組んだ。祈りの形。でも、祈ってはいない。決意を固める指の結び方だ。


「庭の『にごり』は、放っておくと広がる。今なら拭き取れる」


椅子の背を指で軽く叩く。木が返事をしたかのように、ごく小さく鳴る。


「境界の基点に触れた手は、冷たさをよく知るべき」


部屋の奥で、氷の毛羽立ちが空気に立つ。薄い白が床に散る。彼女はそれを踏まずに歩く。裾が揺れ、床をかすめる音が短く続く。


「さて」


エララは扉に手をかけた。蝶番がひとつ鳴く。その金属音を背に、彼女は振り向かずに続ける。


「害虫駆除を始めましょう」


言葉は柔らかい。だが、室内の影は、彼女の背中に従って伸びる。扉が閉まる時、ランプの炎がふっと弱まり、また戻る。壁面に残った細いひびが、光で細く縁取られた。


通路を歩く足音は、地下の湿り気を軽やかに切り分ける。踊り場で一度だけ立ち止まり、彼女は天井を仰いだ。石に上から押しつけられる朝の重みが、薄く感じられる。庭の水路の音が、とても遠くに聴こえる。


「東側」


口の中で転がし、味を見るように言う。舌に苦味が広がった気がする。


外では、日がすっかり高くなっているはずだ。白い建物は光を受け、影は短く、輪郭はくっきりする。水路の水は日に温められ、湿った草の匂いを帯びる。風は冷たくもなく、暑くもない。


アレスは、こうした時間の切り取り方が上手い。光を置く位置、影の長さを、指で示すだけで整える。その理に従えば、東の揺らぎは、早めに摘み取るべき小さなシミにすぎない。だが、その小ささを見落とす目もまた人間だ。だから、エララの仕事がある。


「彼は、そういう目配りを人に任せる。私は、そこに喜びを見つける」


小さく笑い、唇を結ぶ。甘い香りがふっと漂う。彼女の周囲の温度に、また僅かな変化が走る。吐く息が、少しだけ白い。


階段を上がり切ったところで、兵士の一人が偶然正面から来た。彼は一瞬固まり、すぐに道を空ける。


「顔、上げて」


「は、はい」


「今日は風が少し乾いている。喉を湿らせておきなさい」


「ありがとうございます」


短いやりとりで、兵士の肩はほんの少し楽になった顔をした。その横を抜ける。大理石の柱が連なる回廊に出る。床に映る天井の影が、格子模様を作る。歩くたび、模様が崩れ、また組まれるのだ。


「東側の報告は、他に漏れがないように。上に立つ者に知らせるのは私」


近くにいた副官が身を固くして頷いた。指先が心持ち震える。彼が走り去る音が、遠ざかる。


庭を横切る。花の香りがあふれる。鳥が枝を移るたび、葉が小さく触れ合う音がする。水面に光が跳ね、目に粒が刺さるようなきらめきが瞬く。エララは一度だけ立ち止まり、指を水に入れた。冷たい。水の冷たさが皮膚から骨まで染みてくる。


「この冷たさなら、汚れは落ちる」


指先についた水滴を払う。その散る方向を見送り、また歩き出す。背筋はまっすぐ。視線は遠くの東へ。


――工作員の潜入は、確実。見慣れぬ商人を装い、境界を測り、夜に基点に毒を落とす。汚染は、目に見えない速度で広がる。アレスの庭に暮らす者たちは、それに気づかず、普段の手順に身を委ねる。エララが拾った断片は、ひとつの線となった。


「許す理由は、ない」


短く落とした声は、路面の白に吸い込まれる。誰に聞かせるでもない。けれど、その音が出た瞬間、胸の内側の針がひとつ振れた。


「アレス様、あなたは景色の乱れに目を伏せる。なら、その前に私が目を閉じておきます。ひどいものは見せたくない」


空に細長い雲が一本、東から西へ伸びている。風が、雲の端をちぎる。彼女の髪が揺れ、頬を撫でる。


石室に一人でいた時に比べて、今の彼女の笑みは薄い。けれど、そこに確かな硬さがある。柔らかい刃。触れれば切れる。


「さあ」


エララは裾を両手で持ち上げ、ほんの少しだけ足元を見た。踊りに入る前の、軽い予備動作。けれど、これから向かうのは舞踏会ではない。彼女の動きは軽やかで、行く先は重い。


魔王軍の工作員は、自分たちが触れたものの主の輪郭を知らない。結界の強度や、兵の配置や、帳面の仕組みを測っている。彼らがぶつかるのは、図面ではない。名をエララという竜の、目に見えない温度差。火と氷の間にある、静かで容赦のない力。


間もなく、それが何であるかを、彼らの皮膚が覚えることになる。彼女が歩を進めるたび、庭の空気は透明さを増し、外に向けて張られた線は、さらに細く、強く、鋭くなる。彼女の胸で、アレスの名が一度だけ鳴った。控えめに、しかし消えない音で。

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