第4巻 第4章 エララの激怒(3)
夕闇が降りはじめると、この庭は満ちる。石を磨いたような小径の縁に沿って、青白い星苔がいっせいに灯りはじめ、枝葉の隙間には淡い蛍斑が点り、風は緑茶のように澄んだ香りを運ぶ。かつて死の森と呼ばれた場所は、今やアレスの結界の中でまったく別の表情を持ち、彼の意図に沿って明滅する光の粒さえ律動を刻む。水脈は絹糸のように音もなく流れ、小さな滝は月の欠片を砕いて撒き散らす。苔は星座のように配置され、疎と密の間を計算された揺らぎが埋める。どこにも濁りはない。あってはならない。
アレスは立ち止まり、細い指で空気の粒子を撫でるように掬った。指先に集めたのは湿り気ではなく、結界の「音色」だ。周縁と中心の間には常にわずかに違う響きがあり、彼はその誤差を微調整するために日々、長い息を吐く。呼吸は道具であり、視線は凹凸を測る秤であり、歩みは音叉のように結界に振動を与える。夕のひと息ごとに、結界の内側はわずかに整えられる。葉は揺れ、苔は応え、光は微笑む。
「……いい。今夜のリズムは、寸分の狂いもない」
独り言のように呟いて、彼は口角をわずかに上げた。声は森の息と同化し、余計な波紋をつくらない。彼の足もとは白い土が薄く散らされ、その下に隠された紋が呼応し合っている。結界の幾重もの層は、目に見えないが、手触りがあった。アレスはそこへ爪先を立てるように神経を傾け、星苔の光と呼吸の同期を確かめ、ひとつひとつ、図形を確定していく。
「アレス」
背後から、玲瓏とした声がした。振り返らずとも、誰かは知れている。エララだ。足音はない。彼女はいつも、風の切れ目に紛れて現れる。月を溶かしたような黒髪が、斜面に降りる霧に溶ける。瞳は熱を孕んだ金色。彼は彼女に背を見せたまま、唇だけで微かに笑みを形作った。
「少し遅かったね、エララ」
「あなたを一人にすると、世界があなたの気配を真似しようとするの。気に入らない」
涼しげな声が含む熱は、彼の方を向いた途端に温度を三度は上げる。彼女はアレスの肩口にあごを寄せるくらいまで近づいた。香りが寄ってくる。焼いた蜂蜜のような甘さと、獣の心臓のような荒い鼓動の匂いが混じる。
「目ざわりなものは、何もないでしょう。今夜は」
「ええ、今のところは」
言葉に混じる微かな翳りに、アレスは眉をひそめる気配を見せた。彼は顔を上げ、宙に浮かぶ目に見えない格子を撫でるように視線を滑らせた。この空間は死の森を覆い、森はそれに従っている。呪の芽は封じられ、毒の蔓は燃やされ、邪の息は濾過される。「あるべき姿」を、彼は徹底して作り上げ、維持している。だからこそ——耳に、濁った音が混ざったのが、彼にはすぐにわかった。
それは音とも香りともつかない、ただの「乱れ」だ。隣接する光点と光点の間に、ほんのわずかに空白が生じる。その空白が、彼の皮膚の裏側を小さな針で撫でた。
アレスの喉がひとつ鳴った。形の良い唇から短い息が漏れる。彼は一歩歩き、次の一歩ではなく半歩の動きを挟む。結界は彼の足取りを読み、彼に道を渡す。足元の星苔が翠の息をひそめて揺れた。滑らかな光の海の一角、北西隅。夜はまだ昏くなりきっていない。だが、そこだけ、光の粒が一つ、消えている。消えた、という言葉は正確ではない。吸い込まれている。色と温度と呼吸が、他所へ送られている。
「……何だい、これは」
気づけば声が低くくぐもっていた。エララが眉を吊り上げ、アレスの肩越しに視線を滑らせる。彼女の視線は獣のそれに近い。獲物を見つけた獣は、まず棒立ちになり、次にその影を舌で撫でる。エララの舌は見えないが、その視線が舌になって苔の上を舐めた。
「誰かが触れたの?」
「触れた? いや、触れたなら、触れ跡の音が出る。これは——ううん、違う。滲みの音だ。浸透する何かが、光と構造の隙間に根を伸ばしている」
言いながら、彼は膝をつき、光の消えた小さな斑を覗きこんだ。そこにあったのは、暗い水滴のようなもの。形が定まらず、しかし確かに、苔の葉陰から葉陰へと、糸のような筋を伸ばしている。それは植物の動きではない。自律性と意志を含む、呪性の動きだ。わずかに甘く、微かに金属の匂いがした。湿った鉄が舌に触れたときのような、嫌な酸味が鼻腔を刺す。
アレスの全身を、微細な鳥肌がはい上がった。腕の毛が、彼の意思に反して立つ。胸の奥に、砂を噛むようなざらつきが走る。吐き出した息が、いつもより重く感じられた。彼にとっての「不快」は、それ自体が毒であり、身体に侵入してくる。
「嫌だ」
短く、しかし明確に吐き出した。嫌悪がそのまま呪詛になりかけたが、彼はそれを飲み込み、鋭い目に変えて斑をにらむ。斑はアレスの視線に怯えることもなく、むしろ喜ぶようにふるえ、ついっと苔の根元へのびていった。星のような光の粒が、その動きに合わせて二つ三つ弱まる。
「だれ?」エララの声が甘い。甘さは毒を包む。甘い声のまま、彼女の瞳だけは笑っていない。「私の庭に、あなたの庭に、指を差し込むやつがいる。指を、一本ずつ、ちぎったほうがいいわ」
「……エララ、落ち着いて。まだ庭は死んでいない。私は、指をちぎる前に、汚れた指の持ち主の名前を知りたい」
その言葉に、彼女は微笑んだ。笑顔は魅惑的だが、牙が見えているような気もする。
「名前なら、すぐに覚えさせてあげる。私の爪で」
アレスは彼女の腰に手を当てて押し戻した。わずかな動きで、彼女の一歩分の熱を距離に換える。エララは従順に下がる。従順は愛とよく似ているが、同じではない。彼女の従順さは、命令が彼の口から出たものだから従うというだけのものだ。彼が息を飲む音にさえ、彼女は従うだろう。
「焼けば早いのに。こんな小さな斑なら、息一つで」
「焼けば、グラデーションが死ぬ。苔の波が、均一な焦げ目に変わる。私は焦げを望んでいない。これは、染みだ。漂白しなければ」
アレスは懐から小さな硝子の薬瓶を取り出した。瓶の内側は霜のように白く曇っており、蓋の縁には細い図形が彫られている。彼は瓶の口を斑の真上にかざし、静かな声で短い詩を紡いだ。詩は他者の耳には意味のない響きにすぎないが、結界にとっては命令の束だ。苔がふるえ、斑が瓶口に吸い寄せられる。だが、そのとき、斑は黒い泡の束を噴き、瓶口に触れる寸前で根を増やした。苔の内側、土の更に下、結界の支柱にかかった単純な紋の網目を、するりとすり抜ける。
アレスの額に、汗がひとつ落ちた。汗は彼のものであるにもかかわらず、一瞬、彼を苛立たせた。彼は袖口で額を押さえ、その動きの中で、斑が吐き出した香りを吸い込んだ。甘さの奥に、苦み。苦みの奥に、冷たい金臭。息の中で、何かが舌を刺した。
「……ああ」
低く漏れた声は、気づいた瞬間の重みを帯びていた。エララがいぶかしむ。彼女は彼の耳元に顔を寄せ、囁くように問う。
「誰の匂い?」
「猛毒の……いや」
アレスは目を細め、言葉を選ぶように、舌の位置をわずかに変えた。言葉を発すると、宙にその言葉のかたちが残る。醜いかたちを残してはならない。彼は、それでも言わなければならない。
「猛毒のゲルドの仕事に似ている。毒の種。発芽……した」
エララは唇の端に笑みを刻んだ。目は爛々と光る。
「やっぱり。四天王が、この庭の縁を嗅ぎに来た。幻影のシオンは香りだけ残して行くけど、これは嗅いだだけで舌が痺れる。バルガスなら殴ってくるけれど、これは舐める……ゲルドのやり方」
「確証はない。けれど、これは自然に発生するものじゃない。森の毒は、日向に出ない。これは夜の中でだけ動く毒だ。しかも、苔を餌に選ぶことを知っている」
苔は封じの基調だ。苔というべき細かな葉の集積が、光の濾過器となり、結界の呼吸を保っている。苔に触れることは心臓を掴むことに等しい。アレスの指は瓶の口から離れ、地面すれすれの空気を撫でるように動いた。指先に消えるはずのない光が、消えている。欠落は数ミリ。世界の厚みの中で、その数ミリは無視できない。無視できないから、不快だ。彼のうなじの皮膚が、千切れた弦のように張り詰めていた。
「エララ、境界線の外周をひと回り。風を立てないで。熱も、匂いも、置いていかないで。あなたが走るだけで、崩れる」
「……わかったわ」
おとなしく返事をしながらも、エララの指は彼の袖口の布をひっかく。爪は短く整えられているが、内在する刃は隠しようがない。彼に触れたくて仕方がないという欲求は、彼が命じれば他者を切り裂く力と直結している。彼女の足取りは音を立てずに森に溶け、ひと呼吸のあいだに姿が消えた。
アレスは斑の縁を注視する。発芽という言葉が頭の中で広がる。毒の種は通常、微細な胞子として運ばれ、防壁の外側でしか生命を得られないはずだ。だが、これは内に入っている。しかも、彼の織った紋を尊重するかのように、その網目の隙間だけを選んで成長している。その几帳面さがまた彼を苛立たせた。醜いものが、彼をなぞってくる。真似るなら、一分の隙もなく真似ろ。中途半端に真似るな。心の中で吐き捨てながら、彼は斑の中心に小さな針を刺した。針の先端に取りつけた水晶片が、斑の粘液に触れた瞬間、ぱちりと音を立てた。
指先が痺れた。痺れは痛みではなく、触感の消滅だ。嫌悪の波が第二波としてやってくる。右手の第二関節に、誰かの笑い声がひっかかった気がした。笑い声はすぐに形を失い、唇の冷たさだけが残る。アレスは舌打ちを堪え、針を引いた。水晶片は黒ずんでいる。光を喰いつくしたかのように。
「……醜い」
呟きは斑に向けられたのか、自分自身に向けられたのか。彼は針を布で拭き、黒ずみが落ちないことを確認した。布は灰色に変色し、それすらも汚す。這い寄る苛立ちを押さえつけ、彼は手早く布をたたんで封印の印を切る。布は灰となって消え、消滅の軌跡もまた彼の調整で無彩に消える。
外周を走っていたエララが戻ってきた。足音はやはり無音。彼女の表情は期待に満ちた子供のように明るく、それが彼女の危険さをいや増しにしている。
「外には痕跡がない。風も、水も、外側は清潔。内側に入りこむための鍵は、あなたの紋の隙間だけ。ねえ、誰があなたの紋を読めると思う?」
彼女の問いには熱が濃く混じっている。誰が、アレスの手仕事に指を差し込めるのか。彼の「作品」を理解した誰かを、彼女は許さない。
「読めるのではなく、嗅いでいるのだと思うよ。毒は思考を持たない。だが、毒を操る者は思考を持つ。思考は臭いを残す。これは……」
「ゲルドが近い?」
「近いかどうかはわからない。ただ、これは前哨だ。馬鹿げた遊び心はない。シオンのように幻で惑わせることもしない。バルガスのように拳で試すこともしない。静かに、正確に、私の網目を数え、そこに種を置いた」
「数えたのなら、指を折って数えさせる。次にその指を口に詰めて窒息させる」
エララの声は甘やかで、言葉は残酷だった。アレスは白い指を持ち上げ、彼女の唇の前に掲げた。指は彼女の熱で温まる。温かさは異物だが、嫌いではない。
「エララ。瑕疵のない世界のために、君の力は必要になる。けれど、今は焼かない。切り離し、濾し取る。苔のリズムを崩さずに」
「……はい」
彼女の返事の従順さに、ひと筋の甘さがあった。彼を「はい」と呼ぶその音の形が、彼の耳に心地よく沈む。彼は再び地に膝をつき、斑の縁に薄い銀糸を這わせる。銀糸は彼の爪の間から絹のように繰られ、空気に触れると防壁の亀裂に沿って滑りこむ。毒の根の周囲を囲い込む。糸は光を持たないが、光の道筋を遮る。苔の光が静かに戻りはじめる。それは安堵というより、緊張の移動だった。安堵はない。一度でも乱れると、そこに皺の記憶を残す。皺を消すには時間がかかる。時間は彼の支配下にある。だが、他者にいじられた皺は、彼の時間をも汚す。
「アレス」
エララが名を呼ぶ。彼は返事をしない。視線を銀糸と斑の間に釘付けにし、唇の内側で短い呪を繰る。繰り返すごとに、斑の表面が薄く乾いていく。乾いた表皮が剥がれるように、黒い薄片が立ち上がり、糸に絡む。それを瓶へと送る。瓶の中で薄片はしばらく蠢き、やがて動かなくなる。
「アレス、聞いてる?」
「……聞いている」
彼の声が一瞬だけ遠かった。エララの目が鋭くなる。
「今、あなた、遠くにいた。どこ?」
「……どこにも。ここにいる」
アレスは自分の指先を見た。指は均整の取れた形をしているが、今は薄く震えている。それは疲労のせいか、怒りのせいか、嫌悪のせいか、自分でも判然としない。短い空白が、頭の真ん中に落ちたように感じた。彼は空白を無視した。空白は美しくない。美しくないものに価値はない。
「ゲルドだとして——奴は、種を撒いて去ったわけじゃない。多分、見ている。どこかで。私の手つきや、君の歩幅を。見られているのは、嫌だね」
「覗かれるのが嫌いなら、覗く眼を潰すわ」
エララは喉の奥で笑った。笑いは鈴のようでもあり、蛇の鳴き声のようでもある。彼女はアレスの肩に額を軽く当てた。額の温度が移る。アレスはそれを受け入れ、しかし視線は斑から外さない。
銀糸の囲いが完成した。斑は庭の内側から切り離され、瓶の中で孤立している。苔の光は戻り、欠落していた星座の点はひとつ、灯る。彼は息を吐き、吐息が苔の上で丸く広がるのを視認した光として感じ取る。吐息に匂いはない。彼はそれが満足だった。
「一時的に封じた。けれど、根はもっと深い層に伸びているかもしれない。紋の編み直しが要る。……夜明けまでに終わらせる」
「手伝う」
「君は見張り。外と、内と。誰かが触れる前に、触れる指を切るのは構わない。ただし、苔を傷つけないように」
「もちろん。あなたのものは傷つけない。あなたの指も、あなたの息も。あなたの記憶も」
アレスは彼女の最後の言葉に眉をひそめた。記憶、という言葉が耳にざらりとした触感を残す。彼には心当たりはない——はずだった。ほんの一瞬、星苔の配置図の一部が頭の中でぼやける。その部分は、彼が昨日描きなおしたばかりの場所だ。なぜぼやける? 彼はその問いを、視界の端に押しやる。今考えるべきは、現実の斑を消すこと。醜い現実の片を、美しい現実に加工することだ。
「記憶は、道具だ。道具が曇ったら磨けばいい。——エララ、焦らないで。君の刃は強すぎる」
「あなたが望む形に私の刃を曲げるの、好きよ。あなたしかできないから」
彼女の言葉は、彼を囲む封じの一部のように彼に絡みつく。粘着質ではない。軽く、しかし剥がれない糸。彼は自分の心臓が一瞬、糸に絡まる感覚を無視し、足元の土を薄く掬い、薬瓶の蓋を閉じた。瓶の中の黒い薄片は、彼が指で蓋を叩くたびに微かな音を立てる。音は記号だ。彼はその記号を頭の中の棚に並べる。棚はいつも整然としている。少なくとも、今までは。
彼は立ち上がった。夜が深くなる。星苔の海が、彼の足元から視界の端まで続く。彼の目は一つ一つの光点を慈しむように追い、その配置の正しさを確認していく。斑は消えた。ように見える。だが、見えるものだけが全てではない。見えないものを整えるのが、彼の仕事だ。醜いものの輪郭を削り、溝に金を注ぎ、ひびを模様に変える。そのためには、敵の名前も、敵の癖も、敵の趣味までも知り尽くさなければならない。
「エララ。魔王軍の動きは?」
「西の川沿いに陣を敷き直している。火の色が多い。兵は増えてる。四天王のひとりの旗の色も見えたって噂。……紫がかった緑。好きじゃない色」
「ゲルドだ。色彩感覚も悪趣味だ」
吐き捨てるような調子にも、どこか評価基準が混じる。色彩の配置は、戦場でさえ彼にとっての問題だ。紫がかった緑は腐敗の色、毒の色。彼の障壁の青と白と緑の階調の中に、その色が入りこむことを、彼は絶対に許さない。
「近いうちに来る。彼らは私の庭を試す。試すなら、迎え撃たなければ。……ただし、優雅にね」
エララが笑う。笑いには無数の意味が含まれる。戦いの前の血の匂い、愛の前の甘さ、苦み。彼女は彼の肩に手を置いた。その手は彼の肩の形を記憶するように動き、彼の骨の位置を確かめるように優しくなぞった。
「あなたのやり方で、全部やればいい。邪魔をするやつは、私が消す。あなたの手元だけは、乱さない。乱すやつは、私の喉で噛み千切る」
「過激だね。けれど、今日はそれでいい。見張って」
エララはうなずき、彼の頬に口づけの気配だけを残して暗がりに溶けた。彼女が完全に消える直前、瞳がこちらを振り返る。そこに宿る執着は、空白など許さないという意思と同じだった。
アレスは再び膝をつき、土に耳を当てた。土は冷たい。冷たさの中に、わずかに温い脈が混じっている。毒の脈か、苔の脈か、彼の脈か。三つが絡んで、ひとつの庭の脈になり、彼の耳を叩く。叩かれるたびに、彼は呼吸を整え、紋を廻す。防壁が応える。星苔が呼応する。選び取ったリズムが、魔王軍の不協和音を拒む。
夜更け、障壁の北西隅にあった小さな欠落は、いったんは埋められた。しかし、埋められたという感覚の下に、柔らかなうねりが残る。毒の種は発芽し、彼の手で瓶に封じられた一部は無力化された。だが、瓶の中の薄片は時折、微かな音を鳴らす。その音は、遠くで笑う誰かの声に似ている。四天王のうちの一人、猛毒のゲルド。その名を思い浮かべるだけで、苔の光の一粒が、呼吸を飲み込むように一瞬揺れる。
アレスは瓶を胸ポケットに入れ、苔の波に目を滑らせながら歩き出した。歩は軽い。しかし、心の底に、砂のひとつぶが居座っているような違和感がある。どこか、細い糸がどこかに紛れて切れている。何の糸だったか。彼は立ち止まり、空を見上げた。障壁の天蓋に散らされた幻の星がきらめく。星苔の光に呼応して、天もまた律動する。星座は正しい位置にある。はずだ。彼は一つの星の名前を呟こうとして、名前が喉の奥で砂になった。砂はすぐに唾で溶け、彼は別の星の名前を言った。言えた。星はそこにある。
「……問題ない」
彼は自分に言い聞かせた。言葉は醜いが、必要だった。醜い必要を、優雅な所作で包む。その包み紙を解くのは、敵の仕事ではない。彼の仕事だ。彼は掌をひらき、空の冷気を掬った。冷気の粒子が指の間で震える。震えは彼の指のせいではない。遠く、森の外で、誰かが鼓動しているせいだ。
封じの端で、一つ、光が戻った。別の端で、一つ、光がほんのわずかに揺れた。アレスは揺れに顔をしかめる。揺れは不快だ。だが、揺れはまた、合図でもある。戦いの前の合図。試す者たちの前触れ。彼は首の後ろに手を当て、筋に沿って軽く押す。そこに、今日、知らない痛みがあった。痛みは、美しくない。けれど、無視できない。彼は痛みを、今は箱にしまう。箱には鍵がかかっている。鍵の形を、彼はまだ忘れていない。まだ。
風が吹いた。苔がざわめく。ざわめきは波になり、障壁の隅から隅へと走る。すべての光がいっせいに息を合わせ直す。その一呼吸の間に、アレスは世界をもう一度、寸分の狂いもなく並べ替えた。整列させること。それだけが、彼に許される戦いの形だ。毒の種が芽を出そうとも、呪いが根を張ろうとも、壊すものを許しはしない。彼はそう決めている。
遠く、森の外で、角笛の音が鳴った。湿った低音。魔王軍の進軍を告げる合図だ。四天王の旗はまだ見えないが、色は風に漂っている。紫がかった緑。嫌いな色。アレスはその色が彼の障壁に触れる前に、色そのものを無効化するための青と白の配列を頭の中で組み替えた。視界の端で、一つの苔の光がまた、少しだけ揺れた。彼はその揺れを、反射的に計測した。揺れの幅、周波数、色の偏り。全ては彼の手の中に収まる。収まらないものは、壊す。壊してやり直す。彼は再び歩き始めた。
夜は深くなり、障壁はますます彼の呼吸と同期していく。星苔の光は十全に戻った。戻ったはずだ。それでも、北西の一角で、彼の目だけが見つけられる微かな翳りが、薄紙一枚分の厚さで眠っている。アレスはその存在を忘れない。忘れることは、彼の辞書にはない。……はずだった。彼は眠らない結界の中で、眠らない瞳のまま、目を閉じずに夢を見る。優雅な夢だ。夢の隅に、黒い種がある。彼は夢の中で、それを瓶に入れる。瓶の中で、薄片がまだ、音を立てていた。いつか、その音の主の喉を塞ぐ夜が来る。その夜もまた、優雅でなければならない。アレスの全身を満たす不快の芯が、いずれ甘い満足に変わる瞬間を思い描きながら、彼は結界の縁をなぞるように歩き続けた。




