第4巻 第4章 エララの激怒(2)
欄干がかり、と鳴る。磨いた石肌に白い粉が走り、夜風がそれをさらう。指先に忍ばせた竜の爪が、つい、顔を出したせい。
「お指が……」
横で控えていた侍女竜イリアが、盆をかたむけかけて慌てて支えた。夜茶の香りがふわりと広がり、乾いた白茶の甘みが鼻先をなでる。
「大丈夫」
エララは息を細く吐いた。冷たい夜気。けれど竜姫の血に、その程度の温度は届かない。代わりに、下方から立ちのぼる気配の揺れ、体温が作る微かな波、魔力の細い糸がひっかかる。耳の奥にじんと来る結界の低い唸り。目に触れる角度で変わる、青銀の粒の反射。どれも、嫌になるほど鮮明に距離を測らせた。
いる。泉の縁、星を模した白花の輪のそば。藍の外套が風を受けてやわらかく揺れ、片手に薄い板、もう片方で夜気に線を彫る。爪先ほどの光が連なり、幾何の骨組みが庭全体へ伸びていく。空の光が応じるたび、輪郭がもう一段引き締まる。
結界が森を蓋にし、この領域から死をゆるやかに分ける夜。瘴気も毒池も、牙も爪も、境界で鈍る。沼は眠った鏡になり、その側に白蔦の絡む枯木。骸骨めいた枝ぶりさえ画になる。砂利の小径は乱れを許さず、魔晶石が等間隔に息をしている。月光は結界で濾され、草葉の先に銀砂のような細かい輝き。
息を呑む眺め――なのに、目に刺さるのは別のものだ。
彼の背に、半歩。いや、半歩横。灰褐色の髪をした娘。
「ミレイ様……」
イリアの声が遠慮がちに続く。「外縁の破損から保護された、薬師見習いでございましたね」
「あの子ね」
エララは短く返す。旅塵に汚れた粗衣。伏せがちな睫毛。人なら、憐れむ光景。しかし彼は最初、眉根を寄せた。泥は色を濁す。髪は乱れ、指は震え――その世界に、そぐわない。
あの時の場面が、露台の影の中で再生される。
『この赤い葉を、月光の当たる側に移せば……たぶん、青い花との対比がもっときれいになります』
薄い声。けれど、はっきりと筋の通った助言だった。
「……エララ様はあの時、驚いておいででした」
「首を落とせばよかったとね」
イリアが小さく息を呑む。エララはほんのわずか肩をすくめ、視線を再び庭へ落とした。
「でも彼が、薄板から娘へ視線を滑らせた。線と面と余白を測る目で」
「温度のない観察でございますね」
「そこにあるのは、仕事の光。美と効率の針。知っているのに、喉の奥が熱くなる」
今のミレイは薄板の端に身を寄せ、肩越しに覗き込む。半歩後ろ、ではない。半歩横。髪先が外套に触れて、息の温度が届く距離。音が混じる距離。近い。
「……近い」
自分でも驚くほど冷えた声が出た。イリアが肩を跳ねさせる。盆の上で夜茶が細かい波を作る。
「え、エララ様……?」
「見えない?」
「な、何がでございましょう……」
「あの女の距離。呼吸の吸い方。首の傾げ。彼の視界の切れ目に入り込む角度。偶然じゃない」
イリアは欄干からそっと身を伸ばし、中庭を覗いた。眉尻が、困ったように下がる。
「たしかに半歩、いえ、四分の三歩ほど横に……」
「それ」
「……無礼すぎる、ほどでございましょうか」
「あなたの目は飾り?」
「も、申し訳ございません」
返す気にもならない。音のすべてが下の二人へ集まっていく。
ミレイが薄板の一点を指した。指先が小刻みに震える。怯えに見える。だが震えの周期が一定だ。人が恐怖で震えるとき、乱れは呼吸に乗り、背や膝へ伝播する。彼女の震えは指先にだけ閉じ込められている。弱さの装飾。そう見える。
「考えすぎ、でしょうか……」
イリアが恐る恐る口を開いた。「エララ様は、時に……」
「病気だと自覚している。彼の近くに立つ者はみな敵。親しげな声音は刃、影を踏む足音は汚れ。だから――」
エララは自分に言い聞かせるみたいに、低く言葉を置いた。
「まだ、手は出さない」
遠く、外縁で警鐘がひとつ。結界に偵察が触れた合図だ。金属の澄んだ響きが森の呼吸に混じった。
「また、来ておりますね」
イリアの指が盆の縁をなぞる。「ここ数日、圧が増しておりました」
「幻惑のシオンが霧を流し、武闘のバルガスが地面に亀裂を刻み、毒のゲルドが雲を撒く。三つの手が、一斉に外周を締める」
「焦っているのですね」
「そう。彼の壁が細かく、よく噛むほど、敵は焦る」
彼の織る防壁は練れている。兵は砂のように削られ、毒は浄化層に溶け、幻は返り、力任せの破壊は全体に吸い込まれる。美で押し返すやり方、と言ってもいい。
「なら、内側へ送り込む。理は単純」
「ミレイ様が、と?」
「保障はない」
イリアは唇を結んだ。盆の上で茶器がごくわずかに鳴る。
「お茶を……お体が冷えます」
「いらない」
「竜であられても、喉は乾きます」
「竜がこの程度で凍ると思う?」
「いいえ、ですが――」
イリアの言葉が細く切れた。喉を押さえる仕草。エララの気が、空気を薄く凍らせる。盆の上、茶器が震え、その音が耳に刺さった。侍女は蒼白になり、頭を垂れる。
「失礼いたしました……。ただ、アレス様より、今宵はエララ様に無理をさせぬようにと」
その一言で、頬の力が抜ける。
彼が、わたしを気遣っている。
胸の奥に灯がともった。とがった思考の間に、水の糸が通う。無理をさせぬように。見ている。覚えている。案じている。隣に新参者が居ようと、彼の言葉はエララへ向けられている。
削れた指先が、ほんのわずか震えた。
中庭で、ミレイの口元が緩む。小さな笑み。彼の言葉を受けたときの人間の顔。緊張がほどけた、と誰かが解釈するだろう。認められた安堵。
だが、遅い。目尻、口角、肩の抜き方。反応がすべて一拍遅れる。自然に笑う筋肉の連携じゃない。どこで笑うべきか計算し、その形を貼りつけた顔。
「証拠は、ございません」
「匂いは人間。魔力の歪みもない。ゲルドの毒の痕は皮下に見えない。バルガスの徒なら歩の重心が違う。シオンの幻なら、結界の光にひずみが出る。何も出ない」
「でしたら――」
「それでも、充分」
彼に近づく。それだけで。
エララは袖の内から薄い水晶片を取り出した。結界内の音を拾う観測具。鳥の声、水の音、風鈴草の震えを整えるため、彼が作った道具。唇に寄せ、魔力を一筋だけ注ぐ。水晶のなかに中庭の音が立ち上がる。
「……この薬草は、毒霧の残滓に反応します」
ミレイの声。控えめな色合い。けれど、その控えめこそ、目には飾りと映る。
「反応色が赤から紫に変わるなら、ゲルドの毒素が混じっています。浄化層に加えれば、外縁部の負荷を減らせるかもしれません」
「配置が問題だ」
彼の声。低く澄んだ響きが、庭の夜にいちばん馴染む。水音と重なって、耳にやさしい。
「効率を取るなら北東区画。だが、そこに紫反応の草を置くと月白樹の並びが濁る。外縁防衛のためでも、見た目が崩れるのは論外だ」
「では、泉の縁に」
「泉は駄目だ。水面に余計な色が映る」
「……でしたら、白薔薇の裏側はいかがでしょう。表からは見えませんし、夜になると反応光が蔦の隙間から星みたいに見えると思います」
短い間。エララの心臓が不快に跳ねる。
「悪くない」
彼はそう言った。淡い評価。構図全体の息を乱さない案。それだけ。
それでも、その一言は娘の肩へ白布をかけるみたいに響いた。
「ありがとうございます、アレス様」
名を呼んだ。
音もなく、内側が裂ける。
アレス様、と。あの女が。数日の新参者が。泥をまとい怯えの仮面を付け、この庭の慈悲に拾われただけの者が。彼の世界に撒かれた砂粒のくせに、許された者のように口にする。
エララは唇を閉じた。吐息がひとつ漏れる。露台の欄干の上で、白い霜が細く走った。空気がわずかに軋み、イリアの指が盆を取り落とす。金属が床に当たり、澄んだ破片の音が夜に散った。
中庭で彼が顔を上げる。塔の影は見えないはずだ。けれど音の乱れは拾う。
エララは即座に気配を拭った。表情を、さらりと整える。磨いた石のような笑み。彼がふと目を上げても、見苦しいものが映らぬよう。画を乱さないよう。
彼の視線が数秒だけ塔の上に止まり、薄板へ戻る。
隣の娘も、塔を仰いだ。
目が合った気がする。距離はある。夜気と結界の光が隔てる。人の目では露台の影の竜姫を捉えられない。だが、真っ直ぐに刺す視線の軌道がこちらを貫いた錯覚。
その瞳に怯えはない。エララには、そう見えた。
ほんの瞬き。娘はすぐに彼へ向き直る。だが、もう、充分だ。疑念は血を吸った獣みたいに膨らむ。
「エララ様……今のは」
「風」
「風、でございますか」
「そう。気まぐれな風が、盆をさらった。あなたの手を冷やす前に」
イリアは小さく頷き、震えを押さえ込んだ。エララは視線を下へ戻す。
水晶の音は続く。中庭では、他愛もない作業の言葉がやりとりされた。
「白薔薇の裏、ここでいい」
「はい。蔦の間、この隙間なら反応光がうまく……」
「手を切るな」
「だ、大丈夫です」
蔦がはらりと揺れ、夜の匂いが動く。水に映った光点が、破れて、すぐ戻る。彼は薄板に何かを記し、指先であたらしい線を庭へ繋ぐ。その指の動き。断片の組み合わせ。余計な言葉がない。
「反応色は?」
「まだ赤。……いえ、今、縁が紫に」
「変異の速度を測っておけ」
「はい」
エララは耳を澄ませた。彼の声音は、石と水と草が持つ色に合わせるように、しかつめらしいのに柔らかく聞こえる。あの声に救われた者は、いる。許された者は、限られている。
「エララ様」
イリアが低く囁いた。「あの方は、ただの見習いでございましょうか」
「わからない」
「魔王軍は、内側へ――」
「焦りの末に、刃を紛れ込ませる。人の肌を着た幻か、遅く回る毒か。あるいは、ただ彼に惹かれた哀れな人か」
「哀れ、でございますか」
「だとしても」
エララは露台の欄干に指を置き、石の冷たさを確かめた。薄く残る霜が、音もなく融けていく。頬に触れる風の角度が変わり、遠くの鈴草がちり、と鳴る。
「罪」
水晶の中で、彼とミレイは作業を続ける。
「外縁の負荷が少しは減る。だが、鐘の鳴り方が変わってきた」
「増えましたか」
「増えた」
「で、でしたら、浄化層の調整を今夜のうちに」
「やる」
それだけ。短い応答。必要な指示だけ。指が再び夜気に線を彫る。草の先で銀砂がかすかに跳ね、沼の面がわずかに呼吸した。
「エララ様……お体、本当に大丈夫で」
「大丈夫」
「アレス様は、本当にエララ様を案じて――」
「その言葉、何度も繰り返さなくていい」
エララは目を閉じた。暗い内側で、彼の名が、音もなく波紋を作る。心の底での灯は消えない。消えない代わりに、手のひらの中に刃の温度が定着する。
「今は、まだ」
彼が庭に線を加え、夜が整っていく。下の娘が、そこに寄り添う。半歩横、半歩前、半歩後ろ。そのたびに、エララの中で何かが静かに刻まれる。
「見張ります」
イリアが小さく言った。「あの方の動きも、息も、笑いも」
「いい」
「いい、でございますか」
「あなたが見張るなら、彼女は気づく」
「では」
「私が見る」
エララは水晶を唇から離し、袖の内へ戻す。露台の影に溶け、視線だけを降ろす。彼の世界に撒かれた砂粒が、いつ、どんな手で刃に変わるか。光の角度、足音の重さ、指先の震え、その全部を飲み込む。
警鐘が二つ、連なる。森の深いところで、獣が身じろぎした気配。結界の唸りが一段低くなる。夜が動く。
「イリア」
「はい」
「下がって」
「承知いたしました」
侍女竜は深く頭を下げ、足音を残さず去った。エララはひとりになり、欄干にそっと手を置いたまま、庭の中心に立つ影を見つめ続ける。
光は一定の間隔で脈を打つ。水の匂いが鼻にやさしい。草の先が冷たく、石は乾いてすべすべ。音は薄く、遠い鐘だけが、いまこの空間の上に現実を置く。
彼に近づく者は、いつだっている。侍女も衛兵も庭師も迷子も。親しげな声音は刃、影を踏む足音は汚れ。病の名はわかっている。治す気もない。
袖口の内で、竜の爪が、眠った。自制のためでも、待つためでもない。刻を選ぶため。
やはり、何かある。証拠は、いまはない。竜の本能は告げている。彼女は「ただ救われた者」ではない。無害を装い、彼の庭に細い針を通すべく手を動かす。
あるいは、ただ彼の才能に惹かれただけの哀れな人か。
だとしても、罪だ。
「エララ様……どうか、お鎮まりください」
床に膝をついたイリアの声は、砕けた茶碗の縁で擦れた。指先に小さな紅が滲む。柑橘の香りが床に広がり、甘く冷えている。
「もしあの者に問題があるなら、アレス様が見抜かれます。あの方の光幕を欺ける者なんて」
「そうね」
自分でも驚くほど、声が静かに落ちた。細い茶渋の輪を避け、イリアの前にしゃがむ。顎に白い指を添える。涙がこぼれるたび、頬に冷たい線がつく。
「アレス様は、見落とさない」
言葉を切り、ゆっくり息を吸う。庭の土の匂い。夜の泉の湿り。遠い鐘の鉄。
「防壁も、庭も、星の並びも。その手の中に入るものは、全部ね」
「でしたら、あの方もきっと」
「でも、イリア」
涙の筋に触れた指を、そっと滑らせる。慈悲深い仕草に見えるだろう、その冷え。
「葉の表は美しく整っていても、裏に小さな影は潜るもの」
イリアの喉が鳴る。返事の前に、息が引っかかった。
「彼は全体を見るひと。余白も、色も、それから……均衡も。だから、葉の裏に潜る影ひとつだけなら、すぐには摘まないこともある」
「摘むのは」
「役目の者」
淡い笑みだけを浮かべる。空気がひやりと揺れた。
「エララ様、それは」
「まだ終わりにしないって、言ったでしょう?」
首を傾げる。優しい角度で。
「まだ」
イリアは口を噤む。頷く動きが、小さく震えた。
エララは立ち、露台の奥の机へ歩く。白い石の床が、足裏で少し冷たい。机の上には小さな庭の縮図。彼が作った精密模型ではない。エララが動線を掴むために作らせたものだ。塔、泉、薬草園、白薔薇の回廊、外縁門。彼が好む道筋。立ち止まる位置。視線の角度。誰がどこで彼と行き合いやすいかを示す小さな道。
「それ、やはり……エララ様が」
「人に描かせた。把握するために」
銀の針がいくつも刺さる。先に小さな名札。衛兵長、庭師、調香師、見習い魔導師。彼に近い者たち。癖、弱み、家族構成、好む食べ物、夜中に起きる回数。余計に関わる気配の有無。触れるべきでない外套に触れない者。名を甘く呼ばない者。褒められても頬を染めない者。
「どなたが……危険、とお考えに」
「多くは無害」
針に指先が触れた音がかすかに鳴る。
「でも」
新しい針を一本手に取る。紙片を用意し、細い筆で名前を書く。丁寧に、揺れない線で。「ミレイ」。息を整える。もし彼の目がこの字を横切ったとしても、嫌悪が起きないように。端正に。
「名を……書かれるのですね」
「名前は、大事」
紙片を結び、薬草園の傍らへ針を刺す。針が小さく震え、止まった。月の光が金属に沿って細く走る。
「監視を増やす」
背に向けて告げる。
「誰に、でございますか」
「あの女」
「承知いたしました。ただ、あからさまになればアレス様が」
「わかっている」
木の机を指で一度、軽く叩く。高い音。広がる波は、ここだけで終わらない。
「全体の調和を崩すつもりはない。鳥を使って。白鴉と夜羽蝶。薬草園の香りを調整する名目で、常に周囲を巡らせる」
「白鴉は北の巣から二羽呼べます。夜羽蝶は今夜で十。調香師に伝達を」
「食事は誰が運ぶ? 寝所はどこに決めた? 水浴びの時間、祈りの癖、手紙の封蝋。全部記録」
「はい」
「それから……彼女がアレス様の名を呼んだ回数も」
イリアが顔を上げる。涙の跡が乾きかけ、細い光になった。
「回数、ですか」
「一度ごとに、針を一本増やす」
エララは唇に笑みを乗せた。笑みに冷たい硬さが混じる。縮図の銀針が月光を受け、薄く光る。小さな庭の中の、小さな針。けれど、それは感情の形。
「……エララ様」
「何」
「本当に、もしもの話ですが。もし本当に、あの方が」
「手順を誤らない」
間を置かない。
「まず、匂いを盗む。食器の縁、寝具の繊維、髪の一本。毒の反応がないか、幻術の揺れがないか。彼女の歩幅と足裏の圧から支えの癖を読む。弱い者は、足先だけで立てない。そこに偽りがあるなら、針を二本増やす」
「匂いはラデルの鼻で。歩幅は床の粉で見ます。……それでも白、と出たら」
「彼の前に立たせない」
指先で縮図の白薔薇の回廊に触れる。白い薔薇の列。夜の水が光を返す。
「ここに細い香の罠を仕込む。彼の外套に甘さが移らないように、薔薇の陰で香路を逆流させる。表からは何も臭わない。彼が通るときだけ、風が変わる。彼女が通るときは、遠巻きに誘導される。配置は壊さない」
「通り抜けられたとしても、香りが残らないように」
「当然」
「それでも近づくなら」
「そのときは虫」
淡々と答える。爪先が石を軽く擦る。音にならない音。
「踏む音も立てない」
泉のほとりで、彼が薄板を閉じた。指が紙面から離れると、紙が静かに息を吐く。ミレイが深く頭を垂れた。会話は終わり。彼は白薔薇の回廊へ歩を移す。歩幅は一定。影の角度が、彼の進む線を描く。
ミレイは背を見送ったあと、遅れて歩きだそうと――
机の縁を人差し指で軽く叩く。
一度。
ミレイの足が止まる。見えない壁に触れたかのように。迷いが短くこぼれ、別の小径へ身体が向いた。彼の背を追わない。
「……いまの音で?」
イリアの囁き。瞳がこちらを伺う。
「風」
エララはただ笑う。銀の髪が肩で揺れ、月が割れたように光る。怒りは消えない。むしろ澄む。熱が結晶に変わり、心の底で沈む。衝動の牙を噛み合わせ、観察へ移る。測る。最も整った方法へ向ける。
「偶然かもしれません」
「たぶんね」
針先が触れると、空気の張りが変わる。冷たい。
「エララ様。あの方は……ただ新しいだけかもしれない」
「新しいものは、馴染むかもしれないし、剝がれるかもしれない。見ればわかる」
「見て、測って、選ぶ」
「ええ」
外縁の警鐘が遠くでまた一度。低い音が夜の骨に響く。霧か、破砕か、雲か。誰の仕業でもいい。外の圧が強まるのは確か。
「敵かもしれないのは、外だけではありません」
イリアの肩が強張る。
「脅すつもりじゃない」
エララは手を上げ、軽く振った。一輪の花弁が風で揺れ、露が落ちる気配。
「エララ様。アレス様は、きっと全部わかっておられます」
「そう、信じている」
露台から見下ろす横顔。薄板と、遠い星と、庭の筋。それら全てを同じ熱で見ている顔。
「だからこそ、余計なものは入れたくない」
声があまりに柔らかく、逆に硬い。
「アレス様の……世界に」
イリアが続ける。言葉が喉の奥でほどける。
「余計なものはいらない」
エララは頷く。縮図のミレイの針を見下ろし、低く囁く。
「あなたが虫でないことを祈る。もし影なら……一番美しく、消える方法を選ぶ」
封じの天蓋を滑る星がひとつ。薄い光の筋が下を撫でた。庭はなお乱れが見えない。月光、白薔薇、泉の反射、彼の足が刻んだ回廊の影。言葉を失う整い。
「エララ様……もし、もし本当にあの方が敵であったなら、どうなさいます」
「さっき言ったとおり。手順を誤らない」
イリアは黙って視線を落とす。割れた茶器を布に包みながら、問いを重ねた。
「匂い、歩幅、手紙、祈り。それで灰色だとしたら」
「灰色は白じゃない」
「排除、でしょうか」
イリアが言葉を選ぶ。エララは応えず、露台の欄干に指を置いた。石の冷たさが皮膚を締める。
「アレス様に……お伝えは」
「彼に心配はさせない」
言い切る。声が硬い。けれど耳に優しい高さ。
「彼は言ったもの。無理をさせぬように、って」
音の記憶。彼の声が、氷の下を流れる水のように胸を渡る。
「そのお言葉が、今夜の私を縛る」
爪の気配が戻りかける。エララは拳を握り、再び開いた。ゆっくり、爪を収める。握った手が白くなる。肌の下を、冷たい血が通る。
「エララ様」
「何」
「おやすみになれますか」
「眠るにはまだ早い」
露台を撫でる風が強まる。銀の髪が持ち上がり、頬に当たる。水の匂いに、薔薇の甘さが混じる。遠い鉄の音はもう薄い。ここでは泉の音だけが続く。
「この庭を愛しているのですね」
「ええ」
景色は彼の眼差しの延長。足音の余韻。その延長に自分が立っている実感。ここから余分を払うこと。それが竜姫に与えられた役目。
「ミレイは今夜、別の小径に入った」
エララは縮図を見た。銀の針の位置。小径の曲がり角。草の陰。泉の縁。
「次はどうする。どの花の陰で立ち止まる。誰に話しかけ、どんな香りで身を包む」
「すべて、記録します」
「一つ漏れもなく」
イリアは新しい紙を広げ、羽根ペンを取る。手が震えないように、指を組み直す。
「彼が『悪くない』と言ったとき」
エララは低く続けた。奥底での熱が一瞬、別の形に名を求める。嫉妬と呼べば軽いと、知っている。竜の血にはもっと重い名前がある。守護。縄張り。審美に対する信仰。
「その言葉が、動かすものがある」
彼の手が動かす均衡を、別の誰かの指先が乱す未来。想像したくない。
「エララ様」
「何」
「そのときは」
「まだ」
短く断つ。声は呼吸と同じ長さ。針の数が物語る。焦らない。
「アレス様」
露台の縁から小さく呼ぶ。届かない距離。届かないように絞った声。名前だけで、胸の中の氷が少し融けた。融けたぶんだけ、また別の場所に凍る。
「お加減は」
イリアが聞く。恐る恐る。
「良い」
夜の石に背中を預ける。冷たさが骨に吸い込まれる。皮膚の下で体温が線を引く。指先に残るイリアの涙の感触。茶の香り。針の金属の匂い。
「では、準備を進めます」
「鳥と蝶の配置は私が見る。調香師には、名目は香りの調整だとだけ伝えて」
「はい。……あの、ミレイ様の部屋の位置ですが」
「彼女の寝所は泉から二十歩。窓は東、朝日を入れる造り。夜は風が通う。音が外へ抜ける」
「なら、夜の帳に紛れて確認します。寝具の繊維は、今夜の間に」
「ラデルを行かせて。彼は足音が軽い」
「承知しました」
「それと、彼女が誰かと祈るなら、その相手の名前も。口の動きを読む。唇の癖は嘘をつかない」
「はい」
イリアが立ち上がる。割れた茶器を布で包み、両手に抱えた。影が二つ。露台の床に伸びる。月の角度が変わった。
「エララ様。お手が」
イリアが視線を落とす。エララの白い指先に、小さな赤がついていた。茶器の欠片で掠めたのだろう。
「大丈夫」
舌で軽く触れ、血を拭う。鉄の味。わずかに甘い。痕跡を自分の内側へ戻す。
「下がって」
「はい。失礼いたします」
イリアが去る足音が遠ざかる。羽虫が一匹、灯りに寄る。翅が震え、光を小さく割る。指先で空気を撫でると、虫は軌道を変え、暗がりへ消えた。
静けさが降りる。泉の水音。薔薇の葉が揺れる小さな擦れ。銀針が月に冷たく笑う。
エララはもう一度、縮図の上の名札に目を落とす。「ミレイ」。細い字。真っ直ぐな線。綺麗に置かれた名前。
「あなたが影でないことを祈ってあげる」
誰にも聞こえない声で。針先に触れず、空気だけを押す。世界は変わらない顔で続く。けれど、見えないところで配置は動く。配置は、崩さない。
外縁の警鐘は鳴り止んだ。偵察は戻ったか、霧が薄れたのか。いずれにせよ、夜は深い。黒が濃く、白が際立つ。白薔薇の陰に敷いた細い道。風の流れ。香りの逆流。誰にも見えない線が、彼の歩みを護る。
「……まだ」
小さく繰り返す。牙の根が疼く。けれど、牙は見せない。石の冷たさと、泉の音で、自分を冷やす。手の中で、爪がわずかに動く。音は出さない。
彼の線が夜気に描かれる。薄板の縁から離れた手が、外套の裾に触れる瞬間。彼が歩むたび、影が伸び、角度が変わる。光の繊維が彼のまわりで組み直される。それを見るのが好きだ。見るだけで満ちる。
「おやすみなさい、アレス様」
夜に向けて口の形だけで言う。声にならない声。風が返事をした気がした。水が笑った気がした。空が、少しだけなった気がした。
銀針は、増える時を待つ。一本ずつ。冷たい光を抱いたまま。




