第4巻 第4章 エララの激怒(1)
瓶の底が、わずかに濁った。
ゲルドは指先で硝子を弾き、中の液面を揺らした。紫が沈み、透明が浮く。二層に分かれた毒液の境界が、かすかに震えた。遠い場所で、同じ配合の粒が水に触れた合図。
「入ったか」
岩窟の奥、彼だけの調合室。天井から垂れる鍾乳石の先端に、蒼い鬼火がひとつ灯る。光は弱い。彼の目には、それで充分だった。暗がりの中で色を読むのが、毒師の基本。
瓶を棚に戻す。棚には同じ形の瓶が四十三本。うち七本の底が、すでに濁っている。水路に三。樹脂の筒に二。刃に一。扉の内側に一。男の報告と一致する。
「よくやった」
誰もいない部屋で呟く。声は岩に吸われ、返らない。
ゲルドは長椅子に身を沈め、天井を仰いだ。鍾乳石の群れが、逆さの森のように垂れ下がる。先端の水滴は凍りつき、蒼い光を内側に閉じ込めている。美しい、と思う。美しいものを壊すのは、美しさを理解する者にしかできない。
「あの庭師は、わかっているだろうか」
独り言が多くなった。三月前からだ。シオンの像で見た、あの森。あの整い。花弁の角度が揃い、風に揺れても落ちる位置がずれない空間。吐き気がした。同時に、喉の奥が乾いた。あれを崩したい。崩す瞬間を見たい。花弁が散り、色が混じり、秩序が溶ける。その一瞬に、自分の毒が立ち会う。
「……病気だな」
口の端が歪む。毒師が毒に酔うのは、末期の兆候だ。知っている。知った上で、瓶を磨く。
棚の隅に、小さな木箱がある。蓋を開ける。中には、乾いた花弁が一枚。白い。完璧な形。あの森の外縁から、風に乗って落ちてきたもの。シオンが拾い、ゲルドに渡した。「研究材料」と言って。
花弁を指先で摘む。薄い。光を透かすと、脈が見える。魔力の筋が、葉脈のように走っている。生きている。森から切り離されて三月経っても、まだ枯れない。結界師の魔力が、細胞の一つ一つに染み込んでいる。
「これを腐らせるのに、三月かかった」
花弁の端が、わずかに茶色い。ゲルドの毒液に浸し続けて、ようやく縁が変色した。たった一枚の花弁。それだけで三月。森全体を腐らせるには、どれほどの時間と量が要る。
だから、内側から。
男を送り込んだのは、そのためだ。外から攻めれば、結界が弾く。浄化層が溶かす。光幕が焼く。だが、内側に置いた種は、結界の一部として認識される。異物ではなく、構成要素として。水路の脈に寄り添い、土の呼吸に合わせ、光の角度に馴染む。そうして根を張る。気づかれないまま。
「気づかれたとしても」
ゲルドは瓶を一本取り、光に透かした。深い紫。これは「遅い毒」。発症までに季節が二つ要る。症状は、忘却。記憶の端から色が抜け、名前が溶け、やがて自分が何者かを見失う。
「あの庭師に、似合いの毒だ」
美を追う者が、美を忘れる。花の名を失い、色の違いがわからなくなり、自分の庭を自分の庭と認識できなくなる。それが、ゲルドの描く最も美しい崩壊の形。
瓶を棚に戻す。指先に紫の残滓が薄く光る。舌で舐めた。苦い。だが、慣れた苦さだ。
岩窟の奥から、低い振動が伝わる。バルガスが鍛錬を始めた音だろう。規則正しい打撃音が、岩を通じて腹に響く。あの男は単純だ。剣で斬れないものはないと信じている。だが、剣で斬れない毒がある。目に見えない腐食がある。
「シオンは」
ゲルドは目を閉じた。あの幻影使いは、何を考えている。作戦を提案したのはシオンだ。ゲルドを先鋒に据えたのもシオンだ。囮ではないと言った。だが、シオンの言葉を額面通りに受け取る者は、この城にはいない。
「まあいい」
利用されるなら、利用し返す。それが毒師の流儀だ。シオンが何を企んでいようと、ゲルドの毒が森に根付けば、結果は変わらない。あの完璧な庭が内側から崩れる。その光景を、ゲルドは見届ける。
七本目の瓶が濁った。
ゲルドは立ち上がり、棚の前に歩み寄った。七本の瓶を、順に指で弾く。音が違う。濁り方が違う。水路に落ちた粒は低く鳴り、樹脂に仕込んだ粒は高く鳴る。土に近いほど低い。空気に近いほど高い。
「根の深さが、音でわかる」
七つの音を聞き分ける。どれも、まだ浅い。だが、確実に沈んでいる。一日ごとに、半粒ずつ。結界の光に馴染み、土の温度を覚え、水の流れに溶け込む。
「あと二月」
ゲルドは指を折った。二月で、種は芽を出す。芽が出れば、もう抜けない。根が結界の骨格に絡みつく。浄化層の下に潜り込む。光幕の裏側で、静かに、確実に、美を食い荒らす。
花弁を木箱に戻し、蓋を閉じた。茶色い縁。三月の成果。小さい。だが、確かだ。
「男は、まだ生きているか」
瓶に問いかける。瓶は答えない。だが、濁りが安定しているということは、種が乱されていないということだ。男が捕まれば、種は掘り返される。濁りが消える。まだ消えていない。
「なら、まだ動いている」
あるいは、すでに捕まって、種だけが残されたか。どちらでもいい。種が根付けば、男の役目は終わる。使い捨ての器。ゲルドの毒を運ぶための、人の形をした瓶。
そう思おうとして、指が止まった。
男の声を思い出す。「怖いから、やる」。あの言葉。骨の奥に送った指示に、男は一度も震えなかった。恐怖を燃料にする者。ゲルドの毒に耐えられる数少ない体質。十年かけて育てた。
「……惜しいな」
呟きは岩に吸われた。ゲルドは首を振り、調合台に向かった。次の配合を始める。八本目の瓶のために。九本目のために。四十三本すべてが濁る日のために。
蒼い鬼火が揺れる。影が壁に伸び、縮む。調合台の上で、粉と液が混じり、新しい色が生まれる。紫より深い。黒に近い紫。名前のない色。名前をつける前に使う毒。
「あの森の白い花が、この色に染まる日を」
ゲルドは瓶の蓋を閉じた。硝子が冷たい。指先の熱が、薄く曇りを作り、すぐに消えた。
岩窟の奥で、バルガスの打撃音が止んだ。静寂が戻る。水滴の凍る音だけが、規則正しく刻む。
七本の瓶が、棚の上で、静かに濁り続けている。




