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第4巻 第3章 王国軍の侵攻(5)

「……蓋だな」


男は足を止め、頭上を見上げた。灰色の死の森の輪郭に、透明な膜が薄く重なる。分厚いガラスの蓋が空気に落とされたように、光が均一に漂っている。刃物に研がれた陽射しが、石畳の目地を一直線に撫で、刈り込まれた灌木の端を同じ高さで照らす。


「光まで同じ角度。笑える」


舌の裏に忍ばせた薄い符が、冷ややかに触れた。ひやり、とした感触が喉奥に落ちる。無臭の風が頬を乾かす。アレスの結界が森の腐れた気配を押し返し、街全体を人工の静謐に包んでいる。音が鳴る前に整列するような空気。完璧に近いほど、かえって爪のかかる隙がある。


「綺麗すぎる」


ひとりごとに、唇がわずかに歪む。欠けのない面は、美徳ではない。触れた指を滑らせた時、それは罅になる。男は裏路地に身体を溶かし込ませ、光の均衡が圧縮された細道へ踏み込んだ。白漆喰の壁は傷がない。雨だれの筋すら、等間隔で並ぶ。石畳は毛一本分も乱れず、隅に散らばってしかるべき桶も袋も存在しない。


「匂いがない街なんて、死体と一緒だ」


呟きながら、腰の荷から細い皮袋を抜き、水路の蓋に指先をかけた。蓋の裏は驚くほど清潔で、苔が付く気配もない。持ち上げた隙間から覗く流れは、透き通っていた。いや、結界の光がそのまま水になったようにも見える。耳を傾ける。規則正しく刻む音。脈だ。


「脈を盗め」


骨の奥に、ゲルド様の声が落ちる。叱責ではなく、手の形を確かめるための指示。男は溜め息を飲み込み、低く返した。


「流れに逆らうな、だろ」


「そうだ。間を合わせろ。違和感は毒の敵だ」


声は遠いのに、皮膚に近い。男は水路の内側に指の腹を滑らせた。濡れた石はわずかに暖かい。熱が均された空間。結界に温度差は嫌われる。透明な小袋から、爪先ほどの粒を二つ摘み、水面へ落とした。粒は軽く跳ね、薄い膜に弾かれたかのように石縁へ吸い寄せられる。


「……跳ねたな」


反射の癖がある。彼は息を止め、砂時計の砂粒が一定数落ちるのを頭の中で数える。空気の震えはない。異物の侵入に結界が過敏に反応すれば、頬の皮膚が収縮するはずだ。何も起きない。水のリズムだけが続く。


「ここ、楽器だ」


囁いた声に、苦い称賛が滲む。整列したものほど壊す快感は大きい。破断音が澄むからだ。喉の奥でアレスの名が固い石のように転がり、歯が勝手に食いしばられる。


「アレス、ね」


別の声が混じった。甘く、しかし刃の背で撫でるように細い。蜜に微量の鉄粉を溶かした香りが、肺の底に降りる。名だけが、かすかな笑いとともに落ちた。


男は眉一つ動かさず、蓋を戻した。壁下部の装飾砖に視線を滑らせ、色と光沢、比率を瞬間で写し取る。袋から同色に調整した樹脂を出し、薄く塗布。極細の筒を差し入れた。乾いた胞子の寝床。花飾り工が通るだろう。指先の水滴が触れ、眠りは破られる。数日かけて甘い匂いを生む。嗅ぐ者の胸に、目に見えない花が咲く。


「合図をずらせ。早い香りは騒ぎになる」


ゲルド様は淡々と教える。男は唇を動かさず、首の内側で頷いた。


「遅延させる。湿度はこの路地なら一定だ」


「賢い。だからお前を選んだ」


男はそこで口内に血の味を覚えた。奥歯が欠けている。舌で触れば痛む。痛みは集中を連れてくる。


袖口に縫いつけた膏薬の切れ端を剥がし、掌で温めた。別の役目だ。夜、剪定師の刃に貼り付く。刃は朝露を弾く性質がある。露は毒を溶かす。手へ、息へ、彼らの家の食卓へ。彼はすり替えの角度を頭の中で描き、身振りひとつ乱さぬよう歩を移す。


「お前はやれるのか?」


誰にも届かない問いが喉に浮かぶ。答えはいつも同じだ。手を動かせ。


「やれる」


短い言葉が、結界の空気に吸われる。裏路地を一筋、二筋。男は同じ作業を繰り返す。指先の温度と、樹脂の馴染みを測りながら、見えない方位線に沿って仕掛けを置く。街が持つ一つの比率に合わせる欺瞞。黄金の切片に寄り添えば、異物は異物に見えない。


その瞬間、背で空気が一枚めくれた。紙を摘み、そっと引く動作に似たずれ。世界の肌が音もなく移動する。


「……今のは」


肩甲骨の奥に釘を打たれたような重み。振り向けば、視ることになる。男は靴紐を整える素振りで膝を折り、視線だけを落とした。乾いた石の上に、不自然な小さな水溜まりがある。降ってもいないのに。透明な水に映ったのは、自分の頬ではなく、赤い縦の瞳。


喉が詰まる。


「気のせいだ」


言葉は石の面を滑り、すぐ消えた。冷たい指が一本、喉の内側を逆流する。指には薄い鱗がある。光のない鱗。何かが背骨を数えている。近いのか遠いのか。距離の概念が崩れる視線。触れているのではなく、重なっている。


「監視か」


唇は動かさない。胸は速い鼓動を打つ。早い。軽さと重さが同時に来る。足首に絡む鎖の感覚と、頭蓋に注ぐ光の感覚がぶつかる。不安は二つに裂け、互いを引き合う。


「……アレス」


あの甘い声が、また一度だけ名を呼んだ。今度は笑わない。ただ冷たい気配が背後で息を潜める。壁の角が薄く曇る。夏の空気の中で、ガラスが吐く白い息。ひと欠片の霜が、消える。男は皮膚を撫でる冷気に、誰の顔も浮かべなかった。


「誰だ」


吐息が細くなる。返事は落ちてこない。路地の向こう、白い壁の角。黒い影が一瞬濃くなり、すぐ薄まった。翼でも人でもない。かたちを持たない濃淡だけの「在る」。


「怖い?」


ささやき。問いと言うには優しすぎる響き。男は奥歯を噛み、皮袋を握る指に力を込めた。掌に汗。滑る。指先に爪の痕。


「……やめろ」


自分に言ったのか、空に言ったのか。音は結界に吸い込まれた。視線は、少し遠ざかる。去ったのか、距離を違えて楽しんでいるのか。判断しても意味はない。男の指は止まらない。


肩の内側の縫い目に指を滑り込ませ、巻紙を取り出す。柱の影へ差し入れた。これは印。逃げ道の道標。どんな目にも映らない色で記す。線は薄いが、指で辿れば分かる。彼だけの地図。


「香草はいかが。今日の束は香りが長持ちしますよ」


通りの向こうから声。花売りの女の子か。清潔で整えられた喉の響き。笑い声に波がある。高さが揃っている。不気味なほど均衡。


「悪い、仕事の後で」


男は声をくぐらせた。借りた声音。商人の仮面。花売りは肩をすくめる気配を残し、また別の客へ口を開く。「ほら見て、葉脈まできちんと——」説明は遠ざかった。


「甘い匂いがした」


男は囁く。さっきの気配とは別だ。意図して作る甘さ。遅れて立ち上る香りの出自。彼は鼻を鳴らし、周囲への注意を途切れさせない。


「咲かせる場所は選べ」


ゲルド様の声が脳髄にやわらかく落ちる。


「選んでる。ここは裏庭に繋がる扉だ」


「扉の内側、空気が触れる位置だ。呼吸の導線」


「分かってる」


男は薄い板を取り出す。香のために作られたような無口な板。粉末を均して塗り、扉の内側へ差し込んだ。開閉のたび、空気が撫でる。粉は眠る。日が落ち、誰かが香炉を置けば、香が香を呼ぶ。肺へ入る。


「——それ、誰のために置くの」


甘い声が、背中から耳へ届いた。壁に影はない。なのに、耳の裏が冷える。氷の指でそっと髪をすくい上げられた錯覚。


男はわずかに笑い、歯を見せた。見せる相手などいない。


「誰の、でもない」


「ふふ。なら、誰のでもなくなる前に」


声はそこで途切れた。水面に落ちる小石のように、波紋だけが残る。男は両手の甲を合わせ、息を吸い込む。甘い匂いは消えている。結界の光が空気に薄く混ざる。光は均一。影も均一。一分の隙もない空間は、一分ずつ蝕まれることに鈍い。


「行くぞ」


男は自分に区切りを入れ、荷を整える。手首に巻いた細い包帯を直し、何でもない商人の顔で角を曲がった。光の通り。在りふれた往来。人々の笑いが同じ高さで重なる。彼はそこへ紛れた。視線はまだ遠くで揺れる。遠いのか近いのか、分からない。だが、ある。


「心臓の速さ、数えろ」


ゲルド様の声。男は数えた。四つで呼吸、六つで歩幅を変える。浮き上がる軽さを足元の石で受け止める。背骨に薄い刃のような緊張が沿う。刃は彼をまっすぐに歩かせる。


「やる」


口に出した言葉が、石の腹へ落ちた。吸い込まれた先で、誰かがくすっと笑う気配。視線がまた近い。遊んでいる。男は唇の端だけを上げた。


「試すなら、勝手に」


彼は次の角を読み、影と光のリズムに歩みを合わせる。見知らぬ者の家の裏口。樽の裏。雨樋の口。すべてが整っている。隠しやすい場所は隠しやすい顔つきをしている。彼はそこへ穏やかに触れた。穏やかな手は疑われにくい。樹脂は肌へ、刃へ、汗へ移る。


「おじさん、これ落としたよ」


小さな声。振り返る。少年が、革の紐を掲げている。男は一瞬だけ視線を浮かせ、首をかしげた。


「助かる」


低く言って、紐を受け取る。少年の指は乾いている。水の匂いがしない街。少年が去る。歩幅が一定。教育が行き届いている。


「ここは、誰かの手の中なんだな」


男は笑わずに言った。空気が一度だけ震える。雨でも雷でもない。結界が内側の異物に触れ、微かに震えただけだ。すぐに光は平らに戻る。完璧な面は、内側の傷に鈍感だ。


「お兄さん、ほんとに香草いらないの?」


さっきの花売りが別の角から現れた。道の規則に従うように笑う。


「また来る」


男は立ち去る仕草に自然なタイミングを与え、背が視線の流れに溶けるように向きを変えた。


「逃げるの?」


甘い声がくすりと笑う。冬の朝の窓のような薄い曇りが壁に浮かび、消えた。男はその場所を見ずに答えた。


「次がある」


笑いが細くなり、消える。彼は裏庭への最後の仕込みに取りかかった。板。粉。扉。呼吸の線。全てが配置につく。夜に、香炉が置かれる。香は肺へ入る。静かに。確実に。


作業が終わると、男は背筋を伸ばし、深く息を吸った。胸の内側にわずかな熱。恐怖は消えない。消えないまま、燃料になる。彼は群衆の中に身を沈め、規則のリズムに歩調を合わせた。視線はまだ、背に乗る。ひるまない。任務は始まったばかり。夜が来る。次の手を打つ。


「ここは誰かが設計した箱だ」


彼は心の中で言う。そして次の瞬間に訂正した。


「箱なら、土がある。土は受け入れる。毒も花も」


言葉はそのまま喉で溶ける。群衆のざわめきが胸の表で弾けては消える。石畳の硬さが靴底から踵へ、踵から膝へ上がる。光の角度がゆっくり変わる。影の縁が一斉に角度を変え、また揃う。男はその揃いの中に自分の影を置いた。


「印は全部置けたか」


ゲルド様の声が問いかける。男は瞬時に答える。


「置いた。水路に三。樹脂の筒に二。刃に一。扉の内側に一。予備は——」


「予備は最後まで持っていけ。自分のための毒は、最後まで開けるな」


「分かってる」


返事と同時に、花売りの笑い声が遠くで跳ねた。同じ高さ。同じ長さ。気持ちが悪いほど正確だ。男は肩の力を抜き、ただの通行人の呼吸に戻す。


「名前は、聞かないの」


甘い声が、今度は耳元ではなく、ずっと遠い井戸の底から湧いた。冷えた水が首筋へ垂れる錯覚。


男は答えなかった。名を呼ばせない。呼ばれた名は、相手の掌の中で形を持つからだ。代わりに、息を吐いた。白くはならない。夏だ。


「つまらないひと」


声は微笑んだ気配を残し、霧散した。彼は小さく肩を竦めるしかない。


彼の歩みは光の波に溶けた。背中は完全に群衆へ紛れた。路地の奥には、かすかな甘い匂いが残る。無臭の空気に一滴だけ落ちた証。アレスの封じが守る絶対の秩序に、初めて生じた微小な亀裂。亀裂は目で追えないほど小さい。それでも、確かにある。


光が薄く揺らいだ。風ではない。封じそのものが、内側に潜り込んだ異物を感知して震えた。しかし、揺れはすぐ収まる。光は均一に戻る。至高な面は、自らの内側で進行する腐れに気づかない。静かに。確実に。崩壊へ向かう道に乗った。


「次だ」


男は心の中で告げた。次の標的へ足を向ける。この街の至る所に、同じ種を撒く。ゲルド様の命。自分の存在理由。そのために呼吸し、そのために眠り、そのために目を開ける。


「怖くないの」


甘い声が最後に一度だけ問うた。氷の指が髪を撫で、くるりと離れる気配。男は笑った。短い、音のない笑い。


「怖いから、やる」


恐怖は彼を突き動かす。燃やす。熱は、深い場所へ彼を押し込む。アステリアの光が届かない闇の奥。そこに彼は潜る。新たな配合を練る。新たな罠を仕込む。誰にも気づかれず。確実に。


アレスの障壁がどれほど強固でも、内側から侵すものは目配りが遅れる。男はそれをよく知っている。だからこの街の深い場所に、最も強い毒を置く。発動の時、街は混乱と絶望に抱かれるだろう。そこで完了。彼の任務はそこで閉じる。


「その時まで」


彼は夢を見る。目を閉じずに、歩きながら。今日もまた、新しい毒を撒く。アステリアの一分の隙もない日常の下で。静かに。確実に。


— — —


いくつかの印が、ひそやかに光を吸った。人の目には映らない色。男だけが辿れる道。逃げ道でもあり、戻り道でもある。彼は一つ一つの位置を頭の中で指さし、確かめた。どこにも、すぐに気づかれる瑕疵はない。


「上出来だ」


ゲルド様の声が、珍しく微かな満足を含む。男は短く息を吐いた。


「次の区画へ入る」


「ああ。だが、深追いはするな。今日はここまでの刻限だ」


「分かっている」


声の余韻が消え、街の音が戻る。笑い声。足音。石が擦れる乾いた音。誰かの衣擦れ。


「君」


甘い声が最後にまた呼びかけた。今度は、名を呼ばない。


「また会うでしょう?」


男は返事をしない。そのかわり、掌の汗を布で拭った。布は乾いている。匂いがない。ここでは、匂いが広がることを許されない。


彼は通りの端まで歩き、角を曲がった。背中に貼りつく視線は、まだ離れない。それでも、彼はもう気にしなかった。気にすると足が止まる。止まれば死に近づく。恐怖は、彼を前へ押し出す風だ。


「終わりじゃない。始まりだ」


口の中だけで言う。誰にも届かない場所へ落とす。声はそこで消えた。石の腹が今日だけで覚えた新しい音。誰も知らない。彼だけが知っている。


— — —


陽が傾き切る手前、男は最後の角を曲がり、光の海へ消えた。残ったのは、規則の中に紛れた見えない種。甘い匂いを待つ眠り。刃の縁に貼りついた薄い皮。水路の脈に寄り添う微粒子。扉の内側で呼吸を待つ粉。


街は気づかない。光幕は穏やかに揺れ、また平らになる。一分の隙もないに均された日常は、それでもひびの微音を孕んだ。


男は次の標的へ向かう。まだ、終わらない。彼の任務はここからだ。アステリアの、緻密に整った暮らしの下で、毒は進む。そっと。確実に。誰にも気づかれずに。誰かに気づかれても、遅いように。そう設えてある。


夜が来る。香が呼び合う。肺がそれを受け入れる。そして——。


男は歩く。呼吸は落ち着いている。足音は丸く吸われる。視線は背に乗る。甘い笑いは遠くで揺れ、やがて消える。彼は目を閉じずに夢を見る。完了の形。崩れ落ちる音。その時は、いつか来る。そのために今日も、もうひとつだけ種を撒く。確実に。

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