第4巻 第4章 エララの激怒(5)
白い回廊に、不似合いな音が跳ねた。濡れた靴底が大理石を汚し、夜風の匂いに混じって泥の臭気が立つ。
「はぁっ……はぁっ……っ」
黒ずくめの男は肩で息をした。外は瘴気の森。ここだけが別物だと、侵入したときは思った。柱は月を受けて冷たい光を返し、細い水路の面は銀箔のように滑らかで、夜咲きの花が甘い香りを落としてくる。まるで神の切り抜き。だが今は、香りも光も喉に刺さる。
「どこだ……どこに消えた……あの化け物が」
背後は無傷の静寂。足跡だけが恥の文字のように残り、白さに泥が広がっていく。見えない圧が背骨に貼り付く感覚に、男は歯を噛み合わせた。
「アレス様の庭に、靴の裏をこすりつけてくれたのね」
頭上。さらさらと髪が揺れる音のあと、鈴を転がしたような声が降りてきた。
見上げる。彫刻柱の天辺に少女が立っていた。銀の髪、白い肌、縦に裂けた金の眼。竜姫エララ。口角はきれいに上がっている。楽しんでいるとしか思えない笑み。
「ひっ……!」
男の足がもつれた。心臓が早鐘を打つ。腕は何度も刃物を抜き差ししてきた手。なのに、力が入らない。
「ここの石、角度がずれてると光が寝るの。花は風で香りを渡すから、夜しか開かない種類にした。……ねえ、泥はどこから取ろうかしら」
囁きながら、彼女は柱から地面へふわりと降りた。足音はない。足元に置いた影が、冷たく広がっていた。
「化け物が……」
男は短剣を抜いた。刃に塗ってあるのは、獣一匹を息止めにできる毒。ためらいなく踏み込む。喉を狙う最短距離。
エララの指が軽くはじけた。乾いた音。見えないものに刃が弾かれる。同時に右腕の中で何かが潰れた。
「ぎゃあっ……!」
骨が折れる音は、耳の奥に刺さる。手首から先が自分のものではないみたいにぶらぶら揺れた。
「大きな声。夜が起きる」
エララは目を眇めた。指先に赤い光が集まり始める。水面に落ちる月の反射が、色を変えたみたいだった。
「待て……! 俺に手を出せば、ゲルド様が——」
言いかけて、男は相手のまなざしに言葉を飲み込んだ。氷を指で削いだときの粉が、背中に貼り付く感覚。
「その名、汚い」
笑っているのに、背後で霜が鳴った。柱の表面に白い筋が走る。触れてもないのに。
「う、動くな! 俺は四天王『猛毒のゲルド』の直轄だ。外の砦も、国も、何度も——」
「知らない」
淡々。言葉が切れたところで、彼女は片手を下ろしただけで、空気の層が変わった。男の膝が勝手に落ちる。視界が狭くなる。
「た、助け——」
「お願いの仕方、違うね」
彼女は首を傾けた。白い喉元が月を返す。そこに赤の点がふわりと灯って、ゆっくり濃くなる。引き金に触れかけたとき。
「……道連れだ」
男は左手を胸に当てた。服の内側に縫い込んだ小さな塊。石。ゲルドから渡されたもの。猛毒の呪石。
「ふ、ふふっ……完璧な箱庭? 笑わせる。これで全部、腐る」
小さな塊に残りの魔力を流し込む。体の中で緑の光が這った。皮膚の下で虫が踊るような、痒い音が響く。血管が緑に浮く。目が濁る。
エララの瞼がわずかに動いた。
「何、入れたの」
赤の点は止まる。静止の中で、男の体が膨らんだ。皮が悲鳴を上げるように軋んだ次の瞬間——
轟音。風が逆に吸い込まれる。肉片が散り、鉄の匂いが一気に広がる。耳鳴りがする間に、緑の霧が生まれた。濃く、重い。生き物のようにうねり、地面を這う。
「……っ」
エララは後ろへ抜けた。踵が地面を掠めるのと同時に、透明な障壁を張る。霧が触れ、すぐにじゅう、と音。膜の表面が波立つ。鼻に刺す臭気。腐った薬草と金属を混ぜたような匂い。
「臭い」
彼女の口元に初めて歪みが走った。指を握り直し、障壁の厚みを増す。肌の内側が冷たくなる感覚。竜の血は毒に強いが、これは空気ごと血管に入り込もうとする。
霧は境界の向こうへ伸びた。地に沿って広がり、水路へ落ち、高さの低いところを選んで流れる。触れた石は色が濁り、小さく崩れる音を立てた。柱の彫刻の線が、溶けて寸詰まりになっていく。花が黒に変わり、乾いた紙のようにはらりと落ちる。水は、どろりと混ざり、泡を膨らませた。
「……」
エララは黒くなった石畳を見た。息を吸う。喉が痛い。指の腹で床に触れると、ざらりと污れが指紋に入り込む。
「アレス様が磨いた角が、丸くなるのは嫌」
低い言葉。目尻に光が揺れた。落ちた雫は霧に触れる前に蒸発する。
「止めないと」
彼女は腕を横へ払った。風が生まれ、庭を走る。竜の息の余波。霧は裂け、散る。だが、散った先で粘り、床からまた盛り上がる。広がる速度が上がる錯覚。
「……拡げるだけか」
舌先で唇を押さえた。彼女の魔力で壁を重ねる。縫うように。隙間に指を差し込むように。だが、霧は重く、わずかな隙を見つけては滲む。
遠く。人の声が跳ねた。
「な、なんだこの霧は!」
「目が痛い、目が……!」
「息が……ぜぇ、ぜぇっ!」
深夜の街に明かりが走る。戸が開き、足音が石段を叩く。兵の怒鳴り声が続いた。
「高いところへ上がれ! 窓を閉めろ、下に溜まる!」
「子供を抱け、走れ!」
「触るな、床に落ちたそれに触るな!」
咳き込む音、吐き出される胃液の酸っぱい臭い、倒れた人間の肌がじり、と音を立てて割れる。焼ける。誰かが叫ぶ。
「お母さん、起きて! ねえ——」
「いやだ、いやだ、まだ……」
混乱は波のように重なった。さらに遠くまで霧が伸びる。地下の通路、隙間、溝。重たいものは地を選ぶ。
「うるさい」
エララの睫毛が震えた。声は小さかった。だが鋭い。夜に手をかけて窓を閉めるような仕草で、さらに障壁を重ねる。
「騒がないで。彼が眠る」
霧の方角を見る。視線は冷たい。手のひらの内側で爪が皮膚を押し、うっすら血が滲んだのを、彼女は見てもいない。
「私室は——」
そこに、灯りは安定したまま。彼女の耳には、かすかな水の音が届く。滴る、水時計の音。
……
同じ時刻。中央の部屋。厚手の布の香りと、磨いた木の甘い匂い。油の切れていない芯が、細い炎で揺れる。壁の面に沿って光が伸び、その端に積まれた書物の輪郭を柔らかく撫でた。
アレスは手を額に当てた。皮膚の下で、鈍く熱が波立つ。枕の布目が耳たぶを擦る感覚。遠くで水が落ちる音が一つ、二つ。ムカつくほど規則的だ。
「……くっ」
息が詰まる。視界の縁に、白い砂を撒いたようなざらつき。断片が走っては消える。誰かの声。手触り。湿った土の匂い。次の瞬間、空っぽ。
「何だ……何を……忘れてる」
言葉が出るたび、頭の中で別の音がきしんだ。窓から入る光は、いつもより角度が浅い。気にしているのに、理由が名付けられない。結界の糸にわずかな影が混じる感覚。触れば整う。そう信じて、手を伸ばそうとして、躊躇う。なぜだ。
「……不快だ」
眼を閉じる。どこかで、輪郭がずれた音がした。でも、遠い。近い音しか掴めない。部屋の空気は温い。肌に触れる風は、揺れていない。
彼はまだ、外の惨状を知らない。
……
「後退! 後退しろ!」
「おい、そっちは行き止まりだ!」
兵士の声は枯れていく。雛鳥のような泣き声が混じり、誰かが吐いた息に血の泡が混じった。
「結界師様は——アレス様はどこだ!」
「お願いだ、助けてくれ!」
祈りが互いにぶつかる。足の踏み場がなくなり、転んだ人の上にまた人が倒れる。軋む。折れる。叫ぶ。夜空に上がる悲鳴は、雲の低さに押し戻されて戻ってくる。
エララは障壁に手を当てた。掌の厚みを通じて振動が伝わる。霧は、生き物だ。動こうとする意思がある。出力を上げれば上げるほど、別の場所から染み出す。
「やり方が違う」
自分の失点に、舌先が歯を叩いた。破壊することは造作もない。だが、汚れを洗い落とす種類の術は、筋肉が覚えていない。彼女は肩で息をした。背中の布が湿る冷たさ。
「アレス様に、音が届く」
囁くと、彼女は自分の喉を軽く押さえた。声が震えないように。夜は静かであるべきなのだ。彼のために。
視線を落とす。黒く縁どられた石畳。つい数時間前まで、靴音が美しいリズムを刻んだ床。水路の面に映る月。今は緑のヘドロが流れ、泡がぱち、と弾けるたびに刺激臭が増す。
「許可なく触れられるの、嫌い」
彼女はゆっくり膝をついた。石のざらつきが膝頭に刺さる。指を伸ばし、黒に触れた。熱がある。腐るというのは、こういう温度か。目を閉じれば、彼が選んだ花の香りがわずかに残っている。まだ全部は奪われていない。
「猛毒のゲルド」
はっきりと名を呼んだ。その瞬間、周囲の空気が震えた。薄い紗の袖が、動かぬ風にひるがえる。金の瞳が夜の底を穿つ。
「面倒を置いていったね」
笑う。笑顔のまま、背中で空気が軋む。脊髄が冷える音がする。彼女の足元に霜の輪がひろがった。
「私が返す番」
彼女は立ち上がった。指を一本、天へ立てる。雲の低い天蓋に、目に見えない印を打つ。刻むのは意志だ。彼女の。彼だけの空間に触れた手を、一本一本へし折っていく意志。
「待ってて」
言葉は誰に向けたものでもない。だが、耳に届く誰かはいる。彼はまだ眠っている。夜はそのままに。騒ぎは届かないように。
彼女は壁を厚くした。霧と押し合う感覚に、肩がわずかに震える。時間の問題だ。ここを押さえながら、広がりを止める術を探すしかない。自分一人で手に余るなら、彼を起こすべきなのか。いや。それは最後だ。彼にこの臭いを嗅がせたくない。
「大丈夫。私がどうにかする」
彼女は自分に向かって言った。その言葉を聞いて、体のどこかが暖かくなる。指先の冷たさが少し引いた。
——それでも、街の方角からの叫びは止まない。
「こっちだ、階段を上がれ!」
「息が苦しい……水を……」
「触るな、床は触るなって言っただろ!」
「誰か、あの子を——」
石上の靴音が連なり、戸が叩かれる音が連なる。木の軋み、ガラスの割れる音、咳。混ざり合って、夜の織り目が乱れる。
「静かに」
エララはゆっくり目を閉じた。耳の中で、自分の鼓動が規則を打つ。彼女は障壁をさらに一層、同心に重ねた。薄い膜を、密に、丁寧に。彼の空気に戻すために。
それでも、霧の流れを止め切るには足りない。壁の上に壁を重ねながら、彼女は息を整えた。いつか必ずこの手で洗う。そのとき、何からどこまでを剥がし、磨き直すか。指が勝手に動く。彼女は汚れの境界線を頭に描いた。
「あとで、全部、元に戻す」
小さな呟き。決意は固い。柔らかい笑みがまた唇に浮かんだ。優しいものに見える笑み。だが、耳の奥で、氷の欠片がころころと転がる音が続く。
「落とし前は、きっちり」
空に向かって、彼女はまた一本の指を立てた。遅れて、霧が壁にぶつかる音がした。ジュウ、と低い音。足元で霜がきしむ。深く冷えた夜が、庭の中心で息をする。
……
アレスはまだ、部屋の中。指でこめかみを押しながら、掌の温度と皮膚の湿り気を自分のものとして確認している。窓枠に手を置いたとき、外から入る空気の重さに、わずかに眉を寄せた。
「……違う」
彼は誰にも聞こえない声で言った。説明が出来ない「違い」が、指先の神経に引っかかる。外の光はやはり浅い。家の中の音は静かすぎる。水の落ちる間が空く。どこかが辿れない。思考の糸がほどけたまま、結び直す手が見つからない。
冷たい汗が首筋を流れた。布の縫い目が皮膚に刻まれる。息を吐く。吸う。心臓は一定の拍を刻む。いつもと同じ。違うのは、頭の中身。砂を噛むような乾いた感触。
「ああ……」
椅子の背に手を置く。磨かれた木の手触りに安心を拾う。彼はまだ気づかない。気づかないまま、部屋の空気と自分の呼吸だけを整えようとする。
廊下の向こう、遠く。誰かの泣き声。かすかに、壁に吸われて、溶けていく。届かない。届かせないように、何重もの壁がある。
……
霧は、なおも低い場所を選んで動いていた。兵は声を枯らし、子供は泣き、大人は叫び、老人はうずくまる。だが、霧の前では全ての音が同じ高さに平らになる。焼ける音が勝つ。
「こっちに来るな! そっちは——」
「誰か、手を——」
「アレス様——!」
呼ぶ声が重なりに重なる。祈りは夜の布に吸い込まれる。布の向こうにいる男は、眠れないまま、眼を閉じている。
エララは片手で涙を拭った。指先に残った水は、霧に触れる前に乾いた。彼女は唇の端に優しい曲線を作った。
「すぐに、静かにする」
指先から細い光を伸ばす。霧の縁へ。音を殺す幕を、薄く張っていく。住人たちの喉元で暴れる音を、ほんの少しだけ柔らげる術。根本は止められない。それでも、耳に届く叫びを彼に届かせないことだけは、できる。
「彼の夜を、守る」
言い切って、彼女はまた霧と向き合った。ここを抑え、守り、あちらの被害が限界を超えないように。そして次にやることは——
「ゲルド」
名をもう一度呼ぶ。夜は冷える。彼女の背で、何かが育っていく。薄く笑い、視線を上げた。その笑みは、月に向けられていた。
「会いに行く。手土産、用意しておいて」
竜姫の声は小さく、澄んでいた。だが、その背後で、氷の匂いが強くなる。空気が固くなる。黒くなった床に、白の線がゆっくり広がった。
結界の内側は、かつてない緊迫の底に沈む。工作員の自爆が開いた脈に、毒が流れ込んだ。広がる前に塞ぐべき穴は、多い。さらに、もう一つ。
アレス自身の内側で、記憶の糸が切れ始めている。音もなく。だが確実に。時計の水は落ち続ける。夜はまだ深い。彼女は手を伸ばしたまま、霧と押し合っている。明け方は遠い。彼が目を開ける前に、どこまで戻せるか。静かな問いが、庭の中心に漂った。




