第4巻 第3章 王国軍の侵攻(2)
夜が降りてから、私は一人で歩いた。
エララは塔の上で眠っている。彼女の寝息が結界の膜に触れるたび、北東の空気がわずかに冷える。それを計算に入れて、回廊の温度勾配を調整してある。彼女が眠る夜は、庭が少しだけ冬に寄る。
足元の石畳が、月光を均一に返す。白い。正しい白さだ。だが、今夜はその白さが、少し薄い気がする。気のせいだろうか。気のせいであってほしい。
西区画を抜け、南の水路沿いを歩く。水音が規則正しい。脈のように。私が設計した脈だ。一拍ごとに、水面が光を吸い、吐く。その呼吸に合わせて、岸辺の苔が微かに膨らみ、縮む。
異常はない。
北東へ向かう。昼間、穴を感じた方角。あの瞬き一度の空白。名前が消えた瞬間。それが結界の外部要因なのか、私の内部の問題なのか。確かめに来た。
第七象限の外縁。ここは結界の膜が最も薄い場所ではない。むしろ、三重の浄化層を重ねた堅牢な区域だ。だからこそ、ここに異常があるなら、それは外からの侵入ではなく——
足が止まった。
匂い。
いや、匂いではない。匂いの不在。この区画は、夜になると苔の湿った香りが立つように設計してある。月光が苔の表面を温め、微細な水蒸気が立ち上がり、それが鼻腔に届く。私の好む、夜の庭の香り。
それが、ない。
半径三歩ほどの円形の範囲で、香りが消えている。苔はある。月光もある。水蒸気も——いや、水蒸気がない。苔の表面が、乾いている。
膝をつく。指先で苔に触れる。冷たい。だが、湿り気がない。生きてはいる。枯れてはいない。ただ、呼吸が止まっている。眠っているのとも違う。息を止めている。何かに怯えるように。
「……何だ」
声が出た。自分の声が、夜の空気に落ちて、吸われた。反響がない。この区画は、通常なら石壁に当たって0.3秒で返る残響がある。それが、ない。
立ち上がる。周囲を見回す。月光は正常。木々の配置は正常。枝の角度、葉の向き、花弁の数。すべて、私が設計した通り。だが、何かが——
違う。
何が違うのか、言語化できない。視覚的には完璧だ。聴覚的にも、この無音を除けば異常はない。触覚——苔の乾きだけ。嗅覚——香りの不在。
五感のうち二つが、この場所で機能していない。
結界の術式盤を呼び出す。指先に光の符号が並ぶ。第七象限、外縁部、浄化層の状態を読む。
正常。
三重の浄化層、すべて正常。魔力の流量、正常。外部からの侵入痕、なし。瘴気の残留、なし。
「……なし、か」
術式盤は嘘をつかない。数値は正常だ。だが、私の感覚は「何かがある」と告げている。数値と感覚が乖離する時、どちらを信じるべきか。
通常なら、数値だ。感覚は揺らぐ。疲労で鈍り、感情で歪む。数値は客観だ。
だが——昼間の空白を思い出す。あの瞬き一度の穴。名前が消えた瞬間。あれは、私の感覚の問題だった。内側の問題。ならば、今この場所で感じている「違和感」も——
「私の側の、揺らぎか」
呟いた瞬間、安堵に似たものが胸を撫でた。外部からの侵入ではない。結界は正常だ。問題は私の内側にある。記憶の穴が、感覚にまで影響を及ぼし始めている。香りを感じ取る回路が、一時的に鈍っているだけ。
そう結論づけた。
膝についた土を払い、立ち上がる。苔はまだ乾いている。だが、それも私の感覚の問題かもしれない。触覚が鈍れば、湿りを乾きと誤認する。
「明日、もう一度来る。朝の光で確認すれば、夜の感覚の揺らぎか否かが判別できる」
自分に言い聞かせる。論理的だ。正しい手順だ。焦る必要はない。
踵を返す。帰路の石畳は、正しく月光を返している。水路の脈は正常に打っている。回廊の温度は、エララの寝息に合わせて0.2度低い。すべてが、私の設計通り。
だが、背中に——何かが残る。
振り返らない。振り返っても、何も見えないだろう。術式盤が「正常」と言っている。私の感覚だけが「何かがある」と言っている。そして今の私は、自分の感覚を信じきれない。昼間、名前を忘れた。あの空白が、すべてを疑わせる。
塔が見えてくる。エララの寝息が、結界の膜を通じて伝わる。規則正しい。深い。安心する。彼女が眠っている間は、庭は静かだ。
部屋に戻り、机に向かう。術式盤を開き、今夜の巡回記録を書き込む。
「第七象限外縁部、異常なし。感覚の揺らぎあり。要経過観察。」
ペンを置く。インクが乾く。文字は正確だ。だが、書いた内容が正しいかどうか——明日の朝、私はこの記録を読んで、何を思うだろうか。
昼間の空白のように、この記録を書いたこと自体を忘れているかもしれない。
その可能性が、指先を冷やす。
窓の外、北東の空。月光に照らされた森の梢が、風に揺れている。花弁は落ちない。枝は正しい角度を保っている。私の庭は、今夜も美しい。
美しいはずだ。
私の目が正しければ。




