第4巻 第3章 王国軍の侵攻(3)
風が、岩を削っている。
氷点下の刃を孕んだその音は、遥か遠くから断続的に響き、岩肌を撫でては去り、また戻ってくる。世界の北方、永久凍土の果てに横たわる「黒曜山脈」――陽の差さぬ峰々の腹を抉るようにして穿たれた巨大な岩窟こそが、魔王軍の総本営である。
外界では、季節が幾度も巡った。雪が降り、雪が融け、地衣類が岩肌を青く染め、また氷の鎧で覆われる。だが、この岩窟の天井に張りついた無数の鍾乳石だけは、太古の昔から一度として滴を落とし切ったことがない。ただ闇と冷気を、貪欲に蓄え続けてきた。
鍾乳石の先端で凍りついた水滴は、蒼い鬼火の灯りを受けて、まるで内側から発光する宝石のように見える。その光が床に映る。床は黒曜石。鏡面のように磨き上げられたそれが、天井の星々めいた光をそのまま映し返し、玉座の間全体が、深海の底で揺れる藻の森のような、奇妙な揺らぎを帯びる。
匂いは、鉄錆と硫黄。それから、誰のものとも知れぬ古い血の香り。
足音は、響きすぎる。
その中央。
三十段の階を頂く玉座には、誰も座っていない。
魔王アズヴァロス――不在を示す、ただの空白。
けれども、その空白こそが、この場に集った者たちの背骨を冷やしている。空席を背にして語るのと、座した王の前で語るのとでは、言葉の重みが、命の軽さが、まったく違う。
玉座の左右、半円状に配された臣下席のうち、四つあるべき椅子の一つが、無残に砕かれている。
「猛炎のヴァルザード」――先の戦で、結界師アレスとその眷属によって討たれた、四天王が一席。誰の手で砕かれたのか、椅子は意図的に粉々にされ、燃え滓だけが小さく積もっている。喪に服すためではない。敗北の烙印を、生き残った者たちの目に焼き付けるため。
その砕かれた椅子の前で、一人の男が低く嗤った。
「ふん。いい眺めだ。負け犬の墓標としては、上等じゃないか」
白磁の肌に、深紅の双眸。「猛毒のゲルド」。
痩せぎすの長躯を黒曜の鎧で包み、腰には毒の小瓶を幾十も連ねた帯――かつて南海の三王国を一夜で「静かにした」と謳われる帯だ。瓶のひとつひとつに、滅ぼした都市の名が刻まれている。エルゼント、ハフィラ、青鱗の港町ミルゥ。彼が瓶の蓋を一度開けるたび、地図から灯がひとつ消える。
ゲルドは、燃え滓のひとつをつまみ上げ、舌先で、ほんのわずかに、舐めた。
「……ああ、苦い。ヴァルザードの灰は、最期まで誇り高かったらしい。毒にもならん」
「悪趣味だな」
低く重い声が、ゲルドの背を打った。
「武闘のバルガス」。身の丈は優に七尺を超える。岩のごとき肩には、北の蛮族との二十年戦争で刻んだ古傷が幾筋も走り、二振りの巨大な戦斧を背負う。歩を進めるたび、磨かれた黒曜石の床が、鈍く軋んだ。
「死者を愚弄するな。ヴァルザードは、お前のように卑しい手は使わなかった。正面から戦って、正面から負けた」
「だからこそ負けたのだろう、武闘馬鹿が」
くすり、と笑い、ゲルドは滓を払い落とす。指先から、薄紫の蒸気がわずかに立ち昇った。常人ならば吸い込んだだけで肺腑を腐らせる、彼の体液が変じた毒霧。
「正々堂々――結構なことだ。だがな、バルガス。あの結界師に、それが通じると本気で思っているのか? あれは『戦士』じゃないぞ。『庭師』だ。庭師に剣を振り回したところで、剪定鋏の餌食になるだけさ」
「庭師、ね」
三人目の声は、湖面を撫でる風のように静かだった。
「幻影のシオン」。
性別すら判然としない、中性的な容貌。長い銀髪を背に流し、黒絹のローブを纏う。蒼い鬼火の中にあって、彼――あるいは彼女――の輪郭そのものが、揺らぐ。シオンは自席にしどけなく腰を預け、細い指で頬杖をつき、薄く笑った。
「面白い喩えだね、ゲルド。でも、的を射ているよ。私はこの三日、結界の外縁を視察してきた」
「視察、だと?」
「ええ。幻影に紛れて、ね。私の目だけを、結界の隙間に潜り込ませたの」
シオンが、指を一つ鳴らす。
玉座の間の中央の空間に、淡い蒼の像が結ばれた。それは、遥か南方に広がる森の――かつて「死の森」と呼ばれていた領域の、現在の姿。
像を見て、バルガスの太い眉が、ぴくりと動いた。
それは、森ではなかった。少なくとも、彼らの知る森ではなかった。
樹々の一本一本が、宮廷画家の筆で描かれたかのように整然と並ぶ。葉の色の濃淡まで計算され、枝の張り出しの角度に至るまで、ある法則に従って揃えられている。河は銀の絹のように蛇行し、岩は意匠を凝らした石灯籠のように配置され、地表からは、夜だというのに、淡い燐光を放つ花々が、幾何学模様を描いて咲き誇る。
花弁の一枚一枚が、同じ角度で月光を受けている。
風で揺れているのに、花弁の落ちる位置がずれない。
「……なんだ、これは」
バルガスが呻いた。ゲルドは紅い舌で唇を舐める。
「見事だな。吐き気がするほどに」
「そう。これが、結界師アレスの『庭』」
シオンの声が、像の上を撫でる。
「諸君、よく見てほしい。ここには、瘴気の一筋すら入り込む隙間がない。ヴァルザードが放った業火の名残――焦土、灰、煤――そうした『不純物』が、ことごとく除去されている。彼は戦の傷跡すらも、自分に反するものとして『片付けて』しまった」
「……片付けた、だと」
「戦争を、彼は『庭の手入れ』としか見ていないの。雑草を抜き、害虫を駆除する。それが、彼にとっての我々」
玉座の間に、沈黙が落ちた。
蒼い鬼火が、ぱちりと爆ぜる。
ゲルドの嗤いが消えた。彼の細長い指が、腰の毒瓶のひとつを、無意識に握り込む。バルガスは腕組みを解き、砕けた椅子の方へ視線を投げた。ヴァルザードの灰。あの灰すらも、もしあの森に運ばれれば、即座に「不要」と片付けられてしまうのだろう。
死者の尊厳すら、塵芥に等しい。
戦士にとって、これ以上の侮蔑があろうか。
「……許せん」
バルガスの低い声が、岩窟を震わせた。
「あの男は、戦を冒涜している。死者を冒涜している。我ら魔族の存在そのものを、たった一言で片付けようとしている」
「ようやく、お前にも理解できたようだな、武闘馬鹿」
ゲルドは薄い笑みを取り戻したが、その瞳の奥には、ちりちりと焦げ付くような苛立ちが揺らいでいた。
「魔王様の御不在は、もう三月だ。再臨の儀のため、深奥の祭壇に降りられたまま――その間、我ら四天王に課されたのは、北方平定と、南方への侵攻。両方だ。だが、見ろ」
ゲルドは、忌々しげに像を指差す。
「侵攻どころではない。我らの先鋒は、あの森の手前で、ことごとく『除草』されている。魔王様が再臨されたとき、我らは何と申し上げる? 『四天王の一人を失い、南進は一歩も進んでおりません』とでも言うのか?」
バルガスが、ぐ、と歯を噛みしめた。
シオンは、頬杖をついたまま、目を眇める。
「焦っているね、ゲルド」
「焦るなと言う方が無理だろう」
「いいことだよ。焦りは、毒にも薬にもなる。とくに、お前の毒には、よく合う」
「……何を企んでいる、シオン」
「企む、だなんて人聞きの悪い。ただ、提案をしたいだけ」
シオンは身を起こし、指先で像をひと撫でする。見事な庭園が、ゆらりと歪み、消えた。代わりに、新たな光景が結ばれる。
――森の中心部。
一際高く、しかし周囲に完全に溶け込んだ、白亜の塔。
その周囲に、輝く鱗を持つ一頭の竜が、とぐろを巻いていた。
鱗は、夜だというのに、月光を吸い込んで吐き出すように輝く。竜の吐息が触れた周囲の空気が、わずかに白く凍る。塔のすぐ下、彼女の腹部に当たる位置には、不自然に枯れた草地が円を描いていた。竜が長く居座り続けたために、周囲の生命が冷気に焼かれて消えたのだ――それでもなお、彼女は決して塔から離れようとしない。
ゲルドの背筋が、ぞわりと粟立った。
「……竜姫エララ」
「そう。例の、結界師に懸想しているという、厄介な竜」
シオンの声に、初めてかすかな緊張が混じる。
「私はこの三月、彼女を観察し続けた。結論から言うね。アレス本人を直接攻めるのは、悪手。彼に近づく者は、人間も魔族も区別なく、あの竜が排除する」
「先日、北の都から遣わされた使節団が、丸ごと消えたな」
「あれは、彼女。アレスに『面会を申し込んだ』というだけで、痕跡すら残さず焼き払われた。書簡を運んだ鳥まで、ね」
「狂愛、というやつか」
ゲルドが、口の端を歪めた。
「面白い。実に、面白いではないか。つまり、あの結界師は、自らの最強の盾を、同時に最大の弱点として、傍に置いているということだ」
「察しがいいね、ゲルド」
シオンは微笑む。
「私の提案は、こう。まず、私が幻影で森の各所を『汚す』。彼の感覚を逆撫でするように、徹底的に、執拗に。彼は必ず『手入れ』に出てくる。そして、その手入れに集中している間に――」
「俺が、本陣を叩く、というわけか」
バルガスが低く唸った。だがその声には、先ほどまでの怒気とは別種の、戦士としての冷えた計算の響きがある。
「いいえ、違う」
シオンは首を横に振った。
「本陣を叩くのは、ゲルド、君」
「ほう」
「君の毒は、結界そのものに作用する。物理ではなく、空気を、水を、土を、内側から腐らせる。あの庭を、最も醜く汚せるのは、君の毒だけ。彼は必ず、君を最優先で排除しに来るでしょう?」
「……俺を、囮に使う気か」
「囮じゃない。先鋒。最も誇り高き、先鋒。ヴァルザードに次ぐ二人目の英雄になるか、それとも――歴史を変える毒となるか。それは、君次第」
蒼い鬼火が、再び爆ぜた。
ゲルドはしばし沈黙し、腰の毒瓶を、ひとつ、またひとつと数えるように撫でた。瓶の硝子越しに、滅びた都市の影が滲む。エルゼントの王女が最期に飲み干した青の毒。ハフィラの神官たちが祈りながら倒れていった、笑いの粉末。
「……いいだろう。受けて立つ」
ゲルドは、ふ、と笑う。乾いた、しかしどこか覚悟の滲んだ笑み。
「あの庭師に、我が毒の真髄を味わわせてやる。彼の自慢の環境が、内側から腐り落ちるさまを、見せてやろう」
「そして、私とバルガスは、その隙に竜姫の動きを探る」
シオンは付け加えた。
「彼女の愛は、確かに脅威。だけど、傾きすぎたものは、必ずどこかに歪な接合部を持っている。そこを見つけられれば、最強の盾は、我らの剣になる」
「歪みを、剣にする、か」
バルガスが、苦々しげに呟いた。彼の矜持は、こうした搦め手を好まない。だが、もう、そうも言っていられない。ヴァルザードの砕かれた椅子が、そこにある限り。
「決まりだな」
ゲルドは玉座へと向き直り、空席に向かって、片膝をついた。
「魔王様。我ら三名の四天王、ここに誓い奉る。次なる供物は、結界師アレスの首――あるいは、彼の見事な庭の、無惨な廃墟となりましょう」
背後で、バルガスもまた巨躯を折り、片膝をつく。シオンは優雅に胸に手を当て、深く首を垂れた。
蒼い鬼火が、三人の影を、玉座の背後の壁に長く伸ばす。三本の影は、薄く鋭く、空白の玉座へと伸びる。
――そして、誰も気づかない。
シオンの結んだ像が消えたあと、玉座の間の天井の闇に、ほんのわずか、銀色の鱗の煌めきが、一瞬だけ映り込み、すぐに消えたことを。
四天王たちの会議は、すでに、聞かれていた。




