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第4巻 第3章 王国軍の侵攻(1)

半透明の術式盤が薄く唸る。指を走らせるたび、冷たく尖った陽が回廊の白へ線を描き、床の大理石が細かく息をするみたいに光の粒を返す。床は乾いた冷たさ、空気は微かな樹脂の匂い。遠くで水脈の音が低く続く。呼吸はまとめ、鼓動は一定に落とす。光の屈折、風の速度、反響音の角度。誤差を潰す。


「西区画、偏差……許容内。屈折、0.02下げる」


 独り言というより、手先の号令。術式盤の上で符が弾み、粒子がふわりと浮いて、目に見えぬ筋道に吸い込まれる。天井の意匠は光を柔らかく返し、柱の彫りは筋の張りを石に留める。鱗の光沢は薄膜の魔力で再現。彫刻に魔力循環の補助機能をひとつずつ織り込む作業は、見栄えと実用の両立だ。手の皮膚の表面で石の粉がごく僅かにきしむ。


「……よし」


 白へ流れる影は数学の図を思わせる。私の意図に沿って、空間が微かな震えで応じる。静かでいて、脈は熱い。ほんの一歩ずつ、内部の噛み合わせが正しい位置へ落ちてゆく。


 背に視線の温度が乗る。熱を帯びた、というより、熱そのものが形を持った視線。


「今日は、その角度、とても綺麗」


 竜姫エララ。真紅の布地が光を抱き、金糸は海の底の砂みたいに細かく光る。髪に指を通したくなるほどのしなやかさ。甘い香りが通路の影へ流れ込んで、ほんの少し頭がゆるむ。隠した翼は呼吸みたいにわずかに震え、金の瞳が一点へ集まり、こちらを中心に世界を並べ替える。


「そこにいたか。気配を消すのが上達したな」


 振り向くと、笑みの下で頬がわずかに上気する。目に見えない尾が弾んだ気配。空気の揺らぎが小さなさざ波になって足元を撫でた。


「邪魔になるのではと思って、息を浅くしておりました。けれど……その彫り、触れたくなる。ここで暮らす方々も、安心するでしょうね。帰る場所の形が、この通路にあるもの」


「住民が安心して働けるなら、狙い通りだ」


 指がもう一度、術式盤の端へ滑る。そこに、彼女の視線がぴたりと貼り付く。指先の動きひとつに、呼吸が合わせられていく。


「彫刻、獣の背筋の張りが生きている。あの角に立つ狼の、腰の捻り方。それでいて……手を伸ばしてよいのか迷う感じ」


 彼女の声は絹の上を刃で引いた音に似ている。柔らかく響くのに、奥に冷ややかな光がある。ドレスの裾を握る指が寸前で止まるのは、この場に刻まれた規律を乱さないためだ。


「触れたいなら、許可する。指先で確かめたほうが、石の冷たさも伝わる」


「いえ、今は見守りたい気分」


 そう言いながら、彼女は一歩だけ近づく。微笑はそのまま、足音は消す。頬を掠める彼女の体温と香り。背に張り付く視線の重さは、鎖でも羽衣でもある。私の作業は彼女の存在も含めて組まれている。忠誠と力と華やぎ。機能と外見の配列。二人の間に、針の先で立つような均しができて、一瞬、静かな静脈が通う。


「ここで暮らす人たち、振る舞いは落ち着いているか」


 話題を外へ向ける。視線を術式盤から床へ落とし、次の調整の位置を探す。


「はい。新しく来た子たち、回廊で遊ぶ声、軽く跳ねるように響いてました。笑い声が壁から返って、丸くなるの。……アレス様、音の返し方、変えました?」


「少しだけな。高音の反射を抑えた。子どもの声が痛くならない程度に」


「やさしいのですね」


「必要な調整だ。住む者が疲れない構成にする」


 彼女が目を細め、唇の端にだけ笑みを乗せた。許可を待つ犬のようでもあり、獲物を前にした獣のようでもあり。どちらも正しい。


「アレス様、指先、今日も美しい動き」


 控えめに一度だけ、彼女の呼びかけは私の名で始まった。言葉の外で、背後の空気が一瞬だけ冷える。床の石が、細かく鳴った気がした。彼女はにっこり微笑み、何事もなかった顔で裾を整える。


「仕事を続けるぞ。西の光、もう0.01落とす」


 符号をひとつ。ほとんど目に見えない程度に、光の刃が丸くなる。鼻先に当たる温度が一度だけ変わり、風が追いかけっこをやめた。


 その瞬間。


 視界の縁が揺れ、色が抜ける。音に厚みがなくなる。手の感覚が水の中に入ったみたいに鈍る。頭蓋の裏側に白い幕が下りた。刹那の凪。正午の広場に風が止まる、そんな突拍子もない静けさに似た感覚だ。


(……え?)


 何をしていた。誰と話していた。今、どこにいて、何をしようとして——。輪郭が滑って落ちる。術式盤から指が離れ、供給を失った符が虹色の灰になって溶ける。口が半開きのまま動きを忘れる。視線が焦点を持たない空を向いた。


 まばたきひとつの長さ。けれど、落ちたその先は底の見えない井戸だった。


 ノイズが脳に走る。切り取られた過去なのか、まだ来ぬ影なのか。掴む前に指の間から砂のようにこぼれる。空白が重ねられ、輪郭が薄まる。私という名詞が霧散する。思考の台座が沈む。


「……アレス、様?」


 遠い水の底から聞こえる呼び声。耳の内側から浮上する。エララ。名が錨だ。私は現実へ戻る。


「……ああ、すまない。今、何を言った?」


 息が上ずる。笑みを、顔に貼り付ける動作は驚くほど機械的だ。背骨の奥に冷たい棒が差し込まれたみたいな感覚。内側に穴。


(今のは何だ。意識、いや、記憶の欠落? 自分の思考に指が届かなかった?)


 鼓動が鐘になる。感情ではなく、機械的に速い鐘。自己制御の欠落は、私の許容する範囲の外だ。記憶の糸を巻き戻す。西区画の調整、エララの到着、会話。拾える。空白だけが、頑なにそこに居座る。


 額の皮膚が冷たくなる。汗を指でぬぐい、袖で誤魔化す。


「急に黙られましたから……驚きました。お加減は」


 彼女が覗き込む。金の瞳は、嘘を探すのが上手だ。頬の筋肉の動き、瞳孔のわずかな収縮、呼吸の高さ。


「いや、何でもない。調整に集中しすぎた。魔力の使い過ぎだ。理想値を追い過ぎた」


 理由を並べ、波を均す。私自身、そうであって欲しいと願っている。前回の戦闘の疲れが残っているからだ、広域の維持の負担だ——どちらでも良い。眠れば治るなら救いがある。


 胸の底から、別の声が小さく笑う。これは違う、と。


「ご自身を酷使しすぎです。……頼ってほしい」


 エララの指が私の腕の布地に触れる。布越しでも肌に届く温もり。こんな簡単な触れ方で、体温は伝わるのだと知る。今、その優しさが少し怖い。もし、私が私でなくなったら、この温かさをどう感じるのか。


「大げさだ。大丈夫だ。少し休もう。紅茶を淹れてくれ」


 彼女の髪を軽く撫でる仕草で話を閉じる。明るい声の方を選ぶ。内側の穴を、誰にも見せたくない。


「はい。すぐに」


 小さく弾む声。彼女は身を翻し、駆け足で回廊の奥へ向かう。足取りは軽い。裾がかすかな風を生む。


 背中が角に消えるまで見送り、息を吐く。肺に溜まっていた冷たい泥が少し動く。


(記憶の欠落……前にも似たことがあった気がする。いつ、どこで、どういう状況だった?)


 こめかみを押さえる。頭の中に、見えないひびが入った感覚。結界の綻びよりずっと厄介だ。魔力回路を内側から辿る。流れ、接続、数値。問題は見当たらない。


 精神の奥。魂の根の近辺。そこから何かが一片だけ剥がれていく気がする。指では触れられない場所。


(気のせいだ。疲労だ。私は理想を追う者だ。自分の器に汚れを残さない)


 言い聞かせる。手の震えが収まるのを待つ。両手を握り、爪を掌に刺す。痛みが位置を教える。


 そのころ。厨房へ向かう廊で、エララの足が止まった。笑みが消える。剥がれ落ちるみたいに。代わりに浮かぶのは、氷の光と、薄い恐怖の影。


(……また)


 胸元を握る。爪が布に沈む。竜の感覚は、音のないひずみを拾う。さっきの空白——あれは疲労の揺らぎではない。アレスが一瞬、世界から薄まった。焦点が外れ、魔力の脈が止まり、魂から色が抜けた顔。


 以前にも見た。あの時も彼は「大丈夫」と笑った。笑い方まで同じ。私の内部の生き物は、叫んでいる。もっと深い、危うい兆しだと。


 壁に寄りかかり、呼吸を数える。一、二、三。肩が上下する音が自分の耳にうるさい。異常を見るたび、心が縮む。


(アレスの中から、何かが零れていく……嫌)


 瞳の底で暗い炎が揺れる。外から来るものなら、焼き払う。魔王軍でも、冠を被る存在でも構わない。


 内側なら——それに手を伸ばす方法は、限られている。


(考えない。そんな未来は、無い)


 首を振る。黒い想像を追い出す。彼は理想の核だ。崩れを、私は許さない。彼が忘れるなら、私が覚える。欠けるなら、私が満たす。


 手首に爪を当てて軽く裂く。細い赤が滲む。痛みは、頭に巣食った羽虫を追い払う。


「気づかないふり、する。今はそれが良い」


 小さく誰にも聞こえない声で呟き、微笑を顔に戻す。完璧な輪郭。紅茶の香りに、決意を溶かす。足を前へ出す。


 厨房では、茶器が並ぶ棚の噛み合わせが整然としていて気持ちが落ち着く。手を洗い、湯を上げる。湯気が立ちのぼり、白く揺れる。茶葉の缶の蓋を開ける瞬間、乾いた甘さの香りがふわりと立ち上がる。鼻腔の粘膜がしっとりする。分量を量り、ゆっくり湯を注ぐ。音が心地良い。金属の触れる澄んだ音、陶器の薄い響き。カップは事前に温めておく。時間を測りながら、蒸らす。


(アレス、喜ぶ顔を見たい)


 茶葉が開く。表面に油のような艶が出る。一滴だけ蜜を足して香りの層を厚くする。湯の表面に淡い輪が広がる。トレイに載せながら、柄の位置を一つ一つ確かめる。こぼさない。揺らさない。手首の血はすでに乾いて、白い細い線になっている。


(もし、私の名すら彼から消える未来があるなら)


 想像の影は冷たい。指が取っ手を強く掴む。皿の上でスプーンが小さく鳴る。


(させない。私が繋ぐ。手を、放さない)


 沈黙の誓い。歩は迷わない。


 一方、私は回廊の窓辺に立つ。外の風景。新しい住民の家々。規則正しく立ち並ぶ屋根。そのあいだを縫うように小さな人影が動く。パンを運ぶ香りが風に乗り、焼いた木の匂いがほのかに鼻先を撫でる。子どもが笑う声が白い壁に当たり、丸く返ってくる。


 今日の私は、その色をほんの少し遠く感じる。


(私の支配の及ぶのは、この箱庭の外縁まで。自分の頭蓋の内側は、思ったほど従順ではない)


 自嘲に近い息が漏れる。理想を求めて糸を通し続ける者が、内側に穴を抱える。皮肉とも呼べる構図だが、笑えない。


 両手を見つめる。この手で何百と術を組んだ。この庭を立ち上げた。今、その手が自分のものからわずかに離れていく感覚。私自身が、私を演じる人形になる怖さ。


(私はアレスだ。理想へ向かう結界師。この場所の骨組みを担った者……アレス)


 名を繰り返す。舌の上に意味が乗るように。虚空は何も答えを返さない。穴の縁に膝を抱えたまま、覗き込むしかできない感覚。欠落は一過性とは限らない。このまま進めば、名前を、世界の名前を、エララを。忘れた時、私は抜け殻だ。


 恐怖が胸を締め付ける。内臓が少し縮む。喉の後ろが乾く。


(否定しても、事実は消えない。なら、見に行くしかない)


 背中の筋を伸ばす。窓枠に指を置く。冷たい石の感触が戻ってくる。


「お待たせしました。淹れたてです」


 エララの声で思考が切り替わる。振り返り、微笑を返す。彼女は完璧な動きでトレイを置く。熱が手のひらへ移る。香りが広がり、喉が鳴る。


「ありがとう。君の茶は香りがいい」


 一口含む。舌の上で温度を転がす。鼻へと抜ける甘さ。舌先に渋み。喉の奥がひとつ軽くなる。


「今日のは、落ち着きますね」


 彼女の口角が柔らかく上がるのだ。


「良かった。少しだけ蜂蜜を足しました。甘さは控えめ」


「丁度いい。仕事の手が戻る」


「なら、もう一口。……外、子どもたちの声がしていました。嬉しそうでした」


「聞こえた。高い声の反射を抑えたのが効いている。刺激が強すぎると、疲れるからな」


「こちらも、手を伸ばせば届く距離に、優しさが置いてある場所」


「そう、ありたい」


 並んで窓外を見る。屋根の影が伸び始める頃合い。光の角度が変わると、彫刻の筋も違った表情を見せる。石の髄が温度を失い、冷気が近づいてくる。


「……さっきのこと」


 エララが横顔のまま言う。視線は外だ。こちらは見ない。瞳の奥で何が燃えているか、光の反射で読めない。


「大丈夫だ」


 短く返す。彼女はそれ以上言わない。沈黙。置かれた沈黙は、攻撃にも庇いにもなる。彼女は後者を選んだのだろう。二歩だけ近づく。香りが強くなる。


 舌の上に温かさを残したまま、私は決める。


(穴の正体を見に行く。原因が外のものなら、退ける。内なら——私の方法で、縫い合わせる)


 傷を抱えながら形を保つ技がある。私がこの庭に刻んだ彫刻のように、力の配列は傷を抱えたまま強度を上げられる。欠けた石に金を流し込み、模様として昇華させる。新しい術式を構想してみる価値はある。


 紅茶の熱が喉を滑り、胸の奥の泥を少しだけ温める。エララの横顔に影が差す。彼女の笑みは理想な輪郭を保ちながら、瞳の奥で何かが燃える。私に向けた炎だ。頼るべき時に頼る。それもまた均整だ、と一瞬思う。


 しかし、私は簡単には弱みを見せぬ性分。言葉を飲み込み、窓の外を見続ける。光の角度がわずかに変わる。夕の兆し。西区画の屈折率、やはり0.02の調整が最適。術式盤を呼び出す。指先に震えの残り。それでも符号は正確に並ぶ。


 空白は、あの瞬き一度きりで終わる保証がない。私の内部に無音の穴が生まれた可能性。そこへ落ちたものの名を、私はまだ知らない。知るまでは——この庭の上に、いつも通りの光と風を流す。均整を崩さない。住民に不安を歩かせない。エララに、私の牙を見せない。


 私はこの世界の設計者。名が薄れた瞬間があっても、設計は続く。指先から放たれる符は、私の意志の形そのもの。欠けを抱えたままでも、意志は形を結べる。そう自分へ刻み直す。


 遠くで鐘が鳴る。作業時間の区切りと、茶の時間の終わりと、夕刻への移ろいを告げる音。私は一息の間を置いて、術式盤を閉じる。エララが二歩だけ近づく。彼女は何も言わない。沈黙の重さと、沈黙の優しさ。


 世界の表は静かだ。内側に揺れがある。均整を愛する者は、揺れを恐れながらも、揺れへ技を見出す。この庭は、私の技の集積。いつか、私自身の揺れも、この庭の模様の一部に変換できるはずだ。


 窓外の空は、黄金へ傾き始める。光の刃は柔らかく丸まり、回廊の影が長く伸びる。エララの髪に夕の粒が落ちる。私はカップを置き、息を整える。次の調整へ入る前に、短い沈黙で自分を測る。震えは、今は収まっている。ほんの少しの安堵。ほんの少しの自戒。


 夕の始まり。彼の世界の時間は、今日も滑らかに移ろう。誰もまだ知らない亀裂を抱えたまま。だが、私の指は止まらない。止まるわけにはいかない。


 美と秩序に身を寄せる日常は、薄氷の上を音もなく滑る。氷の下には黒い水。その上に、彼女の笑みと私の設計が重なる。私が選んだ歩みは、今のところ滑らかだ。次の瞬きで、空白がまた口を開けるのかもしれない。たとえそうでも——私は前へ進む。

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