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第4巻 第2章 内政チートと景観整備(5)

門の蝶番が乾いた音を落とし、列の先頭が一歩進む。吐息が白い糸になり、肩の荷がゆっくり傾ぐ。係の兵が両掌を開いて合図し、子どもが母の裾をつかんだ。結界の天蓋からこぼれ残った星の粉が、細い小川のように空中を渡る。外では死の森が唸りを噛み殺し、毒の匂いが境界で止まる。内側は別の律動だ。露の粒が葉の先に静かに整列し、石畳の角が夜露を弾く。白い息が重なり、祈りの背丈が揃う朝。


「次の方、前へ」

兵士の声が響く。新たな住民を迎える門前は、声を潜めた祭りめいた賑わい。ほどけた紐を結び直す指、背負子からずれる荷を押し上げる肩、星の残光に気を取られる幼い目。

「ねえ、母さん。外の森にいた黒い魔物は……」

「しっ。ここではその話は駄目よ」

「でも、お父さんが……」

「いいから、静かに。門をくぐれば、もう安全だから」

言ってはならない音がある。「魔王軍進攻」という外の言葉は、ここでは布を裂く刃。四天王の名は子どもの耳を切る。誰もその音を口に載せない。


面接の場は「星紡ぎの館」。薄い木香と乾いた紙の匂いが層を作り、静けさを栄養に立つ棟だ。壁一面に結界の編み目を模した格子が白く浮き、光が均し砂のように広がる。目に痛くもなく、湿り気のある暗さでもない。丁度いい角度で落ちてくる日。正面の長椅子にエララが座る。青銀の髪が流水の線を描き、真珠めいた肌に、黒曜石を焙った瞳が座を定める。ここに座る者は女王か処刑人か。視線にその問いが宿る。細く指を動かしただけで空気の密度が変わり、漂う星粒が一拍遅れる。竜姫の血が皮膚の下で笑う気配。牙は見せないが存在は覆い隠せない。


長机には帳簿と羽ペン、住民規約の巻物。隣に据えた水盤がひときわ冷える。飾りではない。波のない水面に映るのは容貌ではなく、目の前の者が欲する形。虚飾を剝がす簡素な魔具。アレスが許した数少ない歪み。この庭の調子を守るために必要と判断された道具で、エララは遠慮なく使う。


「心の準備から聞くわ。ここがどんな場で、あなたは何を差し出すのかしら」


声は柔らかいが、朝霧に足を踏み入れたときの冷えが舌に触る。最初に呼ばれたのは年嵩の男。日に焼けた頬に刻まれた皺、指に残る土の色。庭師。外の町では「トヴィロ」と呼ばれてきたという。背筋を正す所作に年季が宿り、視線は机の端に静かに落ちる。


「ここは……静かで、整っている。私は植栽の世話が得意でね。木の剪定、石垣の苔、手を入れすぎず、しかし放置もせずに保てます。差し出せるのは手間と時間。庭のことなら、誰にも引けを取らない自負がある」


枯れ木の年輪のような温かさが言葉に滲む。エララは頷き、水面を覗く。生垣の線がそろい、朝の光に影が斜めに並ぶ像。苔は踏まれない。欲は奉仕の方向を向く。


「規約は読んだ?」


「読みました。境界の苔に足を置かない。勝手に灯を増やさない。夜に歌をうたわない。外から物を持ち込むときは浄めを通す。それと、中央庭へは……」


「決められた通路だけ。踏み外した足跡は星の露でよく見えるの。雅なものは、壊される前に守る手が出るでしょう?」


唇の端に笑み。トヴィロの安堵の息が微かに鳴る。滴る星の光が枝先から落ち、彼の中の庭の理想像へ重なる幻がよぎる。エララは印を打つ。承認。彼の手はこの空間の均衡を護る手。男は頭を下げ、音もなく退く。危険の匂いはない。


二番目に呼ばれたのは若い娘。細い指で布を弄る癖。淡い金髪を布の下に隠すが、隠しきれない目の輝きが、扉の向こう――画室の方角へ滑る。今の時刻、アレスは配置図に向かう。筆の運びが木壁にリズムを伝える。鼓動に似た一定。


「名前は?」


「ミラ。仕立てと刺繍をしています。ここで暮らせるなら、衣の繕いも装飾も、責任を持ちます」


「あなたの目はどこへ行っているのかしら」


穏やかに、しかし針の鋭さで刺す。視線が揺れて戻る。水盤の像を見て、彼女は言葉を失う。中央の庭に長い影が一本立つ。背も腕もすらりと伸び、立ち姿が絵のように整う。その影が誰のものか、彼女はわかっている。


「中央の石柱に触れない決まり。覚えているわね」


説明は不要だ。エララはアレスの存在を石柱という語で暗示した。ミラは唇を噛み、頷く。


「はい、規約に」


「触れずに済む? 夜、灯を持って通路を外れて中央へ向かう足を、私は見過ごさない。とくに、中心の人影を見上げる目的で」


静かな沈黙が降りる。布の端をひねる音が異様に大きい。織り糸が裂ける前の抗いの音に聞こえる。エララは残酷さと端麗さを同居させた女だ。自分の感情すら庭木の枝のように剪り込む。伸びすぎた枝は切る。


「アレス様に……憧れるのは、皆と同じでは……」


「皆、ではないわ」


声に微かな振動。室温が一息下がり、呼気が白む。隅の竜の彫像の目孔に光が宿る。飾りだが、場の気配が彫像に血を通す。ミラの背筋が震え、彼女は手を下ろし、掌を上に向ける。懺悔の仕草。


「私は……見目の整ったものを見るのが好きです。アレス様は、目を奪う。でも、仕事はします。軽くない手で」


「美は重さを測る秤。あなたの手が軽いと見なされれば、風で飛ぶ布くずね」


承認の印を押す手を止め、別の帳面に小さな印。動線制限。星紡ぎの館に近い工房ではなく外縁の共同工房へ。中央庭の通路使用は制限時間内のみ。同伴者必須。純粋な追放は、アレスの掲げた「助ける」の理念とぶつかる。彼の理想の縁を外形で守りつつ、彼女は自分の縄張りを拡張する。見えない罠を張る。獲物は一撃で倒すために、長く準備する。


三番目は背に幼子を負った女。疲労と緊張が身体のどこかに塊を作る。指はひび割れ、爪に土が詰まり、髪は乱れても目は濁らない。礼は過不足なく、背の子が鼻を鳴らすと、すぐ小さく揺らして落ち着かせる。水盤に映るのは、柵に囲われた小さな畑、うずくまる子の眠り顔、濁った水を避けるような足取り。


「名は?」


「ロシェリア。縫紐も石拾いも、仕事なら何でも。子が病で……外の瘴気で悪くなって」


言葉がつかえる。外の空に雲が流れ、陰影が床に薄く敷かれ、消える。エララの耳に、遠い鐘の尾が残る。それは外界の町から届く痛みの信号だと言う者もいる。


「猛毒のゲルド。名は聞いた?」


エララは刃物を置くようにひそかに名を乗せる。ロシェリアは頷き、唇を結ぶ。


「村の池が黒くなって。飲んだ子が夜に泡を……」


ゲルドの毒は人の恐怖の色を帯びる。可視化された罪。弱さも短絡も救済の欲も、容易に掬い上げる。エララは息を吸い、吐く。部屋の気が「落ち着け」と告げる。


「ここではその名を記録にのみ残す。口にするたび、外の沼が近づく気がするから。規約を守ること――それは子の喉に毒を入れないために、水脈を整えるのと同じ。中央庭へは近づかない。夜の灯は家の中だけ。日の出前の洗濯は禁止。露は飾りであり祈りでもある」


ロシェリアは頭を垂れ、布の下から小さな声。


「守ります。子が息をする音だけで十分」


承認。割り当てる区域を丸で囲む。アレスのためでもあり、この世界の調和のためでもある。慈悲は時に同じ矢筒に収まる。


次の者、また次の者。恐れは人ごとに違い、欲する形も異なる。若い鍛冶は火花の軌跡を語り、老人はろうそくの高さに固執し、旅芸人は板の鳴りに耳を澄ます。彼らの言葉が、アレスの図面の余白に文字として降りる。エララは耳と目を総動員し、歪みになりそうな箇所に印。要注意。緩和。承認。再審査。


四番目の女は瓶と乾いた葉の匂いをまとって現れる。髪を高くまとめ、指に焦げ跡。薬師、名はリューネ。背からは控えめで確かな自信が立つ。水盤に映るのは緑の棚、刻印の小瓶、傍らの茶器の影。


「薬の調合ができます。外からの物は浄めを通し、揮発する毒は焼いてから瓶詰めに。効能一覧も作れる」


「茶器の影。誰に向けて?」


エララの問いで、リューネの喉が一瞬止まる。


「皆のために。……それと、この庭では香りのよい茶が必要と聞きました。アレス様が配合を……」


ああ、とエララの内側で音が鳴る。爪の裏に柔らかな果肉を押し込まれたような感覚。危うい。アレスは香りに敏感。葉の組み合わせ、一滴の甘露、湯の温度の差を、舌が記録する。彼の審美と合う香りを差し出す口元に、誰が手を添えるのかは重要だ。


「香りは眺めよ。鼻から入って心に触る眺め。侮れない」


椅子に浅く腰を掛け直し、上体を傾ける。空気がリューネの頬を撫で、薄皮にざわめきが走る。


「あなたの茶の香りは、人を呼ぶ?」


「……場合によっては」


「誰を?」


沈黙。水盤の棚が数枚揺れ、影が左右に行き来する。本物の技を求める気配が漂う。アレスの美に触れたい者は多い。すべてが敵ではない。敵に育つ芽と、庭に必要な芽を見誤れば、この庭は一夜で台無しになる。


「毒の扱いに長けているなら、境界の浄め場を任せるのが有効ね」


石を置く音。最初は軽く、のちに重みが土へ染みていく。浄め場は外縁。中央から遠いが要の場。ゲルドの毒を外から入れないための儀礼と器具、薬草と灰と水の管理。任せるのは信頼だけではない。鎖でもある。


「そこで香りは強くしない。弱い香りのほうが遠くまで届くことがある。香りは獣を招く。理解する?」


「はい」


ぶれない短い返答。自分の位置と役目を理解している。承認の印。別帳に小さく印。監視。動線を注視。


面接を続けながら、エララの耳は外の噂も拾う。風が運ぶさざ波の中に棘が混じる。幻影のシオンが東の監視塔を消した、と。見張りの男たちは、塔がどこにあったのか思い出せない、と。武闘のバルガスが石橋を拳で砕いた、と。川へ降りる道をシオンが目から奪って、対岸から笑い声だけが届いた、と。噂は真実の核を持つ虚飾であることが多い。ひとつずつ心の棚に置き、埃が積もる前に手入れして対策を練る。幻影はこの庭に手を伸ばす敵。全体の秩序を乱すものはすべて、敵。


扉の向こうに規則正しい足音。降りてきて止まる。アレスだ。彼が廊下に入るたび、星粒がわずかに動きを変える錯覚。彼はこの館の隅を嫌な角度から眺めない。常に光が紙に均一に落ちる位置を選ぶ。白い指が図面の端を押さえ、羽ペンの角度まで最適化される。立ち止まり、中を一瞥。エララの眉が一筋揺れる。竜が尾の先で水面を撫でるような気配。他の誰にもわからない。


「順調だね。ありがとう、エララ」


「あなたが描いた枠に、人の形を合わせているだけ。私の得意な遊びよ」


「遊びが上手い者は、仕事も上手い」


彼が微笑む。時間が透明な瓶に封じられる音。エララは一瞬、竜の本能を抑える手綱を緩めそうになる。立ち去ろうとしたとき、彼の指が紙の上で止まる。


「……この部屋、何と呼んでいたっけ」


首をかしげる。微笑の下で戸惑いが泡立つ。エララは目を細め、唇を開く。


「星紡ぎの館」


「ああ、そう。星紡ぎ。いい名だ。私がつけたっけ?」


「そう。あなたが。忘れるなら、何度でも教える」


彼は笑って頷き、去る。エララは指先をきつく握り、爪が掌に跡を刻むのを感じる。小さな空白。一分の隙もない天蓋にひびが予告線を引く。ひびを覆うためなら、庭木でも人でも容赦なく剪定する。もし美が裂けるなら、裂け目を縫う針は鋭く。


面接は続く。男は仕事を、女は暮らしを、子は背で目を光らせる。エララは星の幕の裏に立ち、恐怖という刃で秩序を彫る。彼女の恐怖は外の毒と違い、濁らない。光を反射して目を刺す。甘さはないが形を整える力になる。この力で彼女はアレスの周囲の音の高さすら規定する。


「最後にひとつ。ここで話してはいけない名がある。その音をここに置くのは、汚れた靴で中央庭を踏むのと同じ」


黒髪の内側で牙を隠して告げる。民は頷き、唇を硬く閉ざす。ゲルドの名。シオンの名。バルガスの名。疲れた唇の内で、それらの音を噛み砕いて飲み込む。


日が上がり、壁に差す光の温度がわずかに変わるころ、エララは面接の帳を閉じる。紙の香りが濃くなり、羽ペンの先に絡んだ疲労が親指に残る。外に出ると風が庭の角を撫でる。星の粒が看板に降り、今日の許可者の名が淡く浮かぶ。外縁へ目を遣る。浄め場の煙はまっすぐ上へ。編んだ籠が乾燥棚に整列。あの薬師の手は正しく動く。


エララは中央庭へ歩を向ける。通路は白石が弧を描き、足の置き場を教える。彼女はそれを外れない。内側で別の地図を広げながら。女の動線。アレスへ近づく視線の角度。笑い声の高さ。すべてに見えない柵。音の高さに柵。光の強さに柵。空気の流れに柵。恐怖という灯を心に下げ、夜道を足が自然に正しい道へ向くように。


池へ。白い鯉が日の線に沿って泳ぐ。水面が水盤のように彼女自身を映す。端整。自覚のある女は自己愛と他者へ向ける愛の境界を、意図的に混ぜることがある。エララはその混淆を嗜む。アレスへの愛は庭を覆う天蓋。他者への管理はその支柱。


手のひらで水を撫でる。冷たい。今日面接した者たちの像が水に重なり、薄れていく。導入は終わり。次は試練。外から毒、幻、拳が来る。ゲルドは毒を囲い込めず散らす恐れ。彼の毒は動物の体内よりも人の社交を好む。噂が毒を運ぶ。だから噂


「恐怖は刈り込み」


誰にともなく呟く。庭師は強い協力者になる。トヴィロの確かな手を思い出す。今日、承認された。枝の向きを見極め、形づくるべき空間を捉える目。そこに恐怖の鋏を入れれば、生垣は均等に揃う。


遠くで笛が短く鳴る。外縁の浄め場から、ゲルドに似た場の反応。背筋を正し、視線を上げる。天蓋に星の粒がまだわずか。昼は始まったばかり。


住民審査の帳は閉じても重い。その重さを片手で受け、もう片手で不可視の刃を握る。彼女の刃は血を好まない。血はこの庭の調子を汚す。眼と心を切る刃。円環の外へ出ようとする衝動の茎を、見えない刃で切る。微笑の裏で。柔らかな声の内側で。竜の影が伸びる。誰も気づかない。見えなさを誇り、誰にも渡さない。アレスの名を呼ぶ唇が彼の真正面に立つ日前に、すべてを整える。


館の戸が再び開く。遅れて来た者が息を切らして立つ。白い息が朝より濃い。粗野な身なりに、目だけが強い。バルガスを思わせる腕の太さ。武の匂い。エララは椅子へ戻る。面接は日が傾くまで続く。恐怖の糸を手繰りながら、別の糸を紡ぐ。ここは星降る箱庭。外は死の森。その境を、笑みで飾った鉄で固める。


「次の方。名前は?」


男が口を開く刹那、エララはさきほどアレスが見せた小さな空白のために、柵をもう一段高く積むと決める。彼の記憶に薄氷が張る可能性のために、誰より先に備える。備えは恐怖の兄弟。恐怖は愛の従者。従者は主人を裏切らない。


それらすべてを胸の深みに沈め、エララは「住民審査」という名の礼儀正しい狩猟を、今日も淡々と遂行しつづける。

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