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第4巻 第1章 王国の思惑(3)

「……影が落ちた?」

副将ガルドは手綱を引いた。額の汗が風に冷え、こめかみがわずかに疼く。


「雲じゃありません、閣下。影が……濃すぎます」

「幕が急に降りたみたいだ」

斥候が空を指さす。兵士たちがつられる。頭上の光は、誰かに無造作に切り取られた。正午の白が、刃物のように断ち切られる。


違和感が、一気に喉を塞ぐ。

見上げてしまう。見上げて、理解に時間が要った。


「鱗……?」

「銀……銀だ。でかい……盾だ、いや、盾どころじゃない」

「冗談を言うな。城壁くらいある」


一枚が人間の盾ほどの鱗。それが何百、何千。表面は鈍い銀の冷光。反射ではなく、内側から静かに滲む光。青空が薄膜の向こうに遠ざかる。


「竜だ……」

誰かが乾いた声を洩らした。合図みたいに三百が一斉に首を仰け反らせる。軍馬が揃って嘶く。訓練で叩き込まれた抑え方が、この場だけは役立たない。二十騎、三十騎と座の重心を失って横転。踏み潰される悲鳴も、足元の混沌も、視界の端にしか入らない。


巨大な影が大地を跨ぐ。翼が一度だけ息を吐く。風ではない。押し込まれる。胸骨の裏から押し広げられ、肺が縮む。空気の温度が半歩下がる。


「……エララ様、だと?」

「人じゃない。あれは……」


「黙れ」

ガルドは喉の底で言った。自分の声が掠れている。手袋越しの指先が冷える。柄を握る感覚が遠い。二十年の軍歴で磨いた肝が、砂浜みたいに崩れていく。


竜の目が、そこにいた。


金。縦に細い芯。視線が三百をひとつに束ね、針に通す。そこにある感情は、言葉の器に乗らない。怒りという名は軽い。もっと深い。ひどく冷えた井戸。侵犯に対する応答。


「……結界の外縁に砲列、敷いたのは我々だ」

副官が口の中で呟く。

「殿下の領域を……穿つ任務。報告書には、そう」

「十年分の積み重ねを」

誰かが続け、そこで言葉が途切れた。


「砲兵、射角修正!」

「無理だ、あの高さは!」

「距離は?」

「測れない! 空全部が……!」


喉の奥で低い音が始まる。音とも振動とも言い切れぬ何か。大地が共鳴し、骨が内側から震える。竜の咆哮だ、という認識だけが脊髄を走る。


「逃げろ」

「動けない……足が、動かない」

「誰か、殴ってくれ!」


銀竜の口が開いた。牙は人の背丈を越える。奥に、白が集まる。冬星をこすり合わせたみたいな白。熱はない。冷えた掌を頬に当てられたような感覚だけが増す。


ガルドは、最後の瞬間、ふと考えてしまう。

あの目。冷えた底に、別の色が混ざる。似ている。何かに酔う時の光に。


白が世界を塗り潰した。


消えたわけではない。形が変わる。昼の光が竜の喉奥で生まれた冷輝に塗り替わり、一切の色が剥がれ落ちる。残るのは白だけ。温度のない、感情のない、純白の欠落。


「……あれ、熱くない?」

「臭いがしない」

呟きがどこかで重なる。


白の舌が地を這う。爆ぜない。這う。霜が降りる速度で、低く。触れたものが消える。鎧も肉も骨も、悲鳴も余熱も残さない。さっきまで三十が立っていた地点に、踏み固められた土だけが平然と残る。


「うそだろ……」

誰かがその土を指差し、腰を抜かす。


理解に追いついた者から、崩れた。


「逃げろ、逃げろ、逃げろ!」

「隊列を――」

「隊列なんかもうない!」


三百が四散する。序列は崩壊した。将校が部下の背中を蹴る。古参が新兵の腕を引き剥がす。人間が剥がれ、動物だけが残る。


エララは上空でそれを眺める。


見下ろした。金の虹彩が小さな影を追う。感情はある。哀れみではない。躊躇でも。罪悪感は遠い。


「害虫」

ガルドの背後で誰かが無意識に呟いた。彼女自身の心音が、確かにそう告げるのを彼は聞く。


「アレス様の庭に、土足で」

「砲弾で境界を削った報いだ」

「十年の年月を、泥で汚して……」


「……黙れ」

ガルドは喉を絞り、空へ歯を食いしばった。言葉に形はない。ただ、胸の骨が軋む音だけが内側で鳴る。


翼が動いた。


左の翼が水平に薙ぐ。圧倒的な質量。先端が風を断ち、衝撃が地表を走る。「来るぞ!」と叫ぶ声は、風に押し潰された。五十が波に飲まれる。紙屑みたいに宙に舞い、重い甲冑ごと弾かれる。折れる音。木が倒れ、さらに誰かを圧す。悲鳴は短い。音と呼べる前にちぎれる。


「後方へ! 小隊ごとに分散!」

「右に回れ――うわっ!」


尾が旋回した。山の根の太さの尾が、地を這うように円を描く。密集して逃げるひと塊を、横からまとめてなぎ払う。湿った重い音が一度。風の向きが変わり、土煙が上がり、晴れたとき、人の形はどこにもない。


「……生きてるのか、俺」

ガルドは泥に這いつくばり、息を絞った。馬も兜も剣も失った。代わりに、見てしまう。飛ぶ背中。沈む腕。動かない肩。二十年並んだ仲間が、あの生き物の前では砂に変わる事実。


金の瞳が彼を射抜く。


立ち上がろうとして膝が泥に沈み、逃げ足はもつれる。顔を上げる。ただの障害物に向ける目ではない。もっと個別の記憶をなぞる目だ。侵犯者を一人ずつ確かめる庭師の目。


「……やめろ」

無音の声。唇が震えただけだった。


竜の喉がまた光る。


「第一魔法連隊、展開! ここだ、ここで線を作る!」

後方から号令が飛ぶ。声の主はソルヴェ。三十二名の術師が扇形に広がる足音が地面を震わせ、衣擦れの音が重なる。


「連隊長、照準は?」

「首の鱗の薄い部分。収束、解放は私の号令で。一点集中だ」

ソルヴェは短く切った言葉で隊を縫い合わせる。喉は乾いている。唇が蒼い者もいる。それでも足は止まらない。


「……俺たちで城壁だって溶かした」

「岩山も砕ける。いける。いけるさ」

「いけるとも」

励まし合う声が、熱を作る。目の前の異形を忘れるための、細い火。


短い詠唱が重なった。

「集め」

「束ね」

「照らせ」

無駄な言葉は削ぎ落とす。光が赤と青と金で混ざり、空気の温度が上がる。地面がわずかに波打つ。草が根こそぎ吹き飛ぶ。三十二の意思が一条に束ねられ、鱗の谷間を目指す。


竜は少しだけ首を傾けた。


「……見てる」

術師の一人が舌打ちする。「こっちを、見てる」


エララの胸のどこかがふっと灯る。蛍が集まって真昼の真似事をするような、健気。だがそれは愛ではない。別の、整った感情。


「アレス様、見ていらっしゃる」

彼女は小さく、誰にも届かない声で零した。唇が柔らかく結ばれ、次の瞬間に微笑む。微笑みは頬だけ、眼差しは氷。


今も彼の細い指は結界の糸を手繰っている。さっき傷ついた輪郭を、時間の縫い目で閉じていく。額の汗。眉の皺。彼が築いた空間が汚されたことへの静かな痛みを、胸に沈めたまま。


なら、片付けるだけ。


「解放!」

ソルヴェの叫び。光束が走り、喉元へ直線を描く。轟音。爆ぜる熱気。術師たちの足が一歩下がる。視界が煙で白む。


「効いたか!」

「静かに。まだだ」


煙が晴れる。見えたのは、傷ひとつない白銀。鱗の表面に、熱の揺らぎがうすく漂うだけ。体勢すら変わっていない。首の傾き、角度まで同じ。見下ろしている。三十二を、まとめて。


「……うそだ」

ソルヴェの喉から音がもつれ出る。次の手を浮かべようとした頭に、真っ白が落ちる。二十年分の積み木が、指先から滑り落ちる。


吐息が降りた。


笑いではない。溜め息とも違う。底で割れた氷の音に似た、薄い、深い息。


「もう少し、痕をつけてくれると思ったのに」

声は低い。穏やか。残酷が布に織り込まれている。


「アレス様の庭を汚したなら、せめて似合う足掻きくらい、見せてほしいところだね」

言い回しは淡い。けれど、背後にきしりと冷たいものが漏れた。にこり、と口元だけで笑い、翼の縁から白い霧のような冷気が滲む。


翼が垂直に立った。影が三十二をすっぽり覆う。ソルヴェは反射的に空を見る。落ちてくるのは翼。いや、天蓋。天そのもの。


「今だ、重装騎士突撃! 左から回り込め!」

別方向で隊長の声が裂ける。機を窺っていた百の鉄塊が、槍を揃え、土を蹴る。蹄の音が連なる。先端が銀腹を狙う。


竜は振り返らない。尾だけが、息と同じ自然さで弧を描いた。槍が百、鉄の塊が百、その一薙ぎでまとめて沈む。音は一つ。湿った重さを含む音。


土煙が上がり、すぐに消える。そこに、何もない。


再び術師へ。視線がソルヴェに止まる。


「まだいたの」

驚きの色。純粋。子どもが隠れていた虫を見つけたときの顔に似る。


「退け、散れ!」

ソルヴェは腰の剣を引き抜く。無意味だと分かっている。分かっていても、抜く。背後で消えた者たちの前で、鞘に収めたままでは立てない。


金の瞳が細くなる。光ではない何かが灯る。怒りではない。苛立ちでもない。もっと静かで、個別の、不快。


「目障り」

女の唇がわずかに動いた。音にならない。舌が歯の裏に触れる。次の瞬間、瞼がゆっくり閉じられ、開く。それだけで空気の温度がさらに一度下がる。


「アレス様が見たら、眉をひそめる」

吐かれた息にだけ名前が混ざった。次いで、かすかな笑み。翼の膜に薄氷のひびが広がるみたいな白が走る。


口が三度目に開く。


沈黙が、先に来た。

音がひとつずつ摘み取られる。兵の叫び、馬の嘶き、金属のこすれ、旗の布。数万の雑音が刈り込まれていく。庭師の指先みたいに、確実に。


最後のひと音が消えた瞬間、竜は動きを止める。翼を畳む。息を長く吐く。


眼下は赤。区画された陣の跡も、重ねられた盾の壁も、誇らしげな軍旗も、赤に沈む。赤と黒が混ざり、ところどころ鉄の欠片。形を失ったものは量になり、重さになり、大地の一部に変わる。


風が通る。

焦げ、鉄、土が混ざった匂いが鼻先を撫でる。彼女は目を閉じない。顔を背けない。風を受け、立つ。


「きれいになった」

誰に向けるでもない、ほとんど声にならない囁き。耳元で、氷の輪郭が細かく鳴る。


不快なものは消えた。アレスの庭を踏み荒らす全てが、消えた。彼の指が張った糸の内側に、侵入者はいない。喧噪も剣戟もない。彼の心を傷つけるものが、いまは、ない。


胸の奥で、固い塊が溶けていく。張った弦が緩むときの、少し高い音が内側で広がる。達成、とも違う。安堵とも違う。もっと、もっと原初に近い満ち足り。彼のそばにいるときにだけ満ちる、あの感覚に似る。いや、今はさらに澄んだ形だ。自分の手で、彼の代わりに、彼が汚れることを防いだのだから。


唇が短く動いた。言葉はすぐに溶け、熱だけが残る。


竜の形が解けはじめる。鱗の内側から光が退き、翼が縮む。骨が軋む。軋みは痛くない。馴染んだ音。初めて彼に会った日も、この音がした。


人の輪郭が現れる。銀の髪が肩に落ちる。白い肌が風を掬う。指が胸の前で組まれる。


エララは立った。血の海の縁に、白いドレスで。裾が赤を濡らし、彼女は気に留めない。視線はもう足元ではなく、前。


領域の中心を見る。幾重にも糸が張られた場所。彼がいる場所。


口元が、わずかに持ち上がる。笑顔。喜び、愛しさ、安堵。それらの上に、輪郭から一歩だけ外れた何かが乗る。理性の縁が薄く欠ける。


「帰ろう」

今度ははっきり、音になった。微笑みのまま、声だけが滑る。


歩き出す。血を踏む。瓦礫を踏む。かつて人であったものの上を、素足で、白い布を翻して。一歩ごとに赤が淡く足跡を作る。目は前だけを見ている。足元は見ない。振り返らない。


「アレス様」

名を呼ぶ。誰に聞かせるでもなく。息の温度にだけ色が乗る。

「待っていて……いや、待っていなくても、いい」

ひとりで頷いた。「そばに戻る。それで、足りる」


笑みが深くなる。


背後に、静寂だけが残った。


——


「おい、ガルド! ガルド!」

どこか遠くで声がした。泥に横たわる彼の耳に、世界の端の音のように届いた。返事はしない。喉が声を忘れている。


彼はただ、空を見た。そこにはもう、白い線の名残だけが薄く漂う。陽光が角度を変えて戻る。暖かさはまだ遠い。


「連隊長、退避を!」

ソルヴェに駆け寄る影があった。砂を踏む音が近づき、止まる。


「……見たか」

ソルヴェは剣を握ったまま、肩を上下させる。「王都の城壁でも、岩山でもない。あれは……」


「戦術の外にいる」

誰かが答えた。答えながら、膝が落ちる音がする。


「それでも、立ってたな。連隊長」

「立つしか、ないだろう」

ソルヴェは笑ってみせる。笑いは形だけ。目は乾いて、どこも見ていない。


「戻れ。生き残りを拾え。報告を繋げ。誰かが、この庭で何が起きたか、言葉にしなきゃいけない」

掠れた声が命令になる。命令は、まだ命令だ。


返事がいくつか重なる。重なって、散る。風に混ざる。鉄と土の匂いの向こうで、白い背が遠のいていくのを、誰も見ない。見た者は、目を閉じる。


「……アレス、様」

ガルドは泥の中で、空に向かって名を並べてみた。届くはずもない名。舌がその音の形を忘れかけている。


耳の奥で、まだ骨が鳴る。竜の低い唸りの余韻。大地の寒さ。太陽の角度。彼はそこでようやく、自分の手が震えていないことに気づく。震えは、どこか別の場所に移った。


赤い平原の上、白がゆっくり中心へ向かう。その背中が、庭の糸の向こう側へ溶けていく。


静寂が、ひと続きの布になった。空気は動く。風は吹く。匂いは鼻を刺す。それでも、そこにはもう、音がない。


庭は、片付いた。そういう景色。そういう温度。


誰も、反論しない。誰も、出来ない。

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