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第4巻 第1章 王国の思惑(2)

「……アレス?」


星の粉が降る。頭上の天蓋に沿って淡い光が脈打つのを、彼女は見上げて笑った。喉の奥でひとつ転がる笑み。足元の芝は一枚の布のように揃い、湖は切子の面を貼った鏡。大理石の縁に光が沿い、花壇は出しゃばらない色に揃えられている。


「また、細かく整えたのね。今夜の香りは……ここまで薄くするの、好きなんだ」


自分に言い聞かせるように囁いた。耳ではなく骨で鳴る音が、ふっと立つ。世界の骨組みがわずかに軋む感覚。冷たいひび。熱ではない。すっと皮膚が逆立つ。


「怒ってるの?」


湖面に映った自分の瞳孔が細く締まっていく。理性の水が、何かに飲まれる音。彼の怒りは、彼女の身体で別のものに変換される。


「誰が、あなたに……」


そこまで言って、歯茎に血の味。言葉はそこで切れる。笑いが喉の形だけで震え、音にならない。


石畳に映った星が、数を増す。銀鎖となって足首に絡む。エララは屈み、その鎖に指を滑らせた。撫でる仕草は恋人の肌に触れるのと同じ。けれど、触れているのは結界の皮膜——彼の作品。


「ねえ、道はどこ? あそこだよね」


指先で石の継ぎ目を探る。ゲートの位置を知っている。外に出る、ただひとつの細い管。内を汚さないための仕組み。普段なら息も潜めて通るところだが、今は違う。


「開けて。……開けて、内側」


甘い囁き。星の糸が震えた気配。胸の奥の弦が一段強く鳴る。彼から渡された鍵は、自分の内にある。


結界の皮が薄くなり、星が水に変わる。水に映る顔が、別の相に移る。


「アレスに、触れたの? 誰かが。歪めた? 醜い手で」


微笑んだ口元。背に冷気が滲む。衣がほどけ、星塵となって結界に吸い込まれる。肌が熱を脱ぎ、代わりに光の鱗が芽吹く。肩甲骨がひらく。膜が張る。筋は伸び、腱が張り、白い鉤爪が立ち上がる。王家の祖竜の形が、静かに、しかし確かな衝撃を伴って再起動する。


「外でやりなさい、エララ。内側を荒らすな」


井戸の底から響くような声。彼の声だと、身体が先に分かる。命令。内容が欲望とぴたりと重なっていく。


「うん。……わかってる。わたしはいい子。あなたのいい子。外でやる」


境界に掌——いや、薄い星柄の鱗を当てる。膜に指が自然に溶け、層が揺れる。抵抗はない。許可の手触り。彼の意志は閉じるにも開くにも均衡を最優先にする。エララの影は膜の向こうへ滑り、外の闇を絡め取って肥大化する。重さは内側に置き去り。すぐに外側にもひとつの身が生まれ、風と重力が別の仕組みで絡みつく。


初手、鼻に刺さる匂い。腐った葉脈、湿った土、古い血の鉄。内側ではただの暗緑だった森が、外へ出た途端、ぬめる触感とざらつきと棘に変わる。肺の概念を組み替える。空気は吸うものじゃない。従わせるものだ。喉の奥で星粒が共鳴する。


吼えるのだ。


光と圧と意思の混在。積まれていた枯枝が衝撃で弾け、霜が剥がれ落ちる。空の星が喉へ逆落としになり、吐息が白金の砂に変わって森を刺す。凍り、溶け、爆ぜ、霧の幕になる。


「報告! 結界の外、南東に大型反応! 数値、規格外!」


「星……降って……竜だ、竜がいる!」


金具の触れ、革の軋み。押し殺した声。黒地に銀糸の獅子。夜目にも浮く紋章。視覚遮蔽の機器、骨色の柱。森に馴染まない直線が、結界に見えない爪を当てる。


「結界をねじるつもり?」喉の低い声に、甘い毒を混ぜる。「今、触れたよね。あなたたち。あなたたち、あなたたち……」


鼻先で空気を嗅ぐ。汗の塩、冷えた油、焦げた羊皮紙、藍。全部がひとつの色名に収束する。濁り。彼の陰影の上に塗る資格などない。


理性は溶ける。残ったのは本能と、彼のために効率よく働く鋭い執着。


「指、から——」


吸う。星を集める。吐く。光は曲線を選ぶ。直線は似合わない。白金の旋条が地表に螺旋の溝を刻み、焦点の骨柱を根元で断つ。装置が共鳴し、術者の耳から血。野兎めいた短い悲鳴。


「防陣を——後退——っ、うわっ」


「動かないほうが賢い」


尾が閃き、夜を切る。地に軽く触れただけで、土の波が走り、根を巻き込みながら盛り上がる。退路は閉じた。ひとりずつ刻む気はない。彼に向けられた指の総数を減らすほうが先。


「アレスは、私のもの、なの」


吐息に紛らせて落とす。届かなくていい。言葉は粒になって内側に返る。


視界の隅で別の光。森の奥に隠れた別系統の陣。王都からの中継。口角がわずかに上がる。竜の顔の笑みは牙を見せる行為と同義。


「源を切れば、揺れは収まる。単純だね」


跳ぶ。質量が地を崩すほどの躯でも、境界の波紋を内へ返さない角度を知っている。翼の膜を微調整し、風を撫で、空を滑る。星の天蓋の外皮ぎりぎりを掠め、粗い空気だけを裂く。


「竜姫だ! 結界師に懐いたって噂の!」


「懐いた? 違うだろ、あれは……」


言葉は風で砂に変わる。選んだのだ。彼を。彼の景色を。選んだ結果なら、世界の支柱ひとつでも折る覚悟。


中継陣の中心に青い火。遠隔干渉。遠い塔の老人の顔が頭の片隅に浮かぶ。式の中に彼女を変数として入れようとする姿勢が滑稽。


「数字はね、アレスのものだけに従うの」


意味不明な甘さに自分で酔い、翼先に星を宿して夜を裂く。


ひと打ちで星屑の雨。内側の星は飾り。外の星は刃。唇より薄い刃が重なり、朽ち木を紙にし、陣の線を一本ずつ剥ぐ。壁に取り付いた術師が六つ祈りを重ねても、ひと息の刃に意味はない。刃は祈りを落とし、血の匂いが一瞬立つ。


「隊長、陣が……!」


「保て、保て! まだ逆位相が……」


「逆位相? いい言葉」


首を少し傾げる。逆位相。彼の景色を打ち消す波。泥。荒れ。喉を冷たさの極へ寄せ、吐く。氷の砂。石にひび。冷気が隙間へ潜り、内側から割る。遠くで誰かの舌打ちが背をくすぐる錯覚。


「アレス、見てて」


誰よりも彼に向けた言葉。甘く、滑らかに。彼が見ていると思うだけで、猛りは線を得る。廃墟ではない。彼の風景づくりの延長。醜さを許された場所へ押し込み、そこだけ徹底的に掃除する。


「エララ! やめろ、そこは——」


遠くから、現実的な叫び。忠告か悲鳴か。どちらでも同じ。


「やめない」


舌で牙を舐め、滑りを味わう。巨大な爪が地を抉り、土が舞い上がり、星屑とまざって黒い雪になる。


闇の質が変わる。彼女の目が明るいのではない。闇が透明になる。陰影の付け方を知らない陣は汚いだけ。苛立ちが舌の根に触れる。彼の怒りは整う。彼女の怒りは破壊の形で整え直す。


「どうして触ったの?」空気へ問う。「どうして、その手を伸ばしたの。汚れた爪で」


「命令だ……王の命だ! あの結界は王国のものに——国を救うために——」


「うるさい」


頭を振るだけで風が巻く。言い訳の名詞が口の中で砕ける。国。救う。べき。どれもここに置かない。


星雪が濃く降る。内側の繊細が外へ流れ、粗暴は入らない。一方通行。それが彼の作法。従うことが快楽。星片は刃であり布であり織機。森を織りなおす。スピカのように尖った粒が槍先に触れ、小さな音。痺れる手。落ちる槍。力は要らない。崩れは自重で起きる。


彼女は人を憎まない。憎むのは醜さ。人でも竜でも同じ。彼に触れる行いは最も醜い。だから、容赦という言葉は辞書から消す。代わりに「整える」を書き入れる。


「散開しろ! 散開だ!」


「散開、見せて。きれいに割れる?」


甘い声。毒の甘さ。痺れた脚がもつれ、倒れた兵の頭が機器の基部に当たる。符がずれ、波紋が広がり、陣の呼吸が乱れ、魔力が自分を焼く。短い悲鳴。乾いた安堵が胸に落ちる。


遠くで雷のような音。結界の皮膜が怒りに共鳴した震え。振り返る。内側が見える。星の調律を指先でなぞる彼。横顔。眉間の皺。麗しい。皺の原因は、外で磨り潰す。


「アレス。やる。見て。……見て」


祈りに近い囁き。命令ではない。求める視線の手触りだけで加速する。翼で星の道を夜に描く。先に見えるのは集結地点。斥候、指揮官、旗。布の質は良。色の組み合わせも悪くない。だから旗は燃やさない。彼なら麗しいものを残し、他を削る。


「撃て! 撃ち落とせ!」


矢が夜を切り、魔弾が弧を描く。弧は美しい。翼で撫でて消す。接触の瞬間、星屑は周波数を変え、飲み込む。光は光に溺れ、痕跡を残さない。静寂だけが沈む。


指揮官の目が揺らぐ。理性が一瞬戻り、一歩退く。生き延びるために美を捨てる速さ。今は、喉を裂かない。顎を少し上げ、指先で示す。


「ここは、設計された空間の外。あなたたちが勝手に触っていい場所。だから、ここで終える」


言葉が夜に馴染む。梢のさざめきが波になり、障壁の壁に触れる。閉じた楽園が微かに喜ぶ気配。外が削がれ、内は守られる。内側の庭に向けて微笑む。見えていなくてもいい。笑った事実が、記録になる。


「カイン、報告しろ! 予備の中継陣はまだか!」


「し、しかし……!」


「しかし、何だ!」


「竜姫の……目が、こちらを……!」


おかしい。目が合えば恐れる。正しい反応。彼女の瞳は夜の核。見たものの構造を変える。見られて耐えるのは、麗しいものだけ。彼らは、違う。


地を軽く叩く。土が鳴り、朽木が崩れる。驚いた虫たちが地表へ顔を出し、星屑を浴びる。小さな星の像になり、小渦を作って夜の模様を一瞬だけ変える。美しい。些細な美にも笑みを向ける余裕は手放さない。手放せば、彼にふさわしくない。怒りの中でも、美意識は壊さない。


「退け! 距離を取れ!」


「距離って、どれくらい?」


首を伸ばし、ゆっくり左右に振る。柔らかく流れる大きな首の線。視覚の恐怖は増幅される。知っている。彼なら理由を説明するだろう。彼女は感覚でやる。


足元でひとり崩れ落ちる。体温の匂いが舌に甘く絡む。その甘さを噛み殺す。今、不要。逃げて、陣形が崩れる。そこへ、呼吸を滑り込ませる。


中継陣の残骸へまっすぐ。脈動がまだある。遠い塔へ細い線が伸びる。覗かれる視線を覗き返す。怯えが時差を越えて波の味を変える。吸い、吐く。今度の吐息は、音も光も持たない。持たないからこそ、完璧に伝わる。残骸がふっと浮き、内側から崩れ、落ちる。


終わりだとは考えない。陰謀は層を持つ。王国は、一枚剥がれただけで退かない。知っている。だから、まだ続ける。星の尾を引きながら回頭し、森の奥へ視線。本丸の方角。


封じが低く唸る。内の空気がわずかに揺れる。彼の怒りの軋みが一段階薄まる。眉間の皺が少しだけほどけた気配。胸の空洞に温かいものが流れ込む。


「ねえ、アレス。もっと、教えて。どこを折れば、どこを潰せば、呼吸が楽になる?」


甘い独白。毒は自分にも回る。舌の先が痺れ、目尻に冷たい涙。落ちる前に蒸気になり、星の核に変わって夜に混じる。夜が、少しだけ彼のものになる。彼女のものでもある。


外で吼える星竜は、外壁沿いに影のように滑る。森の深部に未知の装置が潜むかもしれない。知らない術が構えられているかもしれない。根は深い。いい。深い根ほど、抜くときの感触がいい。想像だけで喉に笑いが宿る。その笑いに合わせて森がひとつ縮む。


誰かが祈り、誰かが泣き、誰かが命令する。どれも音。意味のないざわめき。消そう。消してあげる。翼がひと打。星屑が濃くなる。死の森にまた一本、星の河。河は外へだけ流れる。中は濡らさない。内側は清潔なまま。彼の庭。彼の意匠。怒りの痕跡は、外で洗い、外に捨てる。


自分の怒りが内へ鈍い汚れとして戻らないよう、気を遣うことも忘れていない。それを忘れない自分に、薄い笑み。理性の形をした執着で、世界を焼く。焼け跡すら整えて、彼に手渡す。彼は何て言うだろう。怒っている顔も、穏やかな顔も、どちらも好き。どちらも、彼女の視野の中心。


「行く」


ひとこと。自分に。世界に。封じに。喉の奥で星が集まる。呼気が方角を定める。目標が固まる。旗の影がかすかに震える。森の奥で、見えない背骨が一本軋む。


星竜が吼える。吼え声が夜の輪郭を塗り替え、骨組みを露わにする。世界がひと呼吸だけ短く震える。内側では、星の庭がほんの少しだけ輝度を上げる。怒りの火は外で燃えるように。彼の景色は内で揺らがないように。


動き出す。次の標的へ。彼の怒りの源へ。彼女の愛の燃料へ。影が黒に重なり、大きな刃になる。斬るべきものは多い。時間は少ない。なら、麗しく、速く。翼が答え、星が新しく生まれる音が夜に散る。

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