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第4巻 第1章 王国の思惑(4)

「……鉄錆の臭い」


 鼻腔を突く異臭に、アレスは顔をしかめる。

 夜風が結界の天蓋を撫でる。散らされた星砂が、かすかな鈴の音を庭に落とす。死の森を覆う結界の内側。そこは戦いの気配を微塵も感じさせない。砂紋は崩れず、白銀の細流は星の光を溶かして緩やかに巡る。


「少し、音がずれているな。今夜は不規則な乱流が多かった」


 水鏡の縁に片膝をつく。光の糸——極めて細い結界の筋を、指先で一本一本弾き直す。弦楽器の調律。震える糸が正しい音階に落ちる。眉間の皺がほどける。


「だが、すべては埃。正しい拭き方さえ知っていれば、床は光を取り戻す。……これで最後」


 最後の光糸に指をかける。冬の水のごとく冴えた音。一瞬、水面に影が滲む。

 そこへ、湿原の鉄分の匂いが風に乗って届いた。刺激的で、甘美。体液の温度と密度を連想させる重さ。結界の縁、見えない扉が開く。重く、迷いのない足音。


「お帰り、エララ」


 闇の奥。樹間から現れたのは巨大な影。龍の輪郭。黒曜の鱗は血で鈍い艶を帯びる。肩口から垂れ下がる翼膜。焦げ跡と引き裂かれた繊維。紅を差したように濡れた爪。滴り落ちる血の粒が、苔に星屑のごとく散る。呼気の熱が草の香を焦がす。


「ただいま戻ったわ、アレス。少し、派手にやりすぎたかしら」

「構わない。結界が浄化する。そのまま入ってくればいい」


 境界を跨いだ瞬間。それは溶けるように縮む。

 鱗は光の裂け目から逆流するように剥がれる。背骨の周りの筋肉の束が解かれ、骨格は人のものへ。翼は薄い雲に戻り、皮膜の縁は糸のごとく解れて風に紛れる。焼けた匂いも、噴き立つ血の蒸気も、結界の中で無害な甘露へと変換される。

 残されたのは、血に濡れた一人の女。


「よく掃除してくれた」


 長い髪は夜の瀝青。べっとりと張り付く赤。額にかかった髪が一筋、頬に貼り付く。白磁の肌。血が花びらのように滲む。溶けた琥珀に黒曜の星を閉じ込めた瞳。焦点はどこか熱に歪む。爪の間に乾きかけた血。黒い糸となって残り、足の甲にまで細い線を描く。


 惨憺たる姿のまま、まっすぐにアレスを見る。内側から溢れ出る呼吸を整えるように、胸の前で掌を組む。指の震え。恐れではない。戦いの昂ぶりが筋肉の中で火花を散らす。眼差しは一つの方向。彼しか見えないという宣言。


 肩にかかる髪の束に指を伸ばす。本能的な身振りではない。絡まった小さな棘の種を取り除く、職人の手。指が耳殻に触れる。冷たい光の糸が皮膚の上で音もなく震える。


「痛むところは? 爪、割れていないか」

「平気よ。あなたが触れてくれたら、もう痛くないもの」


 封じの中の水脈に合図を送る。遠くで細い流れが幾筋か合体し、足元に寄ってくる。冷たい水。血に熱を取られた肌には薬。膝をつき、細い布巾を取り出す。手首に残る血をすくうように拭う。指の節の間に残った黒ずみ。爪の縁に沿って。手首から肘、肘から肩へ。皮膚に鳥肌が立つ。呼吸が不規則になる。疲労の徴候。


「アレス、ねえ、私、上手くできたでしょう? 全部、あなたの言う通りに。あなたの庭に似合わない音は、消したわ。あなたを見た眼も、もうない」


 言葉の裏に潜む毒を知らない。知ろうともしない。形と音と香のバランス。心の凶器は表面に出ない限り存在しない。髪をそっと束ね、水を通す。血が水に溶けて流れる。水面は嫌うことなく受け入れる。光の欠片に変えて底に沈める。


「この縁石の線、明日、少し位置を変えようと思う。風の通りが、ほんの少しだけ重い気がしてね」


 目を伏せ、嬉しそうに笑う。笑顔にまた血が動く。頬に新しい筋。舌で舐め取り、甘やかに息を吐く。


 水の流れを止める。布巾を洗ってよく絞る。遠くでまだ燻っている王国の焚き火の匂い。今夜、王国は確かに牙を剥いた。陰謀は形を変え、もっと深いところに潜る。だが、障壁の内側は理想通りの形を保ったまま朝を迎える。


 遠く、障壁の外で風が木々を揺さぶる。赤い焚き火はほとんど消える。煙は空の高みに薄く伸びる。夜は深い。しかし、結界の中には、夜とは別の時間が流れる。星砂は雪のように降る。白砂は凪いだ海のように静まり返る。


「さて、仕上げだ。横になっていろ。夜のあいだ、風と星は、私が見ておく」


 素直に薄布の上に横たわる。髪は、濡れた黒繻子のように広がる。目を閉じ、一瞬だけ眠りに落ちるふり。長く続かない。目を閉じたまま、唇に薄い笑みを浮かべる。気配はすぐそこ。砂に櫛を入れる音。懐かしい子守歌のように夜に溶ける。


 砂の縁に櫛を立てる。慎重に一本の線を引く。砂は音もなく割れ、線は光を帯びる。引かれたその線は、風の通路になり、香の運び手になり、夜の温度の調整役になる。一度も振り返らない。背後で、呼吸が落ち着いていくのを感じながら、線を完成させる。


 星砂が舞い続ける。封じの上空は、永遠のように澄んでいる。血の匂いは薄れ、新しい朝の気配が夜の端に滲む。同じ静寂を共有している。だが、その静寂に同じ意味を見ているわけではない。ただ美のために。ただ彼のために。


 血塗れのまま微笑んで帰還した夜。称賛は狂気を撫で、狂気は美を磨く。やがて来る次の夜も、きっと同じように星が降る。枯山水の線を引き直し、また、よく掃除をする。褒めるだろう。よく掃除してくれた、と。笑う。血の味を蜜に変えながら。

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