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第3巻 第5章 竜姫の誓い(4)

白く乾いた昼光が、死の森の縁に張り出した巨大な半球で砕かれ、細かい煌めきへと散った。透明ではない。水晶の層に薄霧が寄り、細い縫い目が幾重にも織り込まれている。繭の内側に小さな宇宙が閉じ込められたかの錯覚。風が触れれば鈴が鳴り、矢が触れれば尾を引く光に変わって消える。


「……防壁じゃないな。あれ、庭だ」と塹壕の兵が呟く。「吐く息まで、勝手に並べられる」


 ガイウス将軍は汗を拭かず、遠眼鏡に目を当てた。結界の中の森は刈り込まれ、病んだ苔まで左右対称に揃えられている。銀の粉が木漏れ日の代わりに降り、夜でもないのに星が落ちている。


 奥歯を軋ませる音が、歯の根に残った。


「第二投射隊、装填完了! 三連射で押します!」


 副官の声が乾いた空気を切った。


「押す面がない」と近くの老兵が、旗竿を握りしめながら笑う。「面が全部、丸い」


「撃て」


 命を放った瞬間、大投石機の腕木が唸り、魔鋼で包んだ巨岩が弧を描く。次の刹那、結界に触れた岩は薄い皿を割る澄んだ音を立てて細片となり、光の糸へとほどけて空に吸い込まれた。鉄の渋みが舌から消える。残るのは甘い息と薄い金属の香り。


「……冗談だろ」と弓兵の誰かが言葉を失う。「岩が、砂糖みたいに」


 矢の雨が続く。だが空中のどこかで軌道が曲げられていた。矢は流れに沿って束になり、花のようにほどけて消える。


「ここで、矢が曲がる。見えない川があります」と見張りの少年が口にした。「外なのに」


「馬鹿な」


 ガイウスの声は自分の耳にも薄かった。


「報告!」別の伝令が駆け込む。「魔術隊、第一陣の解呪完了のはずが、反動で七名倒れました。精神の乱れ、確認」「破魔符の残弾、尽きかけ。結界の縫い目が増えている。陣形が……こちらの術式を真似してきます!」


 副官が前線地図を持ってくる。黒い点線だった「境界」が、細かい星形で塗りつぶされていた。現実に合わせて地図が遅れていく。陣幕の杭の一本が勝手に削がれ、磨かれた白木へと変わって芝生に沈む。悲鳴。手が離れる。天幕がじわりと勝手に位置を直す。


「第三歩兵隊、間合い空けろ! 前へ出るな、地面が動く!」


「飛竜一番隊、旋回……風が曲がってる! 角、取れねぇ!」


 旗は立たない。布はどの方向にも支えられず、ひらひらと迷う。戦場で旗が迷う。それだけで喉が渇く。


 空の高み、硝子の薄膜の向こうを、黒い影がかすめた。長い翼、曲がる尾。竜。すぐに霞に解けたが、鱗の擦れる低い音だけが胃の奥に張り付く。


「……竜姫だと? 本当に」と弩兵が吐き出す。


「呼ぶな」と先任が小声で制した。「名前を口にすると、声が狂う」


 ガイウスは副官の肩から声を受け取る。


「前衛の被害、二百七十七負傷。半数が魔術的反動。第二投射隊は器械三基破損、隊長重体。飛竜一番隊は飛べず、二番隊は方向感覚を失っています」


「後送は」


「野戦病院、足りません。瘴気の漏れは、今のところなし」


「なし、ね。見えない毒なら、もう吸っている」


 彼は黒檀の小箱に手を伸ばした。冷たい金属。王家の刻印。条令では戦域での開封は禁じられている。


 監察官が一歩前へ。「将軍、開ければ——」


 ガイウスは目だけで止め、錠を外した。没薬と鉄と古い書皮が混じる匂いが立つ。記憶を掻き回す臭い。


「将軍、それは……禁……」


「わかっている。だがこのままでは、兵は風景に押し込められて終わる」


「王命は大魔術の使用を禁じ——」


「王命は、勝てという意味だ」


 彼は薄い金箔の符を取り、王印の黒蝋を砕く。空気が重くなった。地の下で眠る何かが目を開ける圧力。兵が膝に手をつく。耳の底で水の音が始まり、結界の星がいっそう眩しくなる。


「大魔術の準備。名は——」


 喉奥で声がひとつ跳ねた。


「落星葬。対象、結界全域。縫い目を切り、星の軌道を逆に。詠唱は第三まで、四唱は——」


「第四は地形ごと崩す。危険です」


「承知の上」


 参謀たちは言葉を飲んだ。紫の衣を着た王城の連中の顔が脳裏をよぎる。それでも、彼は目の前の肩の重さを優先した。


「魔術大隊、配置。十二点の陣柱を立てる。錐形に掘るな、丸く磨け。美の規則に従え。奴の……好みを利用する」


 魔術師が顔を見合わせる。「丸く?」と若い一人が問う。


「粗く打てば、あの庭が勝手に整える。整えられる前に、こちらで整えるんだ。円は円を許す。円の連なりは中心を暴く」


「詠唱隊、心拍合わせ。恐れは声を乱す。乱れれば星も乱れる。——全員聞け。禁呪だ。帰れば罰は免れない。だが、お前たちは見たろう。磨かれて形を奪われる兵の顔を。私はその顔を王城の石に擦り付けない」


 言葉は短い。だが熱は骨に入った。


「監察使は?」副官が問う。


「見ろ。目を逸らすな、とだけ伝えろ」


 鈴がまた鳴る。結界の表に細いひびが走り、すぐに縫われた。星は降り続ける。


「詠唱開始。第一唱——空を逆さに。落ちるものを宙に留める」


 声が重なる。陣柱を撫でる音が砂を揃え、結界内の星が一瞬止まる。


「おい、空、止まったか?」と兵が空を指差す。


「いや、止まって見えるだけだ」と弓兵が言い返す。「雲の端だけ、違う速さ」


 ガイウスは遠眼鏡を捨て、測紐で柱間を測った。節は五、八、十三で打ってある。古い数。森の表に走る規則は、その数を骨にしている。


「角度、〇・二下げろ! 東南二柱、肩を入れろ、傾いてる。縁は削るな、面取りするな、丸いまま!」


「丸い……」「丸く磨け……」


 現場の怒号と復唱が、作業の手を速くする。


「詠唱隊、膝。舌に符粉。手首に浅く」


「母音が濁るぞ、舌の位置上げろ。四拍で吸って八拍で吐け」副隊長が、歌い手のように口の形を示す。


「息、合わせ。グンター、速い。——顎は固定、鼻梁の高さ」


 呼吸が合い、地面の下で薄い風が生まれる。磨かれた丸穴は空気の川になり、渦を立てた。渦の縁に光が集まる。昼の白に薄墨が差し、空の色がじわじわ変わる。油膜の虹が伸び、鈍い鋼の色が広がる。


「空が変わる……」と新人が言い、先任が肩を叩いた。「見るな。見ると酔う」


「第二唱——留めよ。留めよ」


 言葉の骨だけが飛ぶ。星が一瞬ためらう。結界の紋が滲み、縫い目が呼吸を始める。整え直す瞬間に、楔を入れる。


「北東六番、縁が欠ける。磨け! 角を消せ! 丸さで切れ!」


 命令は熱いが内容は冷たい。陣柱の間に張った銀糸が目に見える音を奏で、砂鉄が渦と円を描く。節ごとに置いた水盆の水面は音もなく震え、逆位相で波紋を殺す。


「耳が……詰まる!」


「頭下げるな! 喉を畳むな!」


 兵は姿勢を保った。汗が背骨を伝う。尻の下の土が椀になる。椀は受ける。見えない何かが流れ込む。空は止まり、止まらない。遠い稜線の緑がひっくり返るように色を変え、微細な光が雨になって横滑りで消える。


「第三節。声は真ん中。四分の一、上げる」


 ガイウスが耳の高さに手を上げ、指先で空気の重さを感じ取る。指を少し揺らすたびに砂が動く。足下の星形が光沢を帯び、自分たちの陣形が庭の美に取り込まれかける。取り込まれる前に中心を掴む。


「将軍、監察使が——」


「黙れ。見ろ」


 監察官は蝋板に筆記を忘れ、口を開けたまま呼吸を忘れる。恐怖の色が同じ高さで並ぶ。


「……見たか」


 ガイウスは独り言のように言った。縫い目の脈がこちらの拍に合う瞬間。狙いはそこだ。指先の皮膚が薄く焼ける。嬉しい、と体が勝手に判断する。痛みは現実だ。


「将軍、空が変わり切ります」


 副官の声は震える。空は金属の青。油膜の虹が幾重にも走る。太陽が薄布越しに淡く、白い輪が現れては消える。輪が増えるたびに耳の奥の圧が増す。口が勝手に母音を形にしようとする。


「良い。空が変わるのは、俺たちが空を変えている証拠だ。ここは奴の……造られた空間だ。だが、空は掴む。天を逆さにすれば、地は崩れる」


 理屈の跳躍。だが現場の操作系はそれで動く。


「兵、十五歩後退。膝を折るな。背を曲げるな。背骨は一本の弦だ、たわむな」


 返事は掠れて揃う。足音は滑る。吐いた胆汁はすぐ糸になって砂に吸われた。


 詠唱が第二唱の終わりに近づく。胸郭に小さな槌が連打される感覚。肋骨の間に紙が挟まって鳴る。頬の産毛が打撃に合わせて揺れる。視界の縁で光が滲む。その滲みに、翼と尾の影が一瞬走った。


「第二唱、終結。保持」


 副隊長の一本の声が全てを繋ぎ止めた。陣柱の上に薄い結露が生じ、すぐ乾く。乾いた縁の虹が震える。星は動作を再開するが、遅い。重い。落ち切る前に空に吸われそうになり、また落ちる。


「第三唱に備えろ。声を震わせるな。——今の空の色、忘れるな。全員、その色を王城まで持ち帰れ」


 命令が熱を帯びる。封じの奥から細い鈴の音が一瞬して、押し潰された。星は降り、降り切れない。胎動が形になっていく。


 合図は言葉ではなく骨だ。ガイウスが手首を返す。銀糸がうねり、水盆の面がいっせいに凪ぐ。舌に載せた金箔は冷えて舌根に貼り付き、震えを伝える。


「大詠、主音。母音は中央。破裂音は奥で殺す。胸で歌うな、背骨で鳴らせ」


 低く広い丸い音が地に沈み、穴も椀も受け止めた。音は形を得て、見えない輪がさらに外に立ち上がる。空の虹の縁がそこで引っかかる。太陽の刺が骨に触れる。


「音、上げる。四分の一、さらに半分。……いま」


 詠唱者は喉ではなく背筋と骨盤の間の見えない管で音を通す。外套の裾は揺れない。風は内側だけを吹く。血が膝に一滴落ち、瞬時に吸われる。


 空は完全に色を変えた。鈍い鋼の頁がめくられ、油膜の虹が輪になる。輪は十、十二、十五。節に呼応して増え、森の星がわずかに躊躇う。皮膜がぴんと張り、内側からかすかに膨らむ。


 内側。アレスは目を閉じた。指先で苔むした石の縁を撫でる。冷え、湿り、凹みの温度差。小庭の池に落ちる星雨が呼吸と同期し、星粒ひとつひとつが縫い目の目印になる。外の圧で薄い膜が撓み、戻らない一点が生まれた。そこに、丸い楔が入りかける。


 彼は目だけで「理解する」と言った。美の性質を見抜いてくる手だ。正しい手つき。だからこそ、防ぐ価値がある。


「空を掴もうとしている。なら、こちらは緯を増やす。縫い目の数を、倍に」


 唇は動かさない。声は庭の内側にだけ転がる微音。白砂の紋がひとつ増え、またひとつ増える。糸は細い。脆い。そのかわり数で支える。応急。綺麗な顔に走る針の痕のようなもの。彼はそれを選ぶ。完全をいったん外す。その代わりに守る。


「アレス」


 雨のような声。エララが背に降りた。人の形。肩甲骨の間に羽の名残、半透明の爪が光る。舌の奥に金属が燃える匂い。喉が小さく鳴る。瞳は彼だけを見る。外から整えられた力が押し寄せ、唇が細く結ばれた。


「誰。あなたの空に触ろうとする人、誰」


「触れてはいない。まだ、触れようとしている」


 アレスは手を上げ、空の曲率をくすぐるように撫でた。世界は彼の掌の厚みを覚えている。余剰の力をそこに集め、真円をほんのわずかに楕円へずらす。不完全を敢えて残す。彼は今、それを選ぶ。受け入れることで守る。


 エララが、音のない笑みを浮かべる。目は笑って、肌の上、肩口にだけ冷気が立つ。彼女の背で、目に見えない鱗が一枚、静かに起きた。


「アレス様、あの声……消したくなる。耳の奥、ざらつくの。……指先、一本だけなら」


 囁きながら、彼女は何も握らない手をそっと握り、そっと開く。掌から漏れた冷たい蒸気が、池の面を薄く凍らせた。


「まだだ。まだ、彼らは芸を持っている。美を持つ者は、まだ斬らない。粗くなった瞬間だ」


 エララは短く息を吐いた。笑みは消え、瞬きの間だけ牙が覗く。肩甲骨の間の羽の名残がきゅっと寄る。次の瞬間、彼女は何もなかったように目を伏せた。


「アレス様、あなたが言うなら。——けれど、あの輪、いや。見ているだけで、内側が冷える」


「輪は刃ではない。押すだけだ。押し潰される前に、曲げる」


 外では、輪が重なって筒になっていく。上下を失い、天地が一つの管で繋がれる。管の内側を古い数が滑る。五、八、十三。陣から響く節と同じ。アレスは顎に力を込め、薄い血の味で正気に戻る。


「主音、保て! 副旋律、上げろ! 銀糸、待て——いま、角度〇・三下げ。北北西二柱、膝入れ!」


 ガイウスの声は冷たい。彼は中心で指先だけを動かし、巨大な機構を回す。紐の節が空の輪の数と一致した瞬間、砂の星が裏返る。砂鉄が走り、水盆に黒い一本が立つ。鼓膜は鳴らないのに痛む。歯の根が合わない。歯の中の炭酸塩が震える。


「耳塞ぐな! 骨が割れる!」


 副隊長の怒号が戻る。泣きそうな顔。涙が出ない。水は歌に取られている。血の水も、目の水も、同じ川だ。川は空へ上り、空は管を通って地へ降りる。自然ではない循環。人の手の温度の循環。


 庭の表面が動いた。透明な皮膜に白い線が走る。裂け目ではない。張力の筋。筋が震え、移動する。星が筋に沿って遅れ、筋が通るときだけ落下がわずかに速い。縫い目が痙攣し、その瞬間に丸い楔が押し当てられる。


 監察官はそれを見て指を止めた。肺が働きを忘れ、胸の中で何かが膨らんだまま。恐怖が均される。配られる。彼は吐き気に身を折るが、吐けない。吐き気も歌に取られている。


「来る。天が来る。——副詠、絶つな。拍は俺が取る。三、二、」


 ガイウスが手を上げた。指の影が地に落ち、砂がそこに集まる。全員が呼吸を止める。誰も「止めろ」と言っていないのに、止まる。肺の空気も血の空気も、いまは一本の管に入っている。動けば、管が歪む。


 内側で、アレスは指先の微小な震えを止めた。余韻だけを膜に渡す。曲面に細い波が走る。否定ではない、最小の揺らぎ。星図の一点を見据え、縫い目の呼吸を一つ飛ばす。飛ばした息が世界に薄い落差を作り、楔の道がわずかにずれる。誤差。救い。綺麗ではないが、いまはそれでいい。


「アレス」


 エララがそっと袖を摘む。爪は触れない。指先の冷たさだけが布を伝って、彼の皮膚へ。


「……あなたが決めるなら、私、待つ。けど、次に、ね」


 その「次」という一音で、背後の石灯籠に細い氷の筋が入った。彼女はにこりと微笑み、氷はひびの形だけ残して消える。


 空の輪が重なり切った。中央に透明な点が生まれる。色を持たない点。光も、音も、熱も、匂いも、汗も、視線も、言葉も、そこに傾く。


「一」


 ガイウスの口が形を作る。声は出さない。手はまだ落ちない。落とせば、世界が一つ増える。増えた分、何かが欠ける。その欠けを美と呼ぶ者もいる。彼はその美が嫌いだ。欠けすら計算に入れるやり方を選ぶ。この一撃は、欠けを野放しにしないためのもの。


 兵の膝が石になる。骨盤が石臼の輪になる。頭蓋が鈴になる。詠唱者の舌が金属板になって口内に固定される。金箔が溶け、血と混じって赤金になる。陣柱に霞のような結露が再び生まれ、今度は乾かない。「乾く」が、この世界から一瞬奪われる。


 庭の皮膜が薄く震えた。波紋が等間隔の筋に解け、星が筋に乗って止まる。止まったまま光り続ける。美の残酷。アレスの背に冷汗が一本走り、そこで止まる。汗は流れることを忘れ、皮膚で丸い珠になる。丸と丸が触れる。曲率の勝負。外の楔の丸さと、内の珠の丸さ。


「零」


 声はない。だが、全員が聞いた。口の形だけが「零」を言う。点が呼吸を止め、音がないという音が世界に張る。破滅の一撃は、まだ放たれていない。だが、放たれた後の静けさが先に来た。


 風が止まり、光が止まり、星が止まる。鈴の音は耳の内側の記憶へ退く。エララの鼻孔から熱が細い糸で漏れる。アレスの指先の皮膚が白くなり、光幕の縁の曲率が限界まで上がる。内と外、上と下、円と円。すべての対が重なり、重ならず、重なろうとする。


 まだ、落ちない。世界は息を止め、刃の影だけを受けている。


 次の拍で、すべてが決まる。

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