第3巻 第5章 竜姫の誓い(5)
結界の天は、曇りひとつない青さを写し込んだ碗の内側のように、どこまでも静謐を保つ。
高度に編まれた術式の糸が、朝の光を鋼糸めいて細く反射し、風はその内壁に触れるたび、絵描きの筆先で撫でられたように柔らかく流れを変えた。死の森と呼ばれた黒い樹海は、いまやその名を塗り替えられている。毒霧は濾過され、腐った葉は丁寧に分解され、土は粒立ちの整った瑞々しさを獲得した。光も音も匂いも、すべてが均衡の中に置かれている。ここは外界の穢れを一切許さない閉じた楽園であり、彼が心血を注いで作り上げた絶対の領域。ゆえに、いかなる綻びも許されない。
アレスは庭の中央、白亜の小 pavilion で膝をつき、指先ほどの小さな苔をピンセットで摘まみ上げる。苔の面はきめ細かく、表面張力に拘泥するように、朝露が一粒、宝玉のごとく光を留めている。その一粒が落ちる角度、落ちたあとの波紋が隣の砂紋に与える影響、砂紋が光に描き出す濃淡の律動、それらすべてが彼の頭の中では等式となり、調和の式に置き換えられる。
「あと半度……そう。最後の一滴が、午後の陽に銀に転ぶように」
独白は吐息に等しい。彼にとって庭は語り相手であり、彼自身の肉体より正確で信頼できる器官でもあった。砂は呼吸し、石は記憶し、水は歌い、花々は微細な頷きで応える。彼はそれらを聴き、撫で、調律する。均衡を作る者の責務であり、歓び。ほんのわずかな不均衡、砂一粒の配置の狂いすら、彼の美意識は決して許容しない。
その時だ――空気の奥底で、金属と骨と星図を一度に擦り合わせたような音が、微かに、しかし否応なく鳴った。アレスは手を止め、顔を上げた。結界の天の高み、透明に見えた膜の彼方に、銀白の円環が虹彩のごとく広がりつつある。遠い雷鳴。いや、自然の雷ではない。人為的に編み上げられた巨大な術式が、空間を軋ませて鳴る音だ。
耳を澄ますまでもなく、彼の結界は異物の接近を告げる。緯線と経線のように張り巡らされた術式の糸に、見知らぬ振動が触れ、読み取れぬ語彙で囁く。それは王国軍の大規模術式が反応場を作り上げる時に特有の前哨音――万の詠唱が重ねられ、儀礼の鈴が鳴り、羅針の針が震える。彼はわずかに眉をひそめ、苔を置いた。ピンセットを台に戻す音すら、彼の耳には大きく響いた。
「来るのね」
背後で、音より先に温度が変わる。彼女の存在は空気を甘くし、同時に鋼の匂いを混ぜ込む。エララが、静かな足取りで近づいた。竜姫――地上のどの華よりも危険なほど目を奪う姿を纏う生き物。白い裳の裾が、花弁に触れぬよう寸分違わず揺れる様子にも、彼女の偏執めいた注意深さが見えた。彼女はアレスの隣に跪き、丹念に整えられた庭を、そして異変の兆しを見せる空を鋭い視線で見上げる。
「王都の方向。距離は、昨夜より詰めてきてる。馬鹿みたいに大きな陣形。あれ、わたし嫌い」
アレスは静かに頷く。単なる嫌悪という言葉だけでは到底表現しきれない、極めて質の悪い不協和音が空間を汚染し始めている。円環の外周に沿って小さな星が点じられ、線で結ばれていく。地上で整然と並んだ軍勢――魔術院の塔ごと運び出したような迂闊な威容――が、同時に同じ呪を唱える。音程と拍は計算され、彼の結界に干渉するための位相がなぞられる。
「見覚えのある構成だ。こういう干渉の仕方は、王都の古い連接式。誰かが、内側の構造に触れたことがあるのかもしれない」
「……盗られた?」
その声は柔らかいのに、底に冷たい刃が仕込まれている。エララは笑わないまま、笑う時の形に唇だけを動かした。
「アレスのものに勝手に触る手は、全部もいでしまえばいいのよ。ううん、手だけじゃ足りない。肩から先を、綺麗に、ね」
アレスは軽く肩をすくめる。彼女の血生臭く過激な言い回しは、今に始まったことではない。問題は本質だ――結界の構造に、彼らがこちらの言語で触れてきているという事実。鳥にとって透明の窓ガラスは透明でしかないが、今は違う。意図的に角度を合わせ、こちらが見せた反射まで計算して割り込もうとしている。
「誰が図面を持っているかまでは、まだ分からない。だが、あの振動数は古い規格だ。錆びた鍵で、宝石箱をこじ開けようとしている。可笑しいだろう?」
「可笑しくない。腹が立つ」
エララが苛立たしげに葡萄色の瞳を細める。彼女の黒髪が、結界の光を受けて海藻のように青く揺れ、薄い鱗のきらめきが一瞬、瞼の裏側に透けた。駄々をこねる子どもの仕草と、山脈が動くような威圧感を両立させるのが彼女の本質だ。
円環に宿る光彩が、やがて螺旋を描いて一点に集束した。大陸の高空で黒点のようにうごめく翼の群れ――王国軍の魔導兵器が運ぶ媒介石の群れ――が、光に飲み込まれる。詠唱が頂点に達し、短い沈黙が訪れた。
瞬間、世界の色が変わった。音が走る前に、光が落ちた。白い。白すぎる。色彩の情報をブリーチしたように、全ての輪郭が紙の切り抜きに変わり、影が消える。フロストガラス越しの太陽のような、しかし容赦のない直打の光。それが彼の結界に、正確な角度で突き刺さっている。
音が後から遅れて到達する。腹の底を巨大な握り拳で直接殴りつけられたかのような、圧倒的な重低音。地の骨組みが軋み、その軋みが結界の系に乗って震えた。アレスは既に立ち上がり、両手を前に出している。封じに触れる術式の波形を読み、その並びをわずかにねじる。砂丘に吹く風のひだを、掌で撫でるように。押し寄せる津波を、海岸線の形だけでやり過ごすように。彼の結界は応えた。光は舌のように巻かれ、偏向され、音は泡立つ水のように散らされた。
しかし、完全ではない。いや、守るべくは守られた。命はひとつとして失われない。樹木一本、枝先の柔毛に至るまで、熱と衝撃は測定値の下に管理された。ただ――その余波が、思いもよらぬ場所へ逃げてしまっている。
石組みの花壇。南側斜面を階段状に切り取り、白石と青石を交互に積んで作った、彼が最も神経を使った一角。白石は海岸で拾った波打ち模様の石で、青石は月の光を吸い込む鉱石。小段ごとに土の粒径を変え、花の開花期を一週間ずつずらし、色のグラデーションが螺旋の黄金比をなぞるように設計してある。朝は薄青から始まり、正午に白が極点に立ち、夕には薄紅が霧のように沈む。
その中段、白から薄緑への移行を担っていた小さな段の石が、低く鳴いた。石は耐えたが、土が逃げた。計算外の振動が斜面の奥の地層に伝播し、砂の粒子が一瞬だけ液体のように解け、僅かな傾きが崩壊を呼ぶ。石の趾は土から外れ、積んだ角が噛み合いを失い、静謐だった構図がほんのわずかに、しかし致命的に歪む。
崩れは連鎖する。隣の段の端石が支えを失い、つつましい厚みの土が唇のようにめくれて、葉を抱いたまま滑り落ちる。薄緑の葉脈が可憐な「月雫草」が、根を露わにして空中で震え、次の瞬間、土の面に打ち付けられた。白い小花が無音で砕け、露が飛沫となって散った。ヒースの苦い匂い。潰れた茎が放つ青い匂い。
「……」
アレスの奥底で、堅牢に保たれていた何かが、一瞬にして黒く塗り潰される。頭の中の等式が、黒板に爪を立てられたように、ひっかかる音を立てる。彼は走った。砂紋を崩さない踏み方で、しかし力は籠る。不恰好に崩れた段に膝をつく。土の温度が膝を通じて伝わる。指先で、根にかかる土の重みをほんのすこし抜く。葉を立て、花を拾い上げる。無駄な動きは一つもなかったが、間に合わないものもある。小さな白い花弁が、彼の掌の上で崩れ、白砂の粉になって風に消えた。
「アレス」
エララの声音が劇的に変化する。先ほどまでの半ば戯れのような甘い調子は完全に消え失せ、底知れぬ深い場所で業火が産声を上げる音が響く。彼女はアレスの肩に触れ、血の気を引かせないように、しかしそこに力を込めて支えた。
「大丈夫。すぐ、直すから」
彼は無言を貫く。その視線は、無惨に崩れ去った花壇の一角に深く釘づけにされている。彼の世界の中で、唯一、正しく定めた曲線から外れてしまった場所。正午の白の極点は、今は斑に欠け、均衡を失っている。彼の掌の中で潰れた月雫草の匂いが、鋭い。幼い頃、都市の路地に咲いた野草に靴跡がついた日の記憶が、ありもしないはずの閑散とした空の色とともに蘇る。
「……汚い」
独白。彼の言葉が、砂の上に影を落とすように重く落ちる。エララはその言葉を聞いた瞬間、笑った。笑いは熱と氷でできている。彼女の瞳が爛々と光を宿す。
「ねえ、アレス。許せない、よね」
アレスは沈黙を保つ。彼は手の甲に付着した土を指先で静かに払い落とし、その土の粒を一つ残らず丁寧に元の地面へと還す。音のしない動作。呼吸だけがわずかに早い。障壁の外からは第二の光が来る。王国軍は間を置かない。連続の撃。彼らは内側の揺れが外に出ないことを知らない。あるいは、知らされていない。
「わたし、殺していい?」
囁きは柔らかい。恋人に朝の約束を取りに来る少女の声と同じ柔らかさ。しかし言葉の内容は、熱い鉛。アレスは、その鉛の温度で自身の感情の形を確認する。彼は顔を上げ、エララを見る。彼女はすでに変化を始めている。肌の下で金色の火が呼吸し、鎖骨の上で鱗の芽が光の粒子のように生まれては消える。爪が緩く尖り、髪は重力を忘れたように浮力を得て漂う。唇は相変わらず柔らかだが、その裏側には竜の顎がある。
「外だけを焼け」
短い言葉で、その奥にそれ以上の意味を含めて。エララはゆっくり瞬きをし、その妖艶な微笑をさらに深く刻み込む。
「わかってる。あなたの庭は、わたしの身体より大切。触れない。絶対に」
「絶対だ」
念押しは彼自身に向けてでもあった。怒りは彼にもある。美の破壊に対する嫌悪は、彼の心の底を鋼の棒で掻き回す。だが怒りは制御されねばならない。無垢な花を再び踏み散らすのは、敵ではなく彼ら自身になってしまうから。アレスは立ち上がり、無惨に崩れ落ちた段の前に両手をかざす。術式を組む。崩れた石の角度を見極め、土の粒径に合わせて水分の分配を調整し、根の位置を一ミリ単位で誘導する。微細な魔力の指が地中に伸び、網のように緩く張り巡らされる。突貫工事はしない。時間をかける。砂時計の砂をひっくり返すような真似はしない。彼は待てる。彼の庭は待ってくれる。
上空で、第二波の光が収束し、彼の障壁に触れる。今度は対策済みだ。彼は振動の流れを別の側に逃がす。山の古い脈を震わせ、結界の外周にある空隙に吸わせる。空隙は彼が最初から作っておいた、見えない緩衝帯だ。大魔術はそこで泡立ち、霜のように散る。その泡立ちの一部が、外側に噴き出す瞬間を、エララの待ち構えた翼が捉えた。
彼女はしなやかに空へ跳躍する。防壁の内から外へは決して出ない。出られないという制約もあるが、そもそも出る必要など微塵もない。彼女は膜に掌を重ね、白い膜面と一体化するように身を沿わせる。膜越しに彼女の影が外に伸び、影の外側に炎が生まれる。彼女の炎は物理的な火ではない。熱もあるが、秩序を破壊するための意志そのものだ。彼女が指先を外へ向けるだけで、外の空気は火に変じ、音は燃え、色は灰になる。彼女はそれを知っている。だから、指先を、彼の庭に背を向けた方向にしか向けない。
「見てて。あなたが嫌いな汚れは、全部外に捨てる」
エララの声は歌のように響く。結界の外で、王国軍は驚愕しているだろう。彼らは見えない敵に向けて術式を撃っていたはずが、逆に自分たちが火に包まれる。炎は音を食う。叫びが外音と混ざる前に、火がそれを舐め取る。焦げた鉄の匂いが、光膜に触れた瞬間、アレスは膜に指を滑らせた。匂いは中に入ってこない。汚れは膜の外に流される。整えられた空気は、蜂蜜のように濃い。
「エララ」
「なあに?」
「燃やし過ぎるな。燃えた地は、醜い」
「知ってる。だから、薄く。皮だけ剥いでおく」
その言い方は、彼女が人間であることを忘れている証でもある。彼女にとって、王国軍の兵士は「手」や「肩」や、機構の部品のように分解可能な記号でしかない。彼女の愛は、彼しか生かさない。彼女にとって庭もまた、彼の延長だ。
アレスは、再び崩れた花壇へと向き直る。散乱した石を一つ一つ、白い手袋をはめた熟練の職人のような極めて慎重な手つきで持ち上げ、本来あるべき角度を正確に計算して嵌め直していく。石は石の重さを主張するが、彼はそれに逆わない。重さの行き先を変えてやるだけだ。流れを変える。根に指先を這わせ、月雫草の根が再び土をつかむ感触を、己の指に重ねる。土は呼吸し始める。潰れた花は戻らない。だが、花壇全体の呼吸は、戻る。彼は視線で確かめ、耳で確かめ、匂いで確かめる。
「アレス。あの光、王都のもの、変わってる。前に見たものより、あなたの防壁の振動を知ってるみたい」
彼女の声は、炎を操る合間にも彼の耳に届いた。情報は重要だ。彼女は戦いながらでも、観察をやめない。アレスは微かに顎を引き、静かに頷く。
「だから彼らは打ち続ける。だが、斜めだ。正解の鍵を持っていない。こじ開ければ、箱の中身が壊れる。彼らはそこまで考えていないか、考えられない」
「誰が教えたの?」
「王都の魔術院だろう。あるいは、院の中の誰か。古い友の一人が、まだ生きてるのかもしれない」
「殺す?」
「必要なら」
短い応答。感情ではなく、判断。エララはそれで満足したらしい。彼女の炎が一度、外で舞い、空気に花びらの模様を焼いて消える。障壁膜がそれに触れ、波紋のように青く揺れる。その揺れを見て、アレスはほんのわずか、眉を緩めた。青い波紋は美そのもの。偶然であろうと作為であろうと、美は美として扱われるべきだ。だが、同時に、壊されたものは壊されたままだ。修復は続く。
彼は崩れた段の修復を終え、乾いた土に薄く、均等に水を差す。水は彼の防壁から切り出した、純度の高い湿り。根がそれを吸い、葉に少しだけ力が戻る。月雫草の葉の端が、一度だけ震えてから、音もなく落ち着いた。彼は指を引いた。指先には土の匂いが残っている。その匂いに、小さな安堵と、大きな怒りとが混ざる。
「王国は、宣言してきたのよね。『死の森の浄化を王の名の下に』って」
エララの声が、皮肉を含む。彼女は王国の言葉遊びが嫌いだ。浄化と称して破壊を好む者たち。彼らは美を知らない。秩序を称するが、整えられた秩序への敬意はない。
「浄化とは、秩序を与えることだ。統計や帳簿ではない。香と音と呼吸だ。彼らの浄化は、数字の上でだけ美しい」
「じゃあ、壊す」
「焦らない。王国が何を持っているか、どこまで知っているか。見てからにする」
彼は極めて淡々と言い放つ。しかし、その平静を装った表面の下では、激しい感情が鈍い薄く鋭く妖しく光り、刻一刻と鋭さを増していく。泣いているのは花ではない。構図だ。配置だ。彼が考え抜いた線の一つが、無礼な拳で叩き折られたのだ。それを許すことは、美の侮辱を許すことだ。それは彼の存在の根底を否定する。
エララは彼の冷徹な横顔を見つめ、満足げに唇の端をわずかに吊り上げる。彼が静かであるほど、彼女の炎は精妙になる。わたしはあなたの刃。あなたが指し示す場所だけを、切る。彼女はその約束に狂気に近い喜びを覚える。彼女の愛情が世界を焼き尽くさないためには、彼がここにいることが必要だ。箱庭が在ることが必要だ。
「アレス。ねえ、見て」
エララが指した。防壁の外、王国軍の陣形の背後に、ひときわ大きな塔が動いている。塔? 移動式の塔など、本来はあり得ない。だが、彼の目は見抜く。塔ではない。塔の形をした術式核だ。古い王家の紋章が、輪郭だけ、霧のように見え隠れする。
「王の影を、引っ張り出してきたか」
「わたし、嫌い。古い匂いがするから」
古い匂い。古い約束。古い裏切り。そして、古い友。アレスは自嘲気味に小さく笑みをこぼす。彼自身、古いものだ。長い年月を生きたわけではない。だが、彼の頭に詰まっているのは、土地の記憶だ。大地の層の積み重ね。そこに刻まれた人の足跡と、雨の痕跡と、風の曲線。王国の塔と彼の箱庭は、正反対の哲学から生まれた。塔は積み上げることで支配を得ようとし、彼の庭は偏在することで均衡を得る。相容れない。だからこそ、ぶつかる。
第三波。今度の波は、光ではなく、音寄りだ。低く長い唸り。見えない槌が封じの膜を叩く。膜は揺れる。その揺れが内へ伝わる。アレスは押さえる。押さえるだけではなく、揺れを逆相に重ねて打ち消す。音は砂の上に落ち、消える。だが、花壇の別の場所で、小さな音がした。砂の中で逃げ場を失った空気が、泡のように吐息を漏らす音。
彼は反射的に背後を振り返る。先ほど崩れかけていた、さらに下段の領域。白から薄緑、薄緑から薄黄への移行点。さっきの修復の影響で、わずかに負荷が寄っていたのだろう。花壇の一角が、またもや、唇をめくるように浮いた。彼の足が床を蹴る。彼はそこへ手を伸ばす。支える。間に合う。今度は間に合った。指先に石のひやりが伝わる。重さが掌に乗る。肩で受ける。背で受ける。彼の体は脆いが、術式が骨を補う。骨が、庭の骨組みに一瞬だけ接続する。
「アレス!」
エララの叫びが、今度は素で震えた。彼女は炎を一瞬だけ止め、彼の背に手を当てる。彼の背骨に沿って、温かい流れが走る。彼女の魔力だ。彼はその熱で、ようやく呼吸を一度することができた。
「大丈夫だ」
「わたしが、持つ?」
「いい。これは、私がやる」
それは誰にも譲れない。この庭の傷を修復するのは、彼の手でなければならない。たとえ彼女のほうが力があっても。たとえ彼女が、彼の望みを即座に叶えることができても。順序がある。礼儀がある。美を扱うときの礼節。
彼は石を正確な位置に戻し、土をしっかりと噛ませ、植物の根の位置をミリ単位で微調整していく。一連の動作は、祈りに近い。祈りは誰に向けられているのか? 彼自身の中の秩序に。彼が信じているのは神ではなく、線と面と点の連なりだ。比率だ。呼吸だ。
「王国は、わたしたちの呼吸を乱そうとしてる」
エララが低く呟いた。彼女は外で焼き、内では彼を支える。彼女は美しく具体的だ。抽象的な怒りを美的な行為に変換することは難しいが、彼女はそれをやってのける。
「乱されない」
アレスは宣言する。やや遅れて、その強い言葉に彼自身の心が追いついていく。乱されない、だが、傷は残る。石の角は擦れ、土は一度、滑った。花は一つ、死んだ。その事実は消えない。それでも彼は言う。「乱されない」。そう言わなければ、彼は崩れる。美の守護者は美によってしか支えられない。
外で炎が再び舞い、王国軍の陣形が焦げた帯のように歪む。障壁膜は健在だ。王国の塔は吠え、古い王家の紋章は怒りに歪む。怒り。怒りは世界を悪くする。だが、エララの怒りは、彼の言葉に縛られている。それは細いリボンのようなものだ。切れやすいが、切れない。彼女の狂愛は彼の秩序と相互に絡まり、二人を立たせる。
「アレス。もう一つ、いい?」
「何だ」
「彼ら、あなたの庭に近づこうとしてる。封じの根元を掘ってる。気持ち悪い。触れて、汚してくる。わたし、許せない」
彼女の声が震え、爪がわずかに結界膜を引っかいた。その音は鋭いが、小さい。アレスは穏やかに目を閉じ、深く息を吸い込み、そしてゆっくり吐き出す。嗅覚の奥に、ほんの少し土と金属の匂いが混ざる。彼は目を開ける。遠く、障壁の基礎が地中に沈む辺りで、小さな暗い穴がたくさん開くのが見えた。彼らは「掘る」という語を、平気で口にする。地は女だ。掘るという言葉は暴力だ。アレスは唇を固く結んだ。
「……許さない」
ようやく、声に色が乗る。黒。深い深い黒が、透明な声に混ざる。エララはその色を聞いた。彼女の笑みは、今度ははっきりと見えた。彼女は竜だ。竜は王の怒りを気づかう従者ではない。竜は連れ合いの怒りに歓喜する。
「ね。だから、燃やそう?」
「ああ。ただし、根は残せ。表土だけを剝ぐ。彼らが汚したところだけを」
「うん。剝いで、晒して、見せてやる。あなたの秩序の端整さをね」
エララの炎が色を変えた。赤から白へ、白から青へ。青い炎は粘性があり、流れる水のように地面を舐める。外の地面の表層が薄い皮のようにめくれ、黒く焼けた土が現れる。しかし深くは焼かない。根は、まだ呼吸している。兵士たちは足を取られる。床を剝がれた室内で裸足になった子どものように、痛みの意味を知らされる。痛みは教育ではないが、記憶にはなる。
アレスは、炎を操るエララの背中を見つめ、ほんのわずかに頭を垂れる。彼女の怒りを愛することはできない。愛することはできないが、必要だと認めることはできる。美を守るためには、醜いものを押し返す手がいる。彼の手は整えるための手であり、壊すための手ではない。壊す手が別にあることは、秩序の一部だ。
風が一度、庭を撫でた。崩れかけた花壇の土が乾かぬよう、彼は風の湿度をわずかに上げる。蜂が一匹、確認に来て、また去る。蜂の軌道は、壊れたところを避けるように弧を描く。彼はその弧を記憶する。修復の最終段で、その弧を戻すために必要な花粉の配置を、頭の中で組む。
「アレス」
エララが、ふと、普段の彼女に戻った声で呼ぶ。彼女は炎を抑え、彼の傍に戻る。手に、小さなものを載せている。先程潰れた月雫草の種だ。白い殻が割れ、緑の胚が見える。彼女はそれを、おそるおそる差し出した。
「これ、使える?」
アレスは愛おしげに目を細め、指先でそっとその種に触れる。熱は抜けていない。生きている。彼は小さく笑った。それは滅多に見せない、芯からの笑い。
「使える。ありがとう」
「よかった」
エララは安堵の息を吐く。彼の笑いは彼女を救う。彼女は世界を焼ける。だが、彼の笑い一つで、彼女は手を引っ込めることができる。彼女にとって世界は彼であり、彼にとって世界は庭だ。彼が救うのは庭。彼女が救うのは彼。循環は美しい。たまに、酷く危ういが。
「種は、今は撒かない。土が落ち着いてからだ。焦りは歪みを産む」
「うん。待つ。わたし、あなたが待ってっていうなら、いくらでも待つ」
「その言葉を、ずっと覚えておいてくれ」
「覚える。あなたの匂いと一緒に」
封じの外で、王国軍の詠唱が混乱する。彼らは炎の性質を理解しない。理解しないものに対して、人は恐怖で応じる。恐怖は行動を粗雑にする。粗雑は美の敵だ。アレスは肩を揺らしてそっと笑い、修復の最後となる石を寸分違わぬ角度で嵌め込む。花壇が、形を取り戻す。白から薄緑へ、薄緑から薄黄へ。失われた花は戻らないが、列は戻る。列は美だ。彼は呼吸を整え、結界の全体に触れる。揺れは収まっている。余波は外に逃がされている。彼は額の汗を手の甲で拭った。汗は甘い匂いがする。花の匂いと混ざる。
「王国は、やめないだろう」
「じゃあ、わたしたちも、やめない」
エララの声は、今度は穏やかだ。炎の気配は薄れ、彼女は彼の肩に頭を預けた。結界越しの空は、何事もなかったように青い。だが、その青さの裏には、紋章が牙を剥いている。陰謀は厚い。王の意志は鈍いが、器用な指が動かしている。アレスは遥か遠くを見据える。彼の鋭い視線は修復された花壇から、防壁の外の塔へ、そしてさらにその向こう側に潜む黒幕へと向けられる。魔術院の回廊、埃を被った書庫、古い机に刻まれた傷。古い友の指輪。彼はそれらを糸で結ぶ。結んだ糸は、やがて一筋の線になる。線は彼の庭にも、外の塔にも繋がる。
「必ず、見つける。誰がこれを仕組んだのか。どの指が、私の庭を汚したのか」
「わたしが、その指を焼く」
「焼くにせよ、切るにせよ、美しく終わらせる」
「うん。あなたの好きなように」
エララは目を閉じ、彼の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。外の世界が燃えようと、凍ろうと、彼の匂いがあれば彼女は生きていられる。彼の庭が完璧であれば、彼は生きていられる。そんな単純な真理が、いまは刃よりも強い。
風が再び吹く。砂紋が整い、苔の朝露が一粒、ついに落ちた。午後の陽がそれを銀に転ばせる。彼が望んだ通りに。壊されたものはあるが、壊れなかったものもある。均衡は砕かれた。だが、彼はそれを組み直す。何度でも。光幕は健在だ。王国軍の大魔術は、彼の庭の外で泡となって消える。その衝撃で彼が丹精込めて作った花壇の一部が崩れた。怒りは生まれた。エララの激怒は、火となって外を舐める。だが、庭はまだ美しい。美は生きている。だから、戦いは終わっていない。終わらせない。
「行こう、エララ」
「どこへ?」
「次の波の、半歩先へ」
彼らは立ち上がる。絶対の光幕を統べる守護者と、その怒りを代行する紅蓮の炎。王国の陰謀がどれほど緻密であっても、彼の結界はこの世界の内側でもっとも緻密だ。それを前に、粗雑な拳はただの拳でしかない。美は、壊されるほどに研ぎ澄まされる。壊す者が愚かであるほどに――そして、彼らは今、まさに愚かだ。彼はそれを見ている。彼女はそれを焼いている。箱庭は呼吸を続ける。彼の呼吸と重なって。エララの鼓動と共鳴して。
完全に修復された花壇の一角に、彼は慈しむようにそっと手を置く。少し冷たい。でも、すぐ温かくなる。彼の手の温度で。彼の魔力で。彼の執拗なまでの愛情で。花壇は彼のために、もう一度、究極の調和へ向かって伸びていく。彼女は彼のために、もう一度、世界を焼く。彼は彼女のために、制御の線を一本、余分に引く。この庭には、二人の約束の糸が張り巡らされている。外の世界がどれほど醜く汚れようと、その糸がある限り、ここは美しい。ここは、彼らの箱庭だからだ。




