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第3巻 第5章 竜姫の誓い(3)

最初に消えたのは、音だった。


 軍靴が土を踏む音、鎖帷子が擦れる音、隣の兵士の呼吸——すべてが一歩ごとに薄くなる。耳が塞がれたのではない。世界のほうが、音を吸い込んでいる。


「……静かすぎないか」


 誰かが囁いた。囁きすら、三歩先に届かない。


 森の中は美しかった。それが恐ろしい。木々の幹は等間隔に並び、枝は隣の枝と触れない距離を保ち、地面の苔は一枚の布のように均一に広がる。朝露が葉先に宿り、光を受けて同じ角度で瞬く。踏み込んだ軍靴の跡が、三歩も歩かぬうちに消えていた。苔が、自分で起き上がるように。


 ガルドス将軍は馬上で手綱を握り直した。革が汗で滑る。


「前進を続けろ」


 声が出た。だが声が、自分のものに聞こえない。空気が声を磨いて返す。粗い命令が、柔らかい音になって兵士たちの耳に届く。


「閣下、足元が——」


 副官セルムの声が途切れた。足元を見る。靴紐が解けている。結んだはずの靴紐が。周囲を見れば、あちこちで兵士が屈み込んでいる。靴紐を結び直す者。兜の顎紐を締め直す者。剣帯の留め金を確かめる者。


 誰も解いた覚えがない。


「気のせいだ。進め」


 ガルドスは声を張った。だが張った声が、森に吸われて柔らかくなる。命令が、提案に聞こえる。


 二百歩。


 先頭の重騎兵が止まった。止まったのではない。馬が進まない。蹄が地面を掻くが、前に出ない。泥濘ではない。地面は乾いている。ただ、馬の脚が——重い。


「何をしている。進め」


 騎兵が手綱を引く。馬が首を振る。鼻を鳴らす。目が白い。恐怖ではない。困惑だ。馬は賢い。自分の脚が自分のものでないことを、人間より先に悟る。


 三百歩。


 隊列が伸びた。前と後ろの距離が開く。振り返ると、来た道が見えない。木々の配置が変わったわけではない。ただ、どの方向を見ても同じ景色が続く。同じ間隔の幹。同じ角度の枝。同じ高さの苔。


「方位磁石を」


 斥候が取り出した磁針が、くるくると回る。止まらない。


「……壊れている」


「壊れてはいない」とセルムが低く言った。「ここには、方角がないんだ」


 四百歩——だと思う。数えていた者がいたが、途中で数を忘れた。忘れたのではなく、数えることに意味がなくなった。一歩が同じ距離を進んでいるのか、確かめる方法がない。


---


 最初の接触は、見えなかった。


 右翼の兵士が倒れた。悲鳴はない。ただ、膝が折れて、横に倒れた。隣の兵士が駆け寄る。


「おい、どうした——」


 倒れた兵士の目は開いている。意識もある。だが、立てない。脚に力が入らない。傷はない。血も出ていない。ただ、脚が——眠っている。


「何だ。何が起きた」


 二人目が倒れた。三人目。四人目。音もなく、順番に、膝から崩れていく。


「敵だ! 敵がいる!」


 誰かが叫んだ。だが、どこに。剣を抜いた兵士が周囲を見回す。木々の間に影はない。草の中に気配はない。ただ、倒れる者が増えていく。


 ガルドスは見た。


 一瞬だけ。木の幹の陰から、灰色の毛並みが覗いた。大きい。人の背丈を超える。だが動きが——速すぎるのではない。静かすぎる。音を立てない。空気を乱さない。森の一部のように動き、森の一部のように消える。


「獣人か」


 声が震えた。自分の声が震えたことに、ガルドスは気づいた。


 左翼で、別の異変。兵士たちの腕が動かなくなっている。剣を握ったまま、振り下ろせない。手首に——糸。見えない糸が、関節を固定している。


「切れ! 刃で——」


 刃が糸に触れた瞬間、刃のほうが弾かれた。鋼より硬い。そして細い。目を凝らしても見えない。ただ、動けなくなる。


 兵士たちは立ったまま、人形になっていく。


---


「魔法師隊、前へ!」


 ガルドスの命令に、三十人の術者が前に出た。詠唱が始まる。空気が震え、魔力が渦を巻く。


 渦が——散った。


 散ったのではない。吸われた。地面に描かれた魔法陣の光が、苔の下に沈んでいく。水が砂に吸われるように。術者たちの顔から血の気が引く。


「魔力が——戻ってこない」


「地面が、食べている」


 一人が膝をついた。二人目。三人目。魔力を根こそぎ吸い取られ、立つ力すら残らない。


 ガルドスは理解した。理解したくなかった。


 この森は、戦場ではない。


 自分たちは、戦っているのではない。庭に踏み込んだ虫が、庭の主に気づかれただけだ。殺されもしない。ただ、動けなくされる。花壇を荒らす猫を、首根を掴んで外に出すように。


 その認識が、剣を握る手から力を抜いた。


---


 気づけば、将軍は地面にいた。


 いつ落馬したのか分からない。痛みはない。馬は横で静かに草を食んでいる。手綱は解かれ、鞍の留め金が外されている。誰が外した。いつ。


 周囲を見る。兵士たちが地面に座っている。立っている者はいない。武器は——ない。剣も槍も弓も、いつの間にか消えている。鎧の留め金だけが外され、重い胸当てが地面に転がっている。


 誰も怪我をしていない。


 誰も死んでいない。


 ただ、全員が、赤子のように無力になっている。


「……何だ、これは」


 セルムが隣で呟いた。目が虚ろだ。恐怖ではない。理解の放棄。人間の脳が、処理を諦めた顔。


 森は静かだった。木々は一本も折れていない。苔は一枚も剥がれていない。花は一輪も散っていない。三千の兵が踏み込んで、森は傷一つ負っていない。


---


 どれほど経ったか。


 足が動いた。立てる。脚の痺れが、潮が引くように消えていく。周囲でも、兵士たちが立ち上がり始める。


 ただし、一方向にしか歩けない。


 森の外へ向かう方向だけ、脚が動く。内側へ向かおうとすると、膝が重くなる。振り返ろうとすると、首が回らない。


「……帰れ、ということか」


 ガルドスは呟いた。誰に言ったのか分からない。森に。空気に。あるいは、この場所を作った誰かに。


 兵士たちが歩き始めた。命令はない。隊列もない。ただ、同じ方向に、黙って歩く。武器はない。鎧もない。軍旗もない。王国第七師団三千の兵が、丸腰で、黙って、森を出ていく。


 誰も振り返らない。振り返れないのではない。振り返りたくない。あの完璧な景色を、もう一度見たくない。美しすぎるものを見た後の目は、しばらく何も映さなくなる。


---


 森の外縁に出た時、陽が傾いていた。


 ガルドスは立ち止まり、自分の手を見た。剣胼胝だけが残っている。剣はない。何十年も握ってきた剣が、いつ手から消えたのか、思い出せない。


 背後で、森が息をした。


 風が一つ、外へ吹いた。花の匂いがした。甘く、冷たく、完璧な匂い。その匂いの中に、「もう来るな」という意味が溶けていた。言葉ではない。ただ、匂いが、そう言っていた。


 兵士の一人が座り込み、両手で顔を覆った。泣いているのか笑っているのか分からない声が漏れた。


「……綺麗だった」


 それが、王国軍第七師団の、最後の言葉だった。


---


 森の内側。


 亜人たちが黙々と動いていた。踏み固められた土を爪で梳き、折れた草の茎を指で立て直し、苔の乱れを掌で撫でる。鉄の匂いが残った場所には、白い粉を撒く。粉が匂いを食べ、土に還る。


 グラムが鼻を近づけ、空気を吸った。


「まだ残ってる。靴底の油の匂い」


「風を通す」と虎人の女戦士が枝を揺らした。葉が震え、空気が入れ替わる。


 一時間。


 森は元に戻った。元に戻ったのではない。最初からそうだったように見える状態に、戻された。三千の人間が歩いた痕跡が、一本の草の傾きも残さず消えている。


 グラムが片膝をつき、地面に耳を当てた。


「……静かだ」


 立ち上がり、森の奥——結界の中心を見た。光幕が、いつもと同じ呼吸で脈打っている。


「報告は」


「不要だ」と山羊人の青年が言った。「見ていたはずだ。全部」


 風が一つ、内側から吹いた。花の匂い。甘く、冷たく、完璧な匂い。


 亜人たちは、それを返事として受け取った。

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