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第3巻 第5章 竜姫の誓い(2)

死の森の縁に、薄金の朝がすべった。霧粒は琥珀の欠片のように透け、露は星を一枚ずつ摘んで置いたみたいに光る。ここが内で、あそこが外。見えないが、たしかに線が一本、走る。


「風が変わったな」


 銀葉樹の上、狼耳の斥候が鼻先を上げた。木肌の匂いに混じる油と鉄と苦い薬草の匂い。遠い地脈を震わせる軍靴の重さ。


「……来る。重い音が増えてる」


 草に耳を当てていた兎人の少女が、顔を上げた。耳の先が震える。


「何人?」と虎人の女戦士。

「数を言えば嘘になるくらい」と兎人。「でも、槍の数は……嫌な響き」


 銀葉樹の並びは、一本たりとも背丈を競わず、葉の角度まで揃って朝を掬う。白い幹は緩やかな曲線で上に向かい、梢は触れない距離を保ち、空の細い帯をわざと残す。鳥たちがその帯を渡るたび、羽音が光に溶ける。小川は境界と並走し、花弁を泡ではなく光の粒に変えながら運んだ。どこにも突出はない。美のために手が入った庭、その手は一度も濁らない。


「全部、アレス様が引いた線の上だ」と山羊人の青年が呟く。「一本ずれたら、朝の光が違って見える」


「お前、恋人みたいな顔して言うなよ」と猪人が笑う。

「恋人にこんな角度は求めない」と山羊人。「ここには狂いを入れたくないだけだ」


 境界の広場へ、亜人たちが集まってくる。角、尾、鱗、耳。かつて追われ、売られ、森に逃げ込んだ者たち。今は違う。背を丸めていない。目が前を見ている。


 牛人の戦士グラムが歩くたび、苔が柔らかく沈んで、すぐ持ち直す。肩は広く、胸は厚く、皮膚の下に青白い筋が流れている。握った拳は岩の塊だ。


「全員、朝食は済ませたか」


 グラムの声に、あちこちから返りが来た。


「銀土大根の味噌煮を三杯」

「月光キャベツの包み焼き。胃の奥がぽかぽかして、手足が軽いの」

「霊脈玉葱を丸かじり。涙で前が見えなくなったが、視界は広がった気がする」


 笑いが生まれる。力が体の内側から上がってくる音のする笑いだ。


「星蜜人参の焼き飴、子どもが隠してた分まで食っちまった」と猪人が小声で白状する。

「あとで謝れ。怒るのは子どもと妻だ」とグラム。「それとな、戦が終わったらもう一本抜いてやる」


 狐人の術師は掌で青い火を転がす。熱は漏れない。指の動きに合わせて、火は花になり、蝶になり、小さな竜になった。


「昼まで持つ?」と兎人。

「持つ。前は一発で膝が笑ったんだけどね」


 蜥蜴人の守備隊は鱗が翡翠に深まり、上に薄い結晶の膜が張っている。槍の穂先を押し当てても、金属のほうが悲鳴を上げそうだ。地面に掌を置くと、土の水気と冷たさが呼吸と混じる。


「空洞はこっち」「水の音が近い」「鹿が通る獣道は避けろ」


 短い言葉を交わしながら、彼らは地下の地図を頭に広げた。


 彼らを作り替えたのは神霊野菜。銀土大根、星蜜人参、月光キャベツ、霊脈玉葱。名前は市場に並ぶが、実物は別物だ。葉脈に淡い光、根に清水の気配、切れば香りとともに細い粒子が舞い上がる。


「銀土大根、今朝のは土の甘みが強かったな」とグラム。

「霊脈に近い畝から抜いたって、畑の婆様が言ってた」と山羊人。

「星蜜人参は皮ごと焼くと音がいいんだ。パチパチって」と兎人が耳を立てる。

「玉葱は……涙は出るが、胸が開く」と蜥蜴人。


 彼らはそれを食べ続け、体が温かくなり、疲れが遅くなり、傷が早く閉じ、骨が鳴り、筋肉が歌い、魔力の器が広がった。常識の枠が外れたのは、そのあとだ。


「よし、持ち場につけ」


 グラムの一声で、準備に拍車がかかる。


 外の戦場なら、土を掘り、杭を立て、泥で汚せばいい。ここでは違う。アレスの引いた情景線を乱さない。視線の抜け、樹の高さ、花壇の色、自然石の向き。誰もが図面を頭に入れて動く。


 牛人たちは巨石を運び込んだ。人間十人では動かせないものを、南瓜でも抱えるみたいに肩に乗せる。定めた場所に置くと、石肌の苔が呼吸を始める。小さな白花が風に揺れ、仕掛けの中身は見えない。内側に刻んだ導線に触れる合図ひとつで、斜面を落ち、重装兵をまとめて退ける。


「そこだ、半手幅前だ」


 グラムが二本指で示す。牛人の仲間が頷き、石は微かにすべった。苔は崩れない。角度だけが整う。


 兎人たちは森の奥へ跳び、糸を張る。月光キャベツの外葉から取った繊維に、狐人の術で魔力を浸した糸。朝霧と見分けがつかず、触れれば硬くなって足首を絡め取る。蔓草の曲線に沿わせるから、罠は花飾りに見えた。


「この張り方、きれい」と兎人。

「音がしないし、鳥も引っかからない」と狐人が満足げに頷く。


 蜥蜴人は地面に話しかける。草の根がふっと動き、地下に柔らかな空洞ができる。馬が来れば膝まで沈む。もがけばもがくほど、霊脈玉葱の根から編んだ網が絡む。穴の上は苔と落ち葉が覆い、目はごまかされる。


「動物道は外す。ここは人間しか来ない道にだけ」と蜥蜴人の隊長。


 狐人の術師は銀葉樹の幹に指を置いて囁く。幹の奥で白い光が滲み、葉陰に小さな術式が浮かんだ。攻撃ではない。目を惑わせ、足を導く。


「ここ、少し色が強いかも」と隣の術師が言う。

「朝の光にあわせて薄める。赤は一段落として、青を冷やす」

「賛成。走ってくる連中の目線は低いから、下から効くように」


「杭の角度が違う」


 山羊人の青年が、ささやくように鋭い声を出した。腰には測量紐。目が真剣だ。


「三度、左。ここは右に振るべきだ。遠景の樹影に合わせて」

「串刺しにできればいいんじゃないのか」と猪人。

「刺されながらも景色の線が崩れないのが理想だ」


 猪人は黙って杭を抜き、素手で土を掘りなおす。杭の先には花粉。眠りを誘う。毒は土を荒らす。アレスが嫌うから。


「この花粉、くしゃみ出ない?」と兎人。

「お前は離れてろ。さっきから鼻がむずむずしてる」と猪人が笑う。


 みんなの動きは、祭礼に近い。緊張はあるが、熱がある。汗の匂いは草の匂いと混じって薄く、朝の空気が軽い。誰かの口から「アレス」という名が出るたび、背筋が伸び、手が速くなる。


「アレス様が、この森を救ってくださった」と年配の狐人。

「畑を作ってくださった」と兎人。

「夜、怖がらず眠れる家をくださった」と蜥蜴人。


「だから、俺たちは盾になる」とグラム。

「必要なら土に戻る」と山羊人。


 誓い。誰にも強いられていない。選んだ主の名を、喉の奥で温める。


 風が一度、硬くなった。冷たい鱗で撫でられたような感触。銀葉樹の葉が音を殺して細かく震え、誰かの動きが止まる。号令はない。身体が勝手に身構える。


 エララが来るのだ。


 境界の小道に黒髪。朝の光が一本ずつを拾って、刃の線を描く。瞳は深い紅。整いすぎた顔。薄い戦衣の布地を通して、膨らむ魔力の温度が伝わる。足を置けば、草が頭を垂れ、霧が道を開ける。黒竜鱗の近衛が距離を置いて従う。誰も喋らない。喋る必要がない。


 亜人たちは膝をつく。敬愛と畏怖、その両方が混ざった動き。


 エララは罠の配置を一巡し、目を細めた。


「ここ」


 指先が一度、宙を切る。指した先の植え込みから花びらが一枚、ふわりと落ちた。


「視界が開きすぎ。向こうの斥候から花壇が覗ける」


 言われた山羊人は、地面に額をつける勢いで頭を下げる。


「すぐ修正します」


「急いで。枝は二本だけ角度を変える。葉の影で線を隠して」


 狐人が走り、銀葉樹の枝に手を置いて、角度をほんの少しだけ落とした。光の筋が柔らかく動き、見えすぎていた奥が霧の向こうに退く。


 エララは変化を見届け、息をひとつ。冷たい笑みか、安心か。唇の弧は読む者によって違う。


「無駄は、いらない。汚れた意図も、乱れた線も、余計な足跡も」


 境界の外に目をやる。視線だけで空気の温度が下がる。鎧の傷、旗の染み、恐怖と欲望でざわつく兵士の魂の濁り。王の命、貴族の欲、司祭の嘘、傭兵の腹。どれも、ここに触れる手ではない。


 踏み込むつもりか。あの鉄靴で。白い花のそばまで。


 エララの口元が、薄く持ち上がった。甘い香りのする刃。


「許さない」


 その言葉に、霧が細く鳴った。


「アレス様の景色に、あなたたちの影はいらない。アレス様の空気に、あなたたちの息は混ぜない。アレス様の視界に、あなたたちの顔すら入れたくない。境界の外で焼けば早いけれど……」


 胸元に指が触れる。小さな結界符。実用品。だが、彼女の目には指輪より重く見える。


「『煙の流れが美しくない』って、おっしゃったから。だから、ここで止める。静かに、跡を残さず。わかる?」


「はっ」


 重なる声。森の空気が揺れる。エララの眉が寄る。


「声。小鳥が逃げる」


「す、すみません」


「謝罪はいらない。次から。午後、ここを確認される可能性がある。その時、鳥の数が減っていたら……」


 そこで言葉が落ちた。代わりに、彼女の吐息が白く見えた気がして、誰も続きを求めなかった。亜人たちは鳥の数まで心配しながら、音を削って作業を再開する。


 エララはさらに歩き、各部隊を見て回る。虎人には側面からの刈り込み、蜥蜴人には地下網の密度の強化、狐人には幻惑の色味の微調整。指示は短く正確。冷たいが、冷酷ではない。アレスの風情を守るために、最適な場所に最適な力を置く。それだけ。


「あなたたちは盾」「あなたたちは鋏」「あなたたちは霧」「あなたたちは沈黙」


 指で隊を一つずつ指す。


「熱に呑まれないで。飛沫を撒かないで。声は短く。どうしても止めるなら、倒れる向きまで考えること。小道を塞がないように」


 頷きが、重なった。誰も笑わない。誰も軽んじない。ここ以外にない戦い方だから。


「それから、花壇の手前に一人も倒れさせない。跡がつく」


「承知」


「小川は清いまま保つ。水に触れさせないで」


「承知」


 太陽が少しずつ上がる。霧が薄れる。境界の線が光の中で浮かび、透明の刃になる。


「見えた」


 狼耳の斥候が低く言う。地平線の向こうに、黒い線。影が膨らみ、縦筋が増え、金属の光が刺す。


「槍だ。長い列」「その後ろ、重いのが来る」「騎兵。弓。魔術師」「荷車の影、大きい。破砕槌だ」


 旗が鳴る。剣を抱く獅子の紋。赤い布が、外の風に膨らむ。


 遅れて地鳴りが来た。どどど、と腹に入る音。馬蹄、軍靴、車輪。外の草が折れる。泥が跳ねる。鳥が逃げる。進む方向にあるものは、ただの障害物という扱い。まだ知らない。ここが避難所ではなく、神霊を食らった守り手の砦だということを。


 境界の内側は、静かだ。奇妙なほど。


 牛人たちは石の陰に沈み、呼吸を整える。鼻息は白いが、荒くない。虎人たちは木の天辺へ音もなく登り、毛皮と葉影が混ざる。兎人の罠師は最後の糸を押さえ、耳をぴんと立てる。蜥蜴人は腹ばいになって土の鼓動を読む。狐人は影の中で指に小さな術式を灯す。


 音が削られる。小川のせせらぎだけが細く残る。露が苔に吸い込まれる音まで聞こえそうだ。金属の擦れる音は外にある。ここにはない。緊張はあるが、無駄がない。獣が跳ぶ前、世界が息を止める瞬間。


「隊長」と猪人の若者。

「怖いか」とグラム。

「……いいえ。ただ、失敗してアレス様の眺めを乱すのが怖い」


「なら、大丈夫だ」


 グラムは口角を上げた。牙が覗く。暖かい笑み。


「俺も同じだ」


 別の場所で、エララが境界の、もっとも美しい位置に立つ。足元の白い小花が、彼女の影に揺れる。王国軍を見ていないようで、風の乱れまで読む。兵の数、魔術師の配列、指揮官の馬の歩幅、破砕槌の刻印の質。脅威はある。怖れは薄い。胸に満ちるのは、甘く暗い期待。


 心の中で名を呼ぶ。アレス様。見ていて。あなたの庭に伸びた手は、ここで折る。あなたの結界に乗る靴は、ここで砕く。あなたが眉を寄せる前に、ため息が生まれる前に、汚れは拭っておく。


 指先に紅い竜炎が一瞬灯る。すぐ、握って消す。煙が立つ。好まれない。彼が嫌がる。だから使わない。


「全隊」


 エララの声が風に乗り、静かに広がる。大きくはない。なのに届く。銀葉樹の葉がわずかに震え、小川に細い輪が生まれる。


「待機。第一情景線を越えるまで、触れないで。罠は順に起こす。赤いものは外側へ。水を汚さない。花壇への被害は、腕一本より重いと覚えなさい」


 頷きが伝播する。冗談は出ない。誰もが本気だ。


「破砕槌への対処は?」と狐人の術師。

「幻で空間を一枚ずらす。叩く場所を空振りに。叩いた反動で持ち手を崩す」

「了解。色味は?」

「朝の光に合わせる。白は眩しすぎる。薄い灰で輪郭を消す」


「騎兵は?」と虎人。

「側面から。足だけ刈る。馬は走らせない。戻ってよいところに戻す」


「承知」


 王国軍の先頭が、矢の届く距離まで迫った。指揮官らしき騎士が片手を上げ、隊列が止まる。鉄のざわめきが平原に広がる。魔術師たちが前に出て、結界探知の水晶を掲げた。水晶は鈍い光を放ち、やがて眩しいほど白く輝く。彼らも気づいた。目の前の森が、ただの森ではないことに。


 風が止まった。


 花弁が空中で一瞬、動きを失ったように見えた。小鳥は鳴かず、獣は息を潜め、結界そのものが敵を見つめている。王国軍の旗だけが、遅れて吹いた外側の風にばさりと鳴った。その赤い布の揺れが、内側の一分の隙もない眺めにはひどく不釣り合いだった。


 亜人たちは武器を構えた。


 神霊野菜で強化された肉体に、結界の霊気が巡る。筋肉が軋み、魔力が脈打ち、瞳に光が宿る。彼らの士気は異様なほど高かった。死を恐れていないわけではない。だが死よりも強いものを知る。奪われる痛み。救われた恩。守るべき清冽な場所。そして、アレスという名の結界師が作った、彼らの世界。


 王国軍の指揮官が剣を抜いた。


 その刃が朝日を弾く。


 エララの唇が、わずかに動いた。


「来なさい。醜いものたち」


 境界の内側で、誰かが静かに息を吐いた。


 次の瞬間にも戦が始まる。だがまだ、始まってはいない。世界は針の先に乗ったような均衡を保ち、光と影、美と暴力、閉じた楽園と王国が、薄い結界線を挟んで向かい合う。


 嵐の前の静けさは、あまりにも透き通る。

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