第3巻 第5章 竜姫の誓い(1)
鼻腔を突く泥の臭い。死の森の縁は、遠征軍の靴底で湿った嘆きを上げる。ぬかるんだ大地は数万の兵が踏み荒らすたびに黒い粘液を吐き出し、鉄のブーツに絡みついて歩みを重くする。
「足元に気をつけろ! 列を乱すな!」
「泥が深すぎる。馬の脚が取られるぞ」
「文句を言うな、進め! 立ち止まれば後ろがつかえる!」
兵士たちの怒声が飛び交う。靴音、槍の柄が鎧に当たるカンとした音、馬の鼻息。積み重ねられた雑音が、黄ばんだ靄となって低く漂う。これまで幾つもの村や廃砦を踏み越えてきた王国軍は、泥にまみれ、鎖帷子の間にこびりついた粉塵の臭いをまとい、なおも進む。
彼らの視線の先。噂でしか聞いたことのない「透明の壁」が、ただ静かに、乾いた息のようにそびえ立つ。
大樹の幹の間に、誰かが硝子の布を張り巡らせたごとき光景。壁というよりは空気の皮膜。触れれば破れそうでいて、どこまでも冷然と続く。光が当たる角度が変わるたび、淡い虹色の縁取りが筋のように流れる。内部の景色を不鮮明にするのではなく、逆に輪郭をより細密に彫り込む。
中は、死の森の名に似つかわしくない、整えられた苔の曲線。意味ありげな飛び石の配置。わざと乱されたように見えて秩序に従う草の伸び。一歩踏み入れれば別の世界なのだと、誰もが直感する。
王国軍第一遠征軍司令官、ヴォルク・ダリオン将軍は、黒毛の軍馬の上からその硝子の殻を見下ろした。口の中で小さく唾を転がす。歴戦の猛者として知られる彼でさえ、この異様な光景の前では己の経験が何の役にも立たないことを悟らざるを得ない。年季の入った皮手袋が手綱を握る音。自身の心臓の拍動と重なる気がする。白髪混じりの髭が動くたび、頬に擦れる鬘の紐が鬱陶しげに揺れる。
「……あれが、結界師アレスの聖域か」
「はい、将軍」
すぐ背後で軍帽をかぶった副官が応じた。若い声は熱に浮かされたように早口だ。
「報告では、あの透明の壁が死の森一帯を丸ごと覆っていると。王都からは、まず外縁を叩いて弱らせ、次に魔導砲を撃ち込む手順が推奨されています」
「分かっている。だが、妙だな」
「妙、とは?」
「静かすぎる。我々数万の軍勢がここまで接近しているというのに、内側には何の動揺も見られない。まるで、我々の存在など歯牙にもかけていないかのようだ」
ヴォルクの視線は、せわしなく動く歩兵の列を一瞬だけ掠めた後、再び結界の内側へと吸い寄せられる。苔むす岩が、ありふれた形ではない。片方に丸みを持ち、片方は冷たく鋭く、その対照が妙に目に残る。苔の緑は、軍の旗より深く、うっすら銀粉をかけたごとく冷たい。甘美さと残酷さがひとつの画面に同居し、それが不快ではなく美しく見えてしまう。
天幕の陰から、黒衣の魔導院特使、フェリクスが現れた。細い指先につけられた銀の指輪が、彼の一挙手一投足に光を添える。口元には微笑が貼りつき、目は笑っていない。
「将軍、王都の密勅をお伝えします」
「今更なんだ、特使殿。攻撃の直前だぞ」
「結界師アレスは、生け捕りが望ましい。庭園は破壊しても構わないが、可能であれば、構造を保持したまま移送する手段を模索せよ、と」
ヴォルクの顎が僅かに跳ねた。
「移送? こんなものをか?」
「ええ。王都は、広場に星を降らせたいのでしょう。祭りは人心をつなぎ止めますから」
フェリクスが軽口めかして言うのに、副官が顔をしかめた。
「馬鹿な。この巨大な結界をどうやって運ぶというのです。それに、相手はあの悪名高き結界師ですよ」
「それは現場の皆様の知恵に期待する、ということです。もっとも、まずはあの壁に穴を開けなければ話になりませんが」
兵たちは既に列を整え、第一波の弓兵が矢筒の蓋を開く音が連なっている。硬い羽根が擦れ合う音が、雨の前触れのごとく、空気の質を変える。
ヴォルクは深く息を吐いた。
「矢を、放て」
合図の赤旗がひらりと翻る。瞠目の瞬間、張り詰めた弦が一斉に鳴り、数千の矢羽が空を裂いた。それはさながら、空を覆い尽くす黒い蝗の大群。風を切り裂く鋭い音が重なり合い、巨大な唸り声となって森を震わせる。数千の矢が描く黒い曲線が、透明の壁に向かって降り注ぐ。矢じりの光が壁に接触した瞬間、何かがふっと吸い込まれるように見え、そして――
音がない。衝突の音がない。
あるのは、細かな、砂のような光が内と外の境界でさっと弾け、夜でもないのに星を撒くような、微光の波が走るだけだ。矢は、あるものは根元から折れ、あるものは羽根だけが抜け、あるものは空中で粉のようにほどけて風に混じり、ひとつとして結界の向こうへは届かない。
弓兵の列に、戸惑いのざわめきが走った。
「な、何だ、今の……?」
「音がしない……」
「矢が、消えたぞ。どこへ行った?」
「弾かれたんじゃない。溶けたんだ!」
「馬鹿な、数千の矢が一本残らず消滅したというのか!」
将軍は手を上げ、次の命令を短く切り出した。
「第二波、弩砲。投石車を前へ。魔導隊、術式の準備――急げ」
泥に車輪が沈む鈍い音が近づき、背骨のような木組みを持つ弩が、筋肉質の兵士たちの手で組み立てられていく。投石車の大きな腕が夜空を舞う鳥の翼のごとく緩やかに構えを取る。魔導隊の長が杖を地に打ちつけ、土の上に組まれた陣の符がくっきりと光を帯び始める。全ては訓練通りの手順で進む。しかし、誰もが先ほどの「無音」を忘れられずにいる。音がないことが、恐ろしい。世界の秩序がずれたごとく、鼓膜のどこかが空気を掴み損ねる。
結界の内側。
アレスは、苔の縁から飛び出した一本の細い草の先端を、指先でそっと捻った。彼の周囲には、外の喧騒など微塵も届かない。ただ、水滴が葉を打つ微かな音と、風が枝を揺らす柔らかなざわめきだけが、無謬の均衡を保って存在している。柔らかな緑が唇の色を選ぶような慎重さで摘み取られ、石の影に滑り入る。彼の動作は儀式にも似る。一点を整えれば、周囲の十点が応答する。その連鎖に、彼は中毒的な幸福を感じる。正面では、果実の皮のごとく薄い水が、精密な曲線を保ちつつ流れ、ほとんど見えない霧を生む。その霧は、香と音を運び、鳥が三度声を出す間に消え、苔に吸われて均一な湿りを約束する。
外からの矢が触れた瞬間、アレスの結界は、練習通りの微調整をした。音を削り、衝撃を粉に砕き、光だけを許す。粒子となった矢は、星砂のごとく結界の縁を滑り落ち、苔には一片も落ちない。落ちる前に漂白され、無に帰す。美観を優先するための、やり慣れた段取りだ。
「来たのね」
エララの声は、背後からふわりと絡みついてきた。その声には、蜂蜜のような甘さと、刃物のような冷酷さが同居する。彼女の存在自体が、この空間における唯一の異物であり、同時に最高級の装飾品でもあった。竜姫は、夜のごとく黒い髪を長く垂らし、鱗の光沢を彷彿とさせる織りを施した白の衣をまとう。眼差しは、細い刃物のように鋭く、それでいてひどく甘い。彼女はアレスの肩越しに外を見やり、唇を歪めた。
「鉄の蟻が、この庭に毒を垂らしに来た。わたし、焼いていいかしら?」
「煙が出るだろう。煙は空気の色を汚す。今は、汚し方が気に食わない」
アレスは淡々と言い、薄く笑った。結界の縁を流れる微光に指先をかざすと、光の粒がその形に沿って揺れる。彼の美意識が直接、物質の質を定義する。そんな錯覚を抱かせる。彼の横顔に、エララは渇いた歓喜を浮かべる。
「あなたの声、今日はいっそうよく響く。嬉しい」
「君の声はいつも過剰だ」
「あなたが私を見ない時は、もっと過剰になるの。だって、誰よりもあなたの視線にふさわしい景色だけが、世界に残ればいいでしょう?」
エララはそっとアレスの背中に指を這わせる。その指先は熱を帯び、爪の先が衣越しに肌の感触を確かめるように動く。彼女の瞳孔がわずかに縦に割れ、口元には柔らかすぎる微笑みが浮かぶ。
弩砲の音が、遠くで唸った。重い鉄の矢が、獣のような音を撒き散らして迫る。アレスは片頬に手を当て、少し首を傾けた。彼の結界が、さきほどとは違う層を滑らかに展開する。鉄の矢は、皮膜に触れた瞬間、青い火花を一筋だけ走らせ、ふっと消える。その軌跡は、軌跡のまま残らず、風景に残痕を刻まない。火花がただ一瞬だけ、苔に溶ける緑と反射し、視覚の韻律に小さな高音を加える。それでおしまい。
外側では、将軍の眉間に一本の縦皺が刻まれる。
「……直撃して、消えたか?」
隣で弩兵隊長が唇を乾いた舌で湿らせた。
「当たっています、将軍。嵐の中の松明みたいに、一瞬光って、空気に吸われるように」
「馬鹿な。あれほどの質量が、音もなく消滅するなどあり得ん」
「事実です。我々の武器が、まるで幻だったかのように……」
「魔導隊はどうした」
「術式、完了します!」
魔導隊長が金で縁取られた杖を天高く掲げ、掌を大きく開く。彼の口から紡がれる古代の呪文が、周囲の空気をビリビリと震わせる。繊細な紋が空中を走り、彼らの足元の陣に呼応する。空気は薄い焦げた砂糖のような匂いを宿し、薄青の雷光が地から立ち上がった。雷鳴槍が、透明の壁めがけて放たれる。光の槍は、森の陰を押しのけるように一直線に、すべてを焼き切るつもりの鋭さで走っている。
光幕は、それでも揺れない。外から見れば、雷光が壁に触れる寸前にふっと温度を失い、光そのものが薄紙に押し当てられているごとく、平坦に、無害に解体されていく。輝きの粒だけが、極めて丁寧なサラサラという音を立てて落ちていく。将軍の耳には、その音が妙に腹立たしく、侮蔑的に聞こえた。
「……音が、遊ばれている」
副官がぎこちない笑みを浮かべた。
「さすが結界師。音まで、景色の一部にされてしまうのですね」
ヴォルクの目が細くなる。
「遊ばれているのは我々だ。遊びの相手をするために来たのではない」
魔導隊は次の術式へと移った。火の雨、氷の杭、砂の嵐。どれも、障壁は変わらない顔で受け止め、要らない音と熱と衝撃を削ぎ落とし、視覚的な美だけをほんの一瞬採用し、それから全てを無に戻す。兵士たちの頬には汗が伝い、その汗が冷えて、風のほうが熱いのか冷たいのか分からない奇妙な体感を与える。
祈祷連隊が重々しい足取りで前に出る。純白の法衣に身を包んだ司祭たちが、古い言語で一糸乱れぬ詠唱を始めた。彼らの声は、戦場の血生臭さを浄化するごとく、澄み切った響きを持っている。詠唱が重なると、声の波が朝焼けの鳥の鳴き声のように空の色を変える。聖紋の光が彼らの足元に集まり、虚空に聖なる印を描く。印は盾となり矛にもなる。彼らは祈りの矢を射るようにして、封じへ信仰の圧力を押しつけた。
内側で、アレスは目を閉じ、微笑んだ。聖句の旋律が、一瞬、彼の世界の音階から外れた。はっきりとしたズレ。彼はそのズレの数値を、呼吸のリズムに置き換え、刹那、防壁の表層を、音だけ少しずらして戻した。詠唱は、彼の設計された空間では、ただの空気の微弱な波に還元され、苔の毛先に触れる前に丸くなる。音が丸くなれば、誰の耳にも届かない。
「なるほど、祈りも雑音ね」
エララが肩をすくめた。彼女の細い指先が、防壁に触れもしないのに、確かな感触を味わうようにゆっくり沿っていく。透明の壁越しに見る兵士たちの顔は、一様ではない。恐怖、怒り、そしてごくわずかに、うっとりとした顔も混ざっている。閉じた楽園の美に魅入られる眼差し。
「あの女。魔導隊の端にいる女。あなたの景色を見て笑ってる。笑う口角が、あなたの苔に触れたら裂けるわ」
エララはにっこりと微笑む。その背後で、氷の魔力がチリチリと音を立てて漏れ出している。彼女の瞳の奥には、凍てつくような暗い炎が揺らめく。
「彼らの表情は景色ではない。一時の虫の動きに過ぎない」
「あなたは虫の動きも調えたいと思うはず」
「そうだが、今日の虫は不格好すぎる。まとまりがない」
エララは笑い、目を眇めた。その笑みは、誰かが畏怖のあまり膝を折る音を想起させる。彼女は腰の鞘に差した細剣に指を滑らせた。竜の爪を模した装飾が、彼女の爪に触れて軽い金属音を立てる。
「命じて。ひと噛みで散らす」
「待て。地表が抉れる。苔が死ぬ。今はやめろ」
「あなたは苔を選ぶのね」
「当然だ」
外では、将軍が歯噛みする。唇の端に、噛み切った皮の味が広がる。彼は手綱を片手で巻き、もう片方の手を拳にして、馬の首筋に軽く当てた。馬は耳を寝かせ、尻尾をぴしゃりと振る。兵たちは誰も叫ばなくなる。叫んでも空気に吸われる。そう感じているからだ。
「投石車、最大装填。石では足りぬ。油を沁み込ませた布を巻け。火を――」
言い終える前に、フェリクスが割って入った。
「将軍。火は煙を上げます。煙は――私どもの視界を遮るだけではなく、障壁の向こうの、あの…絵画を隠してしまう」
「絵画か。絵画の話をしているのか、特使殿」
「いや、王都の意向は、『あの男の技』の様式を確認したいということです。壊してしまう前に、どこまで舐め尽くせるか。火は、観察の敵です」
ヴォルクは、フェリクスの柔らかな言葉の裏にある冷たさを感じとった。王都はこの戦いを遠くの劇のように眺め、その劇の結末にすでに退屈しているのかもしれない。
「ではどうする。このまま指をくわえて見ているつもりか」
「地脈破砕杭を。これならば、表面ではなく基礎を揺らせる」
副官が口を挟む。
「しかし、杭の運搬には時間がかかります。日暮れまでに間に合うか」
「急がせろ。このままでは兵の心が折れる」
空が、徐々に色を変え始める。まだ昼だというのに、光幕の内側には、ひと足先に夜が訪れているように見える。星のもとが、粉砂糖を振るうように垂れ、苔の上にも、石の水路にも、さざ波のように微光が降り積もる。内部の時間は、外のそれと別のリズムを刻む。
兵士の群れの中から、小さな呟きが漏れた。
「あれが、星……? 昼なのに」
「やめろ。見とれるな」
「でも、綺麗だ……」
「将軍、士気が……」
ヴォルクは掌を上げ、簡潔に告げた。
「杭を運べ。夜が来る前に、あの壁にひびを入れる」
巨大な地脈破砕杭が、重機によってゆっくり垂直に立てられる。筋骨隆々の打ち手たちが円陣を組み、身の丈ほどもある鉄の槌を肩に担ぐ。彼らの額には玉の汗が浮かび、筋肉が限界まで張り詰めている。杭の先端が地面に突き刺さるたび、鈍い振動が足元を這う。それは、防壁の表面ではなく、地中深くの魔力線を断ち切るためのものだ。
アレスは、足元から伝わる微かな揺れを感じ取った。
「地脈を叩くか。無骨な手だ」
「痛い?」
「いや。ただ、少しだけ、水路の角度がずれる」
彼は指先を動かし、水路の底の石を数ミリだけずらした。それで、揺れは相殺される。外の軍勢がどれほど力を尽くそうと、彼の箱庭は、その全てを美の糧として吸収し、変換する。
西の空が血のような赤に染まり、やがて日が傾く。閉じた楽園の内側には、外の世界よりもひと足早く、静謐な夜が深まっていく。星の光が、苔の緑を青白く染め上げる。
防壁は、外の狂騒など知らぬげに、何事もなく夜を迎え、偽りの星を降らせ続ける。その光景は、あまりにも残酷で、あまりにも美しかった。外の兵士たちは、その美しさに圧倒され、次第に攻撃の手を緩めていく。彼らは、自分たちが何と戦っているのか、分からなくなり始めていた。
ヴォルク将軍は、その様子を苦々しく見つめながら、ただ静かに、次の指示を待つしかなかった。彼の心の中にも、あの透明の壁の向こう側にある、恐ろしいほどの美しさが、静かに、しかし確実に根を下ろし始めていたのだ。




