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第3巻 第1章 落ちぶれた勇者(5)

夜の帳が降り切る前、閉ざされた庭の空はもう星を孕む。死の森を包む大結界は、外の毒と腐臭を遮断し、代わりに繊細な星屑を漂わせる。白銀の粉が薄い霧のように降り、苔をそっと撫でて緑を柔らかく濁す。水紋ひとつ乱れない鏡湖の面には、星々が裏返しに沈み、揺るぎなくそこに留まる。


「この結界…生きているね」

エララが小声で言うと、背後から静かな呼吸が返ってきた。


「そうか?」アレスの声は夜の闇に溶け込むように低い。

「空気が澄んでいる。岩の縁も、生垣も、すべてがここにあるべき角度で息をしている」


エララは足元の苔を滑らせながら歩いた。外衣の裾が湿った緑を撫で、足音は結界に吸い込まれて消える。耳の奥で、透明な膜が微かに唸る。大結界の低い響きは、眠る竜の呼吸のように一定で、彼女の骨に伝わるたび、アレスの指先と呼気が重なる幻を運んできた。


「ねえ、あの石の列…見た?」

エララが尋ねる。湖の岸辺に並ぶ小さな白石。北の端だけが星座の配列と重なっている。


「気づいているのか」彼はわずかに笑みを含んだ。

「夜になるとここに座り、星図をなぞるように指を滑らせる。あれが彼の癖だ」


「…無謬の景色だけが、世界を救うと」

エララは彼の声を思い出し、胸の奥がざわつくのを感じる。彼の視線はいつも自分ではなく、描いた軌道のほうに向いている。


「アレス」

呼びかけても、返事はない。


「今夜も巡視を終え、帳面に式を書き付けているのだろうか」


彼の筆跡は最近、焦燥を帯びる。


「あの夜から変わったね」

彼が膝をつき、額に汗を滲ませて呟いた言葉が蘇る。


「……どこかが、削れている」


「何が?」とエララは肩を抱いた。


彼は空の星を数えるように、沈黙の粒を並べてから笑った。「たいしたことじゃない」


だが、それは彼にとっては重大だった。


「この花の名、覚えてる?」

エララが問いかけると、彼は首をかしげたのだ。


「星忘れの花。あなたが名づけたもの」


「そうだったか」


それから幾日か後、彼は彼女の耳飾りに目を留めた。


「それは、どこで手に入れた?」


「あなたがくれたの」


一瞬、彼の目が遠ざかっている。


湖面に指先を触れると、冷たさが皮膚を刺し、背筋を這い上がるのだ。


「あぁ…無欠だからこそ、怖いのね」


エララは唇を噛んだ。血の味が鉄の匂いを伴って広がる。


「姫、今日は何曜日か知っているか?」


彼の声が蘇る。


「曜日も、朝露の匂いも、知っているはずなのに」


エララは彼の指が符の線上で止まるのを覚えている。


「これは前からあったか?」


彼が自作の泉を見つめる。庭に水音を招き入れた奇跡の一点。


「あなたが作ったのよ。忘れたなんて言わないで」


「忘れていない。ただ、記憶の棚が…うまく開かなくてね」


「棚?」


アレスは笑い、空を指でなぞった。


「埃が積もっているんだ」


その言葉に、エララは胸を締めつけられた。埃は払えば飛ぶ。しかし彼の記憶に積もるそれは、払っても薄く残る灰のようだった。


「名前が消えれば、記憶も消える。そうなれば……」


「エララ」


一昨日、彼は彼女の名を呼び、いつもと違う間を置いた。


「君の翼は……」


言葉を切る彼の沈黙が鋭く胸を刺す。


「どうしたの?」


「いや」


彼は目を逸らした。


庭の奥、勇者の剣がひっそり錆びている。


「誰のだったか」


アレスが呟くと、エララの喉に冷たいものが落ちた。


「結界は何かを削っている」


「整った景色のために、何かを食らっている」


彼女は白石に指を沿わせた。微かな温もりが掌に伝わる。


「彼はここにいる」


「そして、自分の内側を差し出している」


彼の欠けゆく部分を、エララは拾い集めたい。


「壊れた杯の破片のように」


「花の名、失われた朝の色、忘れた笑いの音」


「全部、押し戻したい」


「忘れない。あなたも、あなたが失ったものも」


湖面に囁くと、水が震え、星が揺らいだ。


「だから──」


彼女は爪を結界の膜に立てた。


「彼の息遣いに合わせて」


「心臓の拍に合わせて」


彼女の胸の獣がうごめく。


「彼に近づくものは、排除する」


「彼から彼自身を奪うものがあれば、それすらも」


エララの瞳に冷たい光が宿る。


「彼はこの結界を愛している」


「それが彼の神であり、刃であり、棺でもある」


「わかっている」


「だから恐ろしい」


「愛と恐れは似ている」


彼女の舌に苦味が残る。


「姫、君は時々泣いている」


「泣かない」と返すと、彼は首を振った。


「泣いたあと、誰より強くなる。そんな顔だ」


「彼がその顔を覚えていてくれたら」


エララは胸の内を呟いた。


「忘れないで」


「わたしを、わたしの愛を」


「わたしが君のために犯した罪も」


「君のために焼いた森も」


「君のために倒した勇者も」


「忘れるなら、閉ざされた庭が覚えていなさい」


「苔に、石に、水に、星に刻み込め」


「彼が見失ったとき、景色が記憶を呼び戻すように」


風が結界の膜を撫でる。


「ピンと張った弦の震え」


彼女は耳を澄ます。


「囁きが聞こえた気がした」


数式の断片のような、知らない言語の調べ。


大結界は呼吸している。


吸って──景色を磨く。


吐いて──誤差を捨てる。


その繰り返しが滑らかすぎて、背筋に冷たいものが走る。


「代償を払っているのは誰?」


夜は答えない。湖は沈黙を続ける。


彼が残した白石だけが、冷えた夜気の中で微かに温かく、エララの掌に熱を伝える。


「何かが、失われている」


「大切なものが、少しずつ、確実に」


彼が最初に忘れるのは花の名。


次は曜日。


その次は──。


瞼を閉じて、深く息を吸った。


星塵の空気が肺を満たす。


内側での獣が身じろぎした。


「彼が忘れる前に」


「彼の代わりに、わたしが思い出す」


「大結界の秘密に、爪を立てる」


「膜の裏に隠された歯車に指をかける」


「彼のために」


「彼を喰うものを、喰い返すために」


湖の底は、空の裏側だった。


エララは白石を抱き、薄い膜の裂け目に指を滑り込ませる。


結界は一瞬だけ抵抗したが、すぐに彼女の体温を学習するように緩んだ。


冷たい光が喉の奥まで流れ込む。


水ではない、数式の滲み。


触れるたび、薄いガラスを弓でなぞるような音が響く。


果樹園に吊るされた鈴の鳴りにも似る。


星屑がゆっくり回転し、その中心に暗孔が口を開けている。


「ここが核?」


囁く彼女に、答えはない。


ただ、あまりに整いすぎた静けさだけがあった。


結界そのものが呼吸している。


吸って──景色を磨き、


吐いて──誤差を捨てる。


その繰り返しが不自然に滑らかで、背筋を冷たく刺した。


彼女は爪を立てて、薄い膜を少しずつ剥がしていく。膜の裏側で、複雑な式の層が露わになる。


「第一層は計測ね。風の速度、苔の蒸散、霞の密度、星の角度……」エララが指先を動かすたび、繊細な数字と形が浮かび上がる。


「第二層は補正。欠けた葉の緑を補い、歪んだ影に規律を与える。第三層は補填。失われたものをどこかから呼び込む……普通の術式の範囲よね」


彼女は一息つき、視線を第四層へ向けた。そこに異様な影が潜んでいる。


「代償層……?」声にざらつきが混じる。指を伸ばすと、銀色の細い糸が見えた。縫い目そのものとして、湖の底を這い、この庭の隅々へと伸びる。


「一体どこへ繋がってるの? 何を抜いているの?」


エララは糸を摘んだ。冷たくて、でも脈動している。彼女の問いに糸は答えなかったが、わずかに震え、彼女の皮膚の下に入り込もうと蠢く。


「答えなさい」


耳の奥で、言葉ではない囁きが弾けた。記号と匂いが混ざり合う。乾いた紙、濡れた石、焼けた杉の香りが交錯し、音階のような記憶が連なる。糸が震え、彼女の皮膚を這う感覚が走った。


「やめて」エララは吐き捨てる。「それは彼のもの」


白い歯車が回るような音が響き、薄刃が柔らかい何かを丁寧に切り分ける。彼女はすぐに理解する。刃が切り裂くのは、彼の記憶だ。


「彼の声、笑い、冬の朝の空の色……初めて刃を握った日の恐怖、好きだった花の香り」


細い糸から、かすかな光の粒が舞い散り、粉となって術式の栄養へと変わっていく。彼の内なる景色が、無情にも奪われている。


「返して」エララは顔を核に近づけて呟いた。まつ毛に冷たい光が降り注ぐ。


「彼のものを返して。わたしのものを返して」


脳裏に、彼の声が遅れて響いた。


「美は代償がなければ腐る」


「じゃあ、あなたは自分を差し出したのね」エララは笑った。笑いは壊れ、ひび割れて、やがて泣き声へと変わる。


「言ってないって顔をしても、ここで言ってるじゃない」


彼女は糸の束の一本を歯で噛み切った。竜姫の牙は、光さえも断つ。甘くて、雨上がりの土や幼い日の寝具の匂いが舌に広がる。


「ねえ、やめましょう」彼女は核に向かい、声を震わせずに懇願した。「あなたが彼を喰らうなら、わたしがあなたを喰らう。先に疲れるのはどっちか、確かめてみましょう?」


核は微動だにせず、淡々と動作を続ける。その揺るぎない様子が、彼女の胸を刺す。


「彼はこの欠けのない姿を愛してる。だってそれが彼を削っているから」


視界が滲む。彼の声が響く。


「泣いた後は、強くなる」


涙を拭わず、そのまま流した。涙は核の光に触れて、細かな星砂となり、術式の文字列を濡らしながら溶けていく。落ちた場所でわずかな歪みが生まれ、第四層がそれをすぐに平らげる。


「最低」掠れた声。彼女は呟いた。


「あなたのために張られた結界が、あなたを削り取っている。忘れていくあなたを、わたしだけが覚えている。こんな罰、誰が考えたの」


歯車の回転の奥で、彼女は全体の仕組みを見透かした。外からの供給だけでは維持できない。死の森は魔を食い、魔は森を喰らう。均衡はいつも揺らぐ。


「この庭は、誤差を内部で消す仕組みなのね」


術者の核に繋がる縫い糸は、失われても気づかれにくい「記憶」や「感情の細部」を燃料に吸い上げる。


爪を伸ばす。竜の爪は物理の鎧だけでなく、魔力の網目も裂く。彼女は第四層の糸に爪を突き刺した。


「全部、切り裂く」


一本、また一本と糸が断たれるたび、湖上の星図が小さく瞬き、庭のどこかで石の崩れる音が響いた。障壁が悲鳴を上げている。爪先から火花が散り、熱が腕を駆け上がる。


「痛い。でも、彼が記憶を削られる痛みに比べたら、こんなものね」


「アレス、怒るかしら?」涙をこぼしながら、彼女は笑った。


「わたしがあなたの庭を壊したら。あなたの誇りを傷つけたら」


五筋目の糸を切った瞬間、強烈な反発が彼女を弾き飛ばした。水面から空へ放り出され、苔の上に叩きつけられる。背中を打ち、肺から空気が絞り出された。見上げると、鏡湖の表面に亀裂が走る。無傷の庭に、初めて刻まれた明確な傷。


「……やった」


息を切らしながら呟いたが、亀裂はすぐに自ら修復を始める。防壁は自己治癒の過程で、新たな糸をより、より太く彼の方へ伸ばそうとしている。


「だめ」彼女は這いずりながら水際へ向かった。


「それ以上は、彼を削らないで」


水面に映る自分の顔を見つめる。竜の瞳が黄金に燃え、鱗が頬に浮かぶ。彼女は内なる魔力の源、竜の核を意識した。


「彼が記憶を差し出すなら、わたしは命を差し出す」


両手を水面に置き、封じの膜へ向かって叫んだ。


「彼じゃなくて、わたしを喰らって。わたしの記憶を、魔力を、命を。彼にはもう、何も払わせないで」


光幕がわずかに震え、彼女の言葉を秤に掛ける。


水面から一本の銀糸が伸びてきて、彼女の手首に絡みついた。冷たい脈動が伝わる。


「それでいい」微笑みが浮かぶ。


「全部、わたしが背負う」


糸が皮膚を貫き、魔力回路に繋がる。鋭い痛みが走り、視界の端が白く飛んだ。記憶の棚から埃が舞い上がり、幼い頃に見た竜の巣の空の色が光の粒となって封じへ吸い込まれていく。


「さよなら、わたしの空」


目を閉じ、彼への想いだけを胸に抱いた。彼が忘れていく世界を、代わりに彼女が支える。彼が生きる世界を、彼女が忘れていく。それが竜の娘の愛し方。

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