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第3巻 第2章 ざまぁと断絶(1)

白石のテラスに、朝でも夜でもない光が流れ込む。肌に触れると薄く冷たい。鏡水は天の光粒を反転させ、わずかな風の気配もないのに縁で微音を立てる。星砂は斜めに降り、角度を一度だけ変えれば頬の陰影が整う。私は指先で空中の細い線をすくい、音のない楽器の弦を調整するように、落下の角度と速度を合わせた。


足音が白石を渡り、湿った布を軽く振った時の音が混ざる。視線を向けずとも誰かが階段を下りてくるのが分かる。王女だ。靴底が石に触れるたび、軽く乾いた音が波紋のように広がる。護衛が二人。背中に緊張を貼り付けたまま、王女との距離を一定に保つ。


「交渉を諦める気はありません、結界師殿」


彼女の声は、鏡水の上で真っ直ぐに伸びた。透明な刃のように冷たいが、握りしめる掌は温い。私は手を下ろし、星砂の線を放してから王女へ顔を向ける。


「眺めは交渉の道具にはしない。ここは揺らぎを均す場所だ」


「揺らぎを均せるのなら、意志も均せるはずです。わたくしは今日からここに滞在します。期限は定めません」


護衛の息が一つ乱れ、すぐ整う。胸元の銀片が光を受け、床の黒がわずかに温度を変える。言葉の重さに合わせ、結界糸が耳の奥で細く鳴った。


「滞在の場所は私が決める。空間は意志の稽古場だ。乱れた意志は景色を崩す」


「承知しました。その代わり、ひとつだけ。わたくしの問いに答えてください。大結界に関することです」


鏡水の端で、花びらがさざめいた。風はない。音だけが空気を撫でる。私は王女の目に視線を合わせる。海の底色の瞳。表面は穏やかだが、奥に動かず待つ波がある。


「秘密を重く抱える趣味はない。隠しごとは隙だ。見つけ次第、直す」


「直す対象が、人であったなら?」


空気が一瞬だけ冷える。星砂が白から薄金に移ろい、王女の頬に柔らかい影が宿る。私の指が無意識に糸を一本引いた。


「ここは死の森の上だ。眠っていたものを起こし、形を整え、置き換えた。『人』の行方を問うなら、今あなたが見ている景色に答えが含まれている」


「勇者は——どうなったのです」王女の声が低く沈む。「森へ入ったあの日から戻っていません。彼は大結界を越えようとした。あなたが止めた。事実でしょう」


勇者。その名に貼りついた数多の呼び名が、冷たい金属の匂いを伴って喉に残る。私は目を閉じ、音だけを拾う。遠くの塔から鳴る微かな揺れ。足元の石の乾き。勇者の意志は直線。曲げなければ折れる。それだけの話だ。


「彼は情景の一部になった。星の一粒の反射。道の曲がり角に必要な陰影」


王女の瞳がかすかに波打つ。選ぶべき言葉が幾つも喉元で並び、冷静が前に出る。


「ならば、その陰影に触れる権利も、ここに滞在して交渉する者にあると認めてください」


返事をする前に、甘い鉄の匂いが風もないのに流れてくる。塔の尖端に細い影が立ち、尾飾りの光がひときわ強い。髪ではなく鱗の硬質な反射。エララだ。眺めの縁から体を倒し込むように降りてきて、テラスの空に浮かぶ。鱗が空気を裂く音が、耳の奥を軽く叩く。


「そこで立ち話?」エララの唇が笑う。「知らない顔がいる。ここ、誰の中心かわかっているの?」


王女は一歩も退かない。「わたくしは客です。交渉のために来ました。あなたがそれを否定なさるなら、理由を伺いたい」


エララは一瞬黙り、尾先で星砂を掬って落とす。光の粒が王女の肩へ滑り、暖かな冷たさだけを置いて消えた。目だけが熱い。


「理由なら……そうね」舌が上の歯の裏を軽く弾く。「あなたの靴音が一歩進むたび、喉の中がざらつくの。星の匂いが少し濁る。気持ちがいい匂い、薄まるじゃない」


私は軽く息を吸い、吐く。「エララ」


名を呼ぶだけで空気の密度が変わる。見えない糸が彼女の周囲を柔らかく巻き、体温を半分だけ奪う。彼女の肩がわずかに落ち、目の端が細くなる。甘い呼気。


「ここは私の庭だ。構図は私が決める。王女は滞在する」


エララは首を傾け、爪の先で自分の鱗をひと撫でした。乾いた小さな音。「じゃあ、曲げ方を見せて。細いものほど、音が綺麗に鳴るでしょう?」


王女は胸元の銀片に指をかけ、笑みを薄くした。「あなたは彼を守る。わたくしは彼の庭の秘密に触れる。目的は違うけれど、強さは似ているかもしれない。ならば中間を探せます」


「中間ね」エララは鼻で小さく笑い、王女の髪へ顔を寄せる。香りを一呼吸だけ吸う。「あなたは誰?勇者に縁があるの?」


「王女です」彼女は静かに答える。「王は世界の風情を整える役目です。だから、整えた手順を知る義務があります」


私は目を伏せ、短くため息を落とす。言い換えれば枠取り。絵は枠があるから絵になる。理解は可能だ。


「滞在の条件を告げる。夜の外出は禁止。塔に近づかない。鏡水に触れない。核に通じる場所には連れて行かない。その代わり、勇者の影は見せる」


王女の呼吸が深くなる。「影で足りる場面もあります」


「影を見るには目がいるの」エララが囁く。声が低く滑る。「余計な光を全部消して、暗いところで見なさい。本当の色が見えるから」


「やめる、エララ」私の声は乾いている。言葉と同時に、糸が彼女の喉元へふわりと触れる。目蓋が震え、笑みが増す。彼女は命令に酔う。


一度、場を下げる必要がある。私は王女を星露亭へ導いた。通路の壁は半透明の石で、触れずとも内部の星砂が風のような気配に応えて光の縫い目を描く。床は黒曜石の薄板。踏むと、硬いはずの素材が音を柔らかく変えた。木は使わない。生身の呼吸と結界のリズムは、常に喧嘩する。


「ここを一時の滞在場所にする。眠りは保たれる。夢は薄くぼける」


「感謝します」王女は護衛に振り向き、目で合図を送る。「あなたたちは外で」


「姫……」護衛は躊躇した。空気の匂いが彼らの舌を鈍らせる。石の冷たさが膝から上へ上がる。彼は顎を引き、剣に置いた手を離した。


エララが肩で笑う。「いい判断ね。ここで刃は役に立たないもの」


「役に立つかどうかは彼が決める」王女はエララの目を見る。「交渉相手は一人で足りる。それだけの話です」


私は窓を開け、空気の配合をわずかに変える。鏡水に意図的な乱れを落とし、波頭の線を見てから王女に視線を戻した。


「一つ聞こう。なぜ帰らない。王都で別の道を選ぶこともできるだろう」


王女は差し込む光を手のひらに受ける真似をした。「王都へ戻ると額のあたりが痛むんです。痛みの形が斜めに走っていて、あの日の森の入口の影に似ている。逃げていると分かる。なら、ここに留まるしかない」


言葉の輪郭は細いが硬い。私は頷かないかわりに、窓へ視線を逸らし、星砂の落ち方をひとつだけ変えた。


エララが近づき、王女の耳元へ口を寄せる。吐息が耳介を撫で、冷たい汗が小さな粒で浮く。


「忠告するね。ここで息をするだけで、誰かの夢に触れる。彼の夢。触れたら、その瞬間の音が聞こえるはずよ。拾って飲み込む前に、よく考えて」


王女は目を細めた。「それでも滞在します。境界を観察したい。境界には秘密が宿るでしょう」


エララの笑みが深くなる。何も言わず、尾を引き、星砂を床に散らす。私は彼女の尾先に指先で触れた。温度が一度下がる。エララが目を閉じ、短く吐息を漏らす。


「エララ。滞在する間、彼女に手出しはしない。これは基礎だ」


彼女は唇を噛み、その歯音が甘く響く。「命令、了解」


王女はそのやり取りを視線で辿り、言葉を選ばずに喉の奥で結論を転がす。この竜姫は彼に従い、彼に満たされる。命令は彼女の刃を鞘に戻し、鞘を光らせる。自分が引く線は、その鞘を傷つけない場所を通すべきだ。


やがて、星露亭の壁の星砂が静かな緩みを見せる時刻が来る。私は薄い布を差し出した。肌理は冷たく、光を通し、指にかけると水の輪が広がる感触が残る。


「眠りの揺れを抑える。掛けて休むといい」


「あなたは美に優しいのですね」王女の言葉が唐突に落ちる。「人には冷たい。でも、美に対しては穏やか」


私は窓枠に手を置く。「美は人より無口だ。無口なものに耳を寄せると、声が聞こえる」


「だから人を景色に変えるのですか」


答えず、外へ目を投げる。鏡水に浮かぶ薄い影。折れた直線が水面で揺れ、輪郭を持とうとする。王女の指は細い。その影に触れれば、皮膚が裂けるだろう。


「明日、見せる。勇者の影を。塔の側面だ。核からは外れている。そこは濃い」


「ありがとうございます」


エララは、その一言まで浴びるように聞いていた。彼女の血の深いところで棘が膨らみ、香りが甘く野蛮に変わっていく。それでも命令は命令だ。鞘は閉ざされている。閉ざされた刃ほど、光る。


王女は眠りに入る前、指先の色を眺める。微かな光が爪の白に集まる。王家の教育が喉裏で蘇る。風情は心を整える。整えた手の跡を見失ってはならない。明日、影に触れずに、見る。


夜の定義が結界の内部で降りた。壁が冷え、音が低くなる。庭は歌う。歌はことばにならない。私は塔を歩く。石は乾いているのに、指先に湿り気が残る気がする場所がある。そこに、浅い窪み。人の指が押した跡。私が触れると、壁が一度だけ息をした。折れた直線の息。閉じた目の裏で、エララの気配が近づく。振り返らない。彼女は背中を好む。背は無防備な線だ。うなじに軽い口づけが落ち、内側で熱が砂糖に変わる。彼女は離れる。命令は守られる。


夢の中で王女は森の入口へ立つ。足裏の温度が急に下がり、土ではなく、冷えた絹の上へ踏み込む感触が走る。光が強く、影が濃い。影の中に男。声はない。顔もない。一本の線。手を伸ばした指先が冷たい刃に触れ、薄く切れる。痛みが明るい。目が覚め、星露亭の壁で光が戻る。銀片を握り、息を吐く。滞在を選んだ。それは、夢を現実の縁まで連れてくる行為だ。


翌朝。空は透明だ。光が水平に落ち、石の白がやわらかく温まる。扉を開ける王女を、眠れていない顔の護衛が迎えた。


「ここにいる必要はありません」王女は穏やかに言う。「わたくしは一人で行きます」


護衛は短く頷き、視線を落とす。足元の石は王女に歩幅を合わせて温度を上げ、膝への負担を軽くする。私は道の先で待ち、衣の裾が風もないのに薄く揺れる。エララは左の一歩後ろ。尾が床を掠め、星砂が尾の動きに合わせて走る。空気の味が甘い。


「準備は」


「できています」


塔の側面に絡む細い階段を上る。直線を避けて作った段は、足首に優しい。手すりを滑る風の音は低い弦のようだ。エララの視線が王女の背へ刺を持って降りる。刺は皮膚に触れないが、気配として感じられる。緊張が王女の呼吸の長さを調える。寸分のずれもなく、上る。


塔の内側は暗くない。色の密度が高いだけだ。壁の星砂は眠っているように静かで、指先で触れると目を開ける。私は壁の凹みを示す。


「ここだ。勇者の影。見るだけでいい」


王女は近づき、目を凝らす。指の形がある。硬い力で押し込んだ跡。周囲に細い糸が走る。一本、切れている。切れ目に光が集まり、呼吸の音がひとつ聞こえた気がする。


「彼は何をしたのです?」


「押した。越えようとした。外へ出ようとした。直線で。それが彼のやり方だ」


「あなたが止めた」


「止めた」


エララが笑いを喉で転がす。「あの時の音、忘れない。硬いものが曲がらずに切り替わる瞬間の響きって、綺麗ね」


王女は振り向かずに言う。「あなたは美しく残酷です」


「褒められた」エララは肩をすくめる。「あなたはよく喋る。その口、形は悪くない。静かにさせたら、もっと綺麗に見えるかもね」


「影は見た。降りる」私が遮る。王女は壁から離れ、胸元に手を置く。鼓動がこの空間の呼吸と合うか確かめ、頷いた。


階段を下りる途中、王女は小さく尋ねる。「結界は、何を喰っていますか」


私は答えない。エララが振り返らずに答えた。「人。時。森。全部」


王女の唇がわずかに硬くなる。「それを美に変えるのですね」


「美は、食べられたものがいい匂いに変わったあとに残る香りかも」エララの声は真面目だ。「だから私は——」一拍、言葉を飲み、目だけで私を見る。「ねえ、アレス様、あとで、少しだけ」


「後だ」短く返す。エララは満足げに目を閉じる。


塔を出ると、光はさらに柔らかく、強く落ちる。空に隙間がなく、視界の端まで均一だ。王女はその完璧がほんの少し恐ろしいと感じ、顎を上げる。恐れは速く血を温める。彼女はそれを抱える。


「滞在を続けます」王女は光の中で宣言する。言葉が鏡水に落ち、輪が重なる。「期限は設けません。交渉は終わらせません。彼の庭がわたくしの問いに答えるまで」


エララの目が細まり、尾が空気を割る。音はしない。肌の上に見えない風が走り、鳥肌の粒が一列に並ぶ。彼女は王女の肩すれすれを通り、冷たい温度をほんの少し置いていった。予告。恐れは育つ。王女は奥歯を噛む場所を覚える。


私はその場で糸を引き、指先で三つの要素を一緒に扱う。王女の線が持ち込む新しい絡み。エララの血の濃さ。勇者の影の揺れ。壁の内側で歌が生まれ、星砂が微かに舞い、空気が香りを変える。庭は続く。続かせることが私の仕事であり、快楽だ。


星露亭への帰り道、王女は鏡水に映る自分を見て立ち止まる。自分の影の隣へ、エララの輪郭が重なる。寄り添うのではなく、距離を測る重なり。彼女は呼吸の長さを変え、禁じられた場所を脳内で赤く塗り、そこへ線を引かないと決める。守りながら、問う。問いは磨かれ、形が細くなる。大結界の秘密は糸の一本、塔の一辺、鏡水の皺、星砂の角度。全部。彼の言語を覚え、そこに質問を置く。それが王の仕事だ。


夕刻。エララは王女の部屋の外側の屋根に腰を下ろし、足をぶらつかせながら星砂を指で掬い、舌に乗せる真似をする。味はしない。想像の味は甘い。鞘の中の刃が静かに喜ぶ。彼女は遠い塔の上で糸の乱れを直している私の横顔を思い浮かべ、目を伏せる。


夜。王女は星露亭の壁へ背を預け、音を聴く。庭の歌。歌は合図。彼女は合図を拾う練習を始める。自分の命の重さを指先で測る。軽い。軽いものは飛ぶ。飛ばないよう、足に重りを付ける。重りは意志。意志は滞在。滞在は交渉。交渉は曲線を変える。変えられると信じる。目を閉じる。夢は薄く、星砂の間を落ちる。


外では夜が再定義され、塔の内部で色の密度が揺れる。死の森は圧縮され、こちら側は膨らむ。その釣り合いは危うい。王女の滞在が重さを加え、エララの刃は研ぎ澄まされ、勇者の影は折れた脊柱としてなお支える。薄氷の上に全てを置き、私は指先で滑る。


滞在の宣言は朝に発され、夜に効力を増す。王女はそれを肌で知り、エララは血で知る。私は景色の手触りと匂いで知る。勇者は影の中で知る。彼は黙る。直線は折れたが、折れ目は光る。触れれば切れる。王女は触れない。見る。覚える。覚えることが、彼女の武器だ。

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