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第3巻 第1章 落ちぶれた勇者(4)

夜が降りる。けれど、ここに満ちる夜は外とは別物だ。


頭上には薄い硝子を重ねたような光の格子が広がり、星は一度そこで折れ、柔らかく屈んでから庭に届く。空気中には粉砂糖のような銀の粒がゆっくり舞い、指で掬えば冷ややかに散った。風は急がない。薄衣の袖を撫で、髪の先をほんの少し動かし、必ず同じ角度で去っていく。


結界の中心、露天のテラス。白い大理石は爪先に冷たい。黒曜石の細い象嵌が弧を描き、光をすっと吸い込んだ。テーブルには月華蓮がひと鉢、硝子の器の水に浮かぶ。十二枚の花弁。蕊の長さも揃っている。香りは甘いのに、吸い込めば首筋の熱が引いていく。薄い氷膜のような香気。


私の向かいに、王女リーゼロッテ。


旅路の埃が肩に残る。金の髪は木の枝に引かれた跡があり、艶は薄れて見えた。目の下の隈は濃く、頬は削げている。それでも背筋は伸びる。椅子の背に触れず、膝を揃え、小さな銀のカップを両手で持ち上げた。


「……いただきます」


自分に言い聞かせるような声。煎じた薬草の香りが鼻を抜け、舌に触れた瞬間、さざ波がぴたりと止むような静けさが胸に広がる。味の輪郭が均された茶だ。彼女は一息に飲み、音を殺してカップを置いた。陶と石が触れる短い音は、すぐに薄い布の向こう側へ押しやられる。


「アレス殿」


夜気に染みこむ声。


「お願いに上がりました。……世界が、本当に終わりかけているのです」


広げられた王国の地図。半分は黒。書き込まれた境界線は途切れ、余白には数字が並んでいた。彼女自身の手で刻んだ死者の数。掠れた筆跡が幾列も、墓標のように続く。


「東部諸国はすべて…失陥しました。南の港も先月、灰に」


「勇者は」


私が口を開くと、リーゼロッテは顔を上げた。息が短い。


「……お力を失われたままです。剣が、手から落ちて。拾い上げる者も現れません」


「王都は」


「兵も食糧も、もう足りません。城壁の上に立つ者は、半分が民間の人々。子供もいます」


「地図の黒は、あなたが塗ったのですか」


「はい。……自分の手で、記さないと、目を逸らすと思いました」


言って、彼女は視線を落とす。紙の上にはまだ乾ききらない濃い線があった。指先がわずかに震える。カップがわずかに揺れる。月華蓮の影が延び、わずかに歪んだ。


その乱れを、私は見過ごさない。指を上げ、空気の縁に触れる。


葉が戻る。影が引き締まる。水面のきらめきが、正しい幅へ収束する。


「……すまない」


「いえ」


「あなたの手が震い、三箇所ずれました。直さなければならない。続けて」


「はい」


リーゼロッテは唇を噛み、鉄の味を呑む。彼女は知っている。アレスという男は、もはや一個の人間というより、ひとつの美意識そのものだと。それでも頼らねばならない。


「どうか、王都の周囲だけでも、この結界を。あなた様の『箱庭』と同じものを。民が逃げ込める場所が要ります」


「なぜ」


「……なぜ、とは」


「あなたが守りたいものの形を、確かめている」


問い、私は茶を一口含む。湯の温度は舌の上で一定だ。月華蓮の香りが薄く広がり、すぐに消える。


「市場の喧噪。兵士の笑い。子供の足音。そういう音が、私には雑音に聴こえる」


「それでも、そこに暮らす人々がいます。……毎朝、パンを焼く匂いがして、昼には猫が日向ぼっこして、夜は家に灯りが点く。誰かが転べば手を伸ばす人がいて。そういう場所を、私は守りたいのです」


「世界、ね」


私はカップを置く。石に触れる底の感触がわずかに指先に伝わる。


「私はその語の価値が、よくわからない」


目の端で、彼女が息を詰めるのが見えた。


「世界は広く、雑だ。整っていない山、数の合わない花、増え続ける声と、戻らない命。色はぶつかり、音は重なり、匂いは混じる。……私は長く耐えてきた。耐えた末に、ようやくここへ辿り着いた」


立ち上がって欄干へ歩く。蝋燭の炎が低く揺れ、銀の睫毛を縁取った。夜の庭が息をする。整えた並木の間を風が通り、敷石は踏めば同じ音で鳴る。池の水面には波紋が三つ、等間隔。水底の仕掛けが淡く光り、一定の脈を保つ。漂う蛍は千二百四十八。月齢で増減させる。


「死の森を選んだのは、何もなかったから」


「……白紙に」


「そう」


私は頷く。空気の冷たさが頬に触れる。その冷えは、私の肌の上で滑り、決められた温度へ落ち着いた。


「私は塵ひとつからやり直し、数の合わないものを排し、音を整え、光を揃えた。この庭は、私の手で描いた一枚の画です」


「美しい……です」


リーゼロッテの声音には諦めが滲む。目の前の景色は確かに息を呑む。だが、その美は生きものの熱を拒む。彼女の胸にある王都の絵とは、同じ世界の別の頁に書かれている。


「だから、お願い致します」


彼女は再び身を乗り出し、地図にかじりつくようにして言葉を継ぐ。


「もし世界が滅べば、やがてここも……魔の手に」


そこまで言いかけ、彼女は気づかない。庭の呼吸が止まる。


四十二秒に一度の微風が、約束の刻を過ぎても来ない。私の意識が会話に偏り、ほんのわずか緩んだのだ。銀の梢は静止し、蛍の瞬きに、ひと拍の乱れが走る。


私は気づく。目の奥の光がひとつ消え、冷えがなる。柔らかさが氷に変わる。


「殿下」


声の温度を落とし、私は振り返った。蝋燭の光が、まつ毛の影を長く引く。


「答えを言う。二度は繰り返さない」


一歩、近づく。大理石が靴底に乾いた音を立てた。


「世界など、どうでもいい」


リーゼロッテの目が、大きく開く。喉が鳴る。言葉が出ない。


「魔王が進もうと、王国が崩れようと、勇者が倒れようと。あなたの民が一人残らず引き裂かれようと。私にとっては、ここで蛍が一匹減るほうが重大だ」


「そんな……そんなことを……!」


「私の庭が最優先だ」


揺らぎはない。音がない湖面のように、言葉が落ちる。


「この空間の寸分の狂いもない秩序のために、私は外を手放す。あなたの命も、勇者の命も、民の命も。すべて、外側だ。そうしなければ、この清らかさは維持できない」


私は笑った。形だけの笑み。頬の筋肉だけが動き、目は冷たいまま。


「今すぐ去ってほしい。それがあなたにできる最大の協力だ。あなたの足音は、ここでは雑音だ」


「酷い……」


声が掠れ、リーゼロッテの睫毛に涙が溜まる。こらえた一滴が頬を滑り、テーブルの上へ落ちた。


そこで、暗がりがわずかに呼吸した。


梁の上。黒い髪が影に紛れ、白い肌だけが月明かりに浮かぶ。紅い瞳が、夜の深部で細く光る。


竜姫エララがいる。膝を折り、私を見下ろす。視線は揺れない。私が王女に一歩近づいた時、彼女の爪が乾いた木に食い込み、木屑がさらさらと落ちる。私が「最優先だ」と言い切った瞬間、唇がかすかに弧を描いた。気配が甘く、冷たい。


「……その人の名前、教えて?」


囁き。梁の上から落ちるほど小さな声だ。笑っているのか、息か、境が曖昧だ。


リーゼロッテは振り返る。空。何も見えない。月華蓮の花弁が、見えない指に触れられたみたいに微かに震えた。


「ふふ。もう、大丈夫。覚えなくていい」


エララの指先に、霧が生まれる。白い息。梁の木肌に薄い霜が這い、すぐに消える。名前を問うて、手繰り寄せてから、指を離すみたいに。声は柔らかいが、温度は低い。


「エララ」


私は視線を上げずに呼ぶ。空気の密度が一線で変わる。


「お喉が渇いてるでしょう? お茶、冷めます」


「あとでいい」


短く返し、私は再び欄干に向き直る。


庭へ集中を戻す。止まっていた風を、北から南へ送る。梢が美しい角度で揺れ、蛍が一定のリズムで瞬く。池の波紋は三つ、また間隔を保つ。月華蓮の影が、定められた長さへ落ち着いた。針が、正しい時に戻る。


庭は、均衡を取り戻す。


リーゼロッテの肩が震える。彼女は椅子の端で身を小さくし、声を殺して泣いた。音は吸われ、涙の塩の匂いだけがわずかに残る。彼女は袖で目を拭き、息を整えようとする。吐くほどの苦い現実に歯を立て、それでも崩れないよう、背筋だけは保とうとする。


「……本当に、何も、していただけないのですか」


震える声で問う。最後の綱に指をかける。こちらを見ない私へ向けて。


「ここを荒らさないこと。それだけだ」


「王都の人々は」


「外だ」


「勇者様は」


「外だ」


「私の命も」


「外だ」


「……この地図も」


「紙は紙だ」


短いやりとりが続くたび、リーゼロッテの肩から力が抜けていく。言葉が途切れ、唇だけが動いた。何度も何度も、お願いという語を形だけ作る。声は出ない。喉の奥で乾く。茶の香りが、遠いものになる。


「わかりました。……失礼致します」


立ち上がろうとする足が、椅子の脚に触れ、微かな音が鳴る。その小さな音を、私は消す。空気の布で覆う。彼女は一瞬、戸惑ったように顔を上げたが、その表情もすぐに落ちた。


「お忘れ物」


私は地図を見た。広げられた紙の端が、風に持ち上げられかけている。手を伸ばし、角を押さえる。指先に紙のざらつきが移り、わずかに指紋が残る。数を書き込んだ筆圧の跡が、わずかに凸凹になっていた。そこに、汗がひと粒、落ちて広がる。円が大きくなって、止まる。


「……持って行きます」


彼女は地図を畳み、胸に抱えた。胸の奥から空気を押し上げるみたいに、深く息を吸う。吐く。顔を上げる。目に宿る光は弱い。けれど、消えてはいない。


「アレス殿」


彼女は最後に、まっすぐこちらを見た。


「あなたがここで守っておられるものの美しさを、否定は致しません。いつか、外の子供たちにも、同じように息を呑む景色を見せたかった。……それだけです」


私の返事は、なかった。風の音だけがある。規則正しい葉擦れ。距離のある水音。


「行こうね」


小さく、自分に言うように、彼女は歩き出した。靴底が大理石に触れるたび、私は音を薄める。重さが均され、足跡が消えていく。テラスの境界で彼女は一度振り返る。月華蓮は静かに浮かび、蛍は数を保つ。私の横顔は動かない。


暗がりの上から、エララが息を漏らす。笑いにも、ため息にも似た音。彼女は梁からふわりと降り、影の中に紛れてこちらへ歩み寄った。足音は出ない。気配は甘く、冷たい。


「アレス様、指に紙の粉が」


彼女は私の手を取る。ひやりとした掌。指先に触れた瞬間、薄い白が生まれ、粉が粒に変わり、風に散る。エララはそれを目で追い、細く笑った。声は出さない。爪が私の手の甲に触れ、すぐ離れる。その爪先には木の香りが残っている。


「余計なことはしない」


「……うん」


短い返事。頷き。言葉より長い沈黙。


リーゼロッテの背は遠ざかる。結界の縁まで行けば、彼女は外の風に触れる。草のざわめき、土の匂い、誰かが歌う古い子守歌。それらが彼女の耳に戻るかもしれない。私はそこまで見送らない。見なくても、どの角を曲がり、どの木の影で立ち止まるか、音だけでわかる。


「……寒い」


エララが小さく呟く。夜の温度に対してではない。彼女は私の肩に額を寄せ、空気の一部になろうとする。私は動かない。夜の粒が頬に触れ、静かに消えた。


「風を」


私は指で空を弾く。北から南へ、所定の流れが戻る。銀の梢がきれいに揺れた。蛍は数を崩さない。水は三つの輪を保つ。月華蓮の影が、決められた長さで止まる。


庭は再び、一分の隙もなく整った。音が揃い、光が定まり、匂いが薄く流れる。冷たさは心地よい。触れるものはすべて、所定の位置へ帰る。


そこに、王女の涙の痕だけが残る。石の上に小さな輪。数に入らないもの。計算されていない一点。風がそれを乾かすまでのほんの短い時間、私は視線を滑らせ、数えなかった。

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