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第2巻 第5章 四天王襲来と絶対防壁(1)

肺の奥から錆びついた金属音が響き、喉の裏に苦い感触が広がる。ザイオンは口内を満たす錆びた味を吐き捨て、頼りない根に足を取られながら進んだ。足元の苔は厚く、脂に濡れた羊毛のようにしっとりと絡みつき、踏みつけるたび鈍く粘る感触が靴底にまとわりつく。どこからともなく湧き上がる白緑の瘴気は視界を層にして曇らせ、倒れかけた倒木の輪郭をぼやけさせる。霧とは異なる重さ、煙とは違う冷たさ。空気の形をした毒だ、と頭の片隅が告げるが、すぐに別の感覚がそれを否定した。これはただの“外”なのだ、と。


「結界の外は……いつもこうなのか?」


自問したところで答えは返らない。思考は絡まり、言葉は喉の奥で解けて消えていった。背後にあるはずの境界は視認できない。ただ、確かに越えたことは分かる。あの瞬間、足裏が薄い膜を撫でる感触と、耳に残る微かな鈴の音――見えぬ幾何学の網目が、彼を内側から外へと滑らせた。滑り出た先に広がるのは、薄汚れた黄の空、膨れた樹皮、そして吸い込むたびに体内で増殖する棘の群れだった。


「……俺が、馬鹿だった」


彼の呟きは熱そのもので、傍らの糸杉のような枝が、吐息に反応して静かに痙攣する。黒い樹液が滲み出し、瘴気に混ざって甘く腐った香りを漂わせる。鼻をつまもうと手を伸ばすが、その動作が面倒に思え、指を引っ込めた。手袋の革はひび割れ、瘴気は乾いた泥のように指紋を塗り替えていく。


「痛みは……遅れてくる」


言葉とは裏腹に、痛みは間に合わず、恐怖に追いつけずに体内で迷子になった。足は鉛のように重く、膝は逆さまの歯車のように軋み、肩に担いでいた剣の重みが妙に軽いことに気づいて振り返るが、そこには何もなかった。いつの間にか、置き去りにしてしまったのか。いつから離してしまったのか。


「勇者様、勇者様」


葉の裏から囁き声が漏れた。瘴気の粒子が擦れ合う音は、かつて村人たちが彼を呼んだ甲高い声に似ている。ただ似ているだけで、同じではない。ザイオンは首を振り、乾いた頬に貼りついた髪を払いのけた。湿気と乾燥が同時に襲い、皮膚は自分のものではない異物に感じられる。


「どこへ行くの、勇者……?」


「帰る。俺は……戻る。謝るために……」


喉の奥で砂が転がるような痛みを感じながら、彼は立ち止まる。ふと足元に目をやると、靴紐が知らぬ間にほどけて絡まり、まるで別の生き物のように土の中へと延びていた。慌てて引き抜こうとするが、指は痺れ、感覚は曖昧だ。靴と足の境界が滲み、どちらともつかぬものになっていく。彼は腰を落とし、片膝をつき、泥の上に手をついた。冷たくぬるりとした泥は、手の熱を奪いながらも彼の手形を覚えようとするかのようだった。


遠ざかる断絶の縁。内と外を仕切る麗しい境界は、背後へと滑り落ちていく。ザイオンは振り返るも、何も見えない。霞んだその先に、色の微妙な違いがあるような、ないような――青と緑の純度が突然高まる帯。あの森を覆い、腐敗すら風景に変える青の編み目。それはアレスの庭の縁であり、寸分の狂いもない箱庭の外枠だ。掌で包める世界の正確な断面。彼はそこから滑り落ちたことを、いやおうなく認めるしかなかった。


「アレス……」


その名は美しく、呼ぶだけで喉のざらつきが一瞬だけ和らぐ気がした。彼は静かに何度も繰り返す。すでに遠い誰かの名を、絶え間なくつぶやいた。返事は返らず、代わりに瘴気の泡がはじける音と、自身の呼吸が崩れる音だけが響いた。


「ごめん。俺は……わかっていたはずだ。お前の庭に足を踏み入れるなら、その線を越えるなら、ただの“強さ”なんて役に立たないって……。なのに、俺は勇者の肩書きに縋って、調子に乗って……」


口元が歪み、笑えないのに笑おうとする衝動に駆られる。ザイオンは一瞬だけ自嘲の笑みを浮かべ、それはすぐに咳に変わった。吐き出された痰が地面に落ちると、そこから白く薄い茸がにゅるりと顔を覗かせる。瞬く間に傘を広げ、吐息に揺れる。森の時間は早く、成長と腐敗が瞬く間に起きる場所だ。彼の身体もその速さに巻き込まれているのだろう。


一方、私は壺庭の中央に置かれた水鏡の表面を指でなぞっていた。指先が動くたび、薄い銀の波紋が触れ合い、格子状に重なり合う。息を詰め、見えぬずれを爪先で整える。肋骨は薄く、筋は無駄がなく、皮膚は白い陶器のように滑らかだ。美しい、という言葉が自然に動作に寄り添う。意識はせずとも、美しいものは美しいままであるべきで、そうでないものは視界から消えるべきだと思う。私の骨の奥まで染みついた信念だ。


「今日の風はとても素直ね。アレス様の好きな、透き通った嘘ばかり運んでくる」


蜂蜜を温めたような甘さと、鉄の刃の冷たさが混じる声。背後から彼女が立ち、その肩越しに水鏡を覗き込む。黒髪が耳に触れ、小さな鳥肌が首筋を走った。眉をわずかにひそめるが、不快感ではなく、乱れた布を整える仕草に似ている。


「素直な風というのは、縁がよく合うということ。影が揺れる場所と光が集まる場所が、予定通り重なるの」


「予定通りに重なるもの以外は、奪うのか?」


「それは余計な感情が混ざりすぎ」


冷たく言い放ち、指先を水面から離す。映る庭の歪みが消え、唇がわずかに緩む。一分の隙もない状態に近づいた。美しいものが好きだ。何より、自分の庭が美しいことが好きだ。庭に不釣り合いなものが侵入するのを許さない。侵入物は網目に絡め取られ、庭にふさわしい形へ加工される。それを「整える」と呼ぶが、整えるには忘れることが不可欠だ。余計なものから順に、思い出す必要のないものから記憶を捨てる。庭の維持機能のひとつ、忘却は呼吸のように自然な行為だ。


――ザイオンは、胸の奥で冷たい何かがぶつかり合う音を聞いた。骨と骨が擦れているのだろうか。自分の骨がどんな音を立てるのか想像したこともなかった。彼は笑った。笑いは息に変わり、瘴気を吸って吐き出す動作と重なる。


「俺みたいな奴が、何を分かったつもりでいたんだろうな」


「最初から、分かっていたよね」


声がした。自分の声だが、少し違う。昔の自分の声に似ている。少し高く、肩の力を抜いた、背負うものが少なかった頃のそれ。ザイオンは額に手を置き、頭皮の下で傾いた何かを戻そうとするが、戻らない。瘴気は指先や爪の隙間、目頭や口角から入り込んでくる。


「英雄でいられると思っていた。肩書きが守ってくれると」


「英雄とは人に与えられる名札。名札は剥がれる。剥がれた紙は湿った地面に貼りつき、靴の裏にくっつき、忘れ去られる」


「黙れ」


吐き捨てる言葉は怒りだったが、怒りは対象を求める。ここにはない対象に、怒りは空洞に向かい、戻ると冷えていた。自分自身に向けるほかない怒り。胸元を掻くと、かつて神の加護と呼ばれた印があった。女司祭が笑みで押した印の感触は温かく記憶に残るが、今は風見鶏のようにぐらつき、意味を失った円を描いている。その感覚すら痺れに溶けていった。


前腕に白い結晶のようなものが滲み出ていた。雪のようだが冷たくなく、触れるとしっとりし、すぐに指先の温度で溶けてしまう。彼はそれを拭い、指を鼻先に寄せた。匂いはない。無臭とはここでは匂いのようなものに感じられた。聴覚だけが鋭敏で、遠くで何かが歩く音、ぬるりとした足音、木の幹に擦れる硬い皮膚の音が鼓膜をくすぐっている。


「振り向くな」


自分に言い聞かせた。背後には端正なものがあった。そこに戻れないことを、誰よりも分かっている。その理解はあまりに遅すぎた。


「今日の境界、少しだけ声が濃いわ。何かが連れていかれる音がする」


エララは焦茶の瞳を細め、遠い外縁を見つめた。鼻腔がわずかに膨らみ、竜の血が運ぶ情報を舌の上で解きほぐすように言葉に変える。私は視線だけをそちらに向け、目に薄い膜を落とす。境界の声は形として現れた。幾重にも重なる円が幾何学の焦点でわずかに歪み、増えた点がひとつしばらく留まり、やがて縮んで消えたのだ。


「風が余分な曲線をひとつ削った」


「誰かの名か?」


「名は……知らない」


本当に知らないのだ。境界は不要な情報を与えない。庭の秘密の一つだ。ここでは名は役目に従属し、役目が終われば消える。私が覚えているべきは、霧の濃さ、透過光の色味、苔の成長速度、尸花の開花時刻だけ。名は美しければ覚えられ、そうでなければ忘れる。


「なら、忘れて。私のためにも」


エララが耳朶に息をかけ、柔らかな笑みを浮かべた。笑みの奥には鉄の芯が光る。彼女にとってこの庭は私のすべて。視界に入るものは彼女の愛情の延長であり、同時に嫉妬の対象でもある。庭の外から伸びる蔓は、彼女の手で切り落とされるべきもの。黙って境界に耳を澄ませ、その蔓が自壊する音を味わっている。


ザイオンの膝が崩れ、地面と接吻した。唇に触れた土はざらつき、柔らかく、かすかな甘みを帯びている。腐敗の味、死の予告。彼は舌先で確かめ、頭を上げる。視界の端で、光が落ちる。星屑のような小さな光の粒が瘴気の層を通り抜けてきた。見上げれば、樹冠から垂れる細い糸の先から、雫のように光が滴り落ちている。指を伸ばすと、光はすぐに消え、代わりに痺れが指先を貫いた。


「星が……降っているのか」


「星じゃない。お前の息だよ。吐き出したものが、きれいな形で戻ってきただけ」


「そうか」


妙に納得し、笑いそうになったが、それは咳へと変わった。咳の合間に見える景色は幼い頃の記憶に似ていた。勇者という言葉を遠く眩しく眺めていた頃、村の外れの崖の上で子供たちと星を数えた夜。ありもしない流れ星を見たと騒ぎ、指さす先に何もないと泣く子が一人いた。ザイオンは背中を叩き慰めた。代わりに自分で願いごとを考えたが、何を願ったのか思い出せない。強くなることではなかったはずだ。強さはいつだって後からついてくるものだと信じていた。


「アレスに、謝りたい」


誰に聞かせるでもなく呟く。瘴気は応えないが、足元の苔は彼の言葉の重みに反応したかのように少し沈んだ。身体の輪郭がぼやけ始め、袖の縫い目がほどけて糸が糸らしくなくなり、繊維と皮膚の境界が混ざり合う。指の先は鈍く、手のひらはぬるく、水そのものだった。形を欠いた流体。水は形を持たず、形を与える器が必要だ。彼は器を失った。庭という器を、外へ出てしまったのだ。


私は小さな石を拾い上げ、掌で転がす。透ける瑠璃色の石内部に、極細の白い線が幾筋も走っている。それを見て、庭の外で誰かが吐き出した願いの形を想像したが、それ以上は深掘りしない。余計な穴を生むだけだから。庭は穴が少ないほうが美しい。


「エララ、この角の苔の密度が上がっている。光の供給を少し絞る」


「あなたの好みね」


「当然だ」


私の声は冷たいが、確固たる正しさを含んでいる。世界は好みに従って整えるべきだ。好みは気まぐれではなく、経験と法則、感覚の結晶だ。そこから外れるものは見ない。見なければ、最初から存在しないのと同じだ。ザイオンという名に重みがあっても、それは今、私の視界から完全に消えている。


ザイオンは膝と肘で這うように進んでいた。立ち上がるという選択肢は身体から消えた。進むとは、ただ体を少し前方へずらす行為に過ぎない。目標はなく、動きを止めることが怖いため、続けるだけだ。木の根が腕に影を落とし、その影が体内の濃い部分と共鳴し、濃さは薄れていく。薄くなれば、風のように軽くなる。風になれば、痛みも消える。


「俺は、何をしてきたんだ?」


問いは宙に溶けた。彼がしてきたのは、誰かに与えられた敵を斬り、誰かが描いた物語の役を演じ、誰かの決めた正しさに縛られて笑うことだった。私の庭の前で、その物語は紙のように薄く見えた。手汗で透け、文字は滲み、読めなくなった。そして彼は、その物語を怒りで破ろうとしたが、破られたのは自分のほうだった。


「ざまぁってやつだな」


自分に言い聞かせる。言葉は刺さるが、腑に落ちる。自ら選んだ物語の外に放り出され、誰のせいでもない。愚かさの結果だ。せめてそれを認め、最後の形を保とうとするが、形は保てない。瘴気は優しくも容赦なく、指の間からすべてを掬い取った。掬われたものは庭の上空で小さな光の粒となり、降り注ぐ。星が降る庭。誰かが見上げ、誰かがため息をつく。その誰かに、ザイオンという名は不要だ。


「アレス、見て。今夜は星が多いわ」


「湿度が上がったからだ」


「あなたの水鏡も星を映している」


「映り込みが強すぎると、輪郭がぼやける」


「ぼやけても、きれい」


「きれいかどうかは、私が決める」


断言する。決めることはここでは神の仕事に似ている。庭の神は私、信徒はエララ。彼女は熱心で、時折境界に爪先を滑らせ外を覗く。そして笑う。外の濁りを見下ろす笑みだ。彼女は汚れを愛さない。愛さないからこそ、私が汚れを忘れるのを助ける。彼女自身、汚れは嫌いだが、汚れがあるからこそ自分の清潔さを確認できるという矛盾を抱え、それを可愛いものとして大切にしている。


ザイオンの視界に淡い青が広がった。錯覚か現実か、薄い青の層が木々の間に張り巡らされ、その向こうで静かな水色の明かりが息づく。手を伸ばすが、届かない。手のひらは藻のように柔らかく、指は水に溶ける。空気が冷たくなる感覚は久しぶりの友のようで、唇が動いた。


「きれいだ」


謝罪でも告白でもなく、小さな鑑賞の言葉。美しいものを美しいと認める最後の瞬間。彼は同時に、それほど美しいものの傍らで、自分が何ひとつ美しくなかったことを知る。痛みは遠く、名は口の中で滑る。ザイオン。ザ。イ。オ。ン。脳の奥に刻まれた文字が雨に濡れた地面のチョークのようににじみ流れた。


「ザ……イ……」


声は途切れ、唇だけが形を作る。瘴気は見逃さない。筋肉はふやけ、形は崩れ、彼の顔は顔であることをやめる。眼球の表面に薄膜が張りつき、その膜は微細な菌糸の網へ変わり、視界は外から内へ侵食された。最後に見えたのは、青い幕が光を跳ね返す様。渓流の水面のような揺らぎ。小さな波紋はすぐに静まり、視界は闇と淡い光に満たされ、光が闇の中で小さな瞬きを止めた。呼吸は浅くなり、消えたことにすら気づかれず、静かに彼は溶けた。


庭の外縁では、その瞬間、かすかな風の揺らぎがあった。ひとつの名が溶け、湿度が上がり、光の粒がひとつ増え、苔の成長がわずかに速まる。私はそれを数値化し、角度をひとつだけ補正した。指は迷わず、美しい軌道を描く。


「誰か消えた?」


「誰だ?」


「誰でもいい」


「消えたものはない。ただ整っただけ」


真実だ。私の真実であれば、それ以外の意味はない。記憶の奥に、かつて勇者と呼ばれた誰かと交わした会話の残り香が泡立ち、すぐに弾けた。泡は光の粒となり、庭に降り注ぐ。エララはそれを見上げ、細い指でひとつ捕まえる真似をするが、何も掴めない。


「ねぇ、あなたの庭はますます非の打ちどころなくなるわ」


「まだ足りない。理想は常に先にあるからこそ、美しい」


「だから、誰も追いつけない」


エララが私の腕にやさしく口づけた。牙を立てたくなる衝動を抑えながら。彼女は私の血を知っている。欲望のままに味わえば庭の均衡が崩れることも。彼女は賢く、だからこそ狂っている。狂っているからこそ賢い。私の横に並び、鏡に映る庭の端を見つめる。境界は滑らかで、音のない曲線を描いている。曲線の向こうで瘴気は渦巻き、何かを憶えたけれど何も憶えていなかった。


ザイオンの名は、森の瘴気に消えた。彼の愚かさは、最後に正しく呪われ、呪いは届かず、庭の外で小さな泡となってはじけた。誰も聞かず、誰も覚えない。私は彼を忘れた。忘れるのではなく、最初からなかった風景の一部として視界に入らない。庭は整い、青の層は幾重にも重なり、夜には星が降り、朝には水鏡が光を反射する。庭は申し分のない姿に近づき、完成に不要な物語は外で朽ちていく。


森の奥で、かすかな笑い声がした。風か瘴気か、あるいはエララの喉の奥か。区別はつかない。ただ、それはこの庭には関係のない声だった。関係のないものはすべて境界の外へ。関係のあるものだけが私の指先の下で形を得る。庭は息をし、星は降る。私の忘却は庭の秘密として、今日も美しく働き続けている。

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