第2巻 第4章 失われる記憶(5)
それから、幾つかの季節が巻き戻る。
(なぜ、こんなことになったのか)
死の森の最深部は、肺の裏側がちりちりと焼ける匂いで満ちる場所だと聞いた。だが、足裏に触れるのは冷えた白の艶、耳をなでるのは細い水音のような風、鼻をくすぐるのは甘やかな薔薇の香り。空は磨いたガラスのように澄み、光は斜めに落ちて白い床と紅の花弁の境界を柔らかく描く。
世界の一部が切り取られた、異物の静けさ。多層に重ねられた透明な膜が、外からのざらついた気配を押し返しているのが肌でわかる。触れれば指先にひやりとした抵抗があるのだろう。
この切り取りを成したのは、結界師アレス。白の大理石は指の腹を映し、薔薇園は茎の角度までそろう。風のたわみ、香りの濃淡、光の射し込みまで意図が通う空間。
そこに、土と血を連れて足を踏み入れた男がいる。
ザイオン。かつて「選ばれし勇者」と持て囃された男。
黄金の鎧は凹み、泥も血も乾いて黒ずむ。裂けたマント、油と砂で固まった髪。肩が上下し、息には鉄の味が混ざる。なのに目だけはぎらついて、乾き切った瞳孔が「自分は特別だ」と喚いていた。
「ふざけるな……! 俺は、俺は選ばれし勇者だぞ……!」
濁った叫びが、薄氷のような静けさをきしませる。汚れた靴が白へ泥を押しつけ、歩むたびに不快な擦れが響く。
視線の先、純白の肘掛椅子に座り、紅茶の香りを細く吸い込む男がいた。アレスだ。目の高さは杯と薔薇の蕾に置かれ、ザイオンを見ようともしない。
「……この花弁の縁、開きが早い。光の入射角、〇・一だけ落とす」
彼は小さくつぶやき、指先で薄い符を宙へなぞる。硬質な青い光が浮かんでは消え、空気の張りが微かに変わる。ザイオンはその光を「無視」と受け取った。
「無視するな、アレス! お前は俺のパーティーの支援役だったはずだ! 俺の足元に這いつくばって、許しを乞え!」
聖剣が震える腕で持ち上がる。金属が擦れ、鈍い光をこぼした。
アレスを追放してからの道のりは、ザイオンにとって泥濘だった。思い知ったのは、力の正体。自分の一撃の無事を担保していたのは、目に見えない薄膜と数字。見えなかった支えが抜けた日、ありふれた群れにさえ押し返され、仲間は傷を重ね、やがて背を向けた。
それでも、口から出た言葉は別の形を取る。
「こんな辺境の森で、結界に引きこもっているだけの臆病者が! 俺が直々に制裁を下してやる! そのふざけた結界ごと、俺の聖剣で叩き斬って――」
空気が鳴りをやめた。
体温が落ちたのではない。音が吸い込まれ、匂いが細り、空間のひだが強張る。薔薇の葉脈までが耳をすませる。
アレスの傍ら、白い影が緩やかに振り向く。竜姫エララ。
銀糸をほどいた髪は淡く光を拾い、雪のような肌に冷たい青い影が差す。白のドレスには手で追いきれない細工が走り、その一針一針が光を抱く。普段の彼女は、アレスに寄せる視線だけで甘い香りがした。
今は違う。金の双眸が細く絞られ、瞳孔は縦に裂ける。生き物の奥で何かが目を覚ます音。乾いた石が割れる音が、彼女の中から小さく響いた。
「……今、なんて言ったの?」
鈴の音に氷砂糖を落としたような声。言葉の形はやわらかいのに、触れると皮膚が切れそうだ。
ザイオンの背を、見えない針がつつく。本能が総立ちになる。それでも足は意地で地面を踏む。
「な、なんだお前は! 俺は勇者だぞ! アレスのような無能を庇って、俺に逆らう気か!」
震えた声。剣を持つ手が音を立てている。
エララの口元が三日月に曲がる。笑いと呼ぶには温度がない。
「無能、ね。あの方を。私の世界を整える人を。あなたの舌、汚い」
体の奥で重い音。皮膚の下に赤黒い鱗がのぞき、光を吸い取る。空気が揺れ、熱が逆流した。
「謝るなら膝からでしょう? ……あまり手間は好きじゃないの」
軽く、床を踏む。白の板が硬く鳴り、空気が沈む。
ザイオンの体を、上から押し潰す力が訪れた。
「ぐっ……!? な、なんだこの重圧は……!」
膝が勝手に折れる。内臓がねじられ、視界の隅が黒く欠ける。
「頭を下げなさい、虫」
乾いた命令。次の瞬間、彼の体は目に見えない掌でたたき落とされ、大理石へ顔面から落ちた。
「がはっ……!?」
肺から空気が押し出され、冷えた石の匂いと血の味が舌に広がる。鼻から落ちる赤が白を汚す。滑稽で、惨めな姿。
「俺は……勇者だ……! こんな、こんなところで……!」
魔力を絞り、膝を持ち上げる。聖剣が反応し、微かな光をこぼした。それが支えだと信じたい顔。
「おおおおおっ! 聖剣の光よ、邪悪を打ち払え!」
全身の力を剣にまとめ、振りかぶる。かつて山を断ったと大言した技。積み上がった光の刃が、エララへ向かって落ちようとする。
エララは、手を上げた。羽虫を払うみたいに、浅い角度で。
パァン、と乾いた音が薔薇園の上に跳ねる。
光は砕けた。粒になり、霧になって消える。ザイオンの顔が空白になった。
「……は?」
自身の切り札が、指の一振りにうち消された現実が、頭に入らない。
「それで全部? あの方を汚した舌の報いが、その程度の光?」
声に含まれる色は一つ。軽い退屈。
「ば、馬鹿な……俺の聖剣が……女神から授かった、この俺の力が……!」
「女神、ね。名前を付けるのが好きなのね、人は」
一歩、また一歩。白い靴音が数える。
「ひ、ひぃっ……! く、来るな! 化け物め!」
「呼びたいなら呼べばいい。私は、あの方のための道具で十分。あなたは……道具にすらなれない」
彼女は至近に立つ。背は低いのに、見上げる視界が歪む。巨竜の喉元に立たされた錯覚。
細い指が伸び、ザイオンの右腕に触れる。掴み、力を入れる気配は見せない。
「剣は手から落とすもの。順番は大事よ」
「や、やめ――」
メキョッ、バキバキバキッ。
「ぎゃああああああああああああああっ!?」
籠手ごと腕が潰れる。骨が砕け、白い破片が皮膚を突き破り、熱い液体が噴いた。痛みが耳鳴りを引き起こす。
「痛いのね。声はよく出る」
表情に波はない。今度は左脚へ視線を落とし、足先の位置をわずかに調整する。踵が落ちた。
グシャァッ。
「あぎゃあああああっ! 足が! 俺の足がぁぁぁっ!」
骨が練りつぶされ、関節のかたちが消える。体が跳ねようとするが、靴底に押さえられ動けない。
「あ、アレス……! 助けてくれ! 俺が悪かった! 謝るから、こいつを止めてくれぇっ!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔が、薔薇の影の男へ向かう。
アレスは剪定ばさみを持ち替え、茎の棘を指で確かめた。血の匂いが風に混ざる気配に、眉の角度が僅かに変わる。
「……エララ。血が跳ねる。ここは白だ。離れて」
短く、それだけ。
「承知しました。すぐに片を付けます」
彼の言葉に振り向いた瞬間、エララの目元が花のようにほどけた。頬に淡い紅が差した錯覚まで呼ぶ笑顔。けれどザイオンへ向き直ると、顔の筋肉は無機質に戻る。
「聞いたわね? この場所を汚さないこと。……移動しましょう」
ザイオンの髪を無造作につかむ。根元を握る指は冷たい。
「あ、あああ……やめろ、離せ……! 俺は勇者だぞ……世界を救う……」
「口は動くのね。便利」
引きずられ、白から荒れた土色へ。結界の端、薔薇の列が遠のく一角。外の空気は重い。石の粉の匂い、遠い森の湿り。引きずられる間、砕けた腕や脚が地に擦れるたび、脳の奥に白い光が弾けた。
荒地に放られたザイオンの体は、形の保持がやっとだった。息をする度、泡混じりの血が唇から漏れる。彼の耳には、自分の心臓の鈍い鼓動しか入ってこない。
「さて、どこまでなら理解できるかしら。自分の、薄っぺらさ」
見下ろす影。風が裾を揺らし、土埃が舞い上がる。
「た、頼む……命だけは……」
掠れた声。彼女の表情は動かない。冷たさだけ。
「価値は自分で用意するもの。あなたは投げた。あの方を追い出したとき、自分の足場も捨てた。見えていなかった支えに乗って、大声を出していただけ。今、やっと地面に触れたのね」
言葉は刃ではなかった。事実を並べた音符。なのに胸に刺さる。
彼は知っていた。追放のあと、戦いは急に重くなった。これまで見えなかった斜面に、足が取られる。敵の爪の角度、矢の風切り、地面のわずかな段差。あらゆるものが牙を持ち始めたのは、透明な膜が消えたからだと。
認めたくなかっただけ。認めれば、自分の中の柱が崩れるから。
「俺は……俺は……」
「言い訳はいらない。学ぶ時間は、もう終わり」
彼女の右手が上がる。指先に赤黒い光が集まる。空気が収縮し、耳が痛む。周囲の色が一段暗くなる。
「ひっ……! や、やめろおおおおおっ!」
「静かに」
右手が落ちた。
閃光。衝突。地面が抉れ、土が焼ける匂いが鼻を刺す。衝撃の波が空気を裂き、数呼吸、世界が白くなる。
光が引くと、黒い影がひとつ。四肢の形は途切れ、皮膚は焼け、息は糸。狙った通り、即死ではない。生の縁に置かれたままの熱。
「あ……あ……」
目の奥から流れるものに色はない。彼の中で、何かが音を立てて崩れた。
力でも、言葉でも、心でも。手元にあった紙の王国が、水に落ちて広がるインクのように消える。
「……退屈。口ほどにもない」
エララは目を細め、肩の力を抜く。振り返る。遠く白と紅の世界。
「アレス様、戻ります」
声色が柔らかくなる。歩きながら、手についた血を風で乾かし、指先を白いハンカチでそっと拭った。布は赤く染まり、彼女はそれを小さく畳む。
ザイオンの視界に、背中だけが小さくなっていく。追えない。伸ばすべき腕は砕け、足は地面に縫いとめられ、声は砂に飲まれる。
やがて音が遠のき、痛みだけが残る。痛みは執拗で、時間の感覚を剥がす。彼の耳に届くのは、土と血の混ざった匂いの記憶と、かつて聞いた歓声の幻。
仕上がった空間の外れ、ザイオンは転がる。聖剣は少し離れたところで灰の上に横たわり、ただの鉄の塊に見えた。剣からは何の声もしない。彼を称えた人々の声も、仲間の笑顔も、脳裏に像を結ばない。
「なぜ……こんなことに……」
血の泡が弾け、言葉は濁る。
答えは、薄い紙のように目の前にあった。アレスの価値を軽んじ、虚勢で屋根を作った自分が、強いと錯覚したまま支柱を引き抜いたからだ。
あの女――竜姫エララの力は、人の言葉の範疇を越えていた。彼女が本気で腕を振れば、地図の線が塗り替わる。そんな存在を、あの男は隣に置き、薔薇の棘を摘む手を止めもしない。
恐ろしいのは力だけではない。白い空間に満ちる匂い、温度、光の角度が一つの意図に沿う感覚。あれが当たり前に感じられる者。
「アレス……俺は……間違って……」
懺悔は風に吸われた。誰も答えない場所。
白と紅の楽園では、別の時間が流れる。
「戻ったよ」
アレスが剪定ばさみを置き、カップを口へ運んだ。紅茶の表面に映る光が静かに揺れ、葉の匂いにわずかに鉄が混ざる。
「おかえりなさい。指先、切ってない?」
「大丈夫だ。……風向きを戻す」
彼は指を鳴らした。ひとつ。薔薇の香りが元の経路へ帰る。遠くで土が落ち着く音がした。
エララは椅子の脇に立ち、視線を落とす。唇の端に、わずかに笑み。
「先ほどの方、まだ息はあるわ。長くは続かないでしょうけれど」
「そうか」
カップが皿に触れ、小さな音を立てた。白が響く音。
荒地に残されたザイオンは、天と地の境を見分けられない目で空を見た。昼なのか、夕なのか、光が揺らいで輪郭が合わない。息のたびに、胸が裂けるようだ。
彼の内側で繰り返されるのは、過去の断片。賑わう街の広場で囃し立てられた日。仲間の背中。アレスの横顔。指先で描かれる光の符。自分はその意味を、何一つ見ていなかった。
彼の心から、最後にひとつだけ思いが浮かぶ。小さく、誰にも届かない声。
(戻りたい)
戻る場所はもうない。
遠く、薔薇が揺れる。白い石は光を返し、風は低く笑い、紅茶の湯気は細い筋で上る。それぞれがそれぞれの位置に収まる世界。
ザイオンの時間は、そこで止まった。長い痛みと短い悟り。その両方に挟まれたまま。
彼の名はやがて、誰の唇にも上らなくなる。森の外れに深く刻まれた窪みだけが、かつてそこに一人の男がいたと告げる。白と紅の内側では、剪定された枝から新しい芽が出た。風は香りを運び、光は角度を守る。
絶望は終点ではない。誰かにとっては風景の外。誰かにとっては、手のひらの汚れ。どちらにとっても、世界は崩れない。
笑い声が一つ、薔薇の影に溶けた。アレスが息を吐き、エララがそれに合わせてまばたきをする。指先が触れた瞬間、空気がわずかに温かく感じられた。彼らの世界は変わらない。外の呻きが遠く沈むだけ。
死の森の最深部に穿たれた楽園は、今日もまた、白と紅の色を保つ。薔薇の棘は整えられ、風は歩幅を知っている。そこから少し離れた荒れ地には、乾いた土と血の匂いだけが遺り、やがてそれも風に薄まっていく。永遠と呼ぶには短すぎ、瞬間と呼ぶには長すぎる時間が、静かに横たわる。




