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第2巻 第5章 四天王襲来と絶対防壁(2)

薄暮が藍へ沈む。馬車の窓に、森の影が流れた。濡れた苔の匂いが鼻を刺し、遠くで何かが枝を踏む音がした。


「ここが死の森ね」

第三王女リーゼロッテは、薄く笑んだ。硬い革の手袋を外し、指先で窓枠をなぞる。湿り気がつく。


老臣が咳払いを一つ。「姫様。御命の通り、最奥の結界までご案内いたしまする」

「怖じ気づくつもりはないわ。王国の使者として来たのだから」

「心得ました。ただ、何が出ましょうやら」

「出るのは風と木と、噂の“箱庭”だけ。そうでしょ?」


御者が帽子を押さえた。「霧の流れが変わります。境に入る合図でございます」

若い騎士が窓外を覗く。「鳥の声が、途切れました」


森の闇は層を成し、古い木々の枝が編まれた天蓋のように頭上を塞ぐ。車輪が石と根を噛む。やがて――風がひとつ息を変えた。水の膜を抜けたように乾いて、甘い香りが乗る。


「空気が違う」

リーゼロッテが短く言う。


老臣が眉を上げた。「これが、結界でございますか」

「見て確かめる。それが今日の役目」


馬車が抜けた先は、荒れ野の内部に突然置かれた別世界だった。柔らかな草の肌に朝露の粒が残り、枝葉は光を拾って白く瞬く。風の音が丸い。遠くで水が落ちる音まで輪郭がくっきりした。


騎士が息をのむ。「まるで庭師が、一本一本に……」

「言葉はしまって」リーゼロッテが制する。「見えるかしら。あの中央」


結界の中心に、ひとりの男が立っていた。黒に近い灰の外套、動きを邪魔しない裁ち。視線のみが、こちらを射抜く光を帯びる。


「アレス」

彼女が名を呼ぶと、男は振り返る。微笑が薄く浮かんだ。


「ようこそ、王女リーゼロッテ」

低い声が、風に線を引く。


リーゼロッテは馬車から降りる。「あなたの“完璧な箱庭”を、この目で確かめに来たの。王国の名において」

「歓迎します。ここでは、私の望む形だけが息をします」


男が指を軽く払う。言葉は二つ。

「」

それだけで、風の粒が整列した。花弁は一枚だけ角度を変え、木陰が柔らかくなる。香りが薄く、遠くの音が近づいた。


老臣が喉を鳴らした。「たった、それだけで……」

リーゼロッテは男の手を見て、目を眇める。「…触れずに動くのね」


「触れずに済むよう、作ってありますから」

アレスの瞳が、彼女の髪の揺れを追う。月の光が金糸にかかり、淡い反射を返した。甲冑の縁から微かな鉄の匂い。息は深く、乱れがない。


「王女よ」

同行していた若き結界師が囁く。「本当に、伝説の場所でした」

「伝説かどうかは、これから決めること」


そのやり取りを、高窓から見下ろす影があった。翡翠の鱗が襟元で光り、長い黒髪が風に沿って流れる。竜姫エララだ。片手で窓枠を押さえると、そこに薄い霜が走る。彼女は視線を動かさない。瞳の中にアレスの背だけを映す。


「……近い」

唇が、音のない笑いの形に曲がった。フロアの上、踵の先で指先ほどの氷が生まれては消える。


「姫様。お気を付けを」老臣がそっと耳打ちする。「誰かに見られている」

「見せ場を作ってあげましょう。用心は忘れずにね」


一行は中央へ進む。小径は石の目地が細く、靴裏が鳴る。足を運ぶたび、踏まれた芝が柔らかな匂いを返す。外の森と違い、空気の温度が一定だ。どこにも影の濃すぎる場所がない。


「自然が生きている……ように感じます」騎士の声が揺れる。

「自然は生きているわ」リーゼロッテは振り返らない。「ここで生かされているかどうかは、別として」


アレスが短く笑う。「鋭い。どうぞ、私の居城へ」


視線の先、白銀の塔が立ち上がる。石が光を吸っては吐き、輪郭が清潔だ。階段の端に落ちる影は線が細い。扉には金具。磨かれているのに、指の跡はない。


「お入りください、王女リーゼロッテ様」

案内役の使者が頭を下げた。「主人が最上の客を待っておられます」


「最上かどうか、あなたたちが決めることじゃない」リーゼロッテは笑みを短く切る。「行きましょう」


石段を上がる。指先に触れる手すりは温かい。どこかで焚かれた香が細く続く。香りの層が薄く重なり、鼻の後ろに甘みを残した。


高台の一室で、アレスは椅子に身を預ける。窓辺の薄布が、かすかに弧を描く。斜めからの月が床を撫で、影が揺れるたびに模様が変わる。


理想通りだ、と彼は思う。白の分量、色の温度、角の取れた音の並び。視線を左右に送ると、薄い埃さえ舞わない。掌の皮膚が、空気の密度の差を拾う。


「美は、破壊と創造の狭間にある」

彼は独り言のように呟く。「だが、これ以上の乱れは要らない」


窓の外。高窓の影が僅かに動いた。エララの翡翠色の視線がここまで届く。彼女は息を吸い、吐く。息の端で、細い氷の粒がきらめく。頷きは、音を立てない誓約だ。


「任せて」

彼女の声は、風の下に沈む。


門が低く鳴ると、扉が開いた。絹を裂くほど静かな音。リーゼロッテが一歩を置く。銀の髪に月光が落ち、微細な粒のような光が跳ねる。靴の先が床の石を音で測る。


アレスは立ち上がり、二歩進んだ。彼女の肩線、顎の角度、瞳の奥の温度を順に確かめる。鎧の接合部から、磨いた金属の微かな匂い。布の擦れる音は薄く、心臓の音は一定。


「……君が、王女か」

「ええ。第三王女リーゼロッテ」彼女は名乗りを簡潔に済ませる。「あなたの創ったものを見るために来た。ただの観光ではないの」


「君は、ここに新しい色を持ち込んだ」

アレスは片手を上げる。言葉はやはり短い。

「揺れるな」

部屋の布が、命令に従うように動きを止める。空気が一段階、透明度を増した。


「色?」リーゼロッテが首を傾けた。「私が?」

「この景色に添う一筆。だが、まだ完成じゃない」


「完成でない、とは?」


氷のきしみが、会話に割り込む。部屋の隅で、エララが柱にもたれかかっていた。誰も彼女がいつ入ったかを見ていない。足元に小さな霜の花。笑みは穏やかで、目だけが笑っていない。


「完成なんて、要らないと思わない?」彼女は軽く問う。「余白は減らすほど安心するの。ねえ、王女」


リーゼロッテは視線を向けたが、眉一つ動かさない。「あなたが、竜姫エララ?」

エララは一拍置く。名を否定も肯定もしない。代わりに近くの花器に触れる。花弁に薄氷が走り、すぐに溶けた。


「人の顔と名前はよく変わるから」

肩をすくめる仕草が、妙に柔らかい。「でも大事なものは変えない。そうでしょう、アレス」


「エララ」

アレスは淡々と呼ぶ。「君が守るべきものは分かっている。だが、ここは私の仕事場だ。王女が波紋を生むなら、整えるのは私の手だ」


エララのまつ毛が影を落とす。短い沈黙。彼女は一歩、床の模様を踏む。足音を立てない。


「仕事」

紙の上でペン先を鳴らすように、手をひらりと返す。「じゃあ、仕事の邪魔はしない。代わりに、余計な指は外しておく」


空気が撫でた腕に冷たさを残す。リーゼロッテは微かに口角を上げた。「手荒い歓迎ね」

「歓迎はするわ」エララは穏やかに微笑む。「滞在が長引かないように」


「二人とも」アレスは一歩前に出る。「王女は客人だ」

「客だから帰る場所がある」エララは短く返す。視線がリーゼロッテの装飾の一つひとつを数えるように動く。その途中でふと止まり、彼女は問いかけた。

「冠の意匠。誰が選んだの?」

「王国の伝統よ」リーゼロッテが答える。「あなたの鱗の色も、伝統かしら」

「生まれで決まることは退屈。選べるものだけに興味があるの」


そのとき、廊下から若い結界師が走りかけて立ち止まる。「ご無礼を。結界が、微細に震え――」

アレスが視線だけ動かした。「黙れ」

少年は口を閉じる。床の石の下で微かな振動が流れて、すぐに消える。


リーゼロッテがそのやり取りを見届けてから、静かに言葉を置いた。「私の目的は一つ。王国の未来のため、この場所の真実を知る。それだけ」

「真実」

エララが微笑んだまま繰り返す。「便利な言葉ね」


老臣が進み出ようとするのを、騎士が袖を掴んで止めた。室内の温度が際どいところで釣り合っている。


アレスはリーゼロッテに向き直る。「君がここに来た瞬間から、森の音が一つ増えた。ここは閉じられた図面じゃない。来訪者がいれば、別の流れが生まれる」

「受け入れるの?」

「必要なら」

「切り落とすことも?」

「それも、必要なら」


リーゼロッテはわずかに顎を上げる。「王国は、この結界がどう扱うべきものかを見極める。協力を望んでいる」

「協力」エララが軽く息を吐く。白い糸が口元から消える。「交換条件は?」

「私の目で見たことを、ありのままに持ち帰る。その間は干渉を控えてほしい」

「干渉はしない」エララは微笑を深め、手を胸に添えた。「触れられなければ」


アレスがその間に割って入る。「エララ」

彼女は肩を落とし、視線だけを向けた。目の奥で、薄い氷が砕ける小さな音がした気がする。


「王女」アレスは階の中央を指で示す。「案内しよう。見るべきものは多い。君の足が疲れない順路で」

「親切に聞こえるわね」

「私の庭で、客を疲れさせる趣味はない」


リーゼロッテがわずかに笑った。「歩くわ。見る順番はあなたに任せる」

「では」


短い合図で、壁の灯がひとつずつ明るさを変える。道を示す光が細い帯となって延びた。エララは黙ってその光の縁を爪でなぞる。触れた部分だけ、温度が一瞬落ち、すぐ戻る。


「お供いたします」老臣が控え目に頭を下げる。

「騎士は二人だけ」リーゼロッテが指示を出す。「他は待機。目と耳を閉じて」


「従います」騎士が短く応じた。


歩み出す直前、エララが唐突に口を開く。

「王女。あなた、好きな花は?」

リーゼロッテは立ち止まらない。「季節によって変わる」

「今は?」

「まだ、ここにない花」


エララは笑った。声を立てずに。窓の外で、風が一度だけ方向を変える。庭のどこかで小さな葉が裏返った。


「アレス様、」

一度だけ、彼女は丁寧に呼ぶ。その呼び方に、身内だけが知る甘さはない。「この場では、あなたの背中を預かるだけでいい?」

「それでいい」

アレスは短く答える。「剣も爪も、今日は柄までで止めろ」


エララは目を伏せ、頷く。次に顔を上げたとき、笑みは少し薄くなっている。静かに後ろへ下がり、壁際に寄った。


アレスは歩き出す。リーゼロッテが並ぶ。その距離は、手を伸ばせば届くか届かないか。廊下の先で、庭の匂いがまた変わった。柑橘の皮をひとすじ削ったような鋭さが、わずかに混じる。


「迷いのない選択ね」リーゼロッテが横目で言う。「道順」

「迷いを減らすのも、私の仕事だ」

「人の心は短縮路を嫌う場合がある」

「その場合は、遠回りに見えて最短になるよう道を作ってある」


リーゼロッテが唇をわずかに曲げた。「言い切るのね」

「言い切らないと、形にならない」


背後で衣擦れの音。エララの爪先が床の模様を一つ飛び越えた。誰にも気づかれない小さな癖。彼女は歩を合わせず、距離を保つ。その間に、彼女の視線は何度も王女の背で止まる。


「王女」エララが名前を呼ぶでもなく、声を投げた。「あなたの国では、客人を何で迎えるの」

「椅子と、湯気の立つもの」

「ここでは、静けさと、冷たい水。どちらも喉を通る」


「礼儀の問題よ」

「礼儀は、たいてい飾り付けの名前」


アレスが掌を上げると、床の先に薄い水面が現れた。石と石の間を縫って、細い流れが導線を描く。リーゼロッテの靴底は濡れない。


「君の視察が終わるまで、余計な波は立てない」

アレスが宣言する。「それは約束する」

「約束を、誰が保証してくれるの」

「私の庭が」


リーゼロッテは小さく笑った。「不思議ね。人に保証を求めるとき、人は神や制度を口にする。あなたは自分の庭を出すの」

「ここでは、それが最も信用できる」


短いやり取りの背後で、老臣が安堵の吐息を漏らし、騎士は視線だけで互いを確認した。緊張は薄い膜のように張り続けるが、破れはしない。


廊下の尽きる場所で、扉がもう一枚、内へ開く。奥に広間。床は白、天井に淡い金の線。壁には季節を描いた絵が、しかし不自然なほど新しい。窓辺に置かれた鉢の花が、ひとつだけ蕾のままで留められている。


リーゼロッテがそれを見て、アレスを見る。「これも、あなたの手?」

「そうだ」

「咲かせないのね」

「咲く直前が、最も息の音が良いこともある」


「息の音」

リーゼロッテは繰り返す。「あなたは音で見るのかしら」

「目で聴くのが早い日もある」


エララがその会話を横で聴き、表情を読めない笑いを浮かべる。彼女はそっと指先を蕾に近づけ、触れる直前で止めた。空気だけが冷える。蕾は微かに震え、震えをやめた。


「咲いたら、摘む?」

「摘まない。散るまで見届ける」アレスが答える。

「じゃあ、散る前に目を伏せている間に、誰かが持ち去るわ」

エララの声は静かだ。視線は蕾から離れない。


「持ち去られないように、手を打つ」

アレスは短く言った。「それが、ここでの約束事だ」


リーゼロッテは視線を巡らせ、どこか遠くに耳を澄ますように目を閉じる。風の動き、布が擦れる微音、床下の水の細い通り道。彼女は瞳を開け、まっすぐアレスを見る。


「なら、私も約束する。私は見る。あなたの庭が何を隠し、何を見せ、どこへ連れていこうとしているのか。それを持ち帰る。王国に」

「それで十分だ」


エララが浅く息を吐き、笑みを結び直す。彼女は王女の横を無言で通り過ぎ、アレスの側面へと立った。距離は半歩。触れない。触れたいとも言わない。ただ、そこに立つ。


「行きましょう」

アレスが言う。彼の掌がわずかに傾き、外の庭では光が角度を変えた。草の面がひと波打つ。


その瞬間、城全体がわずかに震える。壁の中を走る線が、息を合わせる。結界の光が一段だけ強まる。目に見えない歯車の音が、耳の奥で小さく噛み合った。

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