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第2巻 第3章 エララの過去と罪悪感(4)

鼻腔を突く鉄錆の臭いに、ザイオンは顔をしかめた。


死の森は、名前に反して整いすぎている。湿りと乾きの境が刃物のように正確で、星苔は露を一列に並べ、黒い樹皮には銀の地衣が等間隔に浮かぶ。上空では星の破片が緩やかに降り続け、夜の空気をかすかに青く染める。天からの慈雨ではない。結界に閉ざされたこの森にだけ降る、美しく狂った微光の雪。箱庭、と誰かが呼びたくなるのも無理はない。


「また、降ってくる……」


ザイオン。かつて英雄と讃えられた名は、今や痰にまみれた吐息とともに地面へ落ちるばかりだ。外套は破れ、縫い目からほつれた獣毛がはみ出す。胸当ての王国紋章は傷の群れに飲まれ、剣は鞘から半ば抜き出されたまま動かず、刃の亀裂から黒い汚れが染み込む。靴底は裂け、右足の親指が皮革の暗い裂け目から外に突き出ていた。


「出口……どこだ。地平の、気配がない」


歩くよりも、地面から剥がれない影のようにずるずると引きずって進む。冷たい空気が喉を焼く。樹脂と枯葉と湿った石の匂いが混じり合い、記憶の奥にいくつもの旅路を呼び起こすが、どれも今の皮膚に馴染まない。枝の伸びる角度、倒木の朽ちる速度、露の落ちるタイミング。自然の無秩序が、ここでは誰かに矯正されたように揃えられている。


「ここは森じゃない。結界の内側だ」


唇のひび割れから血が滲む。舌に当たる鉄臭さに、まだ生きていると安心しかけ、次の瞬間その安堵が滑稽に思えて笑いが漏れた。声にならず、喉の奥で石ころのように転がって消える。


星の破片のような微光が一片、指の甲に触れて溶けた。冷たい。手を伸ばすと、次の瞬間に硬質な粒が弾け、皮膚を薄く切っていく。彼は手を引っ込め、目を細めた。


「飾りだ。全部、飾りだ」


声は森の中央に集められ、どこにも散らばらない。その静けさのなかで、胃袋だけが悲鳴を上げる。三日前からまともな食を口にしていない。渋い木の皮と黒い茸。あれ以来、吐き気と悪寒が波のように押し寄せ、今も背骨の奥を冷たく撫でていく。


「水……」


耳が水音を拾った気がした。片足を前へ投げ出すように歩き出す。膝の裏の筋が縮み、関節が砂を噛む音を立てた。


「やめろ、音に騙されるな」自分自身の声が、頭蓋の内側から響く。「ここではすべてが似せ物だ。お前は何度も同じ木を見た。覚えているだろう」


「同じ木じゃない」彼は声に噛みつく。「苔の模様が違う」


「違うように見せているだけだ」


言い返せず、口を閉じる。噛みしめた奥歯がきしむ。


やがて、木の根が絡み合って器のような窪みを作る場所に辿り着く。そこに、星の光を集めて露が溜まっていた。彼は膝をつき、顔を近づけた。水面に映る顔は、頬が痩せ、目が落ち窪み、髪が泥と汗で固まって黒い縄のように額に貼りついている。


「飲むな、罠かもしれない」


「なら死ぬだけだ」


彼は囁き、口を水に浸す。冷たい水が舌を撫で、喉を落ち、胃に広がる。足りない。それでも喉の痛みは薄れた。顔を上げ、掌の切り傷が水に触れて沁みる。神経はまだよく働いている。まだ、動ける。


「歩くんだ、ザイオン」


心のどこかで、昔の師の声が聞こえる。背筋が反射的に伸びた。立ち上がると、世界が水平を取り戻すのに少し時間がかかる。


足跡が見える。自分のものだ。つい先ほど通ったはずの位置に、乾いていない泥が同じ形で残る。違うのは、周囲の小石の配列だけ。変わり続けながら変わらない。逃げ場のない秩序。


「……なぜ、入った」


誰にでもなく、夜に、星に、過去の自分に問う。答えは、喉の奥で苦く溶けた。


「救うためだ。そう信じていた」


「何をだ?」


「全部だ。人も、街も、世界も」


彼は首を横に振り、歩き出す。十歩、呼吸一つ。十歩、呼吸一つ。決めた通りに足を運べば、焦りがわずかに後退する。秩序は敵のものだが、今この身を繋ぎとめるのは、やはり秩序だ。


星の粉のような光が、また降り注ぐ。肩に、髪に、壊れかけた剣の鍔に。森は美しい。あまりにも目を奪うがゆえに、すべての歪みが見えなくなる。


ふと、泥の上に円を描くように散らばった小石が目に入る。その均整の取れていない円が、脳裏に別の円を呼び起こした。あの夜、アレスを追放した直後の、焚き火の周りに置かれた石の輪。


---


最初の夜は風があった。


斜面に張り出した岩陰で野営を決め、仲間たちが荷を下ろす。以前なら、アレスがいつの間にか動きを整えた。枝の払い方、寝床の向き、鍋の位置、風の通り道。美学としか呼べない感覚で景色を編み、結果として匂いは散り、音は吸われる。だがその夜、彼はいなかった。


「薪、湿ってるな。煙が出るぞ」弓手のロウが黒ずんだ指で木肌をこすった。灰色の粉が舞い、風に乗って消える。


「構うな、冷え込む前に火を起こす。手当たり次第にだ」


ザイオンは言い切り、火打ち石を打ち鳴らす。いつもより燃えが悪い。湿りが残る薪は舌の奥を刺すような苦い匂いを吐き、煙が岩陰に溜まって渦を巻いた。


「勇者様、風よけの石、もう少し……」修道女のシェリスが石を二つ持ち上げ、角度を見る。


「適当に並べとけ。庭造りじゃない」


彼の声は硬かった。笑いを含ませたつもりの皮肉が、鋼の研ぎ澄まされたように角張って出てしまう。耳の奥で、別の声が囁く。石の角度を三度変え、隙間をずらせ。炎の背に影を作れ。けれど彼は、その石を足の甲で無造作に蹴ってならした。


夜気がなるにつれ、周囲の音が戻ってきた。虫の羽音、枯葉の擦れ、遠くの獣の鳴き。アレスがいる夜には、それらがいつの間にか均されて、気づけば眠気だけが残った。この夜は違う。音がバラバラに現れ、近づいたり遠のいたりして、気持ちを削っていく。眠りは薄い氷のようにしか張らず、すぐに割れた。


「……今夜は、交代を増やしましょうか」槍を持つマリウラが、目を擦りながら言う。


「必要ない。ここは崖だ。大勢では来られない」


彼は断じた。自分でもその言葉の頼りなさに気づく。口が言い訳めいた震えを帯びるのを押さえ込むために、強く言い切るしかなかった。


月が雲間から出た時、匂いが変わる。湿った土と獣皮の酸味が風に乗って濃くなり、煙と撚り合わされて、崖の縁の向こうから気配が降りてくる。


「来るぞ!」


次の瞬間、影が火の輪に躍り込み、焔が一瞬、青を含んで高く上がる。獣人の群れ。毛は濡れ、目は飢えている。火を恐れない。アレスの整えた夜では、火は常に息を浅くして、匂いを縫い目から漏らさない。この夜の火は喋りすぎた。叫び、招いた。


「下がれ、火の外へ! 挟む!」


体はまだ覚えている。剣は構えられ、槍は突き出され、弓は弦を唸らせる。短い衝突が何度も繰り返され、獣の悲鳴が岩肌に刺さる。やがて影は消えた。残ったのは焼けた毛の匂いと、折れた槍先と、切り裂かれた天幕。そして、眠れない種類の疲労。


「アレス……がいたら、こんなふうには」


焚き火の端で、シェリスの唇から言葉が漏れる。彼女が視線を下げる間もなく、ザイオンの舌が反射的に動いた。


「その名を口にするな」


短く、低く言う。言った瞬間、喉の奥に刃を突っ込んだような感覚が走った。痛みというより、空洞がぎゅっと縮んだ。


二夜目、三夜目。似たような夜が繰り返される。異なるのは、皆の目の下の隈の濃さと、笑いの回数の減り方だけだ。焚き火を小さくした。煙を絞った。アレスの癖を思い出すように、ザイオンの指は無意識に小石の角度をいじり、鍋の蓋の輝きを布で曇らせ、足跡を枯葉で隠す。指が勝手に動くたび、心臓に熱が集まり、腫れたような羞恥が胸を満たした。認めるな。これは庭師の遊びだ。彼は手を引っ込め、わざと雑に葉を散らし、石を蹴り戻した。


「勇者様」ロウが顎に力を込めながら言葉を探す。「あの……やり方、あいつ……いや、アレスの……」


「名前を出すなと言った」


「ですが、俺たち、寝れてない。目が、ほとんど開かない。剣が重くて……」


「なら鍛えろ。ここで弱るなら、この先で死ぬ」


吐き捨てるように言いながら、彼は自分でも気づかぬほどわずかに唇を震わせた。苛立ちだけではない。恐れだ。「あいつが必要だった」と口にした瞬間、自分が崩れる音を聞いてしまうのが怖い。世界を救う旗印を掲げてきた自分が、たった一人の結界師に世界の一部を預けていたことを認めるのが、怖い。


四夜目、雨が降った。細い糸のような雨が音も立てずに天幕を濡らし、冷えた湿り気を寝床の芯まで浸透させる。火はつかない。


「今夜は……火をやめましょう」シェリスが囁く。「匂いが、すぐに見つかります」


「火をやめたら凍え死ぬ」


自分でも矛盾に気づきながら、彼は決める。決めないと、皆が彼の目を見る。その視線は軽い荷だ。だが長く背負っているうちに、知らぬ間に肩に食い込み、骨をきしませる。アレスは、いつもその荷の端を、知らないふりをして支えていた。景色の形を整えることで、荷の重さを景色に分散させていた。今さら、そのことを思ってしまう自分を、彼は拒絶する。


「これは運だ。悪い季節に当たった。山の獣が谷に降りている。それだけだ」


彼は独り言のように呟き、仲間に聞かせる。言葉は皆の耳を素通りし、雨音の幕に吸い込まれていく。その幕の向こうから、また別の匂いが近づいてくる。湿った毛皮と、泥に塗れた蹄の重い足音。今夜も眠れない。


夜の終わり頃、天幕の縁から垂れた雫が、一定の間隔で落ちている。地面に打ち、薄い泥の波紋が広がる。波紋は崩れ、すぐに土に吸われる。その崩れ方が不規則で、異様に気になった。以前なら、波紋がどれも同じ広がり方を見せた。アレスが微妙に地面を均し、吸い込みのリズムを作るからだ。


彼は膝の上の手を握りしめ、爪が掌に刺さる。「馬鹿げている」と心の中で吐き捨てる。雨の波紋に意味などない。意味を与えるのは、あの男の病的な完璧主義だけだ。


しかし、日の出前の青白い暗がりの中で、彼は気づいてしまった事実から目を逸らせない。あの一分の隙もない仕事は、厳密さという名の壁だった。匂いの糸を切り、音の刃を鈍らせ、影の輪郭を溶かす壁。美という名の結界。嘲ってきた「庭師」の仕事は、実は盾だった。その盾がない今、夜は牙を剥く。


「……認めるな」


彼は歯の裏で言う。言葉は小さく、舌の上で砂のようにざらついた。


「認めたら、戻れなくなる」


彼は火に棒を差し入れ、残りの焔を散らす。黒い焦げが広がり、小さな火の舌が消えていく。立ち上がり、濡れた外套を強引に引き上げ、夜明けの灰色に向かって歩き出す。背後では、仲間の誰かが小さく息を吐く。ため息か、祈りか。振り返れば、何かが砕ける音を聞きそうだったから、彼は振り返らなかった。


---


疲労は昼にも牙をむいた。


谷の湿地に差し掛かった頃、荷馬の蹄が泥に沈み、車輪がきしみを上げて止まる。水草が一斉に震え、甘く濁った動物の体温のような重みが鼻腔にまとわりつく。


「ロウ、弓を。マリウラ、左を警戒しろ。シェリスは後衛を固めて祈祷を——」


言い終える前に、泥の表面に黒い背が滑って現れる。湿原の魔魚が尾で泥を打ち、飛沫とともに棘の列を弧にした。矢が一本、遅れて放たれる。湿った弦の音は鈍く、矢は水を割って威を失う。


「引け! 荷を捨てる!」


保存食と薬草と交換用の剣帯が泥に沈む。短い戦いはなんとか収束したが、馬は片足を傷め、彼らは湿地の縁に座り込んだ。


「……この一月で、失った物資は合計で八割です」シェリスが乾いた声で告げる。「これ以上は、補給なしには——」


「補給など、次の村で整える。道を急げば、夜には着く」


「夜、ですか」ロウが口を歪める。「夜になれば、またあいつらが来る。匂いで見つけられるんだ。俺たち、匂いを消せない」


彼の視線はザイオンを刺し、すぐに泳ぐ。誰も口には出さない。しかし、皆の目の奥に同じ問いが点っている。なら、なぜあの男を追い出したのかと。ザイオンは視線を上げずに手袋の先をきつく握る。


「あいつの、情景ごっこに従っていたら、俺たちは剣を忘れる」言葉は喉の奥から強引に引きずり上げた。「泥も雨も、敵の湿った目の臭いも、全部、飾りにするのがあいつのやり方だ。戦いは、飾りじゃない」


その夜、村に着くことはできなかった。見通しの悪い森の縁で野営し、風向きを読み違え、血の匂いが闇に溶けて広がる。最後には盗賊の小さな群れに火薬瓶を投げ込まれた。炎が一気に立ち上がり、川のような光が前腕を走って毛を焼く。マリウラの頬には煤がつき、目だけが真っ直ぐに光る。


「ザイオン、これ以上は——」


「やめろ」


彼は切り捨てるように言う。四方に開いた裂け目を、彼は自分の声で塞ごうとした。塞げないことは知っている。それでも、塞ぐふりを続ける。


---


離脱は、一人ずつ、音もなく始まった。


最初に去ったのはロウだった。翌朝、寝床は畳まれ、小さな袋だけが残される。紐に巻きつけられた矢羽根が一本、泥に刺さっていた。


「……俺のせいじゃない」彼は誰もいない空間に言う。「風が悪い季節だ。運が——」


シェリスは、一人の村の子どもに薬を施した翌日、修道服の裾を握り、頭を下げた。


「私の祈りは届いていません。夜ごとに、何かに剥かれてしまう。あなたと歩く力が、祈りでは補えなくなりました。ごめんなさい」


瞳に真っ直ぐな水をため、背を向ける。その背中は細く、森の縁に吸い込まれるようにして消えた。ザイオンは声をかけない。かければ、石となっていた言葉が崩れて、足元を覆う泥になる気がしたのだ。


次はマリウラだった。彼女は最後まで残り、無言で背中を預けてきた。しかし、平野の村を守る契約の夜、風向きを読み違えた火が招いた魔物が柵を破る。男が一人血を吐いて倒れた。攻撃は退けた。だが、遅かった。翌日、村の女が濡れた手でザイオンの胸当てを叩く。


「勇者だって? あんたがいなきゃ、あの結界の男がいてくれたら、こんなことには!」


唾が頬にかかる。冷たく、塩辛い。彼は拭わなかった。その塩気が皮膚に入り込むのを、敢えて許す。


村を出る朝、マリウラは槍を肩に、空を見上げて言う。


「ザイオン。私は、あなたの旗に誇りを持っていたわ。けれど、その旗竿を支える一本の柱が折れたとき、あなたは見ないふりをした。旗を高く掲げ続けるばかりで、足元の土台を直そうとしなかった。私は……もう、担げない」


「裏切るのか」


口が勝手にその形を取る。彼女は振り向き、短く首を横に振った。


「裏切りは、見ないふりのことを言うのよ」


その言葉は剣より深く刺さり、抜けたときに内側を削っていく。彼女も去った。残るのは彼一人。荷は軽く、影は重かった。


---


彼は街へ降りる。石畳に靴音が響き、広場では見知らぬ吟遊詩人が唄う。


「庭師なき勇者、風に匂いを散らし

 月の下ではぐれ、夜に牙を立てられ

 ああ、剣は光るも舞台は泥

 英雄の名も、泥の中」


笑いが波のように起こる。ギルドの木扉を押し開けると、内には冷たい目が並んだ。掲示板に新しい紙が貼られている。『護衛契約、前回失敗。依頼主被害甚大。再契約不可』


「言いがかりだ」ザイオンはカウンターに拳を置く。「被害は最小限にした。あの状況では最善を尽くした」


「最善、ね」係の男が鼻で笑う。「最善が何か、あんたは昔、知っていたろうさ。夜に匂いが立たないということの意味を、今はもう忘れたってことだ」


「黙れ」


言葉が刃に変わる直前に、彼は口を閉じる。閉じた口の内側で、言葉は自分の舌を傷つけた。


石段を降りると、子どもが二人、彼を指差して笑う。片方が木剣を引きずり、もう片方が藁で冠を作ってかぶる。


「勇者だー、道に迷う勇者だー」


木剣が地を擦る音が、背を刺す。


宿の戸を叩く。宿主は戸口の隙間から目だけを出し、肩をすくめた。


「満室だ」


奥からは皿の触れ合う音と、談笑が漏れる。満室ではない。彼は扉から離れ、雨の匂いのする路地の暗がりに身を置いた。背中の鎧が石壁に触れる。冷たい。口の中には、歌の余韻がまだ残っている。泥と屈辱の味。


翌日、鍛冶屋に行った。炉の熱が顔に当たり、鉄の匂いが汗の中で膨らむ。老鍛冶は彼の剣を手に取り、刃筋に沿って指を滑らせ、短く舌打ちをする。


「直せるか」


「直す価値があるかだ」老鍛冶は言う。「あんたの剣は、今や刃よりも音ばかり立てる。夜に音を立てちゃいけない時に、立てる剣だ。そんなの、誰が持つ?」


「代金は払う」


「金の問題じゃない」


彼の背で戸が閉じられる。


彼は自分の影を見た。揺れる水溜まりに映るのは、目の下に深い窪みを抱えた男だ。英雄ではない。ただの疲れた人間。


「まだ、歩ける」彼は小さく言う。「まだ、終わってはいない」


声は自分に向けてのものだ。だが、心の奥底で別の声が囁く。終わっている、と。栄光は終わっている。旗は泥に落ち、冠は藁に変わった。残るのは、裸の意地だけだ。意地は身を守らない。ただ、骨に噛みついて、歩みを遅らせるだけだ。


誰もいない天幕の中で、彼は手袋を外し、自分の掌の硬さに指を押し当てる。繰り返された剣の柄の形が肉に刻まれている。その刻みをなぞりながら、何度も呟いた。


「認めるな。あの結界師の名を、心の中でさえ」


しかし否定すればするほど、あの非の打ちどころのない夜の静けさが耳の奥で再生される。焚き火の炎が呼吸を覚え、石が角を正し、風が目を閉じるあの感じ。あれがあったから歩けた日々。自分の剣が、目立ち過ぎないで済んだ舞台。認めたら、全てが崩れる。勇者という舞台の板の継ぎ目が剥がれ、下の冷たい地面が露わになる。だから、認めない。認めずに、歩くしかない。


彼は最後の仲間も失い、街の門も宿の戸も閉ざされ、歌に嘲られ、鍛冶屋に背を向けられた。残った道はひとつだけだった。誰も寄りつかない地図の縁、星の降るという森へ。そこには、箱庭があるという。理想通りの景色。嘲笑の的にした言葉が、今は縄のように足首に絡みつく。


「行け」


夜明け前の薄闇に向かって、彼は低く言う。足は重い。心は空洞を抱え、そこに雨の音が溜まる。栄光の頂からは遠く離れ、どん底の泥にまみれながら、それでも歩き出した。誰も見ていない舞台で、ただ一人、幕の降りた後の足音だけが続く。


---


回想が薄れ、湿った冷気が現実の皮膚に戻ってくる。


足裏には泥が重くまとわりつき、靴の裂け目から沁みた冷水が骨の内側まで冷たさを伝えた。呼吸は細く、肺の奥で小さく軋む。朽ちた幹の裂け目からは灰色の茸が垂れ、白い蛆の群れがその表面を波立たせる。死の森。甘腐れと鉄と湿った獣毛の酸味が層をなし、舌にまで触れてくる。


彼の足が滑った。ぬかるみの底に薄く埋もれた骨が折れ、乾いた音が泥の中で潰れる。黒い飛沫が頬に散った。拭う力も惜しかったので、そのままにして進む。進むたびに、枝が行く手の隙間を狙うように垂れ下がり、棘の先で外套のほつれに絡みつく。剥がせば、繊維が裂ける音が鋭く耳に刺さる。


「終わりが、ない」


独り言は吐息と一緒に裂け、冷気の壁に吸われる。どれほど歩いたのか。時間という概念は、この森では粘土のように形を留めない。ただ、星の破片のような微光だけが、上から、斜めから、どこかから降り続け、薄青い砂を絶えず空間に撒く。


そして、突然に。終わった。


終わった、と彼は思う。正確には、風景が切断された。前触れは匂いの消失だった。鼻孔を満たす甘腐れの層が、ふっと剥がされる。次に、音が止まる。蠅の羽音が途切れ、泥に落ちる水滴の不規則な拍も、刹那に奪われた。足元の感触が変わる。ぬめる泥が、乾いた硬さへ。彼は思わず一歩踏み出し、そこで立ち止まった。


線があった。線、としか言いようのない境界。研ぎ澄まされたように薄く、まっすぐで、地形の起伏にも、樹の根にも、蔦の絡みにも屈せず、黙って世界を二つに割る。


線のこちら側には、乱雑な死の森が広がる。黒い朽木、虫のうごめき、湿りと冷えと腐臭。線の向こう側には、別の世界が据えられている。


星苔は絹のように均一で、踏めばわずかに沈み、その沈みまでが規則を持って戻る。石は奇数個一組で配置され、それぞれがわずかに違う角度で空を受ける。砂利は白く、細かく、波の文様が櫛で梳かれた髪のようにゆるやかに連なって、風もないのに静かな流れを見せる。薄い鏡のような池がひとつ、苔の端に埋め込まれ、そこに星の微光がまっすぐに降りて、表面でようやく曲がる。木々の枝ぶりは抑制が利き、葉の重なりは光を均等に散らす。花は少ない。だが、少ないがゆえに、そのひとつひとつが選ばれた場所に立ち、香りは罠ではなく指標として漂う。空気は軽い。肺が、忘れていた方法で膨らむ。


「……嘘だろ」


小さく漏れた言葉は、線のこちら側でざらついた反響を返すだけだった。目は信じたがらない。信じれば、全部が崩れる。足は境界の手前で硬く止まる。右の靴先が泥に汚れ、左の靴先のさらに向こう、苔の縁に星の粉が規則的に降りる。粉は線に触れると、見えないガラスの面に沿って滑る。滑りながら、細い糸のような光の線を描く。幾何学。法。意志。自然があるが、人の意志が濾されている。いや、人ではない。アレス。あの男の、美しさへの病が、世界をこの形にしている。


「門か……これは、門なのか」


彼は手を伸ばす。指先が空気に触れる。冷たい。さらに進めると、爪が見えない膜に当たり、柔らかく、しかし確固とした弾きが返ってきた。皮膚の細かい皺がわずかに押し広げられ、神経が警告を発する。侵入者として認識されたのか、星の粉の流れが一瞬、彼の指の周囲で渦を巻く。美しい。おぞましい。凛としたものは、時に恐ろしい。息が浅くなる。肺はさっきまでの軽さを忘れ、急に自由を奪われた気がした。


「アレス……」


名は喉の奥で自壊した。砕けた音の破片が口内を切り、鉄臭い味がひろがる。


線の向こうの庭は、彼が知る夜とは異なる。夜はある。だがそれは、夜の概念を誰かが磨き上げ、陰影を丁寧に整えた夜だ。虫の声は一定の間隔で遠のき、また戻る。水面の波紋は二つ以上重ならない。ここに足を踏み入れたら、自分の歩幅でさえ許されないかもしれない。そんな予感が、皮膚の裏を走った。


「入れば、救われるかもしれない」


心のどこかが囁く。声は甘く、弱い。彼は首を振る。境界は、救いと屈辱の両方を約束する線だ。こんな美の前に跪けば、二度と立てない気がした。


「助けてくれ、とは言いたくない」


誰にともなく言う。唇は乾き、ひびから血が滲む。血の温度だけが、彼をこちら側に繋ぎ止めている証のように思えた。向こう側には温度がない。あるのは、測られた冷たさと厳密な暖かさ。自由な揺らぎは切断され、すべてが手の上に乗る大きさに縮められている。箱庭。完璧。言葉は剣よりも彼を切った。あの男を嘲笑った言葉が、今は縄のように足首に絡み、前へ踏み出す動きを滑らせる。


彼は膝をつく。泥がめり込み、骨に冷えが沁みた。剣の柄が胸骨を軽く叩く。その拍に合わせて、心臓は不規則な律を刻んだ。


「見ているのか、アレス」


自嘲の笑いが喉に引っかかる。彼の視線は庭の石の一つに吸い寄せられた。石の上に降りた星の粉が三つ、等間隔に並び、次の瞬間、四つ目がその間隔にぴたりと納まり、五つ目が現れる前に一つが溶ける。永遠の秩序を保つための小さな消失。美の維持のための微かな死。その反復を目撃した瞬間、彼の胸に重い石が落ちた気がした。


「俺の場所は、ないな」


ようやく出た言葉は、奇妙にあっさりしたものだ。しかし、そのあっさりさの下には、濃く、粘るような絶望が広がる。ここに入る資格があるのは、秩序に従うものか、秩序を作るもの。彼はどちらでもない。泥を踏み、直感と意地で剣を振ってきた。ここでは、その剣でさえ音を立てることを許されない。


彼はゆっくり立ち上がり、境界に背を向ける。背中にあたる空気が、刹那、冷えた。歩き出そうとした足が、泥に吸い込まれる。重い。だが世界は、線のこちら側ではまだ重さを持っている。重さは彼のものだ。向こう側の軽さは、彼のものではない。


「艶やかすぎる」


振り返らずに言う。言葉は自分に向けられ、喉の奥で乾いた音を立てて落ちた。彼は一歩、二歩と離れる。線はそこに留まり、庭はわずかに呼吸を続ける。星の粉は静かな波を描き続け、砂利の模様は夜明けを待たずに整えられる。森の匂いが再び鼻孔に浸入し、腐臭が現実を戻した。戻ってくる現実は救いではない。だが、彼はそれしか持たない。


境界の美は刃だった。救われる可能性を見せつけながら、同時に自尊を切り裂いて地面に落とす。彼は自分の落ちる音を、聞かないふりをした。


空は低い。森は重い。だが、足はまだ動く。磨き抜かれた線が背後に一本、世界を二つに分けて残っている。その線を越えられないという事実が、背骨に冷たい印を焼きつける。彼は闇に再び足を踏み入れた。

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