第2巻 第3章 エララの過去と罪悪感(5)
鉄の味が鼻の奥を刺し、ザイオンは顔をしかめた。喉に貼りつく湿り気、足裏にまとわる泥。紫がかった霧が枝々の間で鈍く揺れ、どこかで骨が砕ける乾いた音がひとつ。陽はあるのか、と訊きたくなる薄闇。垂れた枝、絡む蔦、濁った湿気。生の端と死の縁が曖昧になる場所だ。
「はぁ、はぁ……っ、ふざけるな……」
肺が焼ける。白銀の鎧はひしゃげ、肩当ては刃で刻まれ、血が黒く固まっている。誇りにした輝きは剝がれ落ち、腰の剣は半ばから折れて杖代わり。泥に引かれる足は夢の中のように重い。唇はひび割れ、乾いた血がこびりつく。視界の端が白く霞むたび、自分の音が遠のく。
「おい、起きろ……俺は、勇者だぞ。選ばれたんだろ、俺は」
自分の声が耳の中で響く。弱い。情けない。そう吐き捨てる気力も薄い。
仲間の顔が順に浮かんだ。魔法使いの少女の細い肩が毒蜘蛛に呑まれ、悲鳴が霧に飲まれたこと。重戦士の男が自分の喉に指を食い込ませ、膝から崩れたこと。聖女の微笑が祈りの途中で凍り、牙に穿たれて倒れたこと。最後の息の音が耳に貼りついたまま離れない。
「なんでだ……俺が、なぜ……!」
吐いた息が呪いになる。霧が肺に刺さり、一歩進むごとに心臓の内側から杭を打たれるみたいだ。次に膝が折れたら、そのまま土に沈む。そんな予感は、やけに鮮明。
そこで、異物。
濁った視界の先に、ひと筋の光が揺れた。濁流に差し込む清水みたいに、色が違う。罠かもしれない、幻かもしれない。だが、ほかに選びようがあるか。ザイオンは折れた刃を杖にして、ふらつく足を光へ向けた。
近づくほど、輪郭が立ち上がる。半透明の壁が垂直に天へ伸び、森の暗がりに光の線を引く。巨大な結界だ。表面には幾何の線が流れ、皮膚の脈動のようにゆるやかにうねる。紫の霧は境界の前でほどけ、内側の空気だけが乾いた季節みたいに澄んでいる。
「触ったら、弾かれる……か?」
指を伸ばす。掌に触れたのは湖面に触れる感触。拒まれない。波紋が広がり、膜が彼を吸い込んだ。
一歩跨いだだけで、肺に絡みついた毒が剥がれ落ちる。喉が驚いて跳ねる。ザイオンは息を吸い込んだ。
「……花の匂い? 陽の匂いだ。なに、これは」
干した布みたいな清潔な空気が、血の臭いを押し流していく。折れた剣が手から滑り、白い床に当たって高い音を鳴らした。音へ目をやる余裕もない。ただ、立ち尽くす。
目の前に、都市。
空は鉱石を磨いたみたいに澄み、深い青がどこまでも続く。霧の下で張り出していた暗い雲の影など欠片も見えない。陽光は惜しみなく降り、光の粒が空気に混じる。足元に、純白の石畳。落ち葉も塵も見当たらない。遥かへ伸びる一本の線。踏みしめると石とは思えない柔らかさが返り、足裏の重みが吸い取られる感覚がある。
「道が息をしてるみたいだな……魔力が流れてる。歩く人間の負担を、こうやって奪うのか」
声に出すと、少し安心した。
両脇に並ぶ街路樹は間隔がぴたりと揃い、葉の重なりが同じ厚みで影を落出す。枝ぶりすら左右が釣り合い、葉脈に走る光まで意のままにしたような均整だ。足元の花壇では色の粒子が舞い、紅、藍、黄、紫の花弁が宝石箱をひっくり返したみたいに続く。高さや開き具合が揃い、視線が自然と一つのリズムで進む。
「……王都の整列なんか、子どもの隊列だな。なんだ、この端正さは」
白亜の建築群が視線の奥に連なる。尖塔は空への細い針。壁を走る線は無駄がない。装飾の細部まで削り、磨き、研ぎ続けた意思が伝わってくる。ステンドグラスには陽が入って、広場へ色の帯を落とした。舗道に七色の斑が踊り、誰もいないのに祭りの後の余韻がある。
「素材が……見たことのない白鉱か。街全体が揃えられてる」
中心部には水路が網の目のように走る。水は驚くほど透明で、底の石の紋がはっきり見えた。広場の噴水から水柱が上がり、風に揺れるたび微細な飛沫が光を砕いて散る。水鏡が周囲の建物を正確に映し返し、もうひとつ街が並ぶ錯覚を生む。
「これは……幻じゃないのか? いや、痛みはある。夢なら、こんなふうに足裏が柔らかく返すはずがない」
頬をつねる。鋭い痛み。色と形と規則が逆に鮮やかになる。
「ここは死の森の中心だぞ。地図だと黒い染みひとつ。なのに……王都より整って、強い」
言葉が追いつかない。圧される。建物の配置、色の響き合い、樹々の育ち方。風が通る道筋、光の射し込み、水面の揺らぎ。偶然の寄せ集めではない。意志がある。街全体に一本の棒が通っているみたいに、拍を刻んでいる。
「誰が、造った。どうやって……」
ザイオンは白い道を歩きだした。歩けば歩くほど、整いすぎた世界が全身に圧力をかけてくる。息が浅くなるのは疲れのせいか、それともこの端正さへの畏れか。
脳裏に、ひとりの名が浮かぶ。アレス。かつての仲間。結界師。戦いの最中に襟を直す男。紅い糸一本のほつれに眉をひそめる神経質さ。形にうるさく、景色の端を整えることにばかり時間を使っていた、あいつ。
思い出が自動で再生された。巨大なオーガの群れとの衝突の日。彼が結界を張り、棍棒を防いだあの場面だ。だが、形の左右が揃わないと彼は眉をひそめ、戦闘中に微調整に没頭した。結界の端にほんのわずかな隙ができ、ザイオンは棍棒の端を肩に受けて地面に転がる。
『ふざけるな! お前の結界は、見た目が綺麗なだけで実戦じゃ何の役にも立たない! ただの飾りだ!』
『私たちに必要なのは、敵を確実に殲滅する圧倒的な力だ。お前のような、景色を整えることしか能がない無能は、もう私のパーティーには必要ない!』
吐き捨てた言葉。あの日の胸の軽さ。彼を切ったあと、迷いなど欠片もなかった。そう、確かに彼の張る結界は堅牢だった。だが彼は攻撃の増幅や罠に応じず、「形の端正さ」「風景の隅々まで通す秩序」に固執した。それが重りに見え、栄光の道の障害に見えた。
今、目の前の景色。この徹底。霧を弾く境界の強度。この内部に築かれた都市の、息ひとつ乱さない仕上がり。魔力の波長。どこも、あいつの……。
「まさか。いや、待て、待て……」
首を振る。受け入れたくない。認めたら、自分の生と判断と価値観、それ全部に致命の裂け目が走る。切って捨てた「無能」が、実は自分の足元をさらうほどの場所にいたとしたら。そんな現実、どこに仕舞えばいい。
直感は、残酷だ。
「アレス……あいつか? あの男が、ここを?」
声が震えた。恐れと、なにより屈辱が喉を焦がす。最も苛烈な環境のただ中で、アレスは巨大な結界を展開し、その内側に豊かな都市を組み上げた。担がれた勇者ですら逆立ちしたって届かない仕事だ。
「俺は、何を見ていた。節穴だったのか、俺の目は……」
膝が抜け、ザイオンは白い石畳に両手をついた。白が光る。わずかな汚れさえ異物だと主張する床。王都の繁栄という自分の誇りは、この仕上がりの前では泥の城に過ぎない。名声も富も、他人に着せられた装束だった。真の力は、追い出した結界師の側にあった。彼は「無能」じゃない。俗な物差しで測り得ない高さを見据えていた。形を命に等しく扱う偏執が、この地では最強の盾になり、誰も踏み込めない領域を立ち上げた。
「取り返しの……」
濁った涙がこぼれ、白い石に黒い点を落とす。極端に整った表情を持つ都市へ、一滴の汚れ。
「誰の許しで、ここを汚すの」
背後から響いた声が、氷の縁取りをしていた。空気の層が切り裂かれる音が混じる。
ザイオンは振り返る。少女が立っている。銀糸の髪が風の端でほどけ、紅の瞳がまっすぐに射る。華奢な肩に似合わない竜の翼。膜の縁が光を吸い、輪郭が鋭い。造形は神話に出てくる彫像のように端正で、可憐と禍がひとつの顔に収まっていた。人ではない血の匂いが、ほんのわずか。
「お前は……誰だ」
ザイオンは喉を絞る。圧がある。目に見えない手で胸を押されたみたいに、息が浅くなる。
「名はエララ。アレス様を愛し、アレス様に愛される者。この場所を護る番」
彼女は路傍の石に向けるような視線をザイオンに投げ、口元に冷ややかな弧を描いた。笑いと呼ぶには温度が足りない。刃の線だ。
「アレスの……」
ザイオンは唇を噛む。名を口にする自分が痛い。
「細やかに整えられた庭に、あなたの涙の跡は似合わない。ひと粒で充分だね」
彼女の周囲で空気が揺らめく。熱でも寒さでもない、濃度の震えだ。魔力が集まり、目に見える渦をつくる。肌が刺される。森で遭ったどの怪物よりも純度が高い。音もなく世界が撓む。
「待ってくれ! 俺は勇者だ、アレスの……あいつの元仲間だ。会わせてくれ、頼む!」
プライドは潰れた。生きたいという本能だけが口を動かす。
「元、なら」
エララの紅が冷えた。まなざしに曇りはない。
「アレス様は優しい。だから、粗い手つきにも一度は頷いた。けれど、私にとってそれは関係のない話。あなたがしたことはひとつだけ。ここへ傷を持ち込んだ」
「俺は……」
言葉が出てこない。言い訳のための筋道がほどけ、きれいに空になる。
「この仕上がりに、異物は置けない。一秒も」
時間を剝ぎ取るみたいな口調だ。彼女の指先から冷気が零れ、足元の白石に淡い霜の花が咲く。にっこりと微笑む。けれど、瞳は動かない。
「た、頼む。会わせてくれ。謝る。俺は、間違っていたんだ。アレスは……俺なんかより、ずっと……」
言葉の端が崩れた。情けない声だ。
「どうやって謝るのかしら。言葉で? それとも、形で?」
エララは首をかしげ、肩の翼をわずかに開いた。骨が小さく鳴る。柔らかな羽膜が光を吸い、影がザイオンの足を覆う。
「俺には……」
何もない。武器も、誇りも。ここでは。
「あなたの声がこの街に混ざるの、嫌いじゃないけどね。響き方が、荒いの」
ふっと笑う。その笑みは、春の陽よりも冷たかった。彼女が一歩、進む。石が微細に震え、花壇の一枚の花弁が宙へ浮く。魔力の束が形を持ち、光が刃に変わる。透明な刃に、外縁だけ赤い縁取りが差す。未来の色を、事前に見せるように。
「……やめてくれ。俺は、ここで……」
声が掠れた。その掠れで、彼の過去がほどける。喝采、馬、街路の真ん中。誰が歓声を上げたか、もう思い出せない。音だけが残り、今は水の音と足音と、刃の唸りに混ざる。
「アレス……」
懺悔の言葉にもならない呼び名が漏れる。両手を広げた。無抵抗を示すために。武器も誇りも意味を失い、広げるしかない。
エララの睫毛がふるえる。瞳の底に微かなものが灯った気がした。すぐに消える。彼女にとって重要なのはただひとつ。ここを汚させないこと。
「アレス様、どうされたい?」
空へ、囁く。問うというより、確かめる仕草。返事は、空気の密度に沈んだ。
「返事がなくても、答えはひとつで充分でしょう?」
彼女は静かに手を上げた。刃の群れが合図を待つ。白い街は息を潜める。風が止まり、陽はなお降りている。噴水は歌い続けた。作り込まれた秩序の中で、余計な音が削がれる。
「俺は……」
ザイオンは目を閉じた。過去が走る。仲間の笑い、焚き火の火の粉、剣の重み、王都の喧騒。そして、アレスの横顔。整えられた襟、白い指先、結界の縁に宿る幾何の輝き。
「俺が嫌ったのは、俺にないものだったんだな」
秩序。意志。揺れないもの。
背筋に冷たい風が這う。光が肌を舐める。終わりの手触り。
刃が舞う寸前、遠い空で、何かが微かにきしんだ。蜘蛛の糸が風に震えたみたいな、小さな音。誰にも届かないほどの微細な兆し。けれど、ザイオンは気づかない。彼の世界は、白と光と静けさでいっぱいだからだ。




