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第2巻 第3章 エララの過去と罪悪感(3)

鼻腔を刺す鉄の匂いに、シオンは眉を寄せる。温い生気と冷えた死臭が混ざり合い、霧が地を這う。湿った苔が靴底に絡み、踏めば沈む音。薄い光、削がれた音。空間が呼吸を止めたかのような密度。


黒甲冑の男は両腕を掲げた。漆黒のマントが高くはためく。幻影のシオン。肩から落ちる布が冷たい風を切り、指先に集まる魔力が赤い刃の眼差しへ変わる。焦点は庭の面へ吸い込まれた。


「これが、アレスの『完璧な箱庭』か」


吐息に混じる嘲り。金属を擦るような低音。


「俺の幻術で切れぬものはない。そう決めてきた」


両手から溢れるのは刃の群れ。目に映るのに指の間をすり抜ける、質量と虚が重なる光の縁。鋭いのに輪郭が揺れる。温と冷、光と陰、音と沈黙の織り交ぜ。風より速く空間を駆け、軌跡が複数に重なり、位相がずれる。現と虚の境界を撫で、切り裂き、渦の中心へ収束。結界の面に突き立てる。


触れた瞬間、音が消える。次いで、光の粉がふわり弾けた。刃はほろほろと崩れ、粒子は空に吸い込まれて消える。波紋さえなし。面の上では葉の縁が同じ角度で同じ速さにわずかに震え、揃った息を示すだけ。規則に撫でられた緑。数字のささやき。


「……無音で消える? 反応がない。擦り傷ひとつ付かないのか」


シオンは喉を鳴らす。額の汗が冷え、背筋に氷水を垂らされた錯覚。唇が震え、吐息が途切れた。


「何故だ。俺の幻影が、届かない」


彼は独り言の調子を強める。動揺を、言葉で縫う。


「曖昧さを操るのが俺の術だ。視覚に揺らぎを入れて、釣り合いを崩し、脳の補完に割り込む。値を揺らせば世界は歪む……そうだったはずだろ」


視線が面を舐める。彼の言葉に、森は応じない。


「ここは揺れが吸い取られる。余分な震えは熱に変えられ、色の偏りは標準へ寄せられ、音の風合いは同じ調子に均される。無慈悲な調律器だな」


息を吐く音に苦笑が混ざる。


「結界はただの壁じゃない。理念を流し込んだ網。一本の葉脈まで意思が通い、日照の反射角、露の屈折、風の通り道、虫の羽音まで基準で囲い込む。世界を額に入れるんじゃない。額に合わせて世界の側を整える……そういう遊びか、アレス」


彼は片目を細め、地を踏みしめる靴裏の感触を確かめた。


「俺の刃はこの庭にとっては異音。不要な信号。検知され、切り捨てられる。流れる前に止められた」


喉が乾く音。誇りは雑音扱い。胸の内側を引っかく屈辱。


「己の審美眼を結界に据えたのか。やってくれる」


彼は拳を握り直し、刃の代わりに決意を掴む仕草。


「とはいえ、完璧を気取るなら、どこかに皹はある。綻びは必ず潜む」


言葉とは裏腹に、面の向こうは乱れを許さない。風が数字で息をし、影は図面の通りに落ちる。静けさが耳に蓋をし、心拍だけがうるさい。綻びは極薄の紙一枚ほどの声でどこかに息を潜めるのに、今は見えない。


「……やり合っても消されるだけか。撤退だな」


戦いの論理が囁く。四天王の肩書よりも、生き残りの計算。膝が土を打つ。泥が跳ね、黒の膝当てに斑が散る。歯の奥が軋む。彼は立ち上がる気配を身にまとい、面から身を引いた。マントが翻る。重さの抜けた背。畏れを集めた名に似つかわしくない垂れ具合。


その背へ、冷たい視線が落ちる。庭の中心にアレス。枝も石も苔も、彼の目線に沿って配置されたかの角度。瞳は細く、体温から切り離された色。害虫を見る目。


「去るがいい」


柔らかな声に、刃の音が潜む。


「幻影に溺れた愚か者。私の庭を汚すな」


指先が空を弾く。それだけで、結界の一部が微光を帯びる。組み込まれた調整が目覚め、幻影の周波数を遮断し、位相のずれを吸収するフィルタが働く。観測の外へ弾く処理。アレスの基準では、敵の存在は壊すべき誤差。算盤から外す数字。


風が葉を擦り、庭の音が戻る。手入れの行き届いた一角に、静けさが沈む。アレスの目は熱に寄らない。昂ぶりも恐怖も映さない。先ほどの侵入は、整った表面についた小さな傷。布で拭けば済む類。


死の森に静寂が降り直す。薄い霧が動きを緩め、空気からざわめきが抜けた。その底で、小さな綻びがそっと息を始める。芽吹く種のひびのような微音。表層は整い、内側に別の音が混じる。


アステリアの森の上を風が渡る。幻影のシオンは遠ざかり、足跡は苔に呑まれた。芝は緑の海。さきほどの衝突で生まれた歪みが一箇所。刈り揃えた線がわずかに崩れ、その些事がアレスの目を刺す。


彼は歩を進め、しゃがみ込み、指先に魔力を灯す。淡い光が葉の縁を走る。一本ずつ葉先がねじれを戻し、切断面がつややかに繋がる。隣り合う草の間隔、光の反射角、根の向き――細部が一致を取り戻す。花壇の縁へ手を移し、歪んだ曲線になぞる指がすっと形を正す。色の濃淡が塗り直され、花弁の配列が意匠に合う。庭師の手、工匠の目、術者の緻密がひとつの所作に重なる。


「……ここも」


絵筆を操る画家のような動き。だが彼の内側で動くのは完成の喜悦より固いもの。乱れの気配を眠らせる執着。釣り合いを保ちたい意志。胸の奥で何かが引っかかる。


「以前にも、こうして庭を直した気がする」


微かな断片。白い霧の向こうで灯るほの明かり。誰かが隣にいた――名も顔も輪郭も持たない影。指先の温度、耳元を通る息、笑い声。近いので手を伸ばすのに、掴もうとするとほどける。踏み込むと霧は退くふりをしてさらに深まる。思い出せない。名前を呼べない。


「誰だ」


小さく漏らし、彼は眉間の皺を指で払う。深く息を吸い、吐く。瞼の裏で余計な影が薄れる。目を開ければ、眼前は整った光景。新緑の匂い。花びらの艶。草の擦れる音の層。すべてが彼の耳に馴染む調子で鳴り、目に馴染む形に並ぶ。欠けが見当たらない。乱れは鎮められた。


「これでいい」


低く、確信の手触りを帯びた声。胸を掠めた影は一度引く。彼は仕上げに戻り、余白を磨く。最善へ寄せる操作を呼吸に乗せる。


陽光が庭の端から端へ滑り、葉脈がひとつずつ煌めく。風は花びらを静かに揺らし、影が瓢箪のように伸び縮む。時間の手触りが柔らいだところで、芝に軽い足音。


エララが姿を見せる。深い蒼の瞳が光を集め、黒髪が風に撫でられて波を描く。竜姫の気高さ、しなやかな所作。ここに生えたような自然さ。その瞳の奥で鋭い光がひとつ、刃を隠して光る。先ほどの侵入者へ向けた怒り。笑みに似た緊張の線。


「あなたの姿、どこから見ても綺麗ね。光の当たり方まで、あなたの呼吸に合っている」


口元に細い笑み。柔らかい声に、鞭の芯を忍ばせる。


「さっきの者が近づこうとした瞬間、胸が冷えた。……でも大丈夫。ここにいる限り、間に私が立つ」


彼女の言葉に合わせ、足元の小石がかすかに鳴る。手首の角度はやわらかい。それでも、皮膚の下に硬い意志が光る。


アレスは頷き、息をひとつ落とした。視線は庭の緑へ流れ、すぐに彼女へ戻る。瞳の底に薄い満足。


「やっと静かになった」


短い言葉に、余計な音を排す意思が覗く。


「お茶を」


エララが銀のティーポットを差し出す。磨かれた胴に光が滑り、取っ手の曲線が手に吸い付く。彼女の指は白い。爪がポットに触れた一瞬、金属が小さく澄んだ音で応える。エララの足元で、空気がひやりと引き締まる。笑みは崩れない。


「特別に選んだの。あなたの佇まいに合う味を探して、何度も飲み比べた」


アレスはそれを受け取り、木目の整ったテーブルへ。二人で椅子に腰を落とす。縁に細工を施した薄いカップ。陽光を透かし、湯気が細い糸を立ち上らせる。


「琥珀色。柑橘の香りが一瞬だけ顔を出す」


エララが指先でカップの縁を撫でる。彼の目元の緊張が解けるのを見て、目を眇めた。


「最後に、温かい余韻が残るように。温度も時間も、あなたが好きな範囲に合わせてある」


アレスは目を閉じ、序列を味わう。湯の熱、抽出の刻、器の厚み。喉を通る流れに秩序がある。沈黙に、理解が通う。長い時間で育った呼吸。鋏で縁を整えるみたいに、言葉の間が揃う。


庭は二人の会話を邪魔しない。葉擦れの音は背景に退き、鳥の影が遠くを横切ってすぐ既定の軌道へ戻る。カップを置く音が木板に響き、すぐ消える。苔の匂いが一瞬だけ強まり、風が薄めた。


「ところで」


エララの視線が一度だけ庭の隅に滑る。何もない空間に、微弱な影が立つような気配。彼女は見なかったことにして、すぐアレスへ戻す。


「ねえ、あなたはこの静けさを、どれほどの代価で手に入れたの?」


声は温かいのに、芯は冷たい。問いは軽く、刃は隠される。


アレスは答えない。口を開けば、バランスが揺れる気がしたのかもしれない。瞳に映るのは動かぬ面と、揺らぎのない空。他に視るべきものはないと告げる視線。


「……大切なのは、現在の精度だ」


短い答え。過去より現行、記憶より今の調整。線引きは明確。


エララは薄く笑う。肯定にも諦観にも見える笑み。


「なら、私もそれに従う」


彼女の指がテーブルの端で小さく弧を描く。音は出さない。それでも、空気の温度がひと欠片変わった気がした。アレスのカップに彼女の視線が触れ、ふっと外れる。森の外縁を流れる空の色が微かに変わる。雲の帯が薄く伸び、光の角度がずれる。庭はそれに合わせて自らを合わせた。影の長さがわずかに変わり、音の層が一枚分薄くなる。


「つぼみがひとつ、遅い」


アレスの視線が花壇の端へ滑る。彼は指先を軽く掲げるだけで再計算を済ませ、魔力の脈で数値を収束させる。つぼみがほころぶ。白い花弁が光を受け、影が線を描く。満足の息。平らになった面。


「アレス様、お手伝いは要る?」


エララが首を傾ける。声はやわらかい。彼女の足元の草が、なぜか一枚だけ冷たい露を増やした。次の瞬間には乾く。彼女は何もしていない顔のまま、指先を引っ込める。


「今は不要だ」


アレスは視線を庭に配り続ける。耳は風の合間に異音を探す。目は色の偏差を侮らない。手はいつでも調整に応じる構え。


「アレス様、その目が好き。何かを壊すためじゃなく、整えるために向いている」


彼女は言い終えると、にっこり笑う。笑みは可憐なのに、背後の空気は薄氷のように澄んだ。誰かの名前を口にする代わりに、カップの縁を指で一度だけ鳴らす。カチ、と小さな音。余計な音を許さない場に、彼女だけが許されたノイズ。


「さっきの者、また来ると思う?」


「来るだろう」


「そのときも、私が先に立つ」


彼女は淡く言い、視線だけで庭の端を射た。何もないはずの場所を、針で刺すみたいに。


アレスは首をわずかに傾げる。ほんの一瞬、胸の底にざらつきが生まれた。思い出にあるはずの誰かの背中。その輪郭だけがどうしても掴めない。


「……記録は後で見直す」


彼は小さく呟き、ポケットの内側に忍ばせた薄片へ触れる仕草だけをして指を引いた。いま開けば、整えた面に皺が寄る。判断は先送り。


エララは視線でその仕草を追い、何も問わない。問いの代わりに、ポットから新しい湯を注ぐ。蒸気の筋が二人の間で絡み、ほどけた。


閉じた緑が鮮やかに光る。花々は透き通る色で膨らみ、葉はしっとりと水を抱く。笑みは絵のように整い、時間がこの場に縫い止められる。だが、ここで終止符は鳴らない。


遠くで霧が一度だけ脈打つ。地の下で根が水を吸う音。微かな振動がどこかで増幅し、気づかれないまま縁へ近づく。整った音階に混じる微細な波。結界の調律が呼吸をひとつだけ乱す。ほんの刹那。すぐ戻るのに、その乱れは履歴に残る。シオンが投げた刃の残滓なのか、別の意図なのか――判別不能な細さ。記録は付く。アレスはまだ開かない。


エララの指がテーブルの裏面をなぞる。彼女の目がアレスに触れ、そこで止まり、静かに外れる。口元は笑っている。笑みに棘は見えない。それでも、彼女の影がアレスの影に重なる位置は寸分違わない。重なりは、テーブルの脚の下で絡み合う。


「あなたは、あなたのままでいて」


囁きは甘い。背後で空気が一度だけ冷え、すぐ戻る。彼女の微笑みは崩れない。


「……維持する」


アレスの返答は短い。その瞬間、庭のどこかで、規定よりも早く咲いた花が一輪。彼の視線がすぐ捉え、指先がわずかに動く。花はそっと閉じ、また正しい順番を待つ。


森の外、世界の別の層から、誰かの足音が異なる地面を踏む。ここに届かないはずの震えが、綻びの隙間から微弱に移ってくる。種子は小さい。だが、増幅されれば音になる。誰も知らない芽が、庭の片隅で確かに息をする。


アレスは最後にもう一度、芝の端へ視線を走らせた。刈り幅、露の粒、影の長さ。指がテーブルを軽く叩く。一定のテンポ。彼の呼吸と庭の呼吸が重なる。


「静かだ」


彼が言葉を置く。エララの笑みが深くなる。彼女はカップを唇に運び、目を閉じた。一拍の沈黙。小鳥が枝を蹴る軽い音が、空へ消える。


この静けさは宣言ではない。予告に近い。どこかに落ちた小さな影が、いつか輪郭を持つ。そのとき何を捨て、何を残すのか。答えはまだ蓋の向こう。二人の指がポットの取っ手の上で触れ、すぐ離れた。温度が指先に残る。風がそれを攫い、光が撫でる。庭は何も言わない。言わずに、すべてを抱え込む。

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